難聴者の生活

難聴者の日々の生活から、人工内耳など難聴者のコミュニケーション、聴覚障害者の制度改革について語る。

難聴者の「手話言語法論」(5) 人工内耳

2012年01月08日 20時32分42秒 | 権利
外国では手話言語法があることで新生児スクリーニングで難聴の疑いがあると人工内耳や補聴器の装用のすすめに加えて、手話によるコミュニケーション、教育の提示がされなければならなくなっているとのことだ。

以前は、ろう・難聴の乳幼児の人工内耳の装用そのものを批判していたが人工内耳・補聴器に対比した手話という選択肢の保障を求めることになったのか。

乳児の感覚器、言語野の発達プロセスに聴覚補償がよいのか手話が良いのか、どっちが先かとか研究はあるだろうが結論が出ていないのではないか。
大人の人工内耳装用者からすれば手話も有用だ。

諸外国で手話言語法が制定される際に、他の障害者、難聴者等がどのような態度を示したのか、今年6月にはノルウェーベルゲンの国際難聴者会議で聞いてみたい。
しかし、国際的には難聴者は手話を使わない人の組織になっているので、日本の難聴者が手話も筆談も使っているのは特別な存在だ。

ラビット 記

難聴者の「手話言語法論」(4)NHK「ろうを生きる、難聴を生きる」

2012年01月08日 20時22分47秒 | 権利

1月8日にNHK「ろうを生きる、難聴を生きる」で、全日本ろうあ連盟の手話言語法制定事業の取り組みが放送された。
全日本ろうあ連盟の手話対策部長の西滝氏が出演して、司会の問いに答える形で構成されたものだ。

手話言語法は何をねらいとしているかの問いに、言語とされた手話を使う人が差別をされない、権利が保障されるための法律という。
手話を言語して規定する法律ではなく、手話を使う人の権利を守るための法律ということだ。
手話を使う人はろう者以外にはあげられていない。

具体的には5つの権利があると説明された。この中で一番基本的な権利として手話を獲得する権利としている。

5つの権利はどれも守られなければならない。同時に難聴であっても音声で教育を受ける権利、生活する権利も守られなくてはならない。
障害者権利条約のコミュニケーションの定義に音声、補聴援助システムによるコミュニケーションが明記され、言語の定義は音声言語と手話は対等だ。
これにどのような法整備が必要か、早急に検討したい。

ラビット 記
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難聴者の「手話言語法論」(3)難聴者の手話学習の意味

2012年01月08日 12時33分36秒 | 権利
手話はろう者だけが使っているのではない。
中途失聴者、難聴者も手話を学ぶ人が増えている。東京都の中途失聴者・難聴者対象の手話講習会は入門から上級まで三田4クラス、多摩3クラスあり、毎年100人以上が手話を学び2年間で修了する。
その他に協会主催の応用クラスが合計4クラス、手話サークルが昼と夜とある。高齢難聴者生きがい講座でも手話を学ぶ人で会場がぎっしりだ。さらに手話はどうしても指が動かないという人のために、「手を動かす会」がある。手話を「学んでいる」人だけで月に延べ数百人になる。

難聴者が手話を学ぶのは、聴覚以外の新しいコミュニケーション方法のひとつとして身につけるためだ。中途失聴者、難聴者(以下難聴者等)は音声言語を母語にしているので、音声の補完的な利用をしている。完全失聴者も音声を手話をキーにして「聞いている」とも言える。会話の環境、相手のコミュニケーション方法に応じて読話、手話、音声、要約筆記のミックスされたコミュニケーション方法を使っている。
もう一つの理由は、難聴者としての自分を確立するためだ。難聴者として生きることを同じ難聴者等と手話を学びながら自覚して行く。家庭や社会から孤立した自分を蔑みと哀れみを受ける惨めな人間から一人の尊厳を持った個人へと改革する。これこそ手話の力だと思う。

手話で会話している難聴者等の「手話」が何か、日本手話でないとか手指日本語であるとかの議論は、社会から孤立した難聴者等の生きようとする気持ちを支えるものにはならない。
難聴者の手話は言語学的な意味付けよりは、難聴者等のコミュニケーション、自立支援の意味付けが重要だ。

東京都の中途失聴者・難聴者手話講習会は、昭和47年頃からベル会館廃止反対運動の中で、中途失聴・難聴者こそ手話を学ばなければならないとして当時の東京都と交渉して昭和50年から始まった。運動の中で始まったことは象徴的だ。
東京都の中途失聴者・難聴者向け手話講習会は何度となく廃止の危機にあったが、その事業の意義を理解した関係者の努力で以来36年以上も続いている。

社会の差別を受けているのは、手話を母語とするろう者だけではなく難聴者等もまた差別を受けて虐げられている。難聴者等が手話を学ぶことはこの差別を自覚した難聴者になるためでもある。
手話言語法制定の運動の中に、このことを含めたい。
(続く)

ラビット 記

難聴者の「手話言語法論」(2) 手話言語法等言うと

2012年01月08日 00時56分16秒 | バリアフリー
手話言語法の取り組みに弾みがついたのは、昨年7月29日障害者基本法の改正法案が成立したからだ。

第3条(地域社会における共生等)
「三 すべて障害者は言語(手話を含む。)その他の意志疎通のための意志疎通のための手段についての選択の機会が確保されるとともに、情報の取得又は利用のための手段についての選択の機会の拡大が図られること。」

言語に手話を含むとされたことで、手話が言語として認められたとしている。もちろん日本の法律にこのことが記述されたのはもちろん初めてだ。

ここで、やっと手話が言語として認められた、「手話言語法」が必要だとして、「手話言語法」というネーミングで取り組みが始まったことで、関係者に戸惑いと誤解が生じることになった。
「手話言語法」という名称からは、手話を言語と規定するための法律のように受け取れるからだ。
法律で言語問題に入ると手話がどのように言語として機能しているかとか、言語をどのように獲得するかという問題に入っていってしまうのではないか。日本語はどうなんだということにならないか。

この手話が言語に含むとされたので、言語的な位置づけではなく、手話をコミュニケーションや思考の手段とする人々の問題、社会で差別を受けている問題を解決するための梃子にする法律であるべきだろう。
そういう視点がなければ他の障害者や市民の理解が得られない。

手話を用いるろうあ者が日本の歴史の中で、救済施策もない中で劣悪な生活を余儀なくされ、未だに就労や就職、教育で差別を受けている実体がある。
(続く)

ラビット 記