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もっと生きたかった
信濃嘉一郎(85歳)は
港の見える丘 横浜市で
長年自動車部品製造業を営んでいた。
14年前に「前立腺癌であり、余命は後10年である」と医師から宣告された。
療養とミニ農園づくりを兼ね
清流阿武隈川が流れる村に移り住み
その後癌の進行は無く
静かな時が流れていった。
余命10年を乗り越え
14年が経過したある日
医師から「癌が脊髄などに骨転移している」と告げられたとき
嘉一郎は「ショック」で茫然としてしまった。
最近、肩や腰の痛みが気にはなっていた。
まだまだやりたいことはあったし
こんなにも死が隣り合わせに忍び込んできているとは
予想もしていなかっただけに
戸惑いと不安がのしかかってきた。
車の運転もできなくなり
外出する機会も失われてきた。
「もう生きることができない」
と思ってしまった彼は
薬を服用したって無駄だし
食べたってしょうがない。
癌が骨転移し
言葉に表現できないほどの痛みが襲い
また身の置き場がないほどからだが怠く(だるく)
「食べたい」、という気持ちさえも起きなかった。
妻は、食べて欲しかった
もっともっと生きていて欲しかった。
こんなにも早く死の宣告がされるとは、
彼女自身も思ってもいなかった。
脊髄に癌が転移した
と医師から告げられたことで
彼は生きることを諦めてしまった。
それだけ見るならば
彼が癌に負けてしまった心の弱さだけが浮き彫りにされてしまう。
が、果たしてそうなのだろうか。
本人に癌告知をすべきだ
という風潮が当たり前になってきている昨今だが
癌告知をすることは「簡単」である。
問題なのは「告知」した後
本人とその家族をどうフォーロしていくのか。
もっと生きたかった
信濃嘉一郎(85歳)は
港の見える丘 横浜市で
長年自動車部品製造業を営んでいた。
14年前に「前立腺癌であり、余命は後10年である」と医師から宣告された。
療養とミニ農園づくりを兼ね
清流阿武隈川が流れる村に移り住み
その後癌の進行は無く
静かな時が流れていった。
余命10年を乗り越え
14年が経過したある日
医師から「癌が脊髄などに骨転移している」と告げられたとき
嘉一郎は「ショック」で茫然としてしまった。
最近、肩や腰の痛みが気にはなっていた。
まだまだやりたいことはあったし
こんなにも死が隣り合わせに忍び込んできているとは
予想もしていなかっただけに
戸惑いと不安がのしかかってきた。
車の運転もできなくなり
外出する機会も失われてきた。
「もう生きることができない」
と思ってしまった彼は
薬を服用したって無駄だし
食べたってしょうがない。
癌が骨転移し
言葉に表現できないほどの痛みが襲い
また身の置き場がないほどからだが怠く(だるく)
「食べたい」、という気持ちさえも起きなかった。
妻は、食べて欲しかった
もっともっと生きていて欲しかった。
こんなにも早く死の宣告がされるとは、
彼女自身も思ってもいなかった。
脊髄に癌が転移した
と医師から告げられたことで
彼は生きることを諦めてしまった。
それだけ見るならば
彼が癌に負けてしまった心の弱さだけが浮き彫りにされてしまう。
が、果たしてそうなのだろうか。
本人に癌告知をすべきだ
という風潮が当たり前になってきている昨今だが
癌告知をすることは「簡単」である。
問題なのは「告知」した後
本人とその家族をどうフォーロしていくのか。