(座右銘)
日本語は難しいの理由の一つに、字の読み方がある。
表題の座右銘は(ざうめい)と読み、
座右の銘は(ざゆうのめい)と読む。
左右(さゆう)とは言うが、右左(ゆうさ)とは言わず、
右左(みぎひだり)としか言わない。
前述の座右の銘がどうして座左の銘といわないのであろうか?
右利きが多いからだろうか?
「座右の銘」を辞書で調べると(常に自分を高めようと心がける人が、
折に触れて思い出し、自分の励まし・戒めとする言葉。座右銘。)
Shin Meikai Kokugo Dictionary 5th edition (C) Sanseido Co. Ltd. 19721974198119891997
とあった。座右とは、自分の身の回りをさしている。
先日、倅と小学三年生になる孫が遊びに来た時、
倅のアルバムが邪魔になっていたことを思い出し、
持って帰るように話した折、倅の学校の卒業証書と一緒に、
ボクの卒業証書が出てきた。懐かしく思い、卒業証書を出してみたら、
中から画用紙に「座右銘」と書いた紙が出てきた。
拡げて見ると、
「身体髪膚これを父母にうく、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」
とある。
学校を卒業し、社会人になるに当たってその心構えを書いたに違いない。
健康第一に考えて社会人になろうと心がけようという、
殊勝な心がけであった。この身体髪膚の前段は良く使われるが、
後段を御存知の方は少ない。
「蛍の光」の詩(身を立て名を挙げ、やよ励めよ)に良く似ている。
「身を立て、道を行い、名を後世に揚げ、もって父母の名を顕すは、
孝の終わりなり」と続く。
つまり、立身出世して後の世に父母から授かった名前を残す、
これ以上の親孝行はない、という意味だ。
どうやら、ボクの座右銘はこの後段にあったのではないか、
と思われるが、
これを書かなかったのは、可能性が薄いと自覚していたに違いない。
日本語は難しいの理由の一つに、字の読み方がある。
表題の座右銘は(ざうめい)と読み、
座右の銘は(ざゆうのめい)と読む。
左右(さゆう)とは言うが、右左(ゆうさ)とは言わず、
右左(みぎひだり)としか言わない。
前述の座右の銘がどうして座左の銘といわないのであろうか?
右利きが多いからだろうか?
「座右の銘」を辞書で調べると(常に自分を高めようと心がける人が、
折に触れて思い出し、自分の励まし・戒めとする言葉。座右銘。)
Shin Meikai Kokugo Dictionary 5th edition (C) Sanseido Co. Ltd. 19721974198119891997
とあった。座右とは、自分の身の回りをさしている。
先日、倅と小学三年生になる孫が遊びに来た時、
倅のアルバムが邪魔になっていたことを思い出し、
持って帰るように話した折、倅の学校の卒業証書と一緒に、
ボクの卒業証書が出てきた。懐かしく思い、卒業証書を出してみたら、
中から画用紙に「座右銘」と書いた紙が出てきた。
拡げて見ると、
「身体髪膚これを父母にうく、あえて毀傷せざるは孝の始めなり。」
とある。
学校を卒業し、社会人になるに当たってその心構えを書いたに違いない。
健康第一に考えて社会人になろうと心がけようという、
殊勝な心がけであった。この身体髪膚の前段は良く使われるが、
後段を御存知の方は少ない。
「蛍の光」の詩(身を立て名を挙げ、やよ励めよ)に良く似ている。
「身を立て、道を行い、名を後世に揚げ、もって父母の名を顕すは、
孝の終わりなり」と続く。
つまり、立身出世して後の世に父母から授かった名前を残す、
これ以上の親孝行はない、という意味だ。
どうやら、ボクの座右銘はこの後段にあったのではないか、
と思われるが、
これを書かなかったのは、可能性が薄いと自覚していたに違いない。