楽しんでこそ人生!ー「たった一度の人生 ほんとうに生かさなかったら人間生まれてきた甲斐がないじゃないか」山本有三

     ・日ごろ考えること
     ・日光奥州街道ひとり歩る記
     ・おくのほそ道を歩く

霊岸島(忠臣蔵を歩く 4)

2013年12月25日 09時06分24秒 | ひとり歩き旅
(霊岸橋)


(霊岸橋~高橋)
新川一丁目の信号角、歩道上に「川村瑞賢屋敷跡」の説明板がある。
建物らしきものは何も無いが、
江戸時代、この地域には幕府の御用商人として活躍した、
川村瑞賢の屋敷があったという。

説明板によると、
(瑞賢は、伊勢の国の農家に生まれ、江戸で材木商を営んでいたが、
明暦三年(1657)の江戸の大火の際、木曾の材木を買占めて財を成し、
その後も幕府や諸大名の土木建築を請負莫大な資産を築きました。
その財力を基に海運や治水など多くの事業を行った。
瑞賢の業績の中で、奥州や出羽の幕領米を江戸へ回漕する廻米航路を開拓して、
輸送経費・期間の削減に成功したことや、
淀川を初めとする緒川を修治して畿内の治水に尽力したことが上げられる。
――以下省略)(中央区教育委員会)とあり、
住まいは霊岸島の半分を閉めるほどの大きなお屋敷であったらしい。

(川村瑞賢屋敷跡「新川一丁目」信号手前歩道上)


この新川一丁目の信号先に、霊岸橋がある。
亀島川にかかる霊岸橋を渡らずに川沿いに左折して、
忠臣蔵の四十七士は泉岳寺へ向ったようだ。

左折するとすぐ新亀島橋に出る。
次いで亀島橋、そして高橋という名の橋に出る。
渡る橋の下は亀島川で、東側は日本橋川、
南に隅田川が流れて、この三つの川に囲まれた部分が旧霊岸島である。

(霊岸橋)

(新亀島橋)

(亀島橋)

(霊岸島の記念碑)


(その昔、寛永元年(1624)下総の国生実の浄土宗 善昌寺の僧、
霊岸 雄誉上人が埋め立てて築造し、霊岸寺を建立したことから、
その名が起こった。)(霊がん島の由来より)(中央区)

「高橋」の橋の袂に垢抜けた交番があり、
その横に住居表示の案内看板があります。
近くの小学校の横にある越前掘り児童公園に霊岸島の碑がある。
百聞は一見に如かずといいます、下の図をご覧ください。

(霊岸島の地図)


亀島橋を渡ったところに、
赤穂浪士の一人、高田馬場で大活躍した堀部安兵衛武庸の碑があり、
高田馬場で活躍した頃は、ここ八丁堀の長屋に住んでいたことがあるらしい。

道路を挟んだ反対側に、芭蕉句碑と銀座の柳四世がある。
芭蕉句碑には、
「八町堀にて
・菊の花 咲くや石屋の 石の間(あい)   芭蕉」とある。
亀島橋の上から下流には高橋、その先に南高橋が見える。

(赤穂浪士の一人堀部安兵衛の碑)

(堀部安兵衛の碑)

(芭蕉句碑)

(銀座の柳四世)

(亀島橋から見た高橋)


亀島橋を戻って、高橋へ抜ける鍛冶橋通りを左へ、
一ブロック行った所を右折すると於岩稲荷田宮神社がある。
中央区教育委員会によると、
(於岩稲荷田宮神社は、四代目鶴屋南北の戯曲で、
文政八年(1825)に初演された「東海道四谷怪談」の主人公、
お岩の伝承を持つ神社です。
社地は歌舞伎俳優の初代市川佐団次の所有地であったと伝えられ、
花柳界や歌舞伎関係などの人々の参詣で賑合いました。
境内の石鳥居は明治三十年(1897)一月に造立されました。
花崗岩製のこの鳥居は、中央区に現存する中では、
二番目に古いものです。――中略
鳥居の奥にある百度石は民間信仰である「お百度参り」のための石で、
中央区で最古のものです。中央区の有形文化財である。――以下省略)とある。

(於岩稲荷田宮神社)

(石の鳥居)

(お百度石)


元の道へ戻って、鍛冶橋通りを左折すると、
高橋の手前に三階建て三角屋根のおしゃれな交番がある。
その先の高橋を渡ると「JR八丁堀駅」の入り口がある。

ここにある信号を入れて、二つ目の信号を赤穂浪士四十七士は、
雪の中を左折して行った、と言う。

(高橋)

(三角屋根のしゃれた交番)

(JR八丁堀駅の看板)


しかし「八丁堀駅」の字を見たときに、
昔の同心・与力が住んでいた八丁堀とは何処だろう、
家並みは無くとも、与力・同心の住まい跡がどこかに残っているに違いないと、
探すために、信号を左折せずに直進する。

地下鉄「八丁堀駅」の交差点を過ぎて、未だかまだかと進むうちに、
「鈴らん通り」との交差する場所に、
「八丁堀の与力・同心 組屋敷跡」の説明板があったので紹介する。

(鈴らん通りの「八丁堀の与力・同心組屋敷跡」)

(江戸初期に埋め立てられた八丁堀の地は、初めは寺町でした。
寛永十二年(1635)に江戸城下の拡張計画が行われ、
玉円寺だけをて残し多くの寺は郊外に移転し、
そこに与力・同心組屋敷の町が成立しました。
その範囲は茅場町から八丁堀の一帯に集中しています。
八丁堀といえば、捕り物帖で有名な「八丁堀の旦那」と呼ばれた、
江戸町奉行所の配下の与力・同心でした。
与力は徳川家の直臣で、同心はその配下の侍衆です。
着流しに羽織姿で懐手、帯にさした十手朱房も粋な、
庶民の味方として人々の信頼を得ていました。――以下省略)
(中央区教育委員会)とある。

銭形平次や半七捕り物帖の半七は、同心の手下の岡っ引で、
多いときでも与力50人、同心280人というから、
これでお江戸八百八丁の治安を維持することが難しく、
同心の下に岡っ引、さらに手下の下っ引、
合わせて3000人はいたという。

話が横にそれてしまったので戻す。
亀島川の高橋から、二つ目の信号を左折して、
義士の四十七人は、粛々と泉岳寺方面に向った。

(高橋)


最新の画像もっと見る

6 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
こんばんは (ytakei4)
2013-12-26 20:24:01
河村瑞賢といえばお盆の供養のナス、キュウリ
を川から拾って塩で漬けて売ったのが財をなす
始まりだったとか。本当かな?でも本に書いて
ありました。
返信する
大丈夫です (yukiusagi)
2013-12-27 05:29:45
hideさん お早う御座います。

冷え込んだ朝でも今はシャッター切れますよ~。

時代の流れで冷え込みにもしっかり対応しているようです。
こちらも氷点下19度くらいになりますが大丈夫です。

いつも ありがとう御座いますヾ(*^▽^*)〃
返信する
ytakei4さん コメント有難うございます。 (hide-san)
2013-12-27 10:42:50
仰る通りかもしれませんね。
一代で財を成す人は、
そのくらいの心がけがあって当然でしょうね。
八朔でジャムを作って売って見たらいかがでしょうか?(微苦笑)
返信する
yukiusagiさん コメント有難うございます。 (hide-san)
2013-12-27 10:44:34
そうですか。
今は、0℃以下でもシャッターは切れるのですね。
オーロラも写真に出来そうですね。
返信する
大阪からお邪魔致します~♪ (鉄ちゃん爺や )
2013-12-29 10:02:25
河村瑞軒は淀川や安治川などの治水で大坂の町に貢献した方でしたね。

大和川の付け替えには反対し川底を浚渫するにとどめたとされていますが
これは幕府の予算不足が要因で河村瑞賢の責任ではないと思います。

河村瑞軒の死後に河内の中甚兵衛他の努力で大和川は
現在の堺市方向へへ付け替えられたそうです。



返信する
鉄ちゃん爺やさん コメント有難うございました。 (hide-san)
2013-12-30 17:06:16
川村瑞賢のような偉業を遂げられた方の、
後を追うことは難しいことですね。
中甚兵衛の偉業も評価できます。
返信する

コメントを投稿