東山いこいの森の仙人

福井県勝山市にあるキャンプ場「勝山市東山いこいの森」の日々の暮らしを発信します。

御所ガ原は-6.2度256センチ

2013年02月16日 05時35分51秒 | 日記
 今朝は福井でも 少し白くなりました。
御所ガ原は、-6.2度、積雪は256センチ今年最高です。
今から、勝山の谷に向かいます。
今日と、明日の晩は、先輩の家へ泊めてもらいます。












雪だるま作りの助っ人たち

2013年02月15日 21時10分35秒 | 日記
 福井では小雨状態でしたが、谷では雪が舞っていました。
8時に到着して、 雪だるまを作った保育園の良い子たちが一休みしに来た時に寒くないよう 大きな囲炉裏に炭を熾し準備をしておいて。
9時半ごろ マイクロバスで園児たちが 来られたので お宮さんの方へ行きました。
例年より雪は少ないのですが それでも1メーター50センチ程ありました。






















保育園の園長さんは、勝山では雪が少なくて、子供たちに 雪遊びをさせてあげる事が出来ないが、
ここなら、きれいな雪で遊ばせて やれるので 安心ですと言って おられました。
雪だるまを作れる 村の人は ほとんどいなくなって終った今、園児たちは 力強い助っ人です。
粉雪も舞っていましたが、大降りになる事もなく、子供たちは、次々と 雪だるまを作ってくれました。

















目標の数が出来上がって、お寺に入って、大きな 囲炉裏を囲んで、オバチャンたちが準備してくれた、
お菓子や ゼンザイを食べ、その後で、雪だるまの顔をティッシュペーパーにマジックインクで描いてもらいました。
子供たちは、大きな囲炉裏に赤々と燃えている炭を見る体験も余り無いのではと 思うと、








谷のお面様祭りから、次世代の子供たちに村の文化を継承して行く よい機会になったと 思います。
きわめて地味な 活動ですが 大切にしていかなければと 思っています。











追伸・2月16日(土)17日(日)は、谷のお面様祭りの準備、後片付けの為、谷に宿泊します。
残念ながらブログを書く事が出来ません。
ゴメンナサイ。

お面様祭りを前にして。

2013年02月14日 16時03分22秒 | 日記
 戸籍の清書がどうにか 完成しました。
源野家の本家だけでなく、分家もその他南茂家、小林家まで谷第9号1番地になっています。
死亡届けにしても、午後何時何分まで記載されているものもあります。
やり終えてみて、これら先祖の人たちに安らかに天国で眠っていていただけるよう、供養をしなければと思います。
 明日からは、お面様祭りの準備に 谷の村へ行きます。
国道の御所ガ原は2メートル30ほどの積雪が有りますが、
勝山のスーパーかじ惣の前辺りでは20センチぐらいしか有りません。
谷も1メーター50あるだろうかと 少し心配です。
金土は冬型で日曜は天気が落ち着きそうですが、天気予報では、最新の情報をチェックしてくださいとの事です。
 霊験新たかな神社とお面様にお供えするお神酒を スーパーヤスブンへ行って買って来ました。













一本義2升の箱入り2箱です。
これで お願いをしようと思っています。
若杉近辺からも 白山は眺められるのですが、家が建て込んで見えづらくなって来ました。
昔の人は きれいな白山を福井からも拝めた事と思います。



















続戸籍の清書

2013年02月13日 16時59分23秒 | 日記
 市役所に残っている戸籍は文化14年生まれ(1817)年今から196年前までの源野兵三郎さんの父源野兵郎さん
まで私より6代前まで遡ることが出来ます。
この6代分の直系だけをまとめるのなら いいのですが、
なぜか、兵三郎さんの息子さんたちが、同じ番地の中 第9号の1番地に入っています。生年月日順に記載されて
いますので、長男、二男、長女、二女、、、、、その連れ合い、その子供たちは、生まれた順番ですから、
長男の子、二男の子、次ぎは二男の子とか、入り乱れています。
これを 分かりやすいように、本家である私の家系、第一分家、第二分家、と整理し、文化、文政、天保といっても
私には、年代が理解出来ないので、西暦も横に付け足す事にしました。
それと、何年生きていたのかも 付け加える事にしました。
戸籍書自体が不鮮明な箇所がありますが、それでも 戸籍によって 先祖のご苦労をたどる事が出来てありがたいと 思いました。
昨日は夕方テレビを見ながら やっていましたら、四日市市の万古焼の特集をやっていました。
昨年の秋、四日市のAさんが、東山いこいの森の杉葉を焼いた灰を釉薬にして、茶碗と皿を作って 持って来て下さいました。

























皿には、東と山の文字を釉薬で書いて頂きました。
四日市には、粘土が無くて、土は全部、色々な産地から取り寄せて、それをブレンドして用途に合わせた土を作り出していて、業者の人たちが自分の専門の技術を持ち寄って新しい物を作って行くと いっていましたが 素晴らしいなーと思いました。
 久し振りに大府のM様、勝山のKさんコメントをありがとうございました。
コメントを楽しみにしていますので これからも よろしくお願いします。

太陽柱を追いかけて、

2013年02月12日 15時40分11秒 | 日記
 今朝は、福井市内でも6時では、-2度でしたので、日の出の時 太陽柱が拝めるのではと期待して、
6時半に家を出て、運動公園をぐるぐる回って、撮影ポイントを探しました。
児童館の所の入り口が開いていたので、そこから児童公園の中に入って、滑り台の山の上まで行ってみました。
氷が張っていて 滑りそうになりましたが、
太陽は出て来ないし、ポイントも良くなかったので、
下江守の日野川の堤防に登ってみました。




薄っすらと白山、荒島岳、などが眺められますが、送電線が横切っていて 芳しく有りません。
それに 家を出る時は、空が橙色になっていたのに 雲が厚くなってきだしたので、
7時半頃に家に戻りました 太陽もだいぶ高くなっていましたが、太陽柱という感じではありませんでした。
仕方がないので、近所の庭のシュロの木を入れて 撮ってみました。




      
 昼2時ごろに、佐川急便さんが、宅急便を二つ 持って来てくれました。
中身は、朝日新聞 21012年読者の写真の奨励賞の表彰状と入賞メダル。
もう一つは、朝日新聞福井版の読者の写真広場のメダルでした。
 奨励賞も福井版も狙っていただいたものでは有りませんので、
夢の様で大変嬉しく 記載して下さった福井総局のみなさん、
写真の師匠、そして 自然が一杯の 東山いこいの森に感謝です。
 家宝にします。

















北海道から電話

2013年02月11日 16時58分42秒 | 日記
 御所ガ原物語の資料集めとして、明治40年代に北海道に渡った2世の人に 手紙を出した事で、今朝北海道天塩から電話をいただきました。
源野家ではなく 久保田家の子孫の人ですが、
御所ガ原には5度行った事があると言われました。
幸悦氏は久保田家の3男で、兄貴たちは、小学校から帰って来ると直ぐに畑や酪農の手伝いをさせられて苦労をしたが、私は、上の学校へやってもらったので、森林組合へ入る事が出来、
今89歳になったが、顧問として指導に当たっている。お陰でボケなくて元気で暮らしていると、言っていました。
御所ガ原には字久保田が2箇所あります。
昭和56年に福井新聞に掲載された時から、調べていれば、今よりも 
詳しい ものが出来たでしように 時すでに遅しです。
こちらで 分かった資料を北海道へも 送らせてもらおうと 思っています。









足羽川幸橋

2013年02月10日 15時08分04秒 | 日記




































朝、雪かきに行った帰り、幸橋の毛矢町側の橋詰にある、由利公正、坂本龍馬、横井小南の碑などを撮影して
家に帰って 福井新聞を見ると「みらい・つなぐ特集」の別版8ページがありました。
テストの点がいいと、未来につながるの?
子供の未来
つくる、福井の未来゜をつくる教育って何だろう。
と いろいろ書かれて ありました。
そろそろ点数にこだわらず、のびのびと 自然の中での人間力を身につけて あげたいものです。
昭和維新ということばもあるそうですが、
幕末、明治維新の先がけをつくった、坂本龍馬や横井小南が主張した「学政一致」建学理念をとした藩校明道館では横井小南自ら藩内指導者を対象に朱子学の真髄と政治改革の要諦を指導したとも 言われています。
龍馬のも「君がため捨つる命は おしまねど 心に残る国の行く末え」の歌碑もたてられて いましたが、
そういう 先人たちの教育を受けた人たちが継承されての 今ではと思います。
しかし 都会の大学に行った子供たちは 福井に帰って来なくなって来ています。
限界集落の にの前の限界県にならぬよう、福井の未来をつくる子供たちを大切に見守って いかなければと 思います。
























淡雪舞う。

2013年02月09日 17時05分57秒 | 日記
 今日は、日写連福井支部の勉強会、8時に家を出て、足羽山の南麓を通って西木田交差点へ向かう道は凍結していて、スリップして街路樹に当たって壊れた車があって、渋滞していました。
積雪は5センチほどなのに運転は慎重にしないと、自分が事故にあうだけでなく、他の車にも 影響を与えてしまうので気をつけなければいけません。
JRの線路の下を潜って板垣の師匠の家へ お迎えに行って、会場のユー・アイふくいへ9時から12時まで
打ち合わせや 作品の指導を受け、12時に終了。
師匠をお送りする。
今師匠は自分整理をしていて、写真の月刊誌など沢山頂く事になりました。
東山いこいの森へ持っ行って三上文庫を作って、写真に興味ある人に見てもらおうと思っています。
 福井県史誌などを調べていると、三上一夫という名前がよく出て来るので、ご兄弟ですかと
聞いてみますと、お父さんどおし兄弟、お母さんとおしも姉妹という血の濃い従兄弟どおしだと 言われました。
いろんなところで 出会いがある事を思うと、人とのつながりを大切にしていかなければと 思います。
 家に帰ると 同級生の安岡兼雄君から電話がかかって来て 知り合いから 海釣りの竿と鮎竿をもらったので
誰か欲しい人はいないかと言われたので 海釣り用のは、弟に使ってもらおうと もらって来ました。
鮎竿は勝山へ行った時に誰か いらないか聞いて来ようと 思っています。












 御所ガ原の国道のカメラの所は2メートルを越える積雪になっていますが 福井は朝は-2度でしたが、
昼になると緩んで、振ってくる雪もボタン雪、春の淡雪です。
 

戸籍の清書完了

2013年02月08日 17時22分49秒 | 日記
 明治の初めら分からないことも ないところですが、昭和に入っても本籍地が同じ所に3家族分が一緒に 記載されていて、はじめは家毎に分けて 書き直そうとしていましたが、だんだん面倒になり 結局は戸籍に記載されている通りに 清書しました。
文化14年生まれの源野兵三郎から天保14年生まれの源野治郎へ明治7年に相続したと記載されています。
なのに、治郎の弟で嘉永4年生まれの三郎。その子供源治郎、熊治郎、岩松、そしてその子供たちも みな同じ9号の1番地で生まれた事になっていて、3家族 生年月日の早いものから順に記載されています。
実際には、私の家「本家」と分家は別々のところにあって、祖父の時代には、分家の方が山や田畑、財産も沢山あったと言われています。
分家からは北海道に渡った家族、と他にもう1戸、御所ガ原で分家をしているので、大正時代には源野家は
3戸有りました。
勝山市史に 御所ガ原には源野の姓多く源氏の子孫との伝説があると書かれています。
たぶん大正から戦前の頃の資料を元に書かれたものと思います。
ちなみに、その他小林、久保田、竹内、などが越前系。
加藤3戸、織田3戸、苅安3戸、南茂2戸、山口1戸などが白峰系です。
戸籍の中には、愛知県南設楽群鳳来寺村大字川口字鳳来寺というのが有りました。
奥三河、南信州に生きた越前炭焼集団があったと 本を書かれた人がいますが、
苦労をされた方もおられた事も分からせていただくことが出来ました。
地名は変わっているかも知れませんが、跡を訪ねてみたいものです。
 和みで、会員の写真展をやっていますので、気晴らしに見に行って来ました。










戸籍清書

2013年02月07日 18時22分10秒 | 日記
 昨日市役所でおこしてもらった 戸籍3000円分清書することにしました。







除籍になった名前の所には×印を付けてあるのですが、心温かき人は×で名前をつぶしてしまわない様、
文字にかからない様配慮してくれて有ります。
それを見ると先祖さんたちが 大切にしてもらっている様でとても嬉しくなります。
市役所にある分で、
私ー父茂男ー祖父岩松ー曽祖父ー和吉ーその上治郎 ー 兵三郎 - 兵郎まで遡ることが出来ました。
兵三郎さんは文化14年生まれその妻いよさんは文政5年、その子供治郎さんは天保14年でした。
治郎さんは、いろんな事をしていた様ですが、残念ながら市史に残る様なことは していなかったみたいです。
しかし 昨日市史をみていると、勝山の産業の中でタバコは 藩政時代にも勝山の特産物として 有名だったそうですが、明治に入って 品質が落ちてしまったので、明治24年に勝山む煙草組合事務所を作って 品質向上に努めたと買いてありました。家にあった資料の中に明治24年4月1日発行の勝山煙草組合員之證。26年のは耕作業とも書き込まれていました。







勝山の野向の龍谷辺りは 子供の頃一面煙草畑でしたが、御所ガ原では煙草畑は見た事がありませんでした。
昔の人のほうが何でも意欲的に取り組んでいたのかと 頭が下がります。
もう一枚は明治27年の養蚕業の組合員の證です。
御所ガ原物語の資料集めのお陰さんで 色々勉強させていただける事、先祖に感謝です。

勝山へ

2013年02月06日 21時46分31秒 | 日記
 御所ガ原で、近所に住んでいた人から、福井の北村商事にワイヤーロープを100メーター注文したけれど、
足が痛くて、取りに行けないので、君は北村商事の親戚だからもらって来て欲しい、勝山へ来るついでの時でいいからと、言われていましたが、少しでも早い方がいいだろうと 今日持って行きました。
 ついでに、勝山市立図書館へ寄って、パソコンではロックがかかって 見る事の出来ない、勝山市史を閲覧する事にしました。
目的は、谷のお寺が、京都東本願寺の直参になった経過を知りたかったので、調べようと思ったのですが、
それは、見つかりませんでしたが、交通と交易の項で、御所原 源野の姓多く源氏の子孫との伝説がある。また織田、苅安の姓も相当あって白峰の系統であろうと思われる。御所原の名は木地師と関係が深いといわれている。と書かれていました。
白峰からの出作りのルーツは白峰の林西寺や行歓寺へ訪ねれば正確に分かります。
 源野家にしては、兵庫県から来たというのと、源氏の子孫という事は分かりましたが、何時頃来たのかは
分かりません。
御所原が木地師の意味もあるとすれば、谷からの出作りでは無く、白山開山の泰澄和尚をも木地師の道を通じて白山へと案内をしたのではと思いをはせる事も出来ます。
 御所ガ原は、谷の出村として、扱われていますが、実は、谷の村が出来る以前に、源氏系の木地師が御所ガ原を拠点に、木地の材料を求めて 加越国境の峰々谷々駆け巡り、峠道を切り開いていった後に、落人などが入って来たと考えると 面白いのでは、、、、。












































今日もインターネットでルーツ調べ。

2013年02月05日 16時57分04秒 | 日記
今日も、インターネットで ルーツ調べをしていました。
関連したところや、他に興味のあるところが出て来て横道にそれて、本当に知りたいところには なかなか行きつけません。
谷のお寺の今の呼び名は。谷教会と 言われています。
浄土真宗大谷派、直参という事で 住職はいなく、私が子供の頃には4・5年交代に大野や美山のお寺の住職が入って来ておられました。
役僧は、谷の村の人がしていました。




       











私の家にあった 古文書には、明治17年1月22日本山教育課から 源野次朗宛に 谷村説教場世話方及依頼候也と書かれたものをもらっています。
その他にも、本山寺務所、本山会計部、本山相続講事務局、福井相続講事務局、本山相続講事務局、本山教務部、などに寄進し、金1円進納の時は五賞品、3円の時は白木金鶴丸もん香盒を授与されたとも書かれていますが、
勝山市史などの谷のお寺の箇所には、世話方の事も寄進のことも書かれていません。
 村でいかほどの地位も無かった者が、明治の20年代に毎年、3円、1円、1円50銭と寄贈するには、それだけの 現金収入を得るみちがあった筈です。
出作りの村と言われている所で、医学書傷寒論や和算本、正像末和讃可説1~5巻、親鸞聖人御一代記圖繪1~5巻、御傅記勘誘録1~5巻、聖人一流説教聞書上下、真宗法話金言録、その他書写したものなどあります。
たかが出作、されど出作、どの様にして文字を覚えたのか、先祖の日々の暮らしを今に伝え、先祖に恥じない
暮らし、人格形成をしていかなければと 痛感するものです。

出作り峠、宗教。

2013年02月04日 16時07分54秒 | 日記
 今日は、朝から 出作り集落、その村の宗教。峠道、などインターネットで 検索しています。
画面ばかり見ていて、目がウロウロになって来ました。
 白峰が中心になって書かれている 文献が多く、御所ガ原、東山、上原、奥の河内の集落からの文献は 見当たりません。





























 出作り小屋の写真が掲載されているものをパソコンにカメラを向けて、撮りました。
白峰文化圏だけでなく、今庄。大野の宝慶寺の橋本家、なども入っています。
白峰の民族資料館の民家は、外からは、一階と、三角の屋根の部分の二階形式に見えますが、
 屋根と下屋の部分にも縦壁が見えますので、三階建てになっているものと思われます。
 御所ガ原にあった源野家の写真は昭和31年の4月頃のものです。
人物の左側に見える萱葺きの三角の小屋の様なものは、
玄関へ出入りする為の雪囲い通路です。
これがあると、玄関の戸を開けても、吹雪が家の中に入る事も有りませんし、4メートルまでの積雪なら、斜めに出て行く様な感じで 出入り出来ますそれ以上つもれば、屋根の障子戸の所を使って出入りします。
3人の後ろには、夏の間 畑だった所を、縦、横3メータ、深さ7・80センチ掘って雪溶池になっています。
谷川から引い来た水道が家の中の流しのフネの中に入り、その後この池の中へと流れて来ます。
時々、谷川からイワナが泳いで来て、流しのフネの中にいたりしました。
 白山関係の本の中には、上杉喜寿先生の著書「白山」「越前、若狭の街道」など沢山の本が参考資料として使われいますが、3人の真ん中の人が、上杉喜寿先生ご本人です。
右の背の高い白い帽子を被っておられるのが、池田欣也氏が勝山市観光課の課長をされていた頃です。
一番左が父、31歳の頃です。
 加越国境スキーツアーの全盛期を築いて下さった方々です。
この方々に安心していただける御所ガ原にしなければいけなかったのに、申しわけ無い限りです。
こうして、民家の写真を比べて見ると、屋根の角度や窓の取り方、萱の葺き方など源野家が 一番良く見えるのは、私だけでしょうか。

谷のお面様祭りの準備。

2013年02月03日 18時23分26秒 | 日記
 谷のお面様祭りの準備に、谷へ行って来ました。
例年ですと、道路は雪に覆われているのですが、今日は、乾いた地面が見えていて








まるで、雪解けの春の様な陽気でした。

































































未だ本番まで 2週間ありますが、この調子で雪が積もらないと、だるまさん作りが大変になるので、雪が降る事を祈るばかりです。
 お寺の前にある、昔、蔵として建てられたものを改造して、蔵ですから 囲炉裏も無かったのですが
暖をとるために 囲炉裏の作ってあって 中は結構暖かです。
着いた時には、皆さんだいたい集まっていて、女の人たちは、サバの熟鮨を切っていました。
 今年の出来は、何時もより「しょわい」(しょっぱい)感じがしました。
帰りに恐竜博物館にも寄りました。日曜日とあって 県外からの観光バスや、自家用車も沢山来ていました。
























































ここも 昨年は、恐竜博士の所へ行くのに、カンジキをつけて 登ったのですが、長靴だけで行く事が出来ました。
今年は、大雪という、ニュースが流れる所が多いのに、なぜか 福井の嶺北部は、雪が少ないです。
丸岡の栄信モーターで オイル交換をしてもらい、九頭竜川の堤防を走ると、サクラマス釣りの人が、
流れの中に入っていました。










風景としては、季節的な眺めでいいのですが、釣っている人は 寒くてご苦労さんだと思います。
それも 福井県内の人よりも 県外からの人の方が多いので、
好きなればこその サクラマス釣り、風景です。

資料つくり。

2013年02月02日 18時25分43秒 | 日記
 明日は、節分です。
色々行事があって、その為の資料つくりをしていました。
プリンターのインクが無くなったので、カメラのキタムラ。バイパス店まで 買いに行って来ました。
キャノンのPIXUS MG6230昨年4月に買ったのですが、その時は一番出回っていた機種だったのに
東山を降りて来て久し振りに店に行った時には、影も形も無く、製造もされていないとの事でした。
インクにしても、326、325タイプの物よりも、新機種用のインクは 大容量でお徳用と書いて、山積みになっていますが、326、325は隅に置かれて、寂しい感じです。
次々と性能の良い物が出来て来ることは 素晴らしい事ですが、
古い物も使える用に消耗品などは、そろえておいて 頂きたいものです。
コメリにも寄って、A4でコピーした資料を整理して入れられる用、コクヨのクリヤーファイルを買いました。
資料は、明日、稲田大臣にお渡しするものなので、失礼の無いよう点検しました。
東山いこいの森を良くして下さいと お願いするわけには行きませんが、
勝山の山の中に東山いこいの森があるという事をわかっていただければと 思っています。
 明日は もう一つ、谷のお面さん祭りの準備の打ち合わせや、サバの熟れ鮨の試食会があります。
昨年は、大雪で大変でしたが、今年は 大した事がなくて ありがたいです。
 ユキダルマを200個ぐらい 作る雪は十分有りますが、
周りに雪がドカーンと積もっていないと、お面様祭りがきたという 気持ちになれません。
16、17日の本番までには、2メーターぐらいの雪は 欲しいものです。
運動公園にも寄ってみました。
天皇、皇后両陛下お手植えの松と書いた、石柱が立っていましたが、松に雪吊りは してありませんでした。
両陛下のお手植えの松ですから、立派な雪吊りをして頂きたいものです。