19日に鎌倉へ行ってきました。
以前、小石川伝通院をお参りしてご朱印を頂いた際
2代将軍・徳川秀忠の娘であり、豊臣秀頼の妻であった
“千姫” に関する本を買いました。
大阪城落城後、
千姫(19歳)は夫・秀頼が側室に産ませた姫(7歳)を
養女にして救った話が印象に残っています。
しかし、徳川家康の命令で、この姫に流れる “豊臣” の血を
継ぐ者がないようにと、7歳の幼さで尼寺に入れらてしまいます。
その寺が鎌倉の 『東慶寺』 別名 『縁切り寺』 です。
平日のこの日、鎌倉行きに参加できたのは
友人ゴンと従姉妹・のりちゃんと私の3人。
訪れたいと思っていた東慶寺を最初に訪ねました。
尼寺で暮らし始めた7歳の少女は、後に17歳で落飾し
『天秀尼』と名乗ります。
30歳で寺の20世住職となり、37歳で亡くなりました。
尼さんの英語で最初に浮かんでくるのは
(シスター)ですが、シスターは呼びかけに使われるそうです。
「nun」(ナン)・・・尼・修道女
日本の尼寺を紹介する文章の英訳文では
「nunnery」(ナンネリー)・・・《古風》 尼僧院
ナンネリーが使われることが多いようです。
天秀尼として名を残した彼女の幼い頃の記録は
ほとんどないそうで、名前さえもはっきりしていないようです。
男子ということで処刑されてしまった1歳年上の兄 『国松』の
名は知られていますが、 彼女を『奈阿姫』 と呼んでいる
本もあれば 『泰姫』と呼んでいる本もあります。
歴史に 『もし』 は無いと言われますが
彼女が生まれた時
秀頼がまだ一人前ではない15歳の父親であっても
『もし』 祖父である豊臣秀吉が顕在の天下人あり続ければ
その孫として、華やかな人生を送っていたはずです。
せめてもの救いは千姫の養女となれたことで、徳川家の
バックアップが受けられたことでしょうか。
東慶寺に展示されているゆかりの品々を眺めながら
時代に翻弄された一人の女性に思いをはせました。
未来の『もし』 ・・・
もし私の老後、小説に挑戦でもするようなことがあれば
彼女の歩んだ人生を形にしてみたいものです。
ご朱印はこちらをクリックして下さい。
以前、小石川伝通院をお参りしてご朱印を頂いた際
2代将軍・徳川秀忠の娘であり、豊臣秀頼の妻であった
“千姫” に関する本を買いました。
大阪城落城後、
千姫(19歳)は夫・秀頼が側室に産ませた姫(7歳)を
養女にして救った話が印象に残っています。
しかし、徳川家康の命令で、この姫に流れる “豊臣” の血を
継ぐ者がないようにと、7歳の幼さで尼寺に入れらてしまいます。
その寺が鎌倉の 『東慶寺』 別名 『縁切り寺』 です。
平日のこの日、鎌倉行きに参加できたのは
友人ゴンと従姉妹・のりちゃんと私の3人。
訪れたいと思っていた東慶寺を最初に訪ねました。
尼寺で暮らし始めた7歳の少女は、後に17歳で落飾し
『天秀尼』と名乗ります。
30歳で寺の20世住職となり、37歳で亡くなりました。
尼さんの英語で最初に浮かんでくるのは
(シスター)ですが、シスターは呼びかけに使われるそうです。
「nun」(ナン)・・・尼・修道女
日本の尼寺を紹介する文章の英訳文では
「nunnery」(ナンネリー)・・・《古風》 尼僧院
ナンネリーが使われることが多いようです。
天秀尼として名を残した彼女の幼い頃の記録は
ほとんどないそうで、名前さえもはっきりしていないようです。
男子ということで処刑されてしまった1歳年上の兄 『国松』の
名は知られていますが、 彼女を『奈阿姫』 と呼んでいる
本もあれば 『泰姫』と呼んでいる本もあります。
歴史に 『もし』 は無いと言われますが
彼女が生まれた時
秀頼がまだ一人前ではない15歳の父親であっても
『もし』 祖父である豊臣秀吉が顕在の天下人あり続ければ
その孫として、華やかな人生を送っていたはずです。
せめてもの救いは千姫の養女となれたことで、徳川家の
バックアップが受けられたことでしょうか。
東慶寺に展示されているゆかりの品々を眺めながら
時代に翻弄された一人の女性に思いをはせました。
未来の『もし』 ・・・
もし私の老後、小説に挑戦でもするようなことがあれば
彼女の歩んだ人生を形にしてみたいものです。
ご朱印はこちらをクリックして下さい。