近鉄電車の橿原線に乗って、西ノ京駅に向かう電車の車窓から、西側にこんもりとした森が見える。佐紀盾列古墳群の一番西に位置する宝来山古墳である。(古墳のある位置が、佐紀地方でないことから含まれない場合もある。)現在は、11代垂仁天皇の陵墓に指定されている。
ロケーションが、田畑の中にあるので、非常に開放的なきれいな古墳である。(一部、北側は住宅が迫ってきているが)
全長が、227m、後円部が123m、前方部が120mとなっている。墳丘を大きな周濠がめぐっている。訪れた時は、濠の水が抜かれていたが、以前に来た時には、水量も豊かであった。東側がかなり張り出しているが、これは後世に灌漑用につくられたものらしい。
濠の中に、ポツンと浮島が一つ見える。田道間守の墓と伝えられるものである。田道間守という人は、垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に渡った。10年かかって葉附きの枝と果実附きの枝を日本に持ち帰ってきたが、その時には、垂仁天皇はすでに亡くなっており、非時香菓の半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという伝承のある人物である。また、このことからお菓子の神様とされている。
このようなお話から、濠の中に浮かぶ浮島が、田道間守の墓とされたのであろう。
しかしながら、地図や航空写真で見ると元の集合と考えられる線上にあり、どうやら周濠の堤の一部であるようだ。森浩一氏は、「巨大古墳の世紀」という著書のなかで、文久の修陵時に作られたのではないかと述べている。
古墳の周囲には、6つほど陪冢が残っている。
この古墳自体は、佐紀盾列古墳群の中では、五社神古墳の次に築造されたのではないかといわれており、築造年代、古墳時代の前期、4世紀後半と推定されている。垂仁天皇自身も、狭穂姫命の伝承など佐紀地方とは所縁が深そうな伝承を持っている。
大和・柳本古墳群の次の盟主墳のひとつであろう。
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