彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

『直弼公 リレー講座』第三回講演・後編

2008年11月17日 | 講演
(前編より)


大老になった井伊直弼はアメリカと通商条約を締結したのです、これが安政5年(1858)今から150年前です。この時の条約の内容は貿易です。阿部ちゃんが安政元年に結んだのは、日本を寄港地として使って結構ですよとの「仲良くしましょう条約」ですね。
安政5年は、修好通商条約で「貿易を実際にやりましょう条約」なのです。実際の条約調印者は岩瀬忠震と井上清直の二人でした、井伊直弼ではないのです。権限を委任して二人に任せたという事であります。
この時も勅許の問題が浮かび上がり直弼さんも責められました、天皇の許可を得ないで条約を結んでいいのか?との問題は江戸城内でもあり溜間詰の大名でも信州上田藩主の松平忠固(老中)はやはり許可がいるのではないのか?と主張したのです。
しかしここで考えなければならないのは井伊直弼さんも尊皇ということです。これは国学で本居宣長の学問を学んでいれば、必然的に「皇室を尊重しよう」との心が湧いてくるのです。だから直弼さんの尊皇心は非常に強い、けれどの敢えて勅許を得ずに岩瀬・井上の二人に全権を委任し条約を結ばせたのは、やはり主権意識があったからのでしょう。
 それは家康公の時代に国政の権限を征夷大将軍に委ねられているんだ。との思い。だからその事によって直弼さんは尊皇心を別に考えていたかもしれない。
 つまり朝廷を政治の実権を持った存在として考えるのではなく、尊崇すべき尊い存在なんだ。どちらかというと精神的な宗教に近いような心を持っていたのではないか。
 だからと言って馬鹿にしている訳ではなく、政治の実権は今自分に与えられているのだから代弁者になって、どこの国とどういう取り決めをしても完全に委ねられているものなのだ。岩瀬・井上がやった事はおれのやったことと同じで、問題が起こったら必ず責任を取るぞ。と腹を括っていたのですね。
 しかし世論はそういう訳にはいかず、結果はやはり勅許という天皇に対する手続きは取らないといけない…。始めは報告をすれば済むだろうと、速達か何か(飛脚の手を通じた簡単な報告)を送ったらしいのですが、当時の京都には尊皇攘夷の志士がたくさん集まっているので「とんでもない奴だ、誰かが来て勅許を求めろ!」という事になり、老中首座の堀田正睦(佐倉藩主)を派遣したのですが、朝廷は「それよりも攘夷を行え」とけんもほろろ。
 直弼さんはこの頃から「この国難を乗り切る為に阿部は譜代大名と外様大名の連合政権を考えたが、俺は公武合体で朝廷と幕府を一緒にしなければダメだと考える」と思い出したのです。
 その分かり易い手は皇室から将軍にお嫁さんを貰う事だ。という案です。ですから和宮降嫁は直弼さんの頃からあったのです、この後を受けた久世広周らが行いますが構想は直弼さんからだったのです。それによって国が一体になって外敵から守りぬくという考えですね。
井伊家は祖先の直政以来、徳川家と特別な間柄にありまいたよね、しかも徳川四天王の一人です。
しかし先ほども申しあげたように三河譜代の家臣ではなく、井伊谷で父親までは今川家の家臣だったのです。それが家康に見出されて仕えるようになったという事は、ある意味では外様的な立場にあったのです。しかし家康は完全に直政の忠誠心を信じている。ですから自らの四男・忠吉の舅にしちゃうのです。
徳川四天王の言い方も色々ありますが私が覚えているのは「井伊・本多・酒井・榊原」で四天王のTOP に挙がっていますよね。そして武田家を滅ぼした時に家康は、武田遺臣を大量に抱え山県昌景という人が武田家中の勇猛な代名詞だった赤備えを率いていたのを、家康は井伊家にこれを引き受けろと言い、山県遺臣と共に赤備えを任せた。ですからこの後井伊軍団の姿を見ると「赤鬼だ」と恐れられたという話がありますね。

直弼は、公武合体のような案を持てこうやっていこう、しかし攘夷はできない。大名の軍事力を束にしても到底外国には叶わない。それならば日本が大きな船を造って海を越えて外国と積極的に交流すべきではないのか?という考えを持ったのです。
初めのうちは井伊直弼も徳川幕府は徳川家の政府という気持ちがあったと私は思います。
この頃の日本は「天領」と「藩領」に分かれていました。天領は徳川家が直接治める土地で600万石とも800万石とも言われています。ここに直接支配でお米を中心とした年貢を収入源として徳川家の賄いをしている。
老中や若年寄や他の官僚も徳川家の私的政府の役人である。という考えになります。ですから「徳川家のために幕府は君臨していたらいいのだ」という事でしょ? 
藩領は十割自治で、藩と藩の間に厳しい国境が設けられていて、人の移動はなかなかできない。藩は自分の行政区域を“国”と言っています。この考えは今も残っているのです。
私は江戸以外に故郷がありませんから小学校の夏休みが終わったあとは仲間外れでした。みんな国に帰っていて土産話をしているのに入れず、一人校庭の端でしょぼくれて居たのです、ちょうど埋木舎に居たように(笑)
そして今でも使っているのですよ。「童門さん、ちょっと国に帰ってきます。あなた国は無いんでしょ?」って、癪に障るから聞き返すんです「今何て言ったのですか?」と、すると「ちょっと国に帰ってきます」だから「あなたの国は日本じゃ無いのですか?」と言うんです。まだ江戸時代の幕藩体制が生きてるんですね。

徳川家も全国に分かれていても徳川家の事だけを考えていれば良く“徳川ローカリズム”ですね、藩も自分の所で自己完結していれば良かったのです問題があった時だけ取り潰すという統制はするけど十割自治だったのです。
ところが「そうはいかないよ」という考えが直弼の頭の中で生まれてきました。外圧です。そこで“ナショナリズム”が育ちます。
 地方主義から、日本全体のことを考えなければいけないというハードルが上がり、もっといえば国際主義“グローバリズム”へと発展していったのです。
TVを観ていたら「中国だけではなく東南アジアに一村一品運動が広がっている」との話がありました。一村一品運動を提唱した大分県知事の平松守彦さんは「姫島で車エビを一匹育てるにしても、山里でシイタケ一個を育てるにしても、グローカリズムという考えを持って欲しい」と言ったのです。ですからエビ一匹、シイタケ一個に国際情勢の認識を持つこと、そして今日本の国内問題に何があるか考えること、そして同時にそれを踏まえた上で地方としてどう生きて言えばいいのか?という事ですね。
江戸時代の幕藩体制は今で言うなら、地方自治体の組長が入閣して大臣になっているのです。ですから井伊直弼さんが大老というナショナルレベルでの要職に就いていても、彦根藩主の席は捨てておらず藩主兼任でそのまま総理大臣として攘夷問題もやっているのです。
ですから“ローカリズム”“ナショナリズム”“グローバリズム”の感性も併せ持っていないと、彦根藩政でも上手くいかないのです。そこが私は直弼さんの偉いところだったと思うのです。

国際情勢ではすでにオランダ語は時代遅れでした。寛永16年(1639)徳川幕府は天草島原の乱をきっかけとして鎖国を行いました、しかし完全な鎖国ではなく、実際には長崎港はずっと開国をしていてしかも朝鮮・中国・オランダとは交易をしていて、外国の医療や絵の遠近法などはオランダから入ってきているのです。しかし幕末の時に学識経験者や高位高官が学んでいたのはオランダ語だったのです、でも「そうではないぞ」と気が付いたのが福沢諭吉でした。
大坂の緒方洪庵の適塾でオランダ語を学んでいたのですが「違うぞ」と、それは直弼さんが結んだ条約で開港した横浜港が通商の基地となり、福沢諭吉が横浜の外国人居留地の看板にオランダ語は一つもない、会話が分からなくてチンプンカンプン、分かる人に聞いたらそれは英語だよと言われた。その事が言葉の問題を日本人にガラリと変えさせる事になったのです。
直弼さんは、アメリカと結んだ通商条約を批准させる為にワシントンに使いを派遣します。この中に目付として小栗上野介が派遣されますが、小栗の発見者は直弼さんなんです。
小栗上野介は、次の将軍は誰か?という運動には参加せず自分なりに知識を蓄積していった。そして貨幣レートの問題を「金の含有量で評価すべきだ」としてアメリカに小判を持ってきました、向こうで秤にかけてみると日本の方が価値があったのです。
ですから「なぜ金の含有量が多い日本の方が価値が低いんだ」と掛け合いアメリカ人に「日本には怖い人がいる」と認識させたのでした。

直弼さんは、大老になった時に市井にあって一般庶民や心ある者をたぶらかす言説の徒という者を非常に嫌いました。安政の大獄の中でも一番酷い目に遭ったのは学識経験者でした。吉田松陰・橋本佐内・頼三樹三郎・梅田雲濱らは全部そうでした。
私は良いか悪いかは別にして「この安政の大獄によって個人の意思と個人からなるグループが活動の場を断たれ、その後に藩という組織が前に出てきて、しかもその組織の背景になったのがイギリスとフランスであり、それは日本の産品に関心があった」のです。
日本の産品で一番の売れ筋はお茶と生糸で、お茶を一番求めたのはイギリスで、生糸を求めたのはフランスでした。
フランスは世界有数の絹消費国ですが、この頃フランス国内の蚕が病気になり中国に絹を求めたのですが、この絹が黄色くて質が悪く、横浜に積み出された日本の絹(羽二重)は質が良くフランスは独占を目論なのです。
結果的にイギリスのお茶、フランスの生糸が、幕末の組織の裏スポンサーとなりパトロンとなっていったのです。フランスが幕府に、イギリスのパークスやアーネスト・サトウは薩摩藩や長州藩とそれぞれに分かれたのです。それがお互いに独占したい為の許可権、主権がどこにあるのか?という事だったのです。

直弼さんは、その主権は元和以来幕府にあるとし、薩長は「それならなんで勅許を求めた?天皇の許可を求めるという事は、征夷大将軍以外の存在がある事ではないか?」と主張しイギリスのパークスがこれに目を付けたのでした。
これからは実力のある雄藩の時代になる、イギリスは西南の大名家を後押しした方が国益になる。という判断でした。
後の事になりますが、徳川慶喜が大政奉還後に「外交権は自分にある」と主張する為に大坂で外国の公使と会いました。
この時、アメリカ・フランス・オランダ・ロシアらの公使は将軍に対し“マジェスタン(陛下)”という尊称を使いましたが、イギリスは“ヨハイネスト(殿下)”つまり殿下の上に陛下が居る、それは京都の天皇だ。としたのです。
結果的に薩長・イギリスの後押しによって維新が成立していく訳でありますが、安政の大獄によって揺り返しが来ましたね。

万延元年三月三日。
その前夜は大雪で、この日は節句の日ですから大名は将軍に挨拶をしなければならない。桜田門の傍に差し掛かった時に屋台が出ている、そこで武鑑を読んでいる複数の浪士が居たのです。
武鑑は紋所などを見て駕籠がそこの大名か見当をつける参考書のような物でした、そして井伊さんの行列が来る。突然短銃が一発鳴って斬りかかってきた。
18人のうち17人までが水戸の浪士で、1人が有村次左衛門という薩摩浪士でありました。この時に直弼さんは従容として「今の時代は人間一人殺したからといって変わるものではない、こいつらは遅れている」と思ったと思います。この時に後始末に当たったのが平藩主で和宮降嫁の実行者だった安藤信正でした、特別な計らいで直弼は首を斬られた事にせず、病気で具合が悪くて自宅へお帰りになったという事で、安藤は見舞いに行ってます。
井伊家は後継ぎをたてた後で、直弼の死を発表したのです。

私が個人的に非常に(直弼に)親近感を持つのは国学の勉強を非常になされていた、歌作りの名人で歌人であった。という事はある意味で文学精神を持っているという事ですね。
私のような軟なものではなく、スピリットとして綺麗な純粋なものを持ち続けて居たんなろうと思います。17歳から32歳までの15年間を埋木舎でずっと過ごし、長野主膳という相手が居てもやはり暗い思いや将来に対する希望を断たれるという、人間として本当は味わいたくない、若い時ならばもっと活発に恋もしたいし、あれもしたいというものがありますよね?
それがある程度抑え込まれているという状況の中で生まれてきたものが、彼の精神を強くしていった。しかし土台にあった物は文学を愛した詩人のスピリットであったろう、魂であったろうという気がいたします。

私は呼ばれた土地で、そこから出た人の悪口は絶対に言わないので、みんな褒め称えておりますのでだから仕事ができているのかな?と思いますが、井伊さんはまた改めて舟橋さんとは違った意味の『花の生涯』を書きたいな。という気でおります。

せっかくお時間をいただいたのですが、日も暮れかかっておりますので私も失礼いたします。お役に立てず「どうもん、すいません」(笑)




《取材》
(管理人)
一番質問したかった事は、公演の最後に「地元では悪口は言いません」と言われてしまいましたので、凝縮していますが、今まで井伊直弼に対していい評価はありませんでしたね?
(童門氏)
 そうですね、安政の大獄があるのでどうしてもね。
(管理人)
 ちょっとショックを受けましたのが『井伊大老暗殺』という本を読ませていただいた時に“井伊直弼と長野主膳は前半生ネクラな「怨念コンビ」”と書かれていて、その先生がどんな講演をされるのかな?と楽しみで寄せていただいたのですが、そんなところは抑えつつも文化面で評価を頂いてありがたく思っています。
(童門氏)
 私も国学を知る内に変わってきたのです。それは本居宣長の「万葉のその時生きていた人々にまで感覚を立ち戻らせたまえ」という言い方に「なるほどな」と思い、荻生徂徠が古学を唱えた時にやっぱり「古い文書を読む事は、古い時代に生きていた人の生活感覚が文章に反映されなければならない。それがどういう物か分からないで喋喋喃喃(ちょうちょうなんなん・しきりに喋るの意)するな」と言っていたでしょ?
 それがね、相当痛い衝撃を受けて反省しています。
(管理人)
 今の先生の井伊直弼感は文化人としてのイメージを大きく持っておられるという事でしょうか?
(童門氏)
 政治の文化化、文化行政を行うという事ではなくて、文化性というものをスピリットの中に付加価値として加える事によって、政治の幅や厚みが広がり深まるであろうという事ですね。
 ですから私は行政が文化事業をやることに余り賛成はしないのです。つまり生け花や陶器つくりなどの生涯学習は趣味でやっているもので、税金でやることではなく自分の金でやることですよね。
 でも、行政の文化化は大事です。それは市役所や県庁の役人がカルチャーという物を自分が平天下・治国・斉家・修身でしょ?
 つまり、政治全体の国の事を考えるのも、自分の身を修めることが一番最初ですよね。その自分の修身を修める時にこれからはカルチャーを相当自分の精神に植え付けて行かなきゃいけない時代かな?と思います。
 それで、一時期は「井伊と長野は悪い野郎だ」と思っていたのだけれどもだんだん考えが変わってきました。
(管理人)
 ありがとうございました。
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『直弼公 リレー講座』第三回講演・前編

2008年11月17日 | 講演
2008年11月16日、彦根城博物館能舞台で、『直弼公 リレー講座』第三回として童門冬二さんの講演が行われました。

小説や著書では硬いイメージがある童門先生ですが、江戸生まれで落語がお好きということで話には落語のようなオチがあったり、幕末のメンバーを大河ドラマ『篤姫』の俳優さんで紹介されるようなユーモアーもあります。お楽しみください。


グレート直弼『開国と井伊直弼の政治理念』

 私、生まれましたのは東京の東に隅田川の畔の日本橋というところであります。由緒ある家ではありません長屋の八公(はちこう)の子孫です。ただ今から400年以上前に徳川家康が幕府を開くために江戸に入ってきますが、私の家の方が先に住んでいたのです。
 場所柄落語が大変好きでして、落語には枕という物がありまして、これをよく使わさせていただいています。
 ひとつは“童門”という名前でございます、こちらは戸籍の名ではなく芸名です。(私が舞台に上がる前に)司会の方が皆さんに「手を叩け」とお願いしましたよね? それで皆さんは手を叩いて下さったのですが、これは3分と経たないうちに「手なんか叩くんじゃなかった」と後悔します、そして「こんな所に来るんじゃなかった」と、こういうことなのです。でもここは能舞台ですので立ち上がり(帰り)難いですよね。ですから皆さんは後悔の念が私への憎しみへと変わる訳です。それでは敵わないので先にお詫びをしておきます。
「今日は、ご参考になるようなお話はできませんよ、ですから『どうも(童門)すみません』」これがペンネームの由来です。今日は笑点じゃないですね(笑)

 井伊直弼さんのお話をさせていただきますが、私は北海道から沖縄まで渡り歩いていて、地域の生んだ歴史上の人物がテーマになることが多いです。そこでお話しているのは、ただ「偉い偉い」と言っても仕方がない。
・どう偉かったのか?
・今生きている私たちにどう役に立つか?
・それを今住んでいる地域の住民がどういう利用(活用)をしているのか?
・そして、それはここだけで独り占めにしているのは勿体ない、他所の地域の人にも教えてあげたい。
・つまり情報としてここからそれを発信しよう。
・発信先からも「井伊さん絡みでこういう事があったよ」というフィードバックがなければ意味がない。
ということです。
 今回は東京に住んでいる私が、井伊直弼さんをどういう風に捉えているかということだけで、私がお話しできるのは自分なりの光を当てて「こういう解釈をしていますよ」というだけですので、専門的な調べをしていただく為の一つの突破口と思っていただければ大変に倖せです。

「開国150年」と銘打っていますね。日本の開国は幕末に2回ありました、安政元年(1854)と安政5年(1858)です。
 安政元年の方は、ペリーがフィルモア大統領の国書を持って日本にやって来た訳ですね。ですがこれは貿易を目的にしたものではなく「仲良くしましょう」という申し入れでした。
これはどう言うことかといえば、当時いわゆる産業革命を終えたイギリスや、その後を追いかけたアメリカが目指した世界のマーケットは清(中国)だったのです。
ところがアメリカは太平洋を横断するので航路がとても長かったのです、長い航路の中では燃料や食料が不足する、病人が出るなどの問題が起こるので寄港地(中継基地)をどこかに設定しなければならない。
「それには日本だ」ということで、フィルモア大統領の国書には「船で病人が出たら上陸して面倒を診て貰いたい」あるいは「足りなくなった燃料や食料を実費で譲って欲しい」こういう事を要望していたのです。
 この時に日本側で国書を受け取ったのが、今でいう総理大臣に当たる老中筆頭の阿部正弘という人でした。備後国(広島県)福山藩10万石の譜代大名でした。この阿部ちゃんが国書を受け取った時に、今までの総理大臣(老中)とは違った事をやったのです。
 フィルモア大統領の国書を、実際にアメリカで暮らしたことのあるジョン万次郎(中浜万次郎)に翻訳させて、幕臣・大名、その家臣・オピニオンリーダー・学識経験者・長屋の八さん熊さんまで日本中にばら撒きました。そして「こういう物が来た、これはある意味国難だ、良い意見があったら出して欲しい」と、情報公開と国政参加を求めたのです。
 これはソ連が崩壊する寸前にゴルバチョフ大統領がやった事と同じなのです、阿部ちゃんはそれよりももっと前にやっちゃった訳なのです。
 この事からいろんな現象が起こってきました。当時の大名家は“藩”という縦割りです。そして270余藩あり井伊家も含めてすべてが十割自治だったのです。十割自治ということは「そこで何をやるか?」という住人のニーズに応える行政計画も自分たちで立てる、しかし実行する為の費用も全部自分たちが調達しなければいけない―
 ですからどんなに財政難に陥っても中央政府である徳川幕府は、今で言う国庫補助金や地方交付金は出さない、「自分の手で始末しろ」という事なんです。井伊家も一緒でして近江商人の一部である彦根商人を育てて、そういう人々が官商一対によって資金調達に勤しまなければならなかった訳です。滋賀県は「野洲の上布」や「伊吹の艾(もぐさ)」など地域ごとに名産品が多くありますよね。私も日本の国を歩き回っていて言い切るのはためらわれますが、今までの経験では地域の名産品というのは殆ど江戸時代の産物だろうと思っています。明治以降にはそれほどありません、新しい物は別ですが土から生まれる物はこの時代にできています。

結局、阿部さんのペレストロイカによって色んな事が起こってきた訳です。
1.国難であるという認識
三河以来徳川家に忠誠を尽くしてきた譜代大名に対し、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦い以降徳川家に仕えたのは外様大名と言いました。
 徳川政権は、譜代大名のグループで構成されていて、外様大名は絶対に中には入れませんでした。常に政権の外に置いていたのです。つまり譜代大名は万年与党で、外様大名は万年野党という考えだったのです。
 阿部正弘こと『篤姫』では別名・草刈正雄と言いますけれども、彼は「こんな事じゃもう乗り切れない、譜代大名と外様大名の連合政権を組まなければダメだ」と考えました。
 この時に阿部ちゃんが狙ったのは「大きな海に面している大名家は、必ず今までにも外国船との接触があった筈だ、したがって国防問題や海防問題にもそれなりの見識と心構えを持っているだろう」そこで五人の藩主と連合しました。
・薩摩藩主、島津斉彬(別名・高橋英樹)
・伊予宇和島藩主、伊達宗城
・土佐藩主、山内豊信(容堂という号を持ちます)
・肥前佐賀藩、鍋島直正(閑叟)
・越前福井藩主、松平慶永(春嶽)
こういう連中に入閣して貰い、ペリーの持ってきた国書にどう対応するか、一緒に相談してその解決策を考えて欲しいと考えたのです。

2.外交権を含む日本の主権者は誰なのか?
 これが幕末の政争を激しくする原因になり、外国でもイギリスとフランスが対立するという結果を生みます。
 主権の問題は徳川幕府側では「徳川家康が江戸幕府を開いた時に、さまざまな法度を作り、その中には『禁裏法度』『武家法度』あるいは『寺社法度』など職業に応じた法律が出来ていて、それぞれの生き方を規制した。『禁裏法度』では“天皇や公家は政治に関与する事無く、日本の古い文化や伊勢神宮を始めとする神事に専念していただきたい”としていて、当時の帝である後水尾天皇と公家たちは皆、承認し署名捺印している。つまり、主権は政権委任という形でこの時に幕府に移り、朝廷には政権が無い」と主張したのです。
 ところが、幕末になって「それは政務を委任したのであって、実際の政権は天皇にある。なぜなら征夷大将軍は天皇の任命行為によって得ているのだから、将軍は天皇の家来である」という主張も出てきて、両者で論争が起こったのです。

3.次の将軍はどういう人が適任者か?
 この時の将軍は13代家定、堺雅人でした。それで篤ちゃん(篤姫)はそうしたでしょう。家定には色々な記録があります。身体が不自由だったとか、特に生殖能力が無いとか、様々な事を言われています。
 堺雅人はドラマの中で「本当は俺は利口だけど馬鹿なふりをしてるんだ」と言っていました。それはそれで一つの解釈だから良いのですけど…
 私は堺雅人が好きなんですよ、いい俳優だから。『新選組!』の時の山南敬助を演ったでしょ?切腹する時なんて泣いちゃったです。まぁいいですけど(笑)
 結局、家定では困るんだ。と、したがって次の将軍は「年長」「英明」「人望」の三つの条件を満たすリーダーじゃないとこの国の収まりがつかない。という運動になって行きます。
 
 日本の国は1から3の問題をめぐってガタガタになってしまいます。そこで井伊直弼さんは全てを否定反論する事になるのです。
 井伊家は浜名湖の近くにある井伊谷の出身になります。井伊家初代の直政は今川家の家臣だったのですが父親が今川家の家臣に殺され、自分の命も今川家に始終狙われたのです。しかし浜松城下で徳川家康に遭遇し、家康に知遇を得たのです。
 以来、井伊直政は絶対に徳川家に忠節を尽くそうという志を立てます。ですから関ヶ原の合戦には徳川家康の周りには譜代はほとんど居らず、井伊直政とその婿の松平忠吉(家康の四男)それから本多忠勝しか居なかったのです。
 三河以来の譜代の家臣は、息子の秀忠が率いていたのでした。家康は東海道を進み、秀忠は中山道を通っていたのですが信州上田で真田一族のゲリラ戦術に引っかかっちゃったんですね。そして9月15日の合戦に間に合わなかった。
 これで家康はカンカンに怒っちゃった「顔も見るのも嫌だ!」と言ったといわれているのですが、私は「これはやらせだな」と思っています。
何故なら家康にしても決死の合戦なのでどうなるか分からない、場合によっては自分も死んでしまうかもしれない。だから三河以来の武士は温存したい、そしてそのまま秀忠を見て貰いたい。そんな家臣も取り込んで大合戦になるとそっちにも犠牲者が出ると徳川家そのものの安全も保障できないから、オヤジと息子の「遅れますよ」「遅れてこい、絶対に間に合うなよ」との相談があり、遅れて来た時に家康は腹の中では「秀忠よくやった、家臣をよく温存した、これで安泰だ」という事でしょうね。
 あの合戦は豊臣秀頼という主人が大坂城に居て、その家臣と家臣の争いだったのです。ですから徳川家康も豊臣軍、石田三成も豊臣軍でした。結果で言えば家康の政略が成功して秀頼が出てこなかった。あれが出てきたら西軍が勝っていましたね。
 政治工作によって西軍総大将の毛利輝元も出てこなかったことが、単なる合戦という「やあやあ遠からん者は音にも聞け」といった武器の争いではなく、政略戦争になっていたということだったのです。

 井伊直弼さんは譜代大名筆頭で、溜間という江戸城内でもランクの高い詰所の筆頭でもあったのです。ここに居たのは徳川一門の「松平」と名乗る人々が一緒だったのです。その人々も井伊直弼さん、中村梅雀と言いますがね、その人の支持者なのです。
 溜間詰め大名を代表して「馬鹿な事をするな、神君家康公がお決めになった譜代大名という政権グループになぜ外様を入れるのだ? 家康公が入れなかったのは信用できないからだ。かつては織田信長公の家臣であり、豊臣秀吉の家臣であり、また家康に来たという事はいつ寝返るかわからない信頼できない。家康公はそれほど慎重だった。そんな神君家康公の取り決めをここで崩すのは如何なものか?阿部は馬鹿だ」と言ったのです「あべは馬鹿だ」と言っても前の総理大臣のことではないですよ、字が違いますからね(笑)
 
 主権は徳川幕府にあり、その代表者たる征夷大将軍の者なのだ。という事を世の中が変わったからといって簡単に変える訳にはいかない。
元禄の俳聖の松尾芭蕉は「不易流行」という言葉を言いました。
「不易」は“どんなに世の中が変わろうとも、変えてはいけないもの、変わらないもの”
「流行」は“その時々に合わせて即していくやり方をする”
阿部やり方はこの「流行」の方である、これではダメなのだ。主権は絶対に徳川幕府にあるぞ。という事なのです。
 次の将軍を誰にするか?という事を長屋の八さん熊さんにまで相談する馬鹿がどこに居るんだ? 誰を次の将軍にするかというのは、徳川家の相続人を決める事であり、それが決まれば自動的に次の将軍になる。これは徳川家親族一同と俺のような番頭代表が加わって相談すれば良い事だ。
という事なのですね。この争いが結果的に後の“安政の大獄”に繋がってくるのです。

次の将軍として目されていたのは二人居ました。一人は紀州藩主の徳川慶福(後の家茂、和宮の夫となる人物)ですがまだ若かったのです。そこで「年長」「英明」「人望」という要件を兼ね揃えた人物が必要となり一橋慶喜が圧されたのでした。
 二人とも名前に“慶”という字が付いてますね。これは12代将軍が“家慶”という名だった為です。大名家の相続人が決まって将軍に挨拶に行くと、その時の将軍が自分の一字を与え大名も自分の親戚にしちゃうのです。ですから“慶”の字が付いているのは“家慶”からそれぞれ名前を貰ったという証なのです。
 一橋慶喜は元々水戸藩主の徳川斉昭の七男です。ですから子どもの時は七郎麿と呼ばれていました。斉昭は30人以上の子どもを産ませたのです、随分頑張ったと思いますね、私なんて一人でもふうふう言ってますので。長男は一郎麿、次男は次郎麿、三郎麿、四郎麿…
 慶喜は七男で七郎麿。そして十郎麿まで行ったのですが、まだ続いていて十一男、十二男まで行くと斉昭さんも困っちゃって、十一男が余一麿、十二男が余二麿…これも余九麿まで行ってもまだ終わらないので、しょうがないので廿麿、廿一麿とご立派な方です。
 11代将軍徳川家斉が40人以上の側室に51人(55人、53人説あり)の子どもを産ませたのも凄いですよね。結局自分の所で面倒が看きれないので男の子は大名の養子に、女の子は大名の正室にしてもらうのです。二十一女の溶姫が文京区にあった前田家の屋敷に嫁いだんですね。将軍家から妻を娶る家は妻の御殿を朱色に塗るのです、これを「御朱殿(御守殿・ごしゅでん)」と言ったのですが、敷地内のことなので余り目立たないし外に分かる場所にも塗ってやろう。「俺の所は将軍の娘が嫁に来てるんだ」と門も赤く塗ったのです。これを「赤門」と言います。現在文京区の某大学のキャンパスになっていて私も戦が終わった後に「ちょっと入れて貰えませんか?」と行ってきたのです。でもけんもほろろ…
 悔しくて「何言ってんだい威張るんじゃねいや、赤門というのは大学のことを言うんじゃなくて。前田家が家斉将軍の1/51を貰っただけじゃないか」と憎まれ口をたたいたことがあるんですけどね。
 そんなことはどうでもいいのですが…

 斉昭が一番可愛がった慶喜が、御三卿の一つの一橋家の養子になっていたわけであります。この時に一橋慶喜を次の将軍にしようとした擁立派が先ほど申し上げた阿部グループなのです。ですからここには島津斉彬も入っていたのです。
 そこで篤ちゃんの役割は“大奥内の世論を一橋慶喜に纏める”という密命があったのです。でも当時の大奥の状況からいえばそんな事はできっこないのですね。結局この役割を薩摩藩の江戸屋敷で連絡役を命ぜられていたのが西郷吉之助、別名・小澤征悦です。西郷さんは嫁入りの時に全部面倒を見て道具も調達しました。渋谷にあった薩摩藩邸から江戸城まで、先が城に着いても後ろはまだ渋谷を出ていないような長い行列が必要な量の調度品を持って行ったのです。
 西郷さんがやきもきしているうちに島津斉彬は「もう無理だ」と悟り、「篤も可哀想だ過重負担させる」と。そこで篤姫に対して「もうその事は忘れて良い」と伝える訳です。
 そして篤ちゃんがドラマの中で「私は徳川家の人間だ」とはっきり言い切りましたね。これは薩摩の島津にサヨウナラとの絶縁宣言でもある訳ですよ。(ドラマでは)半分は政略結婚ですから本当に篤姫が好きだったのは肝付尚五郎です、瑛太なんですよ。で私は『ステラ』というNHKの雑誌に毎号その年のドラマに関するコラムを1ページもう十何年書いているんですよ。脚本はもう終わりまで来ていて「最後どうするのかな」と読んだんです。
 最後は嬉しかった、宮崎あおいも死にますが、その時に自分が夢見たのは瑛太と手を繋いで桃の花咲く桃源郷のような所に二人で歩いて行く…
というシーンで終わるのです。「やっぱり本当に好きだったのは瑛太だったんだなぁ」と思って、薩摩からの品を焼いた時もお守りは焼きませんでしたもん。
 と、そんなことはいいのですが…

 直弼さんに戻ります。ドラマの中で直弼さんのシーンで感動したのはお茶でした。安政の大獄後に初めて篤ちゃんは直弼と対面し、詰問するつもりだったのでしょうが、梅雀の方も相当年期を経てますから落ち着いてお茶を点てた。
 この時に篤姫は初めて井伊直弼の本体「こういう人だったのか」というのを悟る訳ですね。直弼の置かれていた立場の辛さも分かったのでしょう。あの時に茶室に掛け軸が掛かっていました。そこに書かれていた文字が“一期一会”です。ナレーターの奈良岡さんがさりげなく言いましたね「一期一会の出会いでございました」と。
 なぜこうなっているか?と言うと“一期一会”は仏教用語でもありますが茶道の言葉でもあり、お茶の道でこの事を唱え本に書いたのは井伊直弼なのです。ですからお茶の事で“一期一会”は直弼の言葉となるのです。
 お城の近くに埋木舎がありますね。井伊家で庶子に生まれた人はどこかの養子に行くか、あるいは一生捨扶持で飼い殺しになるかでした。
直弼さんの場合は飼い殺しです。大名家に面接してもダメで弟の方が貰われて行っちゃいます。結局17歳から32歳までの実に15年間ずっとそこで過ごす訳です。この間に彼が毎日お酒飲んでひっくり返ってぐう垂れていた訳ではなく。武術の稽古、お茶、禅、そして日本の古い文化である国学に勤しみました。
特に国学には非常に熱心で、この時に師として知り合ったのが長野義言、主膳ですね。この人は諸国放浪していて前身がよく分かりませんが、朝廷にも知己がいた。国学を通して門人的な扱いをしている人がたくさん居たのです。

先ほど申し上げた一橋慶喜を次の将軍にしようとする動きの大奥工作が断たれたので、斉彬は京都工作に切り替え西郷を京に行かせたのです。西郷は京で橋本佐内や清水寺の僧であった月照らと一緒に公家の説得工作に勤しみ、様々な人々が説得してもうじき孝明天皇から次の将軍は「年長」「英明」「人望」の三つの条件を満たした人物であるようにとの勅がでる寸前まで行ったのです。
 ところが幕府に好意を寄せる二条斉敬・九条尚忠によってこの条件は削られ、代わりに「大名たち関係者でよく相談して決めなさい」と書かれたのです。この時にまず阿部ちゃんが死んじゃった。続いて高橋英樹(斉彬)も死んじゃった。そして宙に浮いたのが西郷隆盛だったのです。
 阿部さんが死んだ後、井伊直弼が老中のワンランク上の大老に就任したのです。

 井伊の基本的な考え方というものを、私は政治思想という形でみると。今の大臣や役人にも当ては嵌る言葉だと思うのですが、『論語』の中の“民は寄らしむべし 知らしむべからず”現在の民主主義において、情報公開と参加が国民の権利的なものになっている世の中からすれば、非民主的な言葉です。
 私は違った解釈をしていて、この言葉は本来民を守るべき「護民官」としての公務員の自覚を促しているのだろうという事です。「寄らしむべし」は“信頼して寄りかかって下さいよ”という事ですね。
 孔子の解釈は色々あるのですが「知らしむべし」とは“本当のことを解って貰うのはなかなか難しいよ”が本音だった。どうして難しいかと言えば“護民官としてきちっとやってくれてさえいれば、こっちは要らないんだ”という事です。ですから「今の政府や役人が、本当に寄りかかれるような政治を展開してくれていて、我々が別に情報や参加を求めなくても毎日家族が安定して暮らせる状況にあれば、別に情報や参加を求めなくてもよく、そんな余計なことよりも自分の暮らしを大事にした方がいいじゃないか」と直弼さんはそう言っていたのです。
 ですから、江戸幕府の役人はこの言葉によって民を守る責任を天から命ぜられたのだ。それを今やっていないから阿部のような事になるのだ。だから本当にこの言葉を孔子の言う意味合いで守れば絶対に後は要らないよ。
 それぞれの政治・行政が行き渡っていて、人々の暮らしが安定していたら、余計な情報を欲しがったり、あるいは参加の道なんて何も言わない。しなくても済むような社会を作るのが護民官としての役割ではないのか? それを阿部は何だ、長屋の八公にまでペリーの国書を見せて意見を言ってくれとは…
 元々徳川家康が幕府を開いた時は武士が護民官を実行していた、だから民もそれに寄りかかれた。それが260年で緩んじゃった。でも武士がその態度を続けたから、今急にこれを読んで「いい意見を出してくれよ」と言っても検討も付かないだろう、庶民にとっては猫に小判だ、宝の持ち腐れになっちゃうよ。その事によって世論が奮起し攘夷派の志士どもが出てきたのだ、しかも尊皇という思想に結びついた。という事です。

 攘夷という思想は何かと言えば、「夷(えびす)を討ち払う」という考えで、中華思想からきています。中華思想はカニ玉やラーメンの事ではないですよ(笑)“自分の国と民族が世界で一番文化が優れている所なんだ”という「自覚」「自信」「驕り」です。
 だから中華人民共和国の中華には4千年も5千年もの歴史がありこういう思想も残っています。この思想は周りの国を馬鹿にする訳です。
周りは全部、夷なんだ
・東の夷は「東夷」
・西の夷は「西戎」
・北の夷は「北狄」
・南の夷は「南蛮」
と東西南北で言い方を変えていましたが、意味は全部、夷(文化の遅れた毛の生えた人)という事だったのです。こういう中で「東夷」を討ち払うのが攘夷でした。なぜ東かと言えば日本に来る外国船はほとんど太平洋から上陸し、日本海側からはあまり来なかったからです。
 今はこんな言葉を使いませんが「南蛮」だけ残っています、どこに残っているかと言えばお蕎麦屋さんです。鴨南蛮。
 ところがこれは意味が違いますね。大阪の方でネギをナンバと言い、鴨がネギを背負って来るので鴨ナンバ、座りが悪いので“ん”を付けて鴨南蛮にしたのだそうです。井伊直弼は関係ありませんですが…
つまり、何が言いたいかというと、攘夷思想がそのまま日本にも根付いちゃった。のです。



(以下、後編に続く)
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