平安時代といえば、貴族や女御たちが優雅に文化を謳歌した平和な時代という印象がある。もちろんそれは間違いではないが、9世紀から12世紀まで約四400年間を同じ生活スタイルで過ごした訳でもない。応徳3年(1086)、藤原道長が望月の歌を詠み藤原北家の繁栄の頂点を極めてから68年が過ぎた頃、東北地方では後三年の役で武士たちが戦うことで土地を支配する社会を構築しつつあり、朝廷では白河上皇が堀河天皇を後見する「院政」を行うことで、藤原北家を中心とした貴族の政治に翳りが見え始める。
そして、地震活動も活発になる。寛治6年(1092)に越後で大津波を伴う地震発生(余談ではあるがこの年に井伊家初代・井伊共保が亡くなっている)。4年後の嘉保3年11月24日辰刻(1096年12月17日午前8時頃)東海地方を中心に畿内も揺れた。揺れは大きなもので六回、一時間以上続く。地震発生後、伊勢国から駿河国に渡る太平洋沿岸で大津波が発生し伊勢国湾岸を大津波が襲う。駿河国でも寺社、官庁、民家などの建物が400余流されたと記録されている。京都では内裏の大極殿の柱がずれ、応天門の西楼傾いた。他にも東寺、奈良の東大寺や薬師寺・興福寺などに被害が出た。また交通の要所である瀬田の唐橋が両岸の一部を残して倒壊した。被害者は一万人を越えたと伝わっていて被災地の範囲から南海トラフではないか?と考えられている。
堀河天皇は地震の一か月後に「永長」と改元したため「永長地震」呼ばれているが、改元だけでは天変地異は抑えられないようで、こののちには「永長」から約百年後の「建久」まで36回の改元が行われることとなる。改元原因のすべてが天変地異によるのではないが、施政者たちが世の乱れを元号へ責任転嫁した結果である。
さて永長地震から2年後の承徳3年1月24日卯刻(1099年2月22日午前6時頃)畿内は再び激しく揺れた。地震と疫病により「康和」と改元され後世に「康和地震」と呼ばれる揺れは、大和国で興福寺の大門・回廊が倒壊し、京都でも大地震であった記録が残っているが永長地震のような強い揺れが長い時間複数回起った様子は見られない。
一説として康和地震は永長地震の余震として発生した大和国が震源の内陸地震と考えられていた。しかし近年になって被害の日付が約一年ずれている古文書(康和二年一月□四日)が発見され土佐国を大津波が襲ったことが記されていた。これが真実とするならば近畿地方を震源とした内陸地震で土佐国を津波が襲う可能性はなく、康和地震はマグニチュード八クラスの南海トラフ地震であった可能性も出てくる。こう考えるならば、南海トラフ地震は一度発生したあとでも同規模の余震や本震が数年単位で続けて起る可能性も示しているのである。
瀬田の唐橋