彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

彦根藩の藩札

2009年08月10日 | その他
ひょんなことから、管理人の手許に彦根藩の藩札がやってきましたので、今回はこのお話を書きたいと思います。

藩札は、簡単に言えば今の地域振興券のような物とイメージしてみてください(厳密には違いますが…)
根本的には藩の中で通用する通貨です。

昔は、通貨はそれ自体に額面と同じだけの価値を必要としました。
その代表のような物が金貨や銀貨だったのです。

ですから、江戸時代に時々貨幣改鋳がされて金の質を落としてお金自体の質が下がるという悪循環を生む政策も何度もありました。
つまり、今のような紙幣と言う物は基本的には考えられなかったのでした。紙幣はそれを発行する機関(政府)に絶対的な信頼があってこそ流通する物なのです。


しかし、江戸時代の藩は金銭的に困窮する事もあり、今の赤字国債のような形で藩内でのみ流通する紙幣を発行したのです。いわば赤字藩債の保証書という物でした。
『忠臣蔵』というドラマを見ると、赤穂藩が断絶した時に民衆が一番心配した事がこの藩札についてでした。
藩の債務ということは藩が無くなればただの紙くずになります。ですからせめて額面の4割で換金するのが当時の通例でした(と忠臣蔵では語られます)。
これを赤穂藩家老の大石内蔵助は6割で換金した為に民衆に喜ばれたというのです。
でも、本来なら10割その物で使えないとおかしいですし、藩主の勝手な刃傷で断絶したなら藩士への分配金を減らしてでも10割換金が当たり前なのです。これが6割換金で凄いように見えるのは、「4割が通例」という忠臣蔵の世界での説明ですから、思いこみをさせる力は強いですね(笑)


さて、話は横道に逸れましたが、彦根藩の藩札は赤字藩債とは違う形の物でした。
元々“藩札”という表現そのものが間違っていて、彦根藩では“米札”という物でした。
写真を見ると“米壱升 代壱匁預”と書かれています。
これは「この札で、米一升=壱匁の価値があります」と言う事なのです。これで米や銀との引き換えが行われていました。

彦根藩では幕府に許可を得る形で、藩内での他の貨幣流通を禁止し米札のみを流通させていたのでした。
…とすれば、その為の両替商が藩内のどこかに存在した事となります。

この両替がどのような場所で、どのように、いくらくらいの比率で行われていたのか?
これから調べられれば面白いですよね。
コメント
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