文久4年(1864)2月12日、周防国別府浦で薩摩商船「加徳丸」が襲撃されました。
2ヶ月ほど前の12月24日に長州藩が薩摩藩の「長崎丸」を砲撃する長崎丸砲撃事件が関門海峡で起こり、薩摩藩の怒りを買っていたのですが、これを謝罪使派遣でどうにか治めていたのです。しかし長州藩士はこの謝罪使の派遣をよしとせず、長州藩義勇士隊が加徳丸を襲撃し、薩摩藩御用商人大谷忠之進を殺害して積み荷とも舟を焼き払ったのでした。
この二週間後の2月26日、大坂南御堂門前で、大谷の首が晒され、「長州藩を脱藩し、外国と交易する者を改心させるために大谷を殺害。ここで割腹する。永井清一 山本誠一郎」との斬奸状と二人の割腹遺体があったのです。
後年の調べで永井と山本は加徳丸事件に加わっていなかったことがわかっています。
長崎丸に続き加徳丸まで襲われたことで怒りをさらに拡大させた薩摩藩に対し、お宅の密貿易がこのような悲劇を生んだと示すために長州藩士が有志を募って永井がこれに応え、犯罪を犯していた山本を無理やり殺害して目立つ所に置いて世間の関心を買うことで、密貿易をしていた薩摩藩を追い詰めることに成功したのです。
2ヶ月ほど前の12月24日に長州藩が薩摩藩の「長崎丸」を砲撃する長崎丸砲撃事件が関門海峡で起こり、薩摩藩の怒りを買っていたのですが、これを謝罪使派遣でどうにか治めていたのです。しかし長州藩士はこの謝罪使の派遣をよしとせず、長州藩義勇士隊が加徳丸を襲撃し、薩摩藩御用商人大谷忠之進を殺害して積み荷とも舟を焼き払ったのでした。
この二週間後の2月26日、大坂南御堂門前で、大谷の首が晒され、「長州藩を脱藩し、外国と交易する者を改心させるために大谷を殺害。ここで割腹する。永井清一 山本誠一郎」との斬奸状と二人の割腹遺体があったのです。
後年の調べで永井と山本は加徳丸事件に加わっていなかったことがわかっています。
長崎丸に続き加徳丸まで襲われたことで怒りをさらに拡大させた薩摩藩に対し、お宅の密貿易がこのような悲劇を生んだと示すために長州藩士が有志を募って永井がこれに応え、犯罪を犯していた山本を無理やり殺害して目立つ所に置いて世間の関心を買うことで、密貿易をしていた薩摩藩を追い詰めることに成功したのです。