東山道(中山道)を京都に向かって進み、近江八幡を越えて源義経元服地とも言われている鏡の宿から峠を越えてすぐにあるのが平家終焉の地(平宗盛胴塚)です。
○義経元服遺構
元暦2年(1185)6月21日、壇ノ浦の戦いに敗れ、捕虜となっていた平宗盛が源義経によって処刑されました(38歳)
宗盛は清盛の三男。
本当は嫡男の重盛が後を継ぐ筈でしたが、重盛が清盛よりも先に亡くなってしまったために平家を継ぐこととなったのです。
はっきり言えば愛情深い凡将だった宗盛に源氏の脅威に晒されて滅び行く平家を支えるのは無理でした。
壇ノ浦の戦いでついに敗北と決まり、平家一門が海に身を投じる中、宗盛は入水してもすぐに浮き上がり沈めないままに源氏に捕獲されてしまったのです。
この時、息子の清宗も生け捕られたのです。
義経の看視下に置かれ、鎌倉まで護送される途中、腰越で止められた義経と共に無為の日々を過ごし、義経が京に帰る途中の近江国篠原で斬首されたのです。
義経は、宗盛親子の処刑を哀れに感じていたのですが、このまま京に連れて行くと平家残党に新たな動きを起こさせる可能性もあったためにその命を奪う必要がどうしても生じたのです。
それが、京まで一日で入れてしまうこの地域でした。
しかし、東山道のこの場所は鏡の宿という義経が元服を行った場所に近かった為、義経は東山道を進み、鏡の宿を超えてからしばらく進んだ場所で宗盛と清宗の首を斬ったのでした。
元服地を血で汚したくないという想いだったのかもしれませんが、僕自身はこの地を義経元服地と考えることに多少の疑問がありますが、それは別のお話です。
斬った首は近くの池で洗われ京で晒されてました。
この池は近年になり一度埋められましたが、大河ドラマ『平清盛』の頃に再現されたみたいです。
○蛙不鳴池
宗盛と清宗親子の胴は一緒に埋められたといわれています。
宗盛は亡くなる直前まで息子や部下の心配をしたそうです。
『平家物語』に代表されるような源平合戦を描いた物語で、後半の平家の件では涙を誘うシーンが多く記されています。これは滅びの悲しさもありますが、清盛全盛の時代に恋の歌を詠み、音楽を奏で、芸術を愛した公家として生きて来た若者たちが、馬に乗り、弓を引き、兵を指揮しながら鍛えられていない白い肌を血で染める姿に憐みを覚え、そして武士の覚悟を持って死んでいく様子に生き様を感じたからでしょう。
平宗盛も、世が世なら平家滅亡の激しい歴史に名前を残す事も無く、静かに人生を終えたんでしょうし、このような死に方は20代の時には想像もしていなかったのでしょうね。
江戸時代の観光ガイドブックである『近江名所図会』にはここの紹介が載っています。