王様の耳はロバの耳

横浜在住の偏屈爺が世の出来事、時折の事件、日々の話、読書や映画等に感想をもらし心の憂さを晴らす場所です

横浜の縄文時代

2005-10-14 08:50:09 | 社会
久しぶりに友人が来た すっかり太ったといわれた そうだろう ふた夏続きの猛暑動くのもいやだからビール飲みながらPCでHPサーフィンやブログ作り 健康に悪いから散歩しろと忠告される

そうだよな この二年で二キロも体重が増えた 友人宅の近くに良い所があるとさらわれるよう電車に乗り連れて行かれたのは地下鉄弘明寺駅 南警察の横の路地を曲がり住宅地の小道を入ると急に百段ほどの階段 踊り場ごとに一息入れ上り詰めると県立外語短大の脇 塀を巡って小さな開発住宅を抜けてもう一度高台を上ると標高50メートル磯子区岡村の丘の上そこが三殿台(さんとのだい)遺跡 縄文弥生古墳三代にわたる250ヶ所の住居後の発掘された所だ

2000坪ほどの平坦地に住居跡 写真は縄文時代の竪穴式住居の復元家屋 中は6坪ほど 何人住んでいたのかなー 入り口横の展示館には土器装飾品漁具などが並べてある 爺のお気に入りは猪の牙に丁寧に直径2ミリほどの穴をあけそれを連ねてネックレスにしたと思われる作品 鉄の錐など無い時にどうやってあんな小さい穴をあけたのだ大変な時間と労力と根気だ 感動した また土器の錘や軽石の浮き釣り針などがある 漁労をしていたのだ そういえば南の方に日石根岸製油所の煙突の先が目の前に見えた 突然思い出した 小学校入る前後 親に連れられ根岸湾に潮干狩りに来た 親子四人が半日でたらい一杯になるほどあさりや大きな蛤がとれた 遠浅の海で100メートルも沖に出ても子供のへそ位しか水が来ない 足の間を小魚がすいすい 縄文の頃はさぞかし豊漁であったであろう 貝塚あとが沢山あったとか(屏風ヶ浦貝塚約3500年前)昭和36年の発掘調査なので箱物はしっかり調査された様だが高台で泉や井戸は無さそう 水はどうしてたのかしら トイレは? お墓はどうだったのかなんて人がどう暮らしていたかは分からない でも稲作が伝わると平地の川筋で田んぼも作っていたようだ 隣の丘の谷あいは美空ひばりさんの実家があった所 帰りは坂道をだらだらと下ると地下鉄蒔田の駅前に出た ここで友と爺はお別れ 面白かった アディオスアミーゴ バヤコンディオス!
  
コメント
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