王様の耳はロバの耳

横浜在住の偏屈爺が世の出来事、時折の事件、日々の話、読書や映画等に感想をもらし心の憂さを晴らす場所です

靖国参拝と極東軍事裁判

2006-08-05 06:11:01 | 靖国関連
4月15日に安倍官房長官が靖国神社をお参りした事実 8月15日に小泉総理が靖国神社を参拝するのでないかとの観測 いよいよ季節も政治も熱い夏になってきた

さて8月1日に書き込めなかった極東国際軍事裁判の話です 難しい話は抜きにして極東裁判とか東京裁判と呼ばれる物の話です

極東裁判は開かれたのですがそれが「そもそも違法であるとか無効であるとか」はかなり長い事叫ばれています

極東裁判はポツダム宣言の受諾を受けて戦勝国による敗戦国の戦争犯罪人の(国際的)裁きの場です その結果を捉えて桜井よしこさんや自民党の稲田さんが強調するように極東裁判そのものが違法で「極東裁判は罪刑法定主義や不遡及の原則に反するとかサンフランシスコ(講和・平和)条約の題11条の解釈がとか最近ではjudemenntsの解釈に疑義とか発言するのは何だかなーと爺は思うのです
まづ初めに法曹家がその様な主張をする場は有るかも知れません 法理論としてその様な考え方があると思えば国際法廷で議論するやり方があるでしょう 或いは学術論として専門家の間で検証してゆくのも良いでしょう

しかし 現実的に見ればそれは喧嘩過ぎての棒千切りの様な物です
また近代法で言えばとの前口上を黄門様の印籠の様に使いますが、その頃の王様は彼の命令一下数万人から十数万人の兵隊が動員されていた頃の話であり「不遡及とか一事不再理」は彼の臣下や臣民が王様により過度の不都合に合わない様に考え出された法理であります 王に代わって国策を誤り2千数百万人の命を奪った者達には別の法理論が必要でありましょう

話を進める為、その法律が有効か無効かを抜きにして大東亜戦争を考えたときに日本だけで前線銃後330万人+の戦死者海外に1500万人~2000万人以上の戦死者を出した戦争が日本国民により道義的・文化的・宗教的・哲学的・歴史的或いは政治的に検討されその責任の所在を追及し、意思決定上の欠点を発見しその不具合を直すべく努力する必要があろう その検証は日本国内の問題であり日本人の今日にもつながる問題なのである 

それ故極東裁判の法律論はそのものが視野狭窄であるし総合的な考察にかける

次にA級戦犯についてです
GHQにより作成されたA級戦犯容疑者は110名に及びました
極東軍事裁判にかけられたものは28名です その内3名は訴追免除と病死をしていますのでA級戦犯の判決を受けた者は25名です
中でも以下の14名は最終的に靖国神社に祀られましたので俗に言うA級戦犯として通っています
1)死刑判決により絞首刑
東條英機 板垣征四郎 木村兵太郎 土肥原賢二 松井石根 武藤章 広田弘毅
2)終身刑により服役中に獄中で死亡
梅津美治郎 小磯国昭 平沼騏一郎 白鳥敏夫
3)禁固20年により服役中に獄中で死亡
東郷茂徳
4)その他、判決前に病のため病院にて死亡
永野修身 松岡洋右

この14名を巡って戦犯釈放に沿って無罪なのかあいまいな解釈で有罪なのかその他の法律論争があります
昭和27年(1952年)4月サンフランシスコ講和条約の発効により日本は敗戦による外国軍の占領状態から独立国に戻りました 国民は独立平和とはしゃぎたて(新聞に煽られ)ました 学校でも爺は米軍は進駐軍から駐留軍と呼び名が変わるなんて教えられた事が頭に隅に残っています

この機を捉え講和発効時で1224名(英霊に答える会-靖国資料では1860名)の戦犯釈放運動が起き国会では戦犯の釈放要求決議がなされます 昭和27年から30年に亘って述べ4000万人の「戦犯釈放要求」署名が集まる国民運動になっています 国会では衆議院議員社会党右派の堤ハルヨ氏の様に「戦犯の遺族は国家の補償も受けられないでいる。しかも、その英霊は國神社の中にさえも入れてもらえない!」と熱弁を振るい先頭に立ち活動された方々がいました
この間をウィキペディアからコピペすると:
昭和27年(1952年)6月9日「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、1952年12月9日「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」、1953年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が可決された。そして「恩給改正法」では受刑者本人の恩給支給期間に拘禁期間を通算すると規定され、1955年には「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」がされた。そして国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条の手続きにもとづき関係11ヶ国の同意を得て、A級戦犯は1956年に釈放された。(ウィキペディア)BC級戦犯の釈放は1958年になり釈放された(爺の追加)

ウィキペディアですから中立的に事実を書き連ねますが講和発効からA級戦犯釈放まで5年BC級戦犯釈放まで7年掛かっている つまりその間日本が決議しようと署名が何枚集まろうと米英国は戦犯の釈放に賛成しなかったのである

この間戦犯の遺族に対し遺族年金給付のため戦犯は「日本国内では犯罪人でない」との解釈基準が出来ます さらに戦死者の範囲の拡大や死刑死を公務死と呼んだりします 釈放が認められぬのにこの突出振り? 

国内では講和だ独立だと熱気に浮かされ「戦勝国による犯罪人は国内では無罪」との扱いとサンフランシクコ条約11条により1956年迄に戦犯全員が「釈放された」事で戦犯に戦争責任が無くなったのであろうか? 無くなった/いや責任ありとする人の間で極東裁判同様の論議がある

日本の国内の決議は一方的だし戦勝国も釈放に反対であれば何故釈放に際して戦犯の扱いに条件を付けなかったのであろうか

このあたりを法律論でなく戦後の東西冷戦構造の絡みで読み解いてみたい

昭和20年(1945年)8月日本の敗戦の後、それまで連合国であった米国とソ連の覇権争いは激しく欧州ではドイツ、アジアでは朝鮮半島、中国本土、そしてインドシナでつばぜり合い 銃を撃たないだけの戦いから米ソの冷戦と呼ばれた
日本もその例外でない 日本の分割占領に失敗したソ連は政治的占領を狙いデレビアンコ中将指揮下500名以上の要員を日本に送り込んできた 彼の部下イワン・コワレンコはシベリア抑留者の内20万人は洗脳し帰国後は日本共産党に入党させ親ソ化の尖兵とすると豪語した 戦後の労働争議、ゼネスト騒動はこの延長上に有る

昭和25年6月朝鮮戦争勃発 昭和28年7月停戦
戦後の不景気に喘いでいた日本は米軍の後方基地としての機能を果たす事で経済的に大いに潤い朝鮮特需等と呼ばれた
又米国の戦後の対日政策は当初リベラル色の強い面が見られたがソ連工作の進捗、朝鮮戦争により急速に右傾化する
昭和25年8月警察予備隊の発足 これは朝鮮へ出動する米軍の空白を埋めるべく治安部隊の創設で後日の自衛隊になる 昭和26年9月旧日米安保条約締結 アジアにおける反共防波堤として日本国の独立の為 昭和27年4月サンフランシスコ条約発効 日本を含む49カ国により署名された ソ連・ポーランド・チェコは参加したが署名しなかった
連合国対日理事会は解散 デレビアンコ中将以下のソ連要員の引き上げ 
この間吉田総理に対する南原東大総長の「全面講和論」対する総理の「曲学阿世」との痛罵
戦後の政治的日本の立場を理解できない者達に対する怒りの言葉である

日本独立と共にソ連の政略は社会党・共産党をして議会内で議席を獲得する闘争に切り替えられた 堤ハルヨ氏の真意がどこにあるか分らぬが国会議員としての議席を守る事は与野党緊急の課題であった
講和条約締結を以て吉田総理は引退するがその後の鳩山氏は「米国に対する防衛分担金の削減」を選挙公約にしてみたり「日ソ国交回復」で米国と日本の関係において一致して守るべき線を持っていなかった ために河野一郎の暴走を許し北方4島の一括返還に失敗し「ソ連と平和条約を結べず」失意の内に総理の座を降りた

連合国がA級戦犯釈放に応じたのはこの年である
話が長くなったのでここで終わる この後55年体制ができる
おサルの電車はおサルが運転しているのでなく柱の影で電気のスイッチを入れたり切ったりしているおじさんが運転しているのである この仕組みが分ると(子供の頃の)爺は視野が広くなった


参考
アメリカ下院は現在も「極東国際軍事裁判の決定、及び“人道に対する罪”を犯した個人に対して言い渡された有罪判決は有効」との立場を取っている(2005年7月14日決議)
あとがき:
突っ込みが足りない気がします TBあるいはコメントに触発され助けられ補強して行きます
  
コメント (14)
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