今回の「つぶや記」は、第1号「日本を愛したスパイのお話」の続編である。第1号と照らし合わせながら読んでいただきたいと思う。
篠田正浩監督最後の作品といわれる映画「スパイ・ゾルゲ」を観た。戦前コミンテルンの密命を帯びて日本に侵入し、スパイ活動に従事。特高警察に逮捕されたときも「もう日本には盗むべき機密は何もない」と言い放ち、傲然としていたその卓越した能力。その一方で、酒と女性をこよなく愛する、どこか人間臭い男、リヒアルト・ゾルゲを描いた映画である。(以下ネタバレ注意)
映画は、「もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になる」との有名な文句(「故郷」/魯迅)で始まり、「イマジン」の伴奏に乗せて歌詞の日本語訳が画面に流れるところで終わる印象的な作品である。
そこでは、ゾルゲが「ジョンソン」という変名で諜報活動をしていたこと、尾崎秀実が、当時特高をして「札付きの左翼」と言わしめた女性、アグネス・スメドレーの著作の翻訳を通じて彼女と親しくなり、自らが上海で見聞きしたことも含めて社会変革への希望を持ったこと、また無線技師クラウゼンと密会するゾルゲらの息詰まるような諜報活動なども描かれている。
私が最も印象的だったシーンは2つ。
ひとつは「君は何か隠しているのではないか?」と問いかける友人に対し、尾崎秀実が「僕は、何も隠していない。日本の国に背くことはあっても、日本国民に背くことは決してしないよ」と答えるシーン、もうひとつは、逮捕後、特高の取り調べでついにスパイ活動を自白したゾルゲが「私の人生は無駄だった」と吐き捨てるように言ったのに対し、エリート特高警察官が「君の人生は無駄ではなかった。君の行動が、ソビエトを救ったのだ。だから君の人生は無駄ではなかった」と答えるシーンである。
前者からは、国会の意思と「民意」がかけ離れたところで動いていく、ということが現代民主主義体制下においてすら頻繁にある中で(ちなみに現在もそう)、自由のない厳しい時代を生きながら自分の良心に従う「市民」としての尾崎の姿が伺えるし、後者からは、悲劇的な最後であってもひとつの思想、その思想を体現したひとつの国家のために死力を尽くした「共産主義者の生き様」としてのゾルゲを読みとることができるのである。尾崎も、ゾルゲも単なるスパイではなく、スパイを超えた共産主義者としての行動が随所に見られた、とするゾルゲ事件研究者らの見方は全く正しいと私は思っている。その意味で、彼らは野坂参三のような「共産主義者の顔をしたスパイ」とは対極にある。「手先」と「同志」は全然違うのだ。野坂が手先であるのに対し、彼らは同志だったといえるだろう。
ゾルゲに「君の人生は無駄ではなかった」と言った特高警察官のようなエリート臭のプンプンするタイプは、私が人間として好きになれないタイプであるが、それでもこのシーンには好感が持てた。ゾルゲと尾崎が処刑場の露と消えたのは、1944年11月7日…ロシア革命記念日だった。そしてこの日はまた、ゾルゲが命をかけて尽くした「労働者の王国」でスターリンが「大祖国戦争」(独ソ戦)の勝利宣言を行った日でもあった。
なぜ処刑が11月7日に行われたのかははっきり解明されていない。だが私は、「思想は違っても、ソ連のために尽くした2人に敬意を払い、当局がこの日に決定したのだろう」とする俗説が、なぜか最も信頼性があるように思えるのである。20世紀の社会は、今の社会とは違っていた。その時代、人々は対象こそ違え、何かしらの思想を信じ、信ずるもののために犠牲的精神で生きていたのだ。篠田監督が最初に記者会見したとき配られた資料の中にあったフレーズ…「夢があるから生きられる、理想があるから死ねる」は、疑いなくこの時代の支配的な死生観だったと私は理解している。だから、たとえ創作だったとしても、特高警察官のこの台詞は、当時の時代の空気を映すキーワードとしては悪くないと思う。
ところで、この映画「スパイ・ゾルゲ」は、特に「左」側からは教条的とも言える批判にさらされているそうである。聞き及ぶところによれば、「(2・26事件は自分の首を真綿で絞めるようなものだ、と青年将校らを批判する昭和天皇の描かれ方に関し)天皇はもっと反動的に描かなければならない」とか「(ベルリンの壁崩壊とレーニン像引き倒しシーンをエンディングに持ってきたことに対し)ゾルゲが命をかけて尽くしてきた国際共産主義運動の理念を歪めるものだ」と言ったような批判が出ているらしい。
しかし、私にはそうした批判はあまりにも皮相的で、教条主義的に見える。ソ連が健在だった頃、「社会主義芸術はすべからく階級的でなければならない」として政治性のない作品を作った文化人を攻撃する「おきまりの保守派」が党内に必ずいたものだが、まるでその時代の念仏を聞いているような気がしてくる。
「じゃあ何のために篠田はあのシーンをラストに持ってきたのか」…彼らは私に問うだろう。私はこう答える。「理想から出発しながら人間に対する抑圧の体制として人間の上にのしかかっていた“ソ連型社会主義”を批判するためにそうしたのだ」と…。
私がここで言うソ連型社会主義とは、「スターリン主義」とほぼ同じ意味だと考えていただいて構わない。スターリン主義とは聞き慣れない言葉だが、以下にご紹介する言葉を読めばお分かりいただけるだろう。
『私たちはみな、舞台裏では荒々しい党派闘争が続いていることを知っている。にもかかわらず、党の統一という見かけは、どんな代価を払ってでも保たれねばならない。本当はだれも支配的なイデオロギーなど信じていない。だれもがそこからシニカルな距離を保ち、また、そのイデオロギーをだれも信じていないということをだれもが知っている。それでもなお、人民が情熱的に社会主義を建設し、党を支持し、云々という見かけは、何が何でも維持されなければならないのだ』(「イデオロギーの崇高な対象」/スラヴォイ・ジジェク)
ジジェクは、この作品で「それゆえ、スターリニズムは大文字の他者の存在を示す存在論的な証拠として価値がある」と述べているが私はそのような立場に立つことはできない。映画では、ゾルゲのソ連における「師」であった赤軍のベルジン大将が、スターリンの監獄に閉じこめられ、「なぜだ!」と叫ぶシーンが出てくる。ナチス・ドイツの攻撃にただ怯えるだけだったスターリンをしり目に英雄的な働きをしたのは赤軍であったのに、その功労者のベルジンがなぜ囚われなければならないのか? ブハーリンは、トロツキーは、ルイコフやジノヴィエフら、最も革命に貢献した古参党員らはなぜ「労働者の王国」で処刑されなければならなかったのか? すべてはこの「党の統一という見かけ」のためだったのではないのか?
私は、篠田監督の批判の矛先が向けられているのは社会主義そのものではなく、この「党の統一という見かけ」のためには人命さえ平然と犠牲にするスターリン主義であったと思う。
そして、もうひとつ、スターリン主義がソ連という国家を通じて犯してきた重大な罪がある。それは、人類に理想を持つことがばかげたことであるという誤ったメッセージを発信してしまったことである。ソ連が崩壊した「あの日」以来、人類は理想を持てなくなった。理想について考えることさえ忌避する風潮をつくり出した。「それは理想論だね」という言葉は決して褒め言葉ではない。それが、机上の空論ばかりで現実を見ない者に対する侮蔑の言葉であるように、人類はいつしか、理想を唱える人間を忌避し、厄介者扱いし、ただ現実に流れる人間だけを礼賛する風潮につながっていったのではないだろうか?
ブッシュや小泉は、そうした「理想なき時代」が生み出した象徴的な指導者であるように思う。初めから理想を持たない指導者が唱える「改革」が中身を持たずカラッポなのは当然ではないか!
ベルリンの壁も、レーニン像の引き倒しも、全てこのスターリン主義を批判するために持ち出されたのだ。
篠田監督はこの映画の構想を10年近くかけて練ってきたと述べている。ソ連崩壊から現在に至るまでの世界史的な流れや思想的潮流まで視野に入れながらこの作品に深みを持たせようと奮闘してきた跡を、私ですら随所に見て取ることができるというのに、何年、いや何十年も活動家としてやってきた人から空虚な批判の声が出ていると聞くと、そのような皮相的なものの見方しかできないのかと私には残念に思えてくる。
繰り返しになるが、篠田監督は理想を否定などしていない。彼が、小泉首相のように「理想なんてどうでもいい。常識論で、強い者にシッポ振っていれば日本は安泰なのだからそうしていればいい」という思考の持ち主であるなら、どうして最後に「イマジン」など流すものか。「イマジン」は、究極の理想主義者のための歌である。その歌が「最後」に流れたところに意味がある。篠田監督は訴えたかったのだ。「今も昔も変わらぬ理想(別の言葉で言えば「普遍的価値」)というものがある。人類よ、理想を再興せよ」と…。
今年はイラク戦争という悲しい出来事があった。戦争は究極の人間否定であり、人間破壊の行為である。その行為が、何の理由も、何の証拠も、何の道義的根拠もなく行われ、全人類が指をくわえて眺めるしかなかったのはまさに悲劇というしかない。もしも「理想」というものを信じる社会的空気が少しでも人類社会にあったなら、こんなばかげた戦争は起こらなかったに違いない。人類社会における「理想不在」の影響はそれほどまでに深刻であり、だからこそ人類が理想を持てなくする原因を作った「ソ連型社会主義=スターリン主義」は徹底的な批判を受けなければならないのである。
しかし、イラク戦争開戦前夜から開戦初期にかけて、うち捨てられてきた理想を再興しようとする胎動が若者たちから始まった。多くの若者が街頭に出て反戦を叫び、歌った。それは、ひとりひとりが尊い存在である人間を殺すな、という当たり前の欲求であり、本来、理想でも何でもない。でもそれを理想の再興に向けた胎動と捉えなければならないほど、人類の道徳的退廃は深刻な状況を迎えているのである。
そんな時期に、夢のために生き、理想のために死んだ人間の生き様、死に様を見せる映画が公開されたのは極めて時宜にかなったものであると思う。劇場公開は大半が終わってしまったが、東宝という大手がバックについているだけにこの映画のビデオ化、DVD化は早いだろう。ぜひ皆さんにもこの映画を見て大いに考えていただきたいと思う。少なくとも何かの参考にはきっとなる映画であると思う。
この映画を見終わった後、私はたまたま東京にいるついでに、多磨霊園にあるゾルゲの墓にお参りをした。単身日本に渡り、ひとりで処刑されたゾルゲの遺骨は引き取り手もなく、無縁仏として埋葬されたが、後に有志の手によって立派な墓石が建てられている。
ゾルゲの墓は、なぜか外人墓地ではなく、日本人墓地の区画の一角にひっそりと立っていた。墓石にはロシア語でゾルゲの名とともに「ソ連邦英雄」と刻まれていた。
「ソ連邦英雄」は、本来軍人にしか与えられない名誉ある勲章である。
一度はスターリンによって「ラムゼイ機関」(ゾルゲたちの諜報グループの暗号名)ごと切り捨てられたゾルゲの、見事なまでの名誉回復だった。
(2003/8/2・特急たから)