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【鉄ちゃんのつぶや記 第42号】信楽高原鉄道事故から20年

2011-05-14 15:33:30 | 鉄道・公共交通/安全問題
 乗客42人が死亡した信楽高原鉄道事故から早いもので20年経った。事故の日である5月14日、追悼法要が甲賀市信楽町黄瀬の事故現場で営まれ、節目の年として、遺族が建立した「安全の鐘」が除幕された。鉄道関係者のほか、尼崎事故遺族、日航ジャンボ機墜落事故や2001年の明石花火大会事故の遺族ら約300人が参列し、犠牲者の冥福を祈りながら、悲劇を繰り返さないことを誓った。参列したJR西日本の佐々木隆之社長は、「信楽の事故を教訓に、安全対策を誓ったにもかかわらず、その後も大事故を起こしてしまったことをおわびします」とさすがに神妙な表情だったという。

 保安装置が正常に機能していれば決してあり得ない正面衝突という事態、くの字に折れ曲がったレールバスとJRディーゼル車(キハ58形)、そしていつまでも増え続ける犠牲者の名前に、当時、鉄道ファンとして再出発を始めたばかりの私は強い衝撃を受けた。同時に、当時、崩壊から再生への象徴と見られた第三セクター鉄道のレールバスの耐久性・安全性に、私が最初の疑問を抱いたのもこの事故だった。

 当時、1編成の列車が始発駅と終着駅を行き来するだけの全線1閉塞だった信楽高原鉄道に、行き違いのため小野谷信号場が設けられ、JRからの直通列車が運転された。それらはすべて、沿線で開催された世界陶芸祭のためだった。事故直後、救出された乗客から「小野谷信号場の出口にあった信号機が黄色(注意現示)だった」という、この事故の原因を探る上で決定的な証言が出たことを報道で知った。

 私はこの証言を聞いたとき、すぐにあり得ない事態だと思い、信号故障が事故原因ではないかとの直感を持った。駅の出口にある信号、つまり出発信号機が正常に作動しているのであれば、黄色(注意)が現示されるのは、次の2つの場合に限られる。

1.複線区間又はすれ違いのできる停車場間の線路が複数の閉塞区間に分割されている単線区間では、2つ先の閉塞区間に列車がいるとき

2.1以外の単線区間(つまり、すれ違いのできる停車場間の線路が1閉塞である単線区間)では、すぐ先のすれ違いが可能な停車場の場内信号機が赤(停止現示)であるとき

 全線が2閉塞しかなかった当時の信楽高原鉄道で1はどう考えてもあり得なかったし、衝突した2列車以外に走行中の列車がなかった当日の状況では、終点・信楽駅の場内信号機が赤、つまり2本ある信楽駅の線路が2本とも埋まった状態で信楽駅に向けて列車が走るという事態もあり得なかった。2の可能性も事実上なかったのである。

 この時点で、小野谷信号場の出発信号機が黄色(注意現示)であるべき2つの可能性は2つとも否定されたのだから、救出された乗客の証言が正しければ、信号故障を疑わざるを得ない状況だった。

 予想通り、事故原因は信号故障とされた。特定地方交通線(=赤字線)として信楽線を一度は切り捨てておきながら、世界陶芸祭で集客が見込まれるとなると、信号システムを改変させてまで信楽線への乗り入れを強行したJR西日本は厳しい批判にさらされた。乗客の感情、切り捨てられた信楽線沿線の住民感情、国鉄分割民営化から4年目で、まだ日本中に特定地方交通線廃止の記憶が生々しく残されていた当時の国民感情からすれば、そのような批判は当然だった。バブル経済による「地上げ」の進行などを背景に、儲けのためなら何をしてもいいという堕落した企業が厳しい批判にさらされていた時期でもあった。

 しかし、今から考えれば、JR西日本がこのとき取った事故への対応は、20年後の今日、まさに進行している福島原発事故で東京電力が取っている対応と同じお粗末なものであった。ひたすら情報隠し、ごまかしを続け、批判されると責任転嫁と形だけの謝罪を行うことで目の前の嵐をやり過ごし、そして嵐が過ぎたらすべてを忘却の彼方へと追いやって何ら改善への手を打つこともない。そしてそのツケは、2002年の東海道本線消防隊員ひき殺し事故、2005年に最悪の結末となった尼崎事故として現れるのだ。

 この事故から私たちは重要な教訓を読み取ることができる。企業であれ国家であれ、過ちを見つめる目を閉ざした者が輝かしい未来を約束される例はないということだ。東京電力も今のような対応を続けるなら、何年か後、さらに悲劇的結末によって迎えられるだろう。

 鉄道事故の犠牲者を自分たちで最後にしてほしいと願った犠牲者遺族の思いはかなえられなかった。だが、この事故が産み落としたものは悲劇だけではない。遺族たちの献身的活動によって鉄道安全推進会議(TASK)が結成され、その活動は航空事故調査委員会が航空・鉄道事故調査委員会(現・運輸安全委員会)に改組されるきっかけとなった。今では当たり前のようになっている常設の鉄道事故調査機関の裏には、輝かしい未来を一瞬にして打ち砕かれ、人生を強制的に打ち切られた犠牲者たちの悲劇がたくさん詰まっている。

 あれから20年後の今日、私たちはこの事故から学び、成長することができただろうか。福島原発の事故を見ていると、残念ながら否定的回答をせざるを得ない。むしろ、自己保身のためにその場その場をやり過ごす能力しか持ち合わせていない官僚主義的企業に社会運営を委ねるなら命がいくつあっても足りないという、深刻な社会崩壊の危機に瀕しているのが実態だ。

 問われているのは私たち自身ではないか――そんな思いを強くする。誰かに任せて事足れりとする態度ではもはや未来への扉を開くことはできない。遺族たちと同じ立場に私たち全員が立ち、20年間、彼らが歩んできたように歩む必要がある。「自己保身野郎どもは直ちに引っ込め! 今こそ我々にすべてを委ねよ!」と要求することが、今、私たちが進むべき唯一の道であることを、信楽の20年は教えている。

(2011/5/31・黒鉄 好)

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