10月27日から11月5日まで、経産省前で10日間にわたって続けられてきた女たちの100人座り込みが終わった。途中、デモあり、ヒューマンチェーン(人間の鎖)ありと盛りだくさんだった行動は様々な共感と反響を呼び、成功に終わったと総括してよいだろう。
私の目から見ると、この座り込み行動は開始前からその成功を約束されていた。妻が座り込みの事務局メンバーとして参加者受付担当をしていたのだが、福島県内からの参加者は開始直前に100人を突破、県外からの参加者に至っては10月初旬からすでに100人を大幅に超える状況にあったからである。もちろん、この手の運動は単に参加者が多いことをもって成功といえないことはご承知の通りである。烏合の衆はどれだけ規模が多くなっても烏合の衆に過ぎないし、単に数が多いことだけをもってあらゆる運動が成功するとしたら、加盟者800万人を擁する「連合」など今頃あらゆる争議で連戦連勝になっているはずだからである。実際には「連合」は結成の時がピークで、その後の20年はひたすら資本家に陣地を明け渡す後退の歴史でしかなかった。
私がこの運動の成功を確信していたのは、その参加者数もさることながら、組織第一、保身第一の男性主導の運動が持ち得なかったあらゆる要素…「手作り」「多様性」「正直さ・実直さ」「実行力」「勇気」といったものをすべて満たしていたからである。参加者たちは、100人いればそれこそ100通りの方法で様々に反原発をアピールした。すべてを自分たちで話し合いながら1から手作りで築き上げ、何ものをも恐れず、言ったことは必ず最後までやり通すという有言実行で信頼と共感と前進を勝ち取った。男性主導の運動にありがちな日和見主義や、やるといっておいてやらない「有言不実行のマニフェスト詐欺」や、「お前は○○派だろう、あっちに行け」などという見苦しい足の引っ張り合いなどみじんもなかった。
「座り込んだって結局何にも変わっていないではないか」と彼女たちに性急な結果を求める人がいるとしたらそれは誤りである。この国の弱肉強食化、新自由主義化と原発を並行するように推し進めてきた経産省。その目の前という、文字通り敵である支配権力のどてっ腹に穴を空けるように設けられた「出撃拠点」のテント村から、「とにかくここに来ればいろんな人がいていろんなことをやっていて、誰かが自分の話を聞いて共感し、支援してくれる」という状況を作り出したのだ。この打撃は支配層にとって、今後、ボディーブローのようにジワジワと効いてくるだろう(だからこそ、権力がこの状況をいつまでも放っておくとは思えないが)。
私は、事務局を務める妻を横目で見ながら、困った事態が起きたらいつでも馳せ参じようと思っていたが、結果として私が必要とされるような事態は最後まで起こらなかった。名簿を整理するためのエクセルの使い方を教えてほしいとか、経産省に提出する要請書の文面を書いてほしいだとか、そういった事務的な仕事を頼まれる場面はそれなりにあったが、運動そのものの大方針について意見を求められるような場面はついに最後までなかったのである。
「薬害肝炎訴訟のように、日本でもこれまで女性が前面に立った運動では全面勝利ばかりではないとしても、全面敗北というのはほとんど記憶にない。男が主導する運動より何倍も“勝率”がいいのだから、今回自分は表には出ずに黒子に徹する。これは、運動勝利のために我を捨てるべきという自分の考えによるもので別に逃げているわけではない」と私自身が宣言していたこともあるが、「お呼びでなかった」というのが正直なところだろう。妻によれば、事務局を担った女性たちは「チラシに福島を漢字で書くか、カタカナで書くか」といったような、第三者的には一見どうでもいいと思うようなことまでいちいち長時間議論して決めたのだという。私は、そうした民主主義的な作風を運動内部で維持できたからこそ実行段階でぶれずに行動することもできたと思っている。こうした議論は、何に対しても費用対効果(身も蓋もない言い方をすればカネと効率化)のような尺度でしか見ることができない男の論理からすれば一見、意思決定を遅らせるだけの無駄なもののように思えるが、意思決定段階できちんと議論して決めれば、実行段階で迷ったり再確認したりする必要がなくなるので、議論が長引くことによる遅れはそこで挽回できるのである。それに「千里の道も一歩から」ではないが、原子力村に典型的に見られるような巨大な腐敗も、最初は取るに足らないような小さな腐敗から始まるのだ。小さなすれ違いだからといって流してしまうのではなく、その場その場で話し合って解決していくこのコミュニケーションのあり方を、世の男たちはもっと見習うべきだと思うし、こうした民主主義的な作風は今後も必要なものとして、どんなに忙しくてもしっかりと維持すべきものだ。
私は、もう少し議論段階で方針決定に関与させてもらえるかと思っていたし、経産省が過去に何をしてきたかを座り込み参加者に知ってもらうため、時間に余裕があればあいさつをしたいと思い、A4で3枚にも及ぶ「演説原稿」まで用意していた。しかし、圧倒的な女性パワーの前にそうしたもくろみは砕け散った。結果的には「次から次へとやりたいことのアイデアがわいてきて、それらのやりたいことは全部(行動方針に)入れ、そして全部やりきった」(閉会集会での「ハイロアクション福島原発40年」・黒田節子さん)という総括がすべてだろう。私ごときがそれ以外に付け加えることは何もない。
誤解を恐れず言えば、今回、男たちは全くこの座り込み行動の方針決定から締め出されたのみならず、雑用、使い走りでもさせてもらえれば幸せ、という扱いだった。私はこれに対しては複雑な思いを持っている。ひとつは、男たちがこれまでさんざん女性を締め出して、ウソとヤラセと汚れた人脈の中でのなれ合いと、そしてカネと権力で意思決定を行ってきた結果がこの日本のぶざまな現実だということだ。男というだけで今回は「被告人席」だと考えるならば、方針決定への関与はおろか、女性たちが決めた方針に対してせいぜい「弁明」が許されれば良しとしなければならないであろう、ということ。もうひとつは、それでも自分は原子力村の汚れた住人たちとは違うのに、一緒にしないでほしいというある種の悔しさに近い感情である。しかし、この座り込み行動を取り仕切り、わずか1ヶ月あまりの期間で成功に導くような聡明な女性たちが、「彼ら」と「我々」との違いに気付かないほど愚かでないことはもちろん承知している。それは、私たち男性側が、真っ先に泊原発の再稼働を認めるような「女性知事」と、経産省前で座り込んでいる女性たちが同じでないことを知っているのと同様である。
奇しくも、福島県議会選挙への立候補を決めた佐々木慶子さんから「いい男とは手をつなぎたい」とのラブコールもあった(「レイバーネットTV」11月3日放送分)。世の男たちよ、下ばかり向いていないでいい男になろうではないか。次に何かやるときに、彼女たちから頼られ、使ってもらえるようないい男にみんなでなろう。何も難しいことを考える必要はない。「生きていくこと、新たな生命を生み出し育むこと、そしてその命をつないでいくこと」にどんな理屈や思想やイデオロギーが必要なのか。御用学者が並べる100億のごたくよりも「命を守りたい!」のひとことのほうに大義があることは明らかだ。
佐々木さんの言葉を借りれば「後始末のことも考えず暴走する」原子力村の汚れた住人たちには、この事態に陥ってもなお反省のかけらもないようだ。だが彼らはもうすぐ思い知ることになるだろう。“The hand that rocks the cradles rules the world.”(ゆりかごを揺らす手は世界を支配する)という英語のことわざもある。ゆりかごを揺らす女性たちの手を放射能で汚した者たちは、その最も偉大な手によって打ち砕かれるに違いない。