福島県に先はあるか(月刊「政経東北」誌6月号論説)
当ブログで何度か紹介してきた福島県の地方雑誌「政経東北」が、6月号の論説に当たる「巻頭言」で、またも刺激的な見出しを掲げた。すばり「福島県に先はあるか」だ。
同誌の名誉のために付け加えておくと、同誌は3.11後に「豹変」して福島県政批判をするようになったわけではない。バックナンバーをご覧いただければわかるが、福島県の児童生徒の学力の低下などを捉え、「県の教育政策の失敗」を批判する論調などは震災以前からあった。
当ブログ管理人は、3.11を挟んで福島県には2007年4月から2013年3月まで丸6年滞在した。その間、全国転勤であちこちの県に住みながら各地の地元行政を見、また付き合いもしてきた。福島県に今なお住んでいる人たちには大変申し訳ないが、やはり福島県政は、当ブログ管理人が見てきた歴代県政の中でも「最低ランク」に位置すると思う。
致命的なのは、とにかく県職員の「頭が固い」こと。ある問題の解決が迫られているとき、問題へアプローチする方法は1つではなく複数のルートがある。登山に例えるなら、山頂に至るルートは無数にあって、どのルートから登ろうとも山頂に到達できれば登頂は成功であり、それを疑う人はいない。だが、当ブログ管理人が仕事上付き合いのあった福島県職員は、問題へアプローチする際、1つのルート(しかも困難で決して得策とはいえないルート)しか想定せず、そこで解決に失敗すると「できません」「後はそちらで解決してください」などといわれるケースがままあった。他の都道府県職員なら、せめて「他の解決方法を模索してみます」程度のことは言うだろう。
そうした馬鹿げたことを多数経験させられた当ブログ管理人にとって、『教育以外でもスポーツ、芸術、文化、芸能など「県内にいたのでは先がない」と県外に出ていった人は数知れずいる』という「政権東北」6月号「巻頭言」には大いに同意できる。私の知る限りでも、国鉄が分割民営化されJRとなった際に不採用となった国労組合員らの裁判闘争を指導し、被解雇者1人500万円の和解金という勝利解決に導いた「国鉄闘争共闘会議」の二瓶久勝議長は福島県出身だし、保守・右翼陣営でも、鈴木邦男さん(右翼団体「一水会」顧問)、田母神俊雄・元航空幕僚長は福島県出身である。文化芸術に目を転じても、講談師の神田香織さん、TBS「サンデーモーニング」のキャスターとしておなじみの唐橋ユミさんなど、福島県出身で中央で活躍する人は数多い。6年間の短い滞在だったが、優秀な人ほど地元で活躍の場がないため、優秀な人から順に県外に流出していくという福島県の深刻な構造的課題が当ブログには見えてきたのだ。
そんな中、今年秋に福島県知事選が迫っている。同時期に行われる沖縄県知事選と並び、全国的に最も注目される自治体首長選のひとつになることは間違いない。原発事故を抱えた福島県は今「準非常事態」にあるが、現職の佐藤雄平知事は能力、識見、人望のどれをとっても「平時の県庁中間管理職」がやっとのレベルであり、器でないことは確かだ。さりとて県民が一致して推せる候補も見あたらず、候補者選びは難航を極めている。
『原発事故の影響が大きい福島県においては「県民が『先がある』と実感できるかどうか」が重要だ』と政経東北6月号「巻頭言」は指摘する。同感だ。福島県民の全員が福島県を脱出したいわけではないことは、先の「美味しんぼ」騒動の経過からも明らかだが、そうした福島県民にとっての最重要課題は「将来、健康被害が生じるかもしれない恐れがあってなお、周辺他県と比較して住み続けたいと思えるような県の将来展望が示されるかどうか」であり、それこそが県知事選の最大の焦点だろう。原発政策は、過去の選挙と同様全く焦点化しないと思う。
それでも福島県に残って復興のために頑張りたいと思う県民のためにも、除染などの公共事業のあり方は県知事選の争点として、県民みんなで考え直すべきではないか。効果も限定的で、県民の雇用対策のための一時しのぎとしての性格しか持たず、新たな産業を興すわけでもなければ産業構造の転換を促進するわけでもない除染に数兆円も投ずることは、おそらく、考えられる血税の使い方の中でも最悪の部類に属する(厳しい言い方をすれば税金を「ドブに捨てている」に近い)。こんなことに使う血税があるなら、土壌汚染に悩まされずに福島農業の再生につながる「野菜工場の整備拡充」や、民間研究者に任せきりになっている「家畜の放射線被曝の研究」などにカネを使う方がよほど効果的というものだろう。原発事故を「福島県にしかやれないことをやるチャンス」と捉えるくらいのバイタリティーがなければ、何事も立ちゆかないのではないだろうか。
福島県政からは、凝り固まった頭を解きほぐすような先進的な事業やアイデアは依然として全く聞こえてこない。「美味しんぼ」騒動が明らかにしたのは、ますます「ひとつの解」だけを正解として、それ以外はまるで邪教だとでも言わんばかりの硬直化した県政の姿である。福島県職員のどれだけがこのブログを見ているかわからないが、「若者や子どもを持つ母親が県を捨てて避難したのはいわれなき風評被害のせいだ」と泣き言を言う暇があったら、自分たちが「全国でも最低レベルの県政」だと自覚した方がいい。なにもかも原発のせい、風評のせい、東電のせいと「他の誰かのせい」にしているうちに、県の地盤沈下はこの3年間さらに進んだ。避難した母親の名誉のためにも当ブログは主張しなければならないが、彼女たちは何も好きこのんで避難したわけではなく、原発事故後の初動段階で県が彼女たちを適切にサポートできていたら、その何割かは県にとどまったかもしれない。鼻血などの健康被害もさることながら、その後の県や医師たちの冷たい姿勢に絶望して避難を決意した人たちも多くいたことを当ブログは知っている。
当ブログの見る限り、普通の福島県民はこの3年間、本当によく頑張ってきたと思うが、誤解を恐れず言えば、福島県民にとってこの3年間の最大の不幸は地震でも津波でも原発事故でもなく「この程度の県政しか持てなかったこと」にこそあるのではないだろうか。「美味しんぼ」を非難し、ナントカのひとつ覚えのように風評風評という前に、無能な福島県政にはやることがあるはずだ。「政経東北」誌の批判を、そのための貴重な提言と受け止められる度量がなければ、今度もまた、県政への信頼回復は難しいだろう。
当ブログで何度か紹介してきた福島県の地方雑誌「政経東北」が、6月号の論説に当たる「巻頭言」で、またも刺激的な見出しを掲げた。すばり「福島県に先はあるか」だ。
同誌の名誉のために付け加えておくと、同誌は3.11後に「豹変」して福島県政批判をするようになったわけではない。バックナンバーをご覧いただければわかるが、福島県の児童生徒の学力の低下などを捉え、「県の教育政策の失敗」を批判する論調などは震災以前からあった。
当ブログ管理人は、3.11を挟んで福島県には2007年4月から2013年3月まで丸6年滞在した。その間、全国転勤であちこちの県に住みながら各地の地元行政を見、また付き合いもしてきた。福島県に今なお住んでいる人たちには大変申し訳ないが、やはり福島県政は、当ブログ管理人が見てきた歴代県政の中でも「最低ランク」に位置すると思う。
致命的なのは、とにかく県職員の「頭が固い」こと。ある問題の解決が迫られているとき、問題へアプローチする方法は1つではなく複数のルートがある。登山に例えるなら、山頂に至るルートは無数にあって、どのルートから登ろうとも山頂に到達できれば登頂は成功であり、それを疑う人はいない。だが、当ブログ管理人が仕事上付き合いのあった福島県職員は、問題へアプローチする際、1つのルート(しかも困難で決して得策とはいえないルート)しか想定せず、そこで解決に失敗すると「できません」「後はそちらで解決してください」などといわれるケースがままあった。他の都道府県職員なら、せめて「他の解決方法を模索してみます」程度のことは言うだろう。
そうした馬鹿げたことを多数経験させられた当ブログ管理人にとって、『教育以外でもスポーツ、芸術、文化、芸能など「県内にいたのでは先がない」と県外に出ていった人は数知れずいる』という「政権東北」6月号「巻頭言」には大いに同意できる。私の知る限りでも、国鉄が分割民営化されJRとなった際に不採用となった国労組合員らの裁判闘争を指導し、被解雇者1人500万円の和解金という勝利解決に導いた「国鉄闘争共闘会議」の二瓶久勝議長は福島県出身だし、保守・右翼陣営でも、鈴木邦男さん(右翼団体「一水会」顧問)、田母神俊雄・元航空幕僚長は福島県出身である。文化芸術に目を転じても、講談師の神田香織さん、TBS「サンデーモーニング」のキャスターとしておなじみの唐橋ユミさんなど、福島県出身で中央で活躍する人は数多い。6年間の短い滞在だったが、優秀な人ほど地元で活躍の場がないため、優秀な人から順に県外に流出していくという福島県の深刻な構造的課題が当ブログには見えてきたのだ。
そんな中、今年秋に福島県知事選が迫っている。同時期に行われる沖縄県知事選と並び、全国的に最も注目される自治体首長選のひとつになることは間違いない。原発事故を抱えた福島県は今「準非常事態」にあるが、現職の佐藤雄平知事は能力、識見、人望のどれをとっても「平時の県庁中間管理職」がやっとのレベルであり、器でないことは確かだ。さりとて県民が一致して推せる候補も見あたらず、候補者選びは難航を極めている。
『原発事故の影響が大きい福島県においては「県民が『先がある』と実感できるかどうか」が重要だ』と政経東北6月号「巻頭言」は指摘する。同感だ。福島県民の全員が福島県を脱出したいわけではないことは、先の「美味しんぼ」騒動の経過からも明らかだが、そうした福島県民にとっての最重要課題は「将来、健康被害が生じるかもしれない恐れがあってなお、周辺他県と比較して住み続けたいと思えるような県の将来展望が示されるかどうか」であり、それこそが県知事選の最大の焦点だろう。原発政策は、過去の選挙と同様全く焦点化しないと思う。
それでも福島県に残って復興のために頑張りたいと思う県民のためにも、除染などの公共事業のあり方は県知事選の争点として、県民みんなで考え直すべきではないか。効果も限定的で、県民の雇用対策のための一時しのぎとしての性格しか持たず、新たな産業を興すわけでもなければ産業構造の転換を促進するわけでもない除染に数兆円も投ずることは、おそらく、考えられる血税の使い方の中でも最悪の部類に属する(厳しい言い方をすれば税金を「ドブに捨てている」に近い)。こんなことに使う血税があるなら、土壌汚染に悩まされずに福島農業の再生につながる「野菜工場の整備拡充」や、民間研究者に任せきりになっている「家畜の放射線被曝の研究」などにカネを使う方がよほど効果的というものだろう。原発事故を「福島県にしかやれないことをやるチャンス」と捉えるくらいのバイタリティーがなければ、何事も立ちゆかないのではないだろうか。
福島県政からは、凝り固まった頭を解きほぐすような先進的な事業やアイデアは依然として全く聞こえてこない。「美味しんぼ」騒動が明らかにしたのは、ますます「ひとつの解」だけを正解として、それ以外はまるで邪教だとでも言わんばかりの硬直化した県政の姿である。福島県職員のどれだけがこのブログを見ているかわからないが、「若者や子どもを持つ母親が県を捨てて避難したのはいわれなき風評被害のせいだ」と泣き言を言う暇があったら、自分たちが「全国でも最低レベルの県政」だと自覚した方がいい。なにもかも原発のせい、風評のせい、東電のせいと「他の誰かのせい」にしているうちに、県の地盤沈下はこの3年間さらに進んだ。避難した母親の名誉のためにも当ブログは主張しなければならないが、彼女たちは何も好きこのんで避難したわけではなく、原発事故後の初動段階で県が彼女たちを適切にサポートできていたら、その何割かは県にとどまったかもしれない。鼻血などの健康被害もさることながら、その後の県や医師たちの冷たい姿勢に絶望して避難を決意した人たちも多くいたことを当ブログは知っている。
当ブログの見る限り、普通の福島県民はこの3年間、本当によく頑張ってきたと思うが、誤解を恐れず言えば、福島県民にとってこの3年間の最大の不幸は地震でも津波でも原発事故でもなく「この程度の県政しか持てなかったこと」にこそあるのではないだろうか。「美味しんぼ」を非難し、ナントカのひとつ覚えのように風評風評という前に、無能な福島県政にはやることがあるはずだ。「政経東北」誌の批判を、そのための貴重な提言と受け止められる度量がなければ、今度もまた、県政への信頼回復は難しいだろう。