都市化と福島首都移転(中山幹夫さんのブログ「Approaches」)
最近は大手ニュースメディアの記事より個人ブログのほうがいい記事を書いていることが多くなった。この中山幹夫さん(神田外語大学)のブログの記事は、冷静な立場で今の「除染ブーム」に異を唱えるものとして注目したい。
福島県内、特に県庁所在地の福島市や主要都市の郡山市では、相変わらず放射線量が下がらないため、避難・疎開を求める声も根強いが、残念ながらその声は多数派を形成しているとはいい難い状況にある。避難は放射能からの住民の「隔離」であり、無用な被ばくを防ぐという住民防護の観点からは最も有効な解決策であるが、最大の問題点は「避難」が一時避難に終わらず、事実上の移住に近い状況を生み出すことにある。避難派も残留派もその点は理解していて、だからこそ地元行政は「避難などさせたら二度と彼らは福島に戻ってこない」として頑強な抵抗をしている。避難当事者にしても、避難が単なる一時避難ではなく移住だということを理解しているからこそ、「避難先での長期間の生活をどうしていくか」の解決策を持ち合わせず、結局は残留せざるを得ないのである。
実は、福島県内では6月くらいまで、避難を求める人と残留を希望する人の勢力は拮抗していた(残留派には高齢者や地元の名士が多いということと、声の大きい人が多いという意味で発言力は彼らのほうが大きかったが)。しかし、行政が県民のために何もせず、時間ばかりがいたずらに過ぎていく状況に見切りをつけて、避難できる人は早々に避難してしまったためこのバランスが崩れてしまった。
東北では冬に荷物を抱えて移動するのは大変なことなので、大規模な住居移転は冬を避ける傾向がある。年内に避難を考えている人がいるとしたら、冬が来る前の今の時期に集中するはずだが、街を車で走っていても、6~7月頃は毎日のように見かけた引っ越し業者のトラックも最近はほとんど見かけなくなった。どうやらいま福島に残留している人たちは、本当に移動する気がないか、避難したいながらも本当に経済的に困窮して当座の移動費も出せないかのどちらかのようなのである。
こうした中、7月頃から急速に除染の動きが出て、それはあっという間に福島県内の多数を占める残留派の心をしっかりと捉えた。事の発端は国会での児玉龍彦・東大アイソトープ研究所長の「怒りの告発」がきっかけで、これが避難一辺倒から「避難と除染の両輪」へ、そして「除染一本やり」への変化を形作ってきたように思う。ネット上には、児玉氏を「避難から除染に世論を誘導するために、反対派を装って政府側が送り込んだ鉄砲玉だ」という、いささか気の毒で一方的な見方も存在している。
政府や児玉氏の思惑がどうであれ、現実に避難できない/する気のない住民にとって、除染はまるで放射能をすべて消し去ってくれる魔法のように見えるのだろう。しかし、地元も学者もメディアもこぞって過大とも思える一大キャンペーンを張るほど除染は有効な手段なのだろうか?
その疑問に見事に応えてくれているのが冒頭の中山氏のブログである。彼のブログに対し、当ブログの付け加えるべきことは何もないというほど見事に当ブログの言いたかったことを代弁してくれている。
福島市内で、国際的環境団体・FoEJapanと福島老朽原発を考える会(フクロウの会)が共同で行った除染の実証実験がある。その結果は
「放射能汚染レベル調査結果報告書~渡利地域における除染の限界」として公表されているが、結論から言えば福島市渡利地区での除染に効果はほとんど見られなかった。四方を山に囲まれたすり鉢の底のような渡利地区は、少しばかりの除染をしても、雨が降るか風が吹くかすれば、どこからか新たな放射性物質が落ちてきて、線量は元に戻ってしまう。渡利地区の特殊性はあるのかもしれないが、一般的に除染は、
(1)高線量地域では効果がなく、低線量地域ほど効果が高い
(2)汚染が広範囲かつ面的に拡大している地域では効果がなく、汚染が狭い範囲かつスポット的なものである場合には効果が高い
・・・という傾向があることが既に明らかになっている。
つまり、除染というのはむしろ、首都圏のホットスポットのような場所、それも周辺は低線量なのに、子どもたちが遊ぶ公園の中のある一角だけ突出して線量が高い、というような場所でこそ効果をあげうるものだというべきだろう。福島市のように、汚染が面的に広がっているところでは、除染に効果は期待できないといってよい。
現実にそこに住民がいる以上、住民にとって被ばくを最少に減らせるベストの手法を採用する義務が行政にはある。本来ならそれは避難・疎開であるべきだが、福島市や国は、初めから避難したくないという住人がいるのを知った上で、あえてその人に意向調査をし、「ほら、住民だって残りたいといってるじゃないか」として渡利地区住民の避難の要求を却下するという、姑息で卑劣なやり方を使ってまで、頑なに避難を拒んでいる。
当ブログがこうしたやり方を卑劣だと思うのは、「住民の避難を拒む」という意思を実現するために、行政が残留派の住民を利用していることである。避難させる気がないなら「市としては特定避難勧奨地点への指定は必要と思わないので行わない」とはっきり言えばいいではないか。それなのに、残留派の住民を持ち出してきて避難派の住民と闘わせるこうしたやり方は、必ず住民間に亀裂を生む。「俺たちが避難させてもらえないのはあいつが残りたいと答えたからだ」ということになり、避難派の住民は意向調査に回答した残留派の住民に憎悪を募らせることになりかねないのだ。むしろ、何をやっても叩かれる地元行政・自治体が、自分たちを防衛するためにあえて積極的に住民間に亀裂を持ち込もうとしているようにさえ見えるのである。
なぜ、こうまでして地元自治体は住民の避難を拒み、除染に固執するのか。「住民がいなくなれば経済が崩壊する。地元経済界の「経済活動」を守るために住民の命を差し出しているのだ」という批判が、避難を求める住民からは聞こえてくる。もちろんそれも事実の一側面ではあるのだろう。でも、それも当を得た批判でないように当ブログには思えるのだ。
中山さんのブログは「除染の利権」を指摘する。「いつまでも続く除染に群がる利権が生まれる。苦労が振り出しに戻るから除染ビジネスはいつまでも続けることができる。たとえ無駄であっても住民に希望さえ持たせ続けていれば、いくらでも儲けることができる格好の除染利権だ。「住民のために避難より除染」は大嘘である。本当の理由は避難は儲からないが除染は儲かるからだ」と中山さんは看破する。
本当は当ブログが薄々感じながらも恐ろしくて口にできなかったことを、中山さんはさらりと指摘してくれた。もしこれが避難には目もくれず除染に固執する本当の理由だとするなら、「除染の効果はなければないほどよい」ということになる。全く転んでもただでは起きない恐るべき者たちだ。福島県民の命も踏み台にして、それでも自分たちさえ儲かればそれでいいということらしい。
除染が利権かどうかを見極める手っ取り早い方法を当ブログ読者だけにお教えしよう。簡単なことだ。除染事業を「誰が受注するか」を見ればいい。もし受注するのが東京電力の関連会社なら、それは完全な「原子力利権」と思っていい。受注するのが大手ゼネコンなら、それも利権だが、この場合は、利権の分捕り合戦において原子力村が一定の譲歩を強いられたことを意味する。除染が利権でないと断定できるのは、受注者がこのどちらでもない場合に事実上限られる。
除染をもしこれらの者が受注するなら、住民は除染に過大な期待などかけずにさっさと避難すべきである。チェルノブイリでも、最初の数年間は地元に残りたいという住民のため除染があちこちで行われたが、結局効果が出ず、3~4年も経ってから避難命令が出された地域もあったようだ。その間、住民は無駄な被ばくを強要され続けた。福島で同じ歴史が繰り返されようとしているように思われる。
しかし、考えてみれば除染が効果を上げ得ないのは当然のことだ。除染は放射性物質を減少させるのではなく単に移動するに過ぎないからだ。渡利地区で除染を始める始めるといいながら手つかずになっているのも、除染後の汚染残土の仮置き場が見つからないからである。人口20万人を擁し、人口密度も高い県庁所在地で汚染残土の仮置き場を見つけることは不可能に近い。しかも放射性物質の総量は、半減期以外の理由で減ることはない。除染がいかに「言うは易く、行うは難し」であるかはこれだけでも明らかだろう。
こんな言い方をしたら波紋を呼ぶかもしれないが、人の健康と命に関わることなので当ブログはそれでも言わなければならない。繰り返しになるが、除染というのは単なる放射性物質の移動に過ぎない。その意味では清掃と似ている。自宅を掃除すれば、自宅は確かにきれいになるが、それで出たゴミは処理場に運ばれるだけだ。単に自分の目の前からなくなったに過ぎないだけで、そのゴミは処理場が引き受けなければならない。
除染問題もそれと同じことである。除染が放射性物質を消し去ってくれる魔法であるかのように思っている人たちは物事の表面しか見ていない。自分の家を掃除し終え、そのゴミが処理場へ運ばれていくのを見て「きれいになったね」と言うだけの人である。そのゴミがどこに行き、どのように地球環境に影響を及ぼすかには関心がない、というより想像力が及ばない人たちだ。
FoEJapanをはじめ、環境保護運動に携わってきた人たちは、自分の家を掃除することよりも、ゴミがどこに運ばれどのように処理されるのか、そしてその処理方法が地球環境を守る上で適切かどうかのほうがはるかに重要だと常に考えてきた。だから、除染のバカバカしさを理解しているはずだし、放射能がれき問題にも早い段階で気がついたはずである。今頃になって、勉強の足りないメディアは放射能がれきを受け入れる自治体がないとか、首都圏のゴミ処理場が満杯でどうするのかなどと寝ぼけたことを言っているが、ゴミ問題をずっと追ってきた人たちにとってはそんなことはとうにわかっていたことである。たまたま、処理場に搬入されようとしているのが汚染がれきであったために、これまで隠されていたゴミ問題が表面化しただけのことであり、原発事故が起きる以前からゴミ問題は存在していたのだ。
渡利地区を避難のための「特定避難勧奨地点」に指定するよう求める住民と、除染でお茶を濁しながら避難は決して認めたくない行政との間では、今日も不毛な消耗戦が続いている。避難させろ→ダメだ→ダメな理由を説明しろ→住民は残りたいと言っている→それはお前らが残りたい住民だけに意向調査をしているからだ、俺たちは避難したいから指定しろ→避難させないとは言っていない→それならなぜダメか説明しろ→国の方針は除染だ→除染は効果がないと証明されている→それでもやらせてほしい→効果がないとわかっているのになぜ続けるのか、避難させろ→ダメだ→以降、振り出しに戻って繰り返し、というループで同じ議論がぐるぐる回っているだけである。そして、この終わりなきループ議論をしている間にも住民は被ばくを重ねていく。このままではいずれ健康被害は避けられないだろう。
結論。除染は福島を救わない。住民は避難すべきである。どうしても経済的、社会的事情があって避難できない人は、民間放射能測定所などを積極的に利用しながら、食品の放射線値を測定し、当面、内部被ばくだけは絶対に避けることが大切である。
仮に、年間被ばく量が1ミリシーベルトを越える地域を、すべて国の費用負担で除染するとしたら、その額は400兆円に達するという試算もある。これだけの費用を負担してなお、効果が上がるかどうかさえわからないのだ。現在でさえ日本の借金は1000兆円もある。この上400兆ものカネを費やし、効果が上がるならまだしも、効果がなかった場合、400兆をドブに捨てて借金で日本沈没ということにさえなりかねない。それは、原子力村のために日本が滅びるということを意味する。本当にそれでいいのか。それより避難をさせるべきではないのか。400兆ものカネがあれば、全被災者を避難させて、避難者全員に豪邸を建ててもまだお釣りが来るだろう。それで避難者の健康が守られれば、健康な避難者たちの力の下、新天地で新たな産業を興し、福島での経済損失も補うことができる。
避難と除染のどちらが正しいか、もはや言うまでもない。