学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

栃木県立博物館「改革と学問に生きた殿様 黒羽藩主 大関増業」

2010-10-11 20:56:14 | 展覧会感想
栃木県立博物館では、「改革と学問に生きた殿様 黒羽藩主 大関増業」展を開催しています。黒羽藩は、現在の栃木県大田原市辺りにあって、代々大関氏が治めていました。大関増業(おおぜき ますなり)は、江戸後期に大洲藩から養子に入り、黒羽藩の財政再建に取り組みつつ、国史や軍学、産業などの研究に没頭しました。増業は器用な人物で、甲冑のデザインも手がけるほど。「船手具足」と称する革を素材にした甲冑、裏地には輸入品の金唐革が施されており、とても斬新。こういう発想やデザイン感覚をどこで学んだのか、非常に気になるところです。

大関増業の藩政改革。財政難で苦しむ藩の経済状態を救うために、藩士たちに厳格な倹約と借上(給料の減額)を命じ、特産品の推進、水運の振興などで打開しようとします。ところが、藩主になって4年後には家臣たちから改革を疑問視する声が出始め、その後の黒羽城本丸火災事件の後始末の悪さから、とうとう隠退を迫られます。増業は隠退を受け入れ、彼は政治の表舞台から姿を消しました。

展覧会では「保守」の言葉が使われていますが、確かに黒羽藩の保守的な体制が、増業の改革を妨げていたようです。全国的に見ても稀有な例とのことですが、黒羽という土地は、大関氏が中世から江戸幕末に至るまで、ずっと治めていたそう。そのため、しだいに他の文物が入りにくい体制になっていった。それに増業の存在は藩主でありながら、実に不安定なものでした。そもそも増業が黒羽藩に養子に入った背景には、黒羽藩が大洲藩加藤家(増業の実家)からの持参金を得たかったためであるとか。しかも、増業は藩主として招かれたにも関わらず、彼の息子たちは跡継ぎにはなれない契約。代々続く黒羽藩の家臣たちから見れば、増業はあくまで一時的な「つなぎ」としか見られて居なかったのではないのでしょうか。増業の改革は、家臣たちにとっては期待していないことで、他家から来たのに黒羽を改革するとはやり過ぎである!と思われていたのかも…。

「改革」と気安く口に出来ても、実行することにはなかなか勇気が居る。黒羽藩という地方の小さな藩主が起こした改革。失敗はしたものの、増業の精神はとても高くあったことがわかりました。
コメント
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