(1)背景事情の分析 ~日本社会の「リスク社会」化~
(a)日本国内の、決して狭くはない一定の地域で、原発事故由来の放射線被曝が生じている。政府発表の外部放射線線量はそれを裏づける。<例>福島市在住の子どもの尿からもセシウムが検出されている。
(b)ただし、長期にわたる低線量被曝の健康影響がどの程度のものなのか、議論が分かれる。
(c)しかし、いずれにせよ、被曝事態は事実だ。
(d)放射線被曝という「目に見えない」リスクの増大をどう考えるか。・・・・ウルリッヒ・ベックによれば、1970年代以降に「産業社会」から転換した「リスク社会」は、「リスク発生の不可避性」「リスクの不可視・不可知性」「リスクの収束不能性」という特徴を有する。その最たるものが原発や放射線被曝の問題だ。
(e)日本社会は「リスク社会」化している。にもかかわらず、問題解決の仕組みが全くそれに対応していない。適応不全を起こしている。・・・・これが、今回の原発事故とそれに続く一連の出来事のなかで露わになった。
(f)これまでも不安(リスク)に対しては排除で対応してきた日本は、リスク社会への移行ができていない。【樫村愛子】・・・・が、今回の原発事故後の様相は単純ではなかった。人々は、必ずしも手に余るリスクの前に絶望し、手を拱いていたわけではなかった。自ら被曝の状況を計測し、その結果を共有し、複数の専門家の意見を参照しながら、自らの頭で判断し、自らの決断で行動を選択し始めている。<例>原発被災からの自主避難。
(g)危険社会への転換に伴う国家と住民との関わり方はどうあるべきか。シロかクロかを国家が決めて、、住民に対してそれを示す、という従来のあり方ではなく、「グレー」なものはそうであることを前提に、徹底的な情報開示と、それに基づく自己決定権の保障を基軸としたあり方を構想すること。それは、震災が顕在化させた「リスク社会」の実相を前提に、住民を統治の客体ではなく、真の意味での主体として承認する新しい住民と国家のあり方の提起ではないか。
(2)救済の客体ではなく権利の主体として
(a)「支援」という言葉を使ってきた。確かに、放射能汚染地の住民や被爆者のための社会的政策は必要だ。しかし、行政府による特別な施しを求めているのではない。避難する者も留まる者も、リスクを受容して故郷に戻る者も、皆等しく自分らしく人間らしく生きる権利を行使する主体なのだ。
(b)原発事故の放射能汚染により、避難、保養、防護など、被災者はこれまでと同じようには生きることができなくなった。しかし、それは人として他者と対等に、平等に生きる可能性を奪われたことを意味しない。
(c)困難の克服を被災者の自助努力に委ねることなく、人権保障の政策として行うことは、国家の責務だろう。原発を推進してきた国家であれば、なおのこと重い義務がある。
(d)原発事故被災者支援法は、そのための根拠となる法律にならねばならない。現在国会に諮られている法案は、個々人の権利を直接根拠づけるものではない点で、権利法と呼ぶ水準にはないが、権利の主体である被災者が、当事者としての運動を通して、「不断の努力」により育てていくものだ。
以上、中手聖一/河崎健一郎「日本版チェルノブイリ法の可能性と「避難する権利」」(「現代思想」2012年7月号)に拠る。
【参考】
【原発】「避難する権利」 ~原発事故がもたらした分断~
【原発】「避難する権利」の考え方に対する批判と反論
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(a)日本国内の、決して狭くはない一定の地域で、原発事故由来の放射線被曝が生じている。政府発表の外部放射線線量はそれを裏づける。<例>福島市在住の子どもの尿からもセシウムが検出されている。
(b)ただし、長期にわたる低線量被曝の健康影響がどの程度のものなのか、議論が分かれる。
(c)しかし、いずれにせよ、被曝事態は事実だ。
(d)放射線被曝という「目に見えない」リスクの増大をどう考えるか。・・・・ウルリッヒ・ベックによれば、1970年代以降に「産業社会」から転換した「リスク社会」は、「リスク発生の不可避性」「リスクの不可視・不可知性」「リスクの収束不能性」という特徴を有する。その最たるものが原発や放射線被曝の問題だ。
(e)日本社会は「リスク社会」化している。にもかかわらず、問題解決の仕組みが全くそれに対応していない。適応不全を起こしている。・・・・これが、今回の原発事故とそれに続く一連の出来事のなかで露わになった。
(f)これまでも不安(リスク)に対しては排除で対応してきた日本は、リスク社会への移行ができていない。【樫村愛子】・・・・が、今回の原発事故後の様相は単純ではなかった。人々は、必ずしも手に余るリスクの前に絶望し、手を拱いていたわけではなかった。自ら被曝の状況を計測し、その結果を共有し、複数の専門家の意見を参照しながら、自らの頭で判断し、自らの決断で行動を選択し始めている。<例>原発被災からの自主避難。
(g)危険社会への転換に伴う国家と住民との関わり方はどうあるべきか。シロかクロかを国家が決めて、、住民に対してそれを示す、という従来のあり方ではなく、「グレー」なものはそうであることを前提に、徹底的な情報開示と、それに基づく自己決定権の保障を基軸としたあり方を構想すること。それは、震災が顕在化させた「リスク社会」の実相を前提に、住民を統治の客体ではなく、真の意味での主体として承認する新しい住民と国家のあり方の提起ではないか。
(2)救済の客体ではなく権利の主体として
(a)「支援」という言葉を使ってきた。確かに、放射能汚染地の住民や被爆者のための社会的政策は必要だ。しかし、行政府による特別な施しを求めているのではない。避難する者も留まる者も、リスクを受容して故郷に戻る者も、皆等しく自分らしく人間らしく生きる権利を行使する主体なのだ。
(b)原発事故の放射能汚染により、避難、保養、防護など、被災者はこれまでと同じようには生きることができなくなった。しかし、それは人として他者と対等に、平等に生きる可能性を奪われたことを意味しない。
(c)困難の克服を被災者の自助努力に委ねることなく、人権保障の政策として行うことは、国家の責務だろう。原発を推進してきた国家であれば、なおのこと重い義務がある。
(d)原発事故被災者支援法は、そのための根拠となる法律にならねばならない。現在国会に諮られている法案は、個々人の権利を直接根拠づけるものではない点で、権利法と呼ぶ水準にはないが、権利の主体である被災者が、当事者としての運動を通して、「不断の努力」により育てていくものだ。
以上、中手聖一/河崎健一郎「日本版チェルノブイリ法の可能性と「避難する権利」」(「現代思想」2012年7月号)に拠る。
【参考】
【原発】「避難する権利」 ~原発事故がもたらした分断~
【原発】「避難する権利」の考え方に対する批判と反論
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