(1)当代きっての人気作家、今野敏は、かねてから一部に熱心な読者を獲得していたが、2006年に『隠蔽捜査』で第27回吉川英治文学新人賞を受賞し、さらに2008年に『果断 隠蔽捜査2』で第21回山本周五郎賞、第61回日本推理作家協会賞(長編および連作短編集部門)を受賞して以来、ファン層がぐんと広がった。
(2)空手道今野塾を主宰する今野は、武闘派であるとともに、筋金入りの反原発マンである。
彼は、1989年の参院選にミニ政党「原発のいらない人びと」から立候補した。その体験を踏まえ、「反原発や脱原発の言葉を聞くと、正直に言って、『今さらか』と思ってしまう」「20年以上も前に口を酸っぱくして言ったことを、またここで繰り返さなければならないことに、私は無力感を覚えている」「本当に、原発が安全だというのなら、東京湾に作ってみればいいのだ。電力会社にも、国にもどんな度胸はないだろう。そこに、原発の本質がある」と述べる【注1】。
(3)当然、作品にも反原発の姿勢が滲み出る。
例えば、入手しやすいところでは今野敏『潜入捜査 臨界』(実業之日本社文庫、2012)。初出は1994年で、作品の時代背景、社会情勢は1994年当時のままだ。1994年といえば、柏崎刈羽原発4号機が運転を開始した年だ。
本書では、愛知県を舞台に、反原発運動を暴力で排除する暴力団と主人公「佐伯涼」とが対決する。初期作品のせいか、ストーリーは比較的単純である。
しかし、「佐伯」の上司、「内村尚之・環境犯罪研究所長」の口を借りて表出する今野の危機感は、福島第一原発事故の後に読むと、実に生々しい。
ます、当時の原発に係る情報と、それに批判的な見解が読者に提供される。
細管が破損して放射能が漏れ出した事故に関する新聞記事 「日本で現在稼働中の原発43基のうち20基が、事故を起こした原発と同じ加水型で、毎年のように蒸気発生器の細管損傷が見つかっている」を評して「内村所長」は、情報操作だ、という。
<「そう。細管破損が大したことではないという印象を人々に与えようとするためのね。実際は恐ろしいものです。一歩間違えば、チェルノブイリの二の舞です。1993年5月、アメリカでは、同様の事故を起こした原子力発電所を閉鎖してしまいました。日本だから、地元の住民を騙し、世論を騙しながら、操業が続けられるのです」
「そういえば、いつだったか、細管が完全に切れちまったというので大騒ぎしたことがありましたね・・・・」
「1991年2月。美浜2号機の事故でした」>
「内村所長」は、作業員の労災認定にもふれる。
<「福島第一原子力発電所内で1979年11月から約11ヵ月間、原子炉内の配管腐食防止などの工事に従事した作業員がいました。3年後、慢性骨髄性白血病と診断され、88年に死亡しました。31歳でした。1991年12月、労災が認められました」>
<「静岡県の浜岡原子力発電所でも、保守・点検を行う関連会社の作業員が、同じく、慢性骨髄性白血病で91年に死亡しました。この件が労災認定申請されています。これまで、兵庫県で2名、同様の労災認定申請が出されています」>
だが、電力会社は反論している。
<「そう。原子炉等規制法などでは、放射線作業従事者の年間被曝量が50ミリ・シーベルト以下と決められているが、浜岡原子力発電所で死亡した作業員の場合、この値を超えていない--中部電力はそう主調しています」>
労災認定されるのは氷山の一角だ。労災どころか、いつ死んだかもわからない作業員が大勢いると言われている、と「内村所長」は付け足す。
<「原子力発電所はそれ自体が大掛かりなプラントですから、保守や整備にたいへんな手間と労力がかかります。いざ、故障が発見されると、技術者はその修理を行います。しかし故障に伴う面倒ごとを技術者が片づけるわけではありません。たいてい、日常の保守・点検は、下請けの関連会社がやっています。その関連会社は、放射能の危険を承知で作業員を送り込まなければならないのです。しかし、そうした労働力がたやすく見つかるはずはない・・・・。そこで、ある人々が活躍し始めるわけです」>
口入れ家業は、古くから暴力団の資金源だ。
<「あくまでも噂のレベルなのですが、原子力発電所が商業運転を開始して以来、職にあぶれた季節労働者や住所不定のアウトローたちが使い捨ての労働力として送り込まれてきたと言われています」>
日本のエネルギー産業は、そういう連中に支えられてきた側面があるのだ。かつての北海道や九州の炭坑では日常のことだった。そういう体質は、なかなか変わるものではない。
<「そう。炭坑では、落盤事故や塵肺。原子力発電所では、放射能障害。同じ歴史が繰り返されているのかもしれまsん。しかし、そうした非合法の手段を組み込まなければ機能しないシステムは、日本の真の近代化にとって決してプラスにならないのです」>
反原発は意味のないことだ、とも「内村所長」はいう。むろん、原発は必要なのだ、と言っているのではない。
<「逆ですよ。核燃料による発電など、本来必要ないのです。原発を作ろうというのは純粋に政治的問題です。つまり、利権の構造でしかありません。政府が作るといったものは、国民を殺してでも、国土を破壊してでも作るものです。成田空港がいい例です。だから、原子力発電所が必要でないという事実と、原発推進というのは別の次元のものです」>
身も蓋もない言い方だが、
<「事実ですよ。電力会社は、電気を売らねばならない。毎年、需要を増やさねばならないのです。その結果、電力が不足するという机上の試算が出てくるのです。役人は、そうした試算だけでものごとを判断し、政治家は、役人のいうことを鵜呑みにする。そして、商社、ゼネコン、地域政治家そろっての原子力発電推進の政策が出来上がる・・・・」>
これは、大飯原発再稼働の力学を簡潔に説明している。
(4)今野の主人公ないし中心人物は、肉体的な汗を信奉する人たちで、爽やかの一語に尽きる。
先年物故したディック・フランシス【注2】の主人公もいずれも爽やかで、(フランシスの場合は競馬、今野の場合は武道という)スポーツが作品に重要な位置を占める点でも今野作品と共通するのだが、彼我に背景となる歴史の厚みの落差を感じざるをえない。これはしかし、本稿の主題ではない。
【注1】「【原発】200人の著名人、脱原発を語る ~脱原発人名辞典~」
【注2】「ディック・フランシスを悼む ~フランシス小論~」「書評:『騎乗』」「書評:『出走』」
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(2)空手道今野塾を主宰する今野は、武闘派であるとともに、筋金入りの反原発マンである。
彼は、1989年の参院選にミニ政党「原発のいらない人びと」から立候補した。その体験を踏まえ、「反原発や脱原発の言葉を聞くと、正直に言って、『今さらか』と思ってしまう」「20年以上も前に口を酸っぱくして言ったことを、またここで繰り返さなければならないことに、私は無力感を覚えている」「本当に、原発が安全だというのなら、東京湾に作ってみればいいのだ。電力会社にも、国にもどんな度胸はないだろう。そこに、原発の本質がある」と述べる【注1】。
(3)当然、作品にも反原発の姿勢が滲み出る。
例えば、入手しやすいところでは今野敏『潜入捜査 臨界』(実業之日本社文庫、2012)。初出は1994年で、作品の時代背景、社会情勢は1994年当時のままだ。1994年といえば、柏崎刈羽原発4号機が運転を開始した年だ。
本書では、愛知県を舞台に、反原発運動を暴力で排除する暴力団と主人公「佐伯涼」とが対決する。初期作品のせいか、ストーリーは比較的単純である。
しかし、「佐伯」の上司、「内村尚之・環境犯罪研究所長」の口を借りて表出する今野の危機感は、福島第一原発事故の後に読むと、実に生々しい。
ます、当時の原発に係る情報と、それに批判的な見解が読者に提供される。
細管が破損して放射能が漏れ出した事故に関する新聞記事 「日本で現在稼働中の原発43基のうち20基が、事故を起こした原発と同じ加水型で、毎年のように蒸気発生器の細管損傷が見つかっている」を評して「内村所長」は、情報操作だ、という。
<「そう。細管破損が大したことではないという印象を人々に与えようとするためのね。実際は恐ろしいものです。一歩間違えば、チェルノブイリの二の舞です。1993年5月、アメリカでは、同様の事故を起こした原子力発電所を閉鎖してしまいました。日本だから、地元の住民を騙し、世論を騙しながら、操業が続けられるのです」
「そういえば、いつだったか、細管が完全に切れちまったというので大騒ぎしたことがありましたね・・・・」
「1991年2月。美浜2号機の事故でした」>
「内村所長」は、作業員の労災認定にもふれる。
<「福島第一原子力発電所内で1979年11月から約11ヵ月間、原子炉内の配管腐食防止などの工事に従事した作業員がいました。3年後、慢性骨髄性白血病と診断され、88年に死亡しました。31歳でした。1991年12月、労災が認められました」>
<「静岡県の浜岡原子力発電所でも、保守・点検を行う関連会社の作業員が、同じく、慢性骨髄性白血病で91年に死亡しました。この件が労災認定申請されています。これまで、兵庫県で2名、同様の労災認定申請が出されています」>
だが、電力会社は反論している。
<「そう。原子炉等規制法などでは、放射線作業従事者の年間被曝量が50ミリ・シーベルト以下と決められているが、浜岡原子力発電所で死亡した作業員の場合、この値を超えていない--中部電力はそう主調しています」>
労災認定されるのは氷山の一角だ。労災どころか、いつ死んだかもわからない作業員が大勢いると言われている、と「内村所長」は付け足す。
<「原子力発電所はそれ自体が大掛かりなプラントですから、保守や整備にたいへんな手間と労力がかかります。いざ、故障が発見されると、技術者はその修理を行います。しかし故障に伴う面倒ごとを技術者が片づけるわけではありません。たいてい、日常の保守・点検は、下請けの関連会社がやっています。その関連会社は、放射能の危険を承知で作業員を送り込まなければならないのです。しかし、そうした労働力がたやすく見つかるはずはない・・・・。そこで、ある人々が活躍し始めるわけです」>
口入れ家業は、古くから暴力団の資金源だ。
<「あくまでも噂のレベルなのですが、原子力発電所が商業運転を開始して以来、職にあぶれた季節労働者や住所不定のアウトローたちが使い捨ての労働力として送り込まれてきたと言われています」>
日本のエネルギー産業は、そういう連中に支えられてきた側面があるのだ。かつての北海道や九州の炭坑では日常のことだった。そういう体質は、なかなか変わるものではない。
<「そう。炭坑では、落盤事故や塵肺。原子力発電所では、放射能障害。同じ歴史が繰り返されているのかもしれまsん。しかし、そうした非合法の手段を組み込まなければ機能しないシステムは、日本の真の近代化にとって決してプラスにならないのです」>
反原発は意味のないことだ、とも「内村所長」はいう。むろん、原発は必要なのだ、と言っているのではない。
<「逆ですよ。核燃料による発電など、本来必要ないのです。原発を作ろうというのは純粋に政治的問題です。つまり、利権の構造でしかありません。政府が作るといったものは、国民を殺してでも、国土を破壊してでも作るものです。成田空港がいい例です。だから、原子力発電所が必要でないという事実と、原発推進というのは別の次元のものです」>
身も蓋もない言い方だが、
<「事実ですよ。電力会社は、電気を売らねばならない。毎年、需要を増やさねばならないのです。その結果、電力が不足するという机上の試算が出てくるのです。役人は、そうした試算だけでものごとを判断し、政治家は、役人のいうことを鵜呑みにする。そして、商社、ゼネコン、地域政治家そろっての原子力発電推進の政策が出来上がる・・・・」>
これは、大飯原発再稼働の力学を簡潔に説明している。
(4)今野の主人公ないし中心人物は、肉体的な汗を信奉する人たちで、爽やかの一語に尽きる。
先年物故したディック・フランシス【注2】の主人公もいずれも爽やかで、(フランシスの場合は競馬、今野の場合は武道という)スポーツが作品に重要な位置を占める点でも今野作品と共通するのだが、彼我に背景となる歴史の厚みの落差を感じざるをえない。これはしかし、本稿の主題ではない。
【注1】「【原発】200人の著名人、脱原発を語る ~脱原発人名辞典~」
【注2】「ディック・フランシスを悼む ~フランシス小論~」「書評:『騎乗』」「書評:『出走』」
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