(1)はじめに
(a)「脱原発」すると化石燃料をたくさん輸入する羽目になって企業が国際競争力を失う。だから原発を再稼働させよ。・・・・と「脱原発」批判者は、そう批判する。
(b)「脱原発」批判者を教唆扇動するように、2030年に原発をゼロにした場合にはGDPが2.3~15.3兆円減少する、という試算を経産省は発表している。
(c)しかし、これはマクロ経済学を知らない者の言い分だ。・・・・とマクロ経済学者は「脱原発」批判者を批判する。少なくとも小野善康・大阪大学フェローは、再生可能エネルギーという形で新しい産業を立ち上げることで、大きな景気浮揚策になる、という。
(2)「脱原発」の経済的効果
(a)「脱原発」は対立項を生む。自然エネルギーは安全だが、経済効率は悪い。そこで日本人は、①安心な生活をとって少々我慢するか、②経済優先で安全を犠牲にするか・・・・の2派に分かれている。
(b)だが、(a)は前提が間違っている。自然エネルギーは日本経済にとっていいものなのだ。
(c)マクロ経済で見ると、再生可能エネルギー導入の本当のコストは、必ずしもかかったお金ではない。日本全体で本当の意味でのコストは、それをやった場合に他の既存の経済活動を邪魔する分だ。
<例>今まで物を100個生産していたとして、新しいことをやるには20個分の生産力を新事業に回さなければならない場合、その20個分がコストだ。20個分に見合う額を払わなければ、そこで働いていた人を新事業に引っ張ってこれない。だからこそ、かかった金額がコストだと言える。
しかし、この論理が成立するには、20個分の労働力を再生可能エネルギー事業に回せば、その分他で生産が落ちること(生産能力が余っていないこと)が前提だ。ところが、現実の日本はずっと不況で、人も生産能力も余っている。その余っている生産能力を使えばいい。それなら既存の生産を犠牲にしないですむから、負担はゼロだ。
(d)要するに、失業者の存在、巨大な無駄の存在がカギだ。失業保険の支払い、社会保障によるケアを含め、社会全体でコストを支払っている。それに対してなにがしかの生産行為を提供するのは(何か役立つことに使えば)、必ずプラスになる。その生産行為が未来的な産業であればあるほど、いいに決まっている。
(3)電気代の上昇は必ずしも負担ではない。
(a)5円値上がりすれば、それは負担・・・・と考えがちだが、そう単純ではない。その5円は誰かが受け取っている。だから、払ったからといって、日本経済が貧しくなるわけではない。
(b)では何が起こるか。仮に、すべての製品に一律に電気コストがかかったとする。その一律値上がり分を価格に上乗せしたら、日本全体の物価が一定率で上がったのと同じだ。日本国内の全製品の相対的な価格は変わらないから、それらの相対的な売上げ比率も変わらない。だから、お金の実質的な量が減ったのと同じだ。
<例>10兆円あって、全製品の値段が倍になったら、値段が変わらないで、お金の量が半分の5兆円になるのと一緒だ。だから、物価の問題は、お金の総量が変わるのと同じだ。
(c)1990年代から、この20年間で、日本のお金の量は40兆円から110兆円まで増えたり減ったりしている。にもかかわらず、GDPは横ばいのままだ。お金の量が増減しても、みな物を買う量は変えていない。お金の量が多少前後しても、日本経済への影響はほとんどない。だから、エネルギーコスト分物価が上がっても、経済活動は変わらないはずだ。各製品の相対的価格が変わらないなら相対的な需要も同じだ。
(d)1980年代以前には、お金が増えればGDPも比例して上がっていた。だから、反対にお金が減ったら、経済は収斂するはずだ、という昔の感覚が今でも残っているから、エネルギーコスト負担で値段が上がったら景気が悪くなる、と言うのだ。
(4)物価が上がっても生活は苦しくならない。
(a)物価が上がったら生活は苦しくなる、という気分になるが、それでも、みな買う量を変えていない。そういうことで消費が減るなら、逆にお金の量を増やせば、みなの気分が上がって、どんどん需要を増やして景気がよくなるはずだ。日銀が紙幣をどんどん発行すればいい。しかし、そうしても全然効果がないということが過去20年間で証明されてしまった。だから、お金が問題ではない。
(b)経済の効率がよいか悪いかを判断する指標は、唯一その国の生産活動レベルだけだ。生産力を使っていないのだから、今は非効率だ。もっと使えるのだから、使おう。そうすれば日本人は幸せになれる。
(c)ところが、みなお金のことばかり考えていて、本来重要な生産活動そのものをおろそかにしている。本末転倒だ。だから不況が続いている。
(d)一般の家計で、収入は変わらないで物価が上がれば大変だと思う。それで物を買わなくなれば大変だ。しかし、そうなってはいない。作っては渡している量は減っていないから、生活水準は変わっていない。物価が上がって困った、というのは、結局、お金という何の役にも立たない虚構の紙をありがたがっている。守銭奴的気持ちのだけの問題だ。それが長期不況の原因だ。
(e)景気のよかった1960年代から1980年代は、物価が上がっていったのに、困った、とは言わなかった。お金を持つよりも物が欲しかった。物をどんどん買って、雇用も経済活動も拡大していった。それで生活水準も上がり続けた。
(f)要するに、エネルギーコストが上がるぐらいの変化は、我々の生活コストを抜本的に変えるものではない。むしろ、新しい産業を生むことが重要だ。これまで消費していた量は変わらないから生活の質は変わらず、それに加えて安全なエネルギーが入手できる。下がるのはお金の実質的な量だが、それはただの紙にすぎない。経済活動自体は再生可能エネルギーの分だけ増えて、雇用も拡大する。その規模は数十万人だ。今、日本全体で失業者が300万人以上いるが、50~60万人の雇用が生まれると、経済状況はがらりと変わる。雇用が増えて人余りがなくなれば、賃金も下がらなくなり、デフレが鈍化する。仕事に就くことが容易になって、安心感が広がる。この両方の効果で、物への購買意欲が膨らむ。だから、経済活動はますます活発になる。
(g)そんな波及効果を考えなくても、これだけ人余りの状況で再生可能エネルギーをやれば、他の生産から人手を奪わないで、再生可能エネルギーを入手できる。それだけでも十分だ。
(続く)
以上、小野善康(大阪大学フェロー)「「脱原発」は今もっとも効果の大きい経済政策である」(「SIGHT」2012年秋号)に拠る。
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(a)「脱原発」すると化石燃料をたくさん輸入する羽目になって企業が国際競争力を失う。だから原発を再稼働させよ。・・・・と「脱原発」批判者は、そう批判する。
(b)「脱原発」批判者を教唆扇動するように、2030年に原発をゼロにした場合にはGDPが2.3~15.3兆円減少する、という試算を経産省は発表している。
(c)しかし、これはマクロ経済学を知らない者の言い分だ。・・・・とマクロ経済学者は「脱原発」批判者を批判する。少なくとも小野善康・大阪大学フェローは、再生可能エネルギーという形で新しい産業を立ち上げることで、大きな景気浮揚策になる、という。
(2)「脱原発」の経済的効果
(a)「脱原発」は対立項を生む。自然エネルギーは安全だが、経済効率は悪い。そこで日本人は、①安心な生活をとって少々我慢するか、②経済優先で安全を犠牲にするか・・・・の2派に分かれている。
(b)だが、(a)は前提が間違っている。自然エネルギーは日本経済にとっていいものなのだ。
(c)マクロ経済で見ると、再生可能エネルギー導入の本当のコストは、必ずしもかかったお金ではない。日本全体で本当の意味でのコストは、それをやった場合に他の既存の経済活動を邪魔する分だ。
<例>今まで物を100個生産していたとして、新しいことをやるには20個分の生産力を新事業に回さなければならない場合、その20個分がコストだ。20個分に見合う額を払わなければ、そこで働いていた人を新事業に引っ張ってこれない。だからこそ、かかった金額がコストだと言える。
しかし、この論理が成立するには、20個分の労働力を再生可能エネルギー事業に回せば、その分他で生産が落ちること(生産能力が余っていないこと)が前提だ。ところが、現実の日本はずっと不況で、人も生産能力も余っている。その余っている生産能力を使えばいい。それなら既存の生産を犠牲にしないですむから、負担はゼロだ。
(d)要するに、失業者の存在、巨大な無駄の存在がカギだ。失業保険の支払い、社会保障によるケアを含め、社会全体でコストを支払っている。それに対してなにがしかの生産行為を提供するのは(何か役立つことに使えば)、必ずプラスになる。その生産行為が未来的な産業であればあるほど、いいに決まっている。
(3)電気代の上昇は必ずしも負担ではない。
(a)5円値上がりすれば、それは負担・・・・と考えがちだが、そう単純ではない。その5円は誰かが受け取っている。だから、払ったからといって、日本経済が貧しくなるわけではない。
(b)では何が起こるか。仮に、すべての製品に一律に電気コストがかかったとする。その一律値上がり分を価格に上乗せしたら、日本全体の物価が一定率で上がったのと同じだ。日本国内の全製品の相対的な価格は変わらないから、それらの相対的な売上げ比率も変わらない。だから、お金の実質的な量が減ったのと同じだ。
<例>10兆円あって、全製品の値段が倍になったら、値段が変わらないで、お金の量が半分の5兆円になるのと一緒だ。だから、物価の問題は、お金の総量が変わるのと同じだ。
(c)1990年代から、この20年間で、日本のお金の量は40兆円から110兆円まで増えたり減ったりしている。にもかかわらず、GDPは横ばいのままだ。お金の量が増減しても、みな物を買う量は変えていない。お金の量が多少前後しても、日本経済への影響はほとんどない。だから、エネルギーコスト分物価が上がっても、経済活動は変わらないはずだ。各製品の相対的価格が変わらないなら相対的な需要も同じだ。
(d)1980年代以前には、お金が増えればGDPも比例して上がっていた。だから、反対にお金が減ったら、経済は収斂するはずだ、という昔の感覚が今でも残っているから、エネルギーコスト負担で値段が上がったら景気が悪くなる、と言うのだ。
(4)物価が上がっても生活は苦しくならない。
(a)物価が上がったら生活は苦しくなる、という気分になるが、それでも、みな買う量を変えていない。そういうことで消費が減るなら、逆にお金の量を増やせば、みなの気分が上がって、どんどん需要を増やして景気がよくなるはずだ。日銀が紙幣をどんどん発行すればいい。しかし、そうしても全然効果がないということが過去20年間で証明されてしまった。だから、お金が問題ではない。
(b)経済の効率がよいか悪いかを判断する指標は、唯一その国の生産活動レベルだけだ。生産力を使っていないのだから、今は非効率だ。もっと使えるのだから、使おう。そうすれば日本人は幸せになれる。
(c)ところが、みなお金のことばかり考えていて、本来重要な生産活動そのものをおろそかにしている。本末転倒だ。だから不況が続いている。
(d)一般の家計で、収入は変わらないで物価が上がれば大変だと思う。それで物を買わなくなれば大変だ。しかし、そうなってはいない。作っては渡している量は減っていないから、生活水準は変わっていない。物価が上がって困った、というのは、結局、お金という何の役にも立たない虚構の紙をありがたがっている。守銭奴的気持ちのだけの問題だ。それが長期不況の原因だ。
(e)景気のよかった1960年代から1980年代は、物価が上がっていったのに、困った、とは言わなかった。お金を持つよりも物が欲しかった。物をどんどん買って、雇用も経済活動も拡大していった。それで生活水準も上がり続けた。
(f)要するに、エネルギーコストが上がるぐらいの変化は、我々の生活コストを抜本的に変えるものではない。むしろ、新しい産業を生むことが重要だ。これまで消費していた量は変わらないから生活の質は変わらず、それに加えて安全なエネルギーが入手できる。下がるのはお金の実質的な量だが、それはただの紙にすぎない。経済活動自体は再生可能エネルギーの分だけ増えて、雇用も拡大する。その規模は数十万人だ。今、日本全体で失業者が300万人以上いるが、50~60万人の雇用が生まれると、経済状況はがらりと変わる。雇用が増えて人余りがなくなれば、賃金も下がらなくなり、デフレが鈍化する。仕事に就くことが容易になって、安心感が広がる。この両方の効果で、物への購買意欲が膨らむ。だから、経済活動はますます活発になる。
(g)そんな波及効果を考えなくても、これだけ人余りの状況で再生可能エネルギーをやれば、他の生産から人手を奪わないで、再生可能エネルギーを入手できる。それだけでも十分だ。
(続く)
以上、小野善康(大阪大学フェロー)「「脱原発」は今もっとも効果の大きい経済政策である」(「SIGHT」2012年秋号)に拠る。
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