語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【酒井啓子】国際社会の最大の失敗とは何か ~中東・宗派対立の起源(6)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 (承前)

 9・11が残した最大の遺恨は、誰が「正しいか」を巡って命を賭ける殺人が是である、という認識ではあるまいか。その「正しさ」のなかでも「犠牲を受けた者だからこそ掲げることのできる正しさ」が、圧倒的な説得力を持って軍事行動を容認することになった。
  (a)9・11を実行した犯人とその組織の攻撃の犠牲になった米国は、絶対に「正しい」。だから、それらをかくまうアフガニスタンやイスラーム社会全体に対して、何をやってもよい。
  (b)フセイン政権下で犠牲になり続けてきたシーア派社会は絶対に「正しい」。だから、宗派色満載のシンボルが祖国を埋め尽くしても、かまわない。
  (c)シリア内戦でアサド政府軍やロシア軍の破壊的な攻撃の犠牲となるスンナ派の住民たちは、絶対的に「正しい」。だからジハードに身を投じてまでも、全世界のイスラーム教徒がISに馳せ参じる。

 9・11後の国際社会の最大の失敗は、その「正しさ」の横行に歯止めをかけられなかったことだ。「正しさ」の主張が乱立すること、「正しさ」が裏切られたときにそれを絶望のまま放置したことが、この15年間の国際社会の混迷を生んでいる。
 なぜアルカーイダが、ビンラーディンが、タリバーンが、9・11を「正しい」と主張するに至ったのか、なぜ彼らの「正しさ」が9・11に至るまでの過程で他の「正しさ」と折り合いをつけることができなかったのか。そうした根本的な問題は、15年経てもなお解明されていない。解明されていないから、それが再発することを予防する手立てを得られていない。
 その間に、「正しさ」を裏切られた人びとが、新たに自分たちだけの「正しさ」を見つけては、戦いを繰り広げていく。それを解きほぐす糸口はまだ見えない。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「国際社会の最大の失敗とは何か」
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 【参考】
【酒井啓子】湾岸地域内のパワーバランスの変化 ~中東・宗派対立の起源(5)~
【酒井啓子】対立のシンボルの増殖 ~中東・宗派対立の起源(4)~
【酒井啓子】蔓延する「わかりやすい二項対立」 ~中東・宗派対立の起源(3)~
【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~
【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~

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【酒井啓子】湾岸地域内のパワーバランスの変化 ~中東・宗派対立の起源(5)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 (承前)

 9・11後、ペルシャ湾岸地域内のパワーバランスが変化した。これが中東の「宗派対立」に決定的影響を与えた。
 米国の対中東政策は9・11までサウディなど親米湾岸アラブ産油国と協力して、イラン、イラクの両勢力を域内で封じ込めるというものだった。

 ところが9・11後、バランスが大きく変化する。アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、近隣の地域大国たるイランの役割が重要となった。イラク戦争後、イラクの政権がイランの影響の強いシーア派イスラーム主義政党に担われるようになり、内戦や対IS対策で治安上シーア派民兵の活動に依存せざるを得なくなると、ますます背後にあるイランを無視することができなくなった。

 逆に米国との関係がぎくしゃくしたのがサウディアラビアだ。ビンラーディン自身や9・11の実行犯の多くがサウディ国籍だったこと、湾岸アラブ産油国出身のISやアルカーイダとの資金的つながり、さらにはサウディの非民主的体制にもかかわらず米政権が協力関係を維持していることに疑問を抱く米世論などから、9・11以降の米・サウディ関係は緊張感を含んだものとなった。
 <例1>形式的であれ「アラブの春」の民主化を支持するオバマ政権は、バハレーンの反政府デモに介入したサウディなどGCC諸国に対して好意的な反応はしなかった。
 <例2>その2年後、シリア内戦においてシリア政府軍を攻撃する、といったん手を挙げながら軍事介入を取りやめた。シリア反政府勢力を支援してきた湾岸アラブ諸国には、オバマの心変わりは衝撃であった。
 特にサウディの神経を逆なでしているのが、米政権のイランとの接近だ。
 9・11後の湾岸地域の域内勢力のバランスの変化と、米国の中東政策の変化によって、サウディアラビアはイランとのむき出しの対立関係に晒されることになった。それが「宗派対立」の本質にある。つまり「宗派」というよりは、サウディアラビアとイランの域内覇権抗争、「中東新冷戦」が根幹にあるのだ。

 だが、冷戦が域内全体を巻き込むには、それぞれ自派の立場を正当化する論理が必要だ。そこで持ち出されるのが宗派だ。相手の宗派がいかに非愛国的で、対外従属的で、社会の連帯を破壊するものであり、秩序を乱すものか、を強調する。シーア派のイラン、イラクは、ISなどスンナ派の武装勢力を「タクフィール主義者」(他者を異端扱いする排外主義者)と非難する。一方でスンナ派諸国は、イランやイラクなどのシーア派政治家を「ターイフィーヤ」(宗派主義者)と非難する。
 換言すれば、シーア派はスンナ派を、自分たちを排除するものとみなし、スンナ派はシーア派を、共同体から分派して出ていこうとしているものとみなしている。双方とも相手をイスラーム共同体を破壊するものとみているのだ。
 つまり、シーア派対スンナ派という宗教的対立構造は、9・11以降大きく崩れた湾岸、ひいては中東全体の「共同体」をどちらが「正しく」代表しているかを競い合う、その正当化のために持ち出された論理だ。イランもサウディアラビアも、どちらも「正しさ」を打ち出すために宗派性を持ち出しているのだ。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「湾岸地域内のパワーバランスの変化」
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 【参考】
【酒井啓子】対立のシンボルの増殖 ~中東・宗派対立の起源(4)~
【酒井啓子】蔓延する「わかりやすい二項対立」 ~中東・宗派対立の起源(3)~
【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~
【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~
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【酒井啓子】対立のシンボルの増殖 ~中東・宗派対立の起源(4)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 (承前)

 シンボルは増殖する。シーア派的シンボルの圧力に圧倒されたスンナ派社会がシンボルとしたのは、ファッルージャという対米抵抗運動の街だった。
 イラク西部の都市ファッルージャでは住民のほとんどがスンナ派だが、フセイン政権時代に特段優遇されていたわけではなく、イラク戦争で敗北してもフセインと連座するという認識はほとんどなかった。
 しかし、イラク社会を宗派と民族で分けて考えるのが当たり前とする欧米の認識では、この街を親フセイン、反米の街とみなし、戦争直後から警戒心を抱いていた。その結果、いくつかの不幸な衝突、事故が積み重なり、駐留米軍に対する激しい抵抗運動の拠点と化したのだ。2004年に日本人5名が拉致された事件は、そうした流れの中で発生した。
 米軍の占領統治の失敗によって反米化し、繰り返し激しい掃討戦の対象となりながら、シーア派など他の地域住民からは同情を得られず、むしろ外国から流入した国際テロ組織によって抵抗運動が過激で暴力的な方向へと歪められていく。
 宗派的シンボルを前面に押し出すシーア派に対して、スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれた。イラク戦後、一貫して素朴な抵抗運動が弾圧と無理解に苦しめられてきた、というイメージがファッルージャという街に付きまとっていった。さらにファッルージャがイラク建国前夜の1920年に南部に発生した反英独立暴動に参加したという史実から、反英=反米=独立の志士というイメージがファッルージャに加わった。

 かくして、宗派的シンボルを前面に押し出す①シーア派に対して、②スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれたのだ。
 ここで重要なのは、①シーア派も②スンニ派も、自らの尊厳や権利や価値を主張する際の原点となるのが、自分たちがいかに犠牲になってきたか、犠牲の度合いということだ。①も②もいずれも自分たちのほうがいかに「イラク」という祖国を守るのに犠牲を重ねてきたかを競うのだ。
 ①シーア派社会・・・・7世紀にウマイヤ朝軍に殲滅された記憶を再生産してきた。フセイン政権下でいかに被害を受けてきたか、その犠牲者としての立場をシーア派の歴史に重ね合わせて、宗派的シンボルを惜しげもなく自己主張に使用する。
 ②スンナ派社会・・・・外国支配、植民地統治に抗するナショナリストとしての犠牲の大きさを語る。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「シンボルの増殖」
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 【参考】
【酒井啓子】蔓延する「わかりやすい二項対立」 ~中東・宗派対立の起源(3)~
【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~
【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~
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【酒井啓子】蔓延する「わかりやすい二項対立」 ~中東・宗派対立の起源(3)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 (承前)

 階層や不平等や格差といった対立の本質を捨象して、なぜ対立軸が「宗派」という形としてだけ残ったのか。そこには、シンボルに引きずられた9・11以降の政治の新しさがある。9・11後、「敵」と「味方」に世界を分断する「分かりやすい二項対立」が蔓延した。
 ブッシュ大統領の宣言、「我々につくか、やつらにつくか」。
 攻撃される自由世界の人びとと、攻撃する非民主的なテロリスト。犯人たちの属性である「イスラーム教徒」は十把一絡げに後者に分類された。
 実際には、歴史的に破壊と攻撃の被害者であり続けてきた中東の住民たちは、むしろ「これで米国も私たちの不安、恐怖を共通するのでは」と、米国社会との共振を期待した。にもかかわらず、中東の人びとが自分たちの「悲劇の象徴」を提示したところで、9・11と同列に扱ってもらうことができないばかりか、9・11の悲劇性に挑戦するものとみなされてしまった。

 同じことは2015年のパリでも起きた。「私はシャルリ」のハッシュタグ(1月)、トリコロールへの連帯表明(11月)は、似たような悲劇を経験しながら「シャルリ」や「トリコロール」を共有しないものを、連帯の広がりから排除した。共闘と団結を象徴するようなイメージ、画像、スローガンは「我々」と「他者」を切り分ける。9・11を契機に始まった「対テロ戦争」という二項対立の図式は、米国のみならず世界中で敵と味方を分け続けることになった。

 SNSなどネットによって簡単に世界中に広げる技術の進歩が、15年前のブッシュ発言とは比べものにならない勢いで、世界中に敵と味方を判別するラベルを溢れさせる。
 その中には宗教的なシンボルも含まれる。イラク戦争後、イラクでは社会経済的に劣位に置かれていたシーア派社会が一気にその宗派的アイデンティティを復活させ、シーア派の宗教儀礼や行事を復活させた。フセイン政権の転覆により、これまでの「持たざる者」の地位から抜け出し、新しい人生を歩むことができるんだ、という解放感が、シーア派儀礼の実践というアイデンティティの発露につながった。掲げられなかった旗、集まれなかった集会の復活に、数百万の人びとが集まった。

 だが、この掲げられる解放の象徴がシーア派にとってのみのイメージやスローガンや画像だったとき、非シーア派のスンナ派やキリスト教徒の人びとにとっては、統合や共感や連帯ではなく排除のシンボルとなる。それが最も鮮烈だったのが、2014年以降イラクで展開されたIS掃討作戦だった。
 2014年6月、イラクのモースルを制圧したISは、そこで国防にあたっていたイラク国軍のシーア派兵士を殺害した。ISは、シーア派は異端、イスラームに反するものとして死に値すると考える。そう断罪されたシーア派にとって、ISは断固撃滅されなければならないものとなる。ティクリートやアンバール県など、ISに制圧された地域に対してイラク軍が軍事作戦を展開する際、動員されたシーア派中心の部隊(人民動員組織)は、シーア派儀礼で繰り返されるイマーム賛美の掛け声「ヤー、アリー」などを叫びながら突入した。その露骨な宗派性は、非シーア派にとっては「祖国防衛」を共有するものではなく、むしろあからさまな「他者」の表明だった。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「蔓延する「わかりやすい二項対立」」
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 【参考】
【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~
【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~
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【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 (承前)

 9・11はさまざまな問題を惹起した。その一つが、宗派的対立とみなされる今の中東における暴力的衝突だ。
 2006年からほぼ2年間イラクで繰り広げられた内戦では、名前を名乗っただけで出身宗派を推測されて拉致、殺害されたり、他宗派の民兵から立ち退きを強要する脅迫状を受け取ったりといった出来事は日常茶飯事であった。
  (a)2011年に発生したバハレーン版「アラブの春」では、反政府抗議運動として始まったデモは、シーア派による反王政活動とみなされてシーア派活動家の弾圧に繋がった。
  (b)連動して活動を活発化させたサウディアラビア東部のシーア派社会に対して、サウディ政府はその中心的宗教指導者ニムル・アルニムル師を2016年1月に処刑した。
  (c)2011年から始まったシリア内戦では、アサド政権の強権的支配はいつの間にかアラウィー派=シーア派の少数支配と読み替えられ、政権側にイラン、イラクが支援し、反政府側にはトルコ、サウディアラビアなどの湾岸諸国が支援する「中東の新冷戦」(グレゴリー・ゴーズ)ともいうべき事態に至っている。

 なぜ「宗派」は突然対立の火種になったのだろうか? それは本当に宗派対立なのだろうか?
 湾岸戦争後、英米に結集した反政府勢力が仮に設定した
   「イラク政治を構成する三要素=①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族」
という三区分の枠組みがある。湾岸戦争後に国際社会がポスト・フセイン体制を模索し始めたとき、アイデアとして提示されたのが宗派別に政治代表制を分ける方式だった。
 宗派をベースにした権力構造は、今や、戦後イラク政治のなかにしっかりと定着してしまった。

 戦後のイラクに駐留した米軍のなかには、むしろ本質は宗派的対立ではない、と見抜く識者が登場した。内戦の最前線、シーア派イスラーム主義武装勢力のマフディ軍が首都東部で陣地拡大を繰り広げる過程を経験し、研究対象とした研究者に、ニコラス・クロフリーがいる。彼は、2015年に出版した『マフディ軍の死』(未邦訳)で、シーア派イスラーム主義政党が人びとに支持され勢力を拡大するのは宗派の問題ではない。中央・地方間の格差の問題だ、と指摘する。
 イラクや中東で対立はあってもその本質は宗派ではなく社会格差、階層間の対立なのだ、との主張だ。

 確かに従来から、イラクやレバノン、湾岸諸国で宗派的差別はあり、政治社会的マイノリティとされたシーア派社会は、いずれの国でも社会経済的に劣位に置かれてきた。しかし、それは宗派としての差別というより、宗派社会を取り巻く政治経済的環境によって、歴史的に積み重ねられてきた結果であった。
 その結果、イラクでは南部と都市においてシーア派貧困層が生まれた。食い詰めた南部の農村を捨て、都市に流れ込んでスラムを形成したシーア派住民が今のサドル潮流のベースにある。歴代の政権は貧しいシーア派の若者の異議申し立てを、シーア派としての反発というより持たざる者としての反発とみなし、教育政策や社会経済政策で対処してきた。そこでは富裕層への羨望や下層社会への蔑視が宗派対立に見える衝突を生むことはあったが、その対立を説明し政治へと結びつけるのは宗教政党ではなく、左翼政党だった。現在サドル潮流の支持基盤の核となっているサドル・シティ(旧サウラ地区)は、1970年代後半までイラク共産党の牙城だった。

 問題は、このような対立を生む「宗派」以外の要素が、対立を分析するうえですっかり抜け落ちてしまい、宗派を前提とした対策しか講じられないことだ。本来、雇用や生活水準の向上などを通じて社会経済的平等を図ることが求められているのに、宗派や民族のポスト配分でしか対処方法を考えられない。イラク人識者の多くが「宗派対立は欧米が持ち込んだ」と主張するが、それをより正確に換言すれば、宗派以外の要素を捨象して、すべて宗派や民族などのわかりやすい対立へと矮小化したのが欧米流だったということだ。
 そのことは、湾岸戦争後、英米在住の亡命イラク人たちが確立した「①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族という三区分の枠組み」が、当時とイラク戦争後でいかに変質したかを見れば明らかだ。
 1990年代前半から亡命イラク人の間で、フセイン政権後は①、②、③の集団指導体制でやっていくしかないという認識が生まれていた。しかし、そこで実際に選ばれた「宗派・民族」代表には、別の側面もあった。②のムハンマド・バハルウルームが宗教界を、③のマスウード・バルザーニがクルド民族運動を代表する一方で、①のハサン・ナキーブは元バアス党反主流派で軍将校だった。つまり、各「宗派・民族」代表という意味とは別に、
   「①世俗的ナショナリスト軍人、②宗教界、③自治を求める民族マイノリティ」
という、イラク近現代史を彩っていた主要な政治潮流がこの三人に代表されたのだ。
 しかし、9・11後、イラクへの戦争を急ぐ米政権の発想から「三つの区分」に政治潮流を代表させるという要素が消えた。米国は、フセイン後のイラクの青写真を十分描かないうちに、イラクの軍事攻撃を決断した。戦後の準備のない軍事攻撃は、旧軍、旧与党たる世俗ナショナリスト勢力の追放につながり、戦後イラクの「三つの区分」に含まれるはずだった「③世俗ナショナリスト軍人」の要素が消えた。その結果、「スンナ派だったら誰でもいい」的な、宗教的要素を形だけ維持した「宗派・民族区分」が独り歩きしてしまったのだ。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「これは宗派対立なのか?」
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【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~
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【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~

2016年09月20日 | 批評・思想
 9・11から15年。9・11とその後の国際政治の展開は、あまりにも多くのパンドラの箱を開けすぎて、もはや何が変わり、何が当たり前のことだったのかすら、わからなくなってしまった。
 たとえば、テロの増大。2004年以降、中東でのテロ件数が右肩上がりのまま下がらなくなった。
 あるいは、暴力が宗教性を纏うと同時に、「宗派対立」もまた、当たり前のように語られるようになった。
  (a)2003年のイラク戦争以降、スンナ派とシーア派に大別されるイスラームの宗派が、暴力的衝突の原因として前面に出てくる。
  (b)2006年2月、イラク中北部にあるシーア派の聖地サマッラーの聖廟が爆破されたことを契機に、イラクではどの宗派に属するかを巡って殺しあいが始まった。

 強権政治による抑圧があったとはいえ、イラク戦争以前のフセイン政権のものとでは、宗派を理由にイラク人同士が戦い合うことはほとんどなかった。それが一挙に内戦ともいえる宗派抗争へと発展したことに、一番衝撃を受けたのは当のイラク人たちだ。
 次々に宗派テロが発生した。極めつけが「イスラム国」だシーア派を「異端」として徹底した殺戮を是とするIS。ISの侵略から祖国防衛を謳いつつ、「シーア派性」を前面に押し出す対IS掃討部隊。

 かくしてイラクでは、内戦開始から10年の月日を経て、今や宗派的対立は当たり前のものとみなされ、それを前提に政治が組み立てられるようになった。
 テロ、宗教的暴力、宗派対立。これらはイラク戦争、アフガニスタン戦争、さらにはイラクとシリアでの内戦とISの出現によって加速度的に増大したものだ。イラク戦争がなければISは出現しなかったし、イラクでフセイン政権が倒れてシーア派イスラーム主義政党が政権をとらなければ、シリア内戦がイラン、イラクとサウディアラビア、トルコなど周辺国の間での代理戦争と化すこともなかった。
 だが、その出発点にあるのは9・11である。9・11がなければ、イラク戦争もアフガニスタン戦争もなかった。9・11とその後の戦争こそが、現在に至るまでの中東での内戦とテロの増大と拡散を生んだ。底が抜けたような暴力のエスカレートは、ヨーロッパや東南アジアへと、世界全体を巻き込んで広がった。それが、9・11が開けたパンドラの箱だ。

□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)の「9・11が空けたパンドラの箱」
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