生の大根は、細切りにした大根サラダでは辛くないが、大根おろしにすると辛くなる。
おろすことによって大根の細胞がこわされ、酵素が出てくるからだ。
辛みの成分は、おろす前は糖と結合して配糖体という化合物になっている。この状態では辛く感じることはない。おろしたときに出てくる酵素が、糖との結合を切ることによって、初めて辛くなる。ワサビをおろすと辛くなるのも、同じような原理による。
おろした直後より、糖との結合が十分に切れた7~8分後が一番辛くなる。
大根の辛味の成分は気化しやすく、おろしてから20分も経つと抜けてしまう。
だから、辛味がほしいと思ったら、食べる7~8分前におろすのがベストなのだ。
□竹内均(東大名誉教授)・編『時間を忘れるほど面白い 雑学の本』(三笠書房(知的生き方文庫)、2011)の「ダイコンは、なぜおろした途端に辛くなるの?」
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おろすことによって大根の細胞がこわされ、酵素が出てくるからだ。
辛みの成分は、おろす前は糖と結合して配糖体という化合物になっている。この状態では辛く感じることはない。おろしたときに出てくる酵素が、糖との結合を切ることによって、初めて辛くなる。ワサビをおろすと辛くなるのも、同じような原理による。
おろした直後より、糖との結合が十分に切れた7~8分後が一番辛くなる。
大根の辛味の成分は気化しやすく、おろしてから20分も経つと抜けてしまう。
だから、辛味がほしいと思ったら、食べる7~8分前におろすのがベストなのだ。
□竹内均(東大名誉教授)・編『時間を忘れるほど面白い 雑学の本』(三笠書房(知的生き方文庫)、2011)の「ダイコンは、なぜおろした途端に辛くなるの?」
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(1)性悪説のピケティと性善説の河上肇
①河上肇『貧乏物語』も②トマ・ピケティ『21世紀の資本論』も、「絶対的貧困」を再分配(富裕層に集中する富を貧困層に移すこと)によって解決しようとしている点で共通している。
違う点がある。①は性善説に立ち、自覚した富裕層が良心に従い再分配を行う主体となるとした。
②は性悪説に立つ。資本家が自発的な再分配を行うとは考えず、分配の主体を国家(官僚)とした。累進的な所得税、相続税に加え、資本税の導入も唱える。さらにグローバル化に対応するために、超国家的な徴税機関の創設も視野に入れる。
②の議論に従えば、強力な国家と多大な権限を持った官僚群が資本家を抑えるという、イタリアのファシズムに親和的なモデルになる。国家が加速度をつけて肥大していく可能性が高い。
(2)働いても貧乏から脱出できない--『貧乏物語』(上編)解説
テーマは、どれほど貧乏があるか、貧乏はなぜよくないか、だ。「貧乏」には三つの意味がある。
①他の誰かよりも貧乏な人。
②生活保護などの公的扶助を受けている人。
③身体を自然に発達させ維持するのに必要なものすらも十分に得られない人。
『貧乏物語』でいう貧乏は、基本的には③を指す(絶対評価の貧乏)。ただ、ほんとうは「身体」を維持できるだけの所得では足りないと考えている。現代の生存権の思想につながる。
その上で「貧乏線」を定義する。一人の人間が生きていくのに必要な栄養を摂取できる最低限の食費に、被服費、住居費、燃料費、その他の雑費を計算して合計したものだ。貧乏人とは、次の二つを合わせたものだ。
(a)貧乏線より下にある人
(b)貧乏線の真上に乗っている人
(b)は、ふだんはどうにか生活が回っているように見えても「溜め」がまったくないので、身体の健康を維持する以外の出費があったりすると、すぐさま真っ逆さまに(a)に落ちてしまう。<例>親の介護などをきっかけに離職してしまうと、貧乏の連鎖からなかなか抜け出せない。
ちなみに、現在、相対的貧困率を出す指標として用いられる貧困線(Poverty Line)は、等価可分所得の中央値の半分の額とされる。2012年の貧困線は122万円、相対的貧困率は16.1%。これ以下の層は、婚姻、子育てが難しい。
『貧乏物語』は、イギリスを例にとる。全人口の65%にあたる「最貧者」がイギリス全体のわずか1.7%の富しか有していないという統計を紹介する。ヨーク市のデータでは、全体の半数以上が毎日規則正しく働いているにもかかわらず、貧乏線以下、身体の健康を維持するだけの衣食すら得られない暮らしをしていることを示している。
貧乏を精神論で何とかせよという議論は、現在に至るまでよく見かけるが、パンが先だと『貧乏物語』は論じる。
そして、伝統的に自力救済をよしとするイギリスにおいてすら、学校給食法や養老年金がつくられている、と例を紹介している。日本においては、慈善事業でもいいから、早くこうした給食施設ができるのを切望しているという。
ちなみに、現代ではフードバンクや「子ども食堂」の試みが広がっている。
(3)貧乏の原因は何か--『貧乏物語』(中編)解説
テーマは、貧乏の根本的な原因だ。
動物社会からジャワ原人を経て、人間が人間として生きられるようになったのは道具のおかげだ。近代になって道具がさらに発展して機械となった。産業革命を経て、便利な機械がたくさん発明され、生産性が何千倍にも高まった。
マルサス『人口論』は生産の増加は人口の増加にかなわないと説いた。貧乏の原因は、生産可能な物量が足りないからだと。
これは『貧乏物語』の立場ではない。ではなぜ、いまだに貧乏が存在するのか。それは機械などの生産力を十分に活用できていないからだ。つまり、貧乏の問題は、生産(物量)の問題としてはすでに解決の道筋が見えている。あとは、もっぱら分配の問題だ。マルサスの議論では、人間全体が貧乏しなければならないことの説明はできる。しかし、ある者はテーブルに山ほど料理をならべ、別のある者はひどく粗末な食べ物すら手にできない、ということの説明はできない。
『貧乏物語』でいう分配は、マルクス『資本論』で展開する資本家と地主間、資本家間の利潤の分配とはまったく異なる概念だ。分配には
①どのような商品をどれくらい生産するかという分配
②生産された商品を人びとにどのように分配するかという分配
の二つがあり、『貧乏物語』でいう分配は(a)、つまり生産計画の問題だ。一部の富裕層が「贅沢品」を求めるあまり、多くの機械が「贅沢品」の生産に奪い去られているために、生活必需品が十分に生産されていないと。①にこだわったところが、『貧乏物語』の特徴なのだ。
このように、『貧乏物語』には抜け落ちている議論がある。「労働力の商品化」だ。なぜ多数の人びとが貧乏しているか、という本質を掴むに至っていない。これはピケティ『21世紀の資本論』においても同じだ。
(4)貧乏をなくす三つの方法--『貧乏物語』(下編)解説
貧乏の根治策を提示する。
①贅沢の抑制。
②所得再分配。
③産業の国有化。
③は、物の生産を私人の営利事業に一任するのではなく、直接国家の力で経営する「経済上の国家主義」というべきものだ。その後の歴史が選択したのは③だったが、『貧乏物語』は経済体制の改造は貧乏退治の根本対策にならないとしている。組織や制度を変えても、運用する人間そのものが変わらなければ解決にならないと記す。
ということで、『貧乏物語』は②、③を否定して①に回帰する。江戸時代の贅沢禁止のお触れがあるように、突飛な考えではない。しかし、明治維新からまだ50年ほどしか経っていないという時代背景も大きかったと推定される。下級武士、農民から這い上がって富裕層に至った人が多かった。スマイルズ『自助論』を中村正直が訳したベストセラー『西国立志編』や福沢諭吉『学問のすゝめ』の延長線上に彼らはいた。
(5)善意の帝国主義者--ロイド・ジョージ論
ロイド・ジョージは、1916年(第一次世界大戦中)に首相に就いた。貧困問題を国内で解決しようとすれば生産性を上げねばならない。労働者の視点に立てば、より搾取されてしまう状況が生まれる。そこで彼は、外に解決を求めた。内部の問題を外部で解決する帝国主義の道だ。
これは米国などの域内においては新自由主義的政策を取るが、それ以外の「外部」に対しては帝国主義的な手法で利益をえるという、現在のTPPの論理と似ている。
ロイド・ジョージを賞讃する『貧乏物語』は、帝国主義的側面がないとは言えない。しかし、それは当時の左翼に共通する傾向だった。現在では左翼といえば植民地反対を唱えるものと決まっているが、当時においてはそうではなかった。
(6)ふたたび貧困は社会問題になった
『貧乏物語』は1947年に岩波文庫に入った。解題で大内兵衛(労農派マルクス主義者)は書いた。「日本の社会問題はもはや『貧乏物語』ではない」と。
『貧乏物語』が刊行された第一次世界大戦のさなか、「貧乏」はまさに社会問題だった。貧乏が日本の問題であることを最初に示したのは『貧乏物語』だった。日本に資本主義が生まれてまだ時間が経っていないころ、「貧乏」が喫緊の課題だった。しかし、河上肇自身が『貧乏物語』を絶版にしたように、その後、マルクス経済学は『貧乏物語』を過去のものとして扱った。
だが、大内発言を終戦直後という時代環境に照らしてみると、違った側面が見えてくる。
1940年に成立した国家総動員体制は、厚生省を創設し、社会保険制度を生み、借り手を保護する借地法、借家法の改正につながった。貧困を根絶し、格差を是正するというベクトルが働いたのだ。しかし、それは資本主義が勝利したからでも、労働運動の力があったからでもなかった。国家によって上から総力戦体制が構築されたからだ。戦争をすることで格差が是正されるというピケティの主張は、この点で正しい。
その後もしばらくは貧困は社会問題にならなかった。東西冷戦があったからだ。貧困が深刻になれば共産主義革命が起きるという恐れがあった。そのため、国家が介入することによって再分配をして福祉国家をつくる。日本では田中派政治がそれに当てはまる。公共事業(土建)を通じたかたちで富は再分配された。
しかし、東西冷戦が終結すると、状況は変化した。共産主義の脅威を気にする必要がなくなると、再分配政策は捨てられた。冷戦後に新自由主義的な政策が世界的規模で拡大したのは、そのような背景がある。そして、貧乏はふたたび深刻な社会問題になった。
いま『貧乏物語』を読む意味は、そこにある。
(7)教育の無償化という貧困対策
現在、貧困、特に子どもの貧困が深刻になっている。政府も保育園の待機児童対策や大学生への給付型奨学金の導入など、教育問題に取り組むようになっている。しかし、野党の主張を含めて、事態の深刻さを理解していない場当たり的な対処に過ぎないように見える。
太平洋戦争中のレイテ戦のような、戦力の逐次投入をすべきではない。抜本的解決を図るべきで、その方策のひとつは教育の原則無償化だ。ゼロ歳から22歳まで、国公立の機関が行う保育、教育は原則として無償にするのだ。
この事業に要する費用は3兆円くらい。こういう事業の財源こそ、消費税に求めるべきだ。制度設計さえきちんとできていれば、1%もあれば財源は確保できるはずだ。
重要なのは富裕層も対象として、社会の分断をつくらないようにすること。
東西冷戦下においては、こういう再配分をしなければ共産主義の脅威が迫ってくるということで、富裕層も納得していた面がある。しかし、共産主義の脅威のない現在、社会全体が利益を被る政策を採るときは、富裕層を納得させ、富裕層も巻き込むことが必要になる。
富裕層とは、純金融資産保有額が1億円以上の世帯を言い、2013年現在、日本に100万世帯あるという(野村総合研究所)。全体の2%だ。彼らの子どもの教育費を無償にしたところで、支出はたいしたことはない。彼らにまわさなければ、海外に出てしまうリスクがある。
富裕層は経済成長によって利益を被る。子どもの貧困問題を解決するということは、労働力の質が向上することを意味する。将来、公的扶助を受ける人の数が減ってくる。子どもが育てば税収も増える。
してみれば、子どもの貧困対策こそ、成長戦略だ。
現在、国民は老後の不安とならんで教育の不安を抱えている。そのために貯蓄している家庭が少なくない。教育の不安がなくなれば、親世代がお金を使い始める経済的効果が見込まれる。
「子どもの貧困対策」を政策とするなら、「人の成長戦略」として教育の無償化に目を向けるべきだ。
(8)人間関係の商品化
以上、貧困問題を社会科学的アプローチ、論理性、実証性を重視して見てきた。しかし、それだけでは抜け落ちてしまう部分が残る。人間の心情だ。
人間の心情については、評伝、伝記、良質の小説を読むことが重要だ。
(9)資本主義の矛盾を解決する二つの方法
資本主義は格差をもたらす。資本主義の構造的矛盾を解決する処方箋は、おそらく二つに限られる。
①『貧乏物語』が唱える社会、特に自覚した富裕層による再分配だ。資本主義の競争に勝利した者が、自分の富の一部を自発的に社会的弱者に提供する「贈与」だ。<例>フードバンク。
②知人同士、友人同士の「相互扶助」だ。組織の内外で競争が激しくなっていく中、人間関係はますます希薄になっている。人間関係そのものが商品化されるのが資本主義だとすれば、商品経済とは異なる関係を築くことが必要だ。社員が会社の利益に貢献する限りにおいては、会社は互助組織として役立つ。NPOでも何でもいい。組織に属していること、組織にしがみつくこと。組織がセーフティネットであるのは間違いない。
社会問題という言葉は、しばらく死語になっていた。しかし現在、貧困、教育格差、限界集落、移民など社会問題が復活している。
1,980万人もの非正規社員の処遇をいかに改善するかが問題になっている。正規社員の1年間の平均給与が478万円であるのに対し、非正規社員は170万円だ【国税庁「民間給与実態統計調査」(2014年)】。これでは婚姻、子育てはできない。『貧乏物語』は日本に資本主義が成立してから間もないことに貧困と向かい合ったが、日本資本主義体制の危機が訪れている現在、絶対的な貧困をなくし、構造的な弱者である若年層の状態を改善することが求められている。
□河上肇/佐藤優・訳解説『貧乏物語 現代語訳』(講談社現代新書、2016)の「おわりに 貧困と資本主義」
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【参考】
「【佐藤優】の考える、貧乏をなくす方策 ~『貧乏物語』解説(3)~」
「【佐藤優】河上肇の、貧乏をなくす方策 ~『貧乏物語』解説(2)~」
「【佐藤優】貧乏とは何か、貧乏の原因は何か ~『貧乏物語』解説(1)~」
「【佐藤優】河上肇の思考実験を引き継ぐ」
「【佐藤優】貧富の格差が拡大した100年前と現代」
「【佐藤優】いくら働いても貧乏から脱出できない」
「【佐藤優】教育の右肩下がりの時代」
「【佐藤優】トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~」
「【佐藤優】「パナマ文書」は何を語るか ~資本主義は格差を生む~」
「【佐藤優】訳・解説『貧乏物語 現代語訳』の目次」
①河上肇『貧乏物語』も②トマ・ピケティ『21世紀の資本論』も、「絶対的貧困」を再分配(富裕層に集中する富を貧困層に移すこと)によって解決しようとしている点で共通している。
違う点がある。①は性善説に立ち、自覚した富裕層が良心に従い再分配を行う主体となるとした。
②は性悪説に立つ。資本家が自発的な再分配を行うとは考えず、分配の主体を国家(官僚)とした。累進的な所得税、相続税に加え、資本税の導入も唱える。さらにグローバル化に対応するために、超国家的な徴税機関の創設も視野に入れる。
②の議論に従えば、強力な国家と多大な権限を持った官僚群が資本家を抑えるという、イタリアのファシズムに親和的なモデルになる。国家が加速度をつけて肥大していく可能性が高い。
(2)働いても貧乏から脱出できない--『貧乏物語』(上編)解説
テーマは、どれほど貧乏があるか、貧乏はなぜよくないか、だ。「貧乏」には三つの意味がある。
①他の誰かよりも貧乏な人。
②生活保護などの公的扶助を受けている人。
③身体を自然に発達させ維持するのに必要なものすらも十分に得られない人。
『貧乏物語』でいう貧乏は、基本的には③を指す(絶対評価の貧乏)。ただ、ほんとうは「身体」を維持できるだけの所得では足りないと考えている。現代の生存権の思想につながる。
その上で「貧乏線」を定義する。一人の人間が生きていくのに必要な栄養を摂取できる最低限の食費に、被服費、住居費、燃料費、その他の雑費を計算して合計したものだ。貧乏人とは、次の二つを合わせたものだ。
(a)貧乏線より下にある人
(b)貧乏線の真上に乗っている人
(b)は、ふだんはどうにか生活が回っているように見えても「溜め」がまったくないので、身体の健康を維持する以外の出費があったりすると、すぐさま真っ逆さまに(a)に落ちてしまう。<例>親の介護などをきっかけに離職してしまうと、貧乏の連鎖からなかなか抜け出せない。
ちなみに、現在、相対的貧困率を出す指標として用いられる貧困線(Poverty Line)は、等価可分所得の中央値の半分の額とされる。2012年の貧困線は122万円、相対的貧困率は16.1%。これ以下の層は、婚姻、子育てが難しい。
『貧乏物語』は、イギリスを例にとる。全人口の65%にあたる「最貧者」がイギリス全体のわずか1.7%の富しか有していないという統計を紹介する。ヨーク市のデータでは、全体の半数以上が毎日規則正しく働いているにもかかわらず、貧乏線以下、身体の健康を維持するだけの衣食すら得られない暮らしをしていることを示している。
貧乏を精神論で何とかせよという議論は、現在に至るまでよく見かけるが、パンが先だと『貧乏物語』は論じる。
そして、伝統的に自力救済をよしとするイギリスにおいてすら、学校給食法や養老年金がつくられている、と例を紹介している。日本においては、慈善事業でもいいから、早くこうした給食施設ができるのを切望しているという。
ちなみに、現代ではフードバンクや「子ども食堂」の試みが広がっている。
(3)貧乏の原因は何か--『貧乏物語』(中編)解説
テーマは、貧乏の根本的な原因だ。
動物社会からジャワ原人を経て、人間が人間として生きられるようになったのは道具のおかげだ。近代になって道具がさらに発展して機械となった。産業革命を経て、便利な機械がたくさん発明され、生産性が何千倍にも高まった。
マルサス『人口論』は生産の増加は人口の増加にかなわないと説いた。貧乏の原因は、生産可能な物量が足りないからだと。
これは『貧乏物語』の立場ではない。ではなぜ、いまだに貧乏が存在するのか。それは機械などの生産力を十分に活用できていないからだ。つまり、貧乏の問題は、生産(物量)の問題としてはすでに解決の道筋が見えている。あとは、もっぱら分配の問題だ。マルサスの議論では、人間全体が貧乏しなければならないことの説明はできる。しかし、ある者はテーブルに山ほど料理をならべ、別のある者はひどく粗末な食べ物すら手にできない、ということの説明はできない。
『貧乏物語』でいう分配は、マルクス『資本論』で展開する資本家と地主間、資本家間の利潤の分配とはまったく異なる概念だ。分配には
①どのような商品をどれくらい生産するかという分配
②生産された商品を人びとにどのように分配するかという分配
の二つがあり、『貧乏物語』でいう分配は(a)、つまり生産計画の問題だ。一部の富裕層が「贅沢品」を求めるあまり、多くの機械が「贅沢品」の生産に奪い去られているために、生活必需品が十分に生産されていないと。①にこだわったところが、『貧乏物語』の特徴なのだ。
このように、『貧乏物語』には抜け落ちている議論がある。「労働力の商品化」だ。なぜ多数の人びとが貧乏しているか、という本質を掴むに至っていない。これはピケティ『21世紀の資本論』においても同じだ。
(4)貧乏をなくす三つの方法--『貧乏物語』(下編)解説
貧乏の根治策を提示する。
①贅沢の抑制。
②所得再分配。
③産業の国有化。
③は、物の生産を私人の営利事業に一任するのではなく、直接国家の力で経営する「経済上の国家主義」というべきものだ。その後の歴史が選択したのは③だったが、『貧乏物語』は経済体制の改造は貧乏退治の根本対策にならないとしている。組織や制度を変えても、運用する人間そのものが変わらなければ解決にならないと記す。
ということで、『貧乏物語』は②、③を否定して①に回帰する。江戸時代の贅沢禁止のお触れがあるように、突飛な考えではない。しかし、明治維新からまだ50年ほどしか経っていないという時代背景も大きかったと推定される。下級武士、農民から這い上がって富裕層に至った人が多かった。スマイルズ『自助論』を中村正直が訳したベストセラー『西国立志編』や福沢諭吉『学問のすゝめ』の延長線上に彼らはいた。
(5)善意の帝国主義者--ロイド・ジョージ論
ロイド・ジョージは、1916年(第一次世界大戦中)に首相に就いた。貧困問題を国内で解決しようとすれば生産性を上げねばならない。労働者の視点に立てば、より搾取されてしまう状況が生まれる。そこで彼は、外に解決を求めた。内部の問題を外部で解決する帝国主義の道だ。
これは米国などの域内においては新自由主義的政策を取るが、それ以外の「外部」に対しては帝国主義的な手法で利益をえるという、現在のTPPの論理と似ている。
ロイド・ジョージを賞讃する『貧乏物語』は、帝国主義的側面がないとは言えない。しかし、それは当時の左翼に共通する傾向だった。現在では左翼といえば植民地反対を唱えるものと決まっているが、当時においてはそうではなかった。
(6)ふたたび貧困は社会問題になった
『貧乏物語』は1947年に岩波文庫に入った。解題で大内兵衛(労農派マルクス主義者)は書いた。「日本の社会問題はもはや『貧乏物語』ではない」と。
『貧乏物語』が刊行された第一次世界大戦のさなか、「貧乏」はまさに社会問題だった。貧乏が日本の問題であることを最初に示したのは『貧乏物語』だった。日本に資本主義が生まれてまだ時間が経っていないころ、「貧乏」が喫緊の課題だった。しかし、河上肇自身が『貧乏物語』を絶版にしたように、その後、マルクス経済学は『貧乏物語』を過去のものとして扱った。
だが、大内発言を終戦直後という時代環境に照らしてみると、違った側面が見えてくる。
1940年に成立した国家総動員体制は、厚生省を創設し、社会保険制度を生み、借り手を保護する借地法、借家法の改正につながった。貧困を根絶し、格差を是正するというベクトルが働いたのだ。しかし、それは資本主義が勝利したからでも、労働運動の力があったからでもなかった。国家によって上から総力戦体制が構築されたからだ。戦争をすることで格差が是正されるというピケティの主張は、この点で正しい。
その後もしばらくは貧困は社会問題にならなかった。東西冷戦があったからだ。貧困が深刻になれば共産主義革命が起きるという恐れがあった。そのため、国家が介入することによって再分配をして福祉国家をつくる。日本では田中派政治がそれに当てはまる。公共事業(土建)を通じたかたちで富は再分配された。
しかし、東西冷戦が終結すると、状況は変化した。共産主義の脅威を気にする必要がなくなると、再分配政策は捨てられた。冷戦後に新自由主義的な政策が世界的規模で拡大したのは、そのような背景がある。そして、貧乏はふたたび深刻な社会問題になった。
いま『貧乏物語』を読む意味は、そこにある。
(7)教育の無償化という貧困対策
現在、貧困、特に子どもの貧困が深刻になっている。政府も保育園の待機児童対策や大学生への給付型奨学金の導入など、教育問題に取り組むようになっている。しかし、野党の主張を含めて、事態の深刻さを理解していない場当たり的な対処に過ぎないように見える。
太平洋戦争中のレイテ戦のような、戦力の逐次投入をすべきではない。抜本的解決を図るべきで、その方策のひとつは教育の原則無償化だ。ゼロ歳から22歳まで、国公立の機関が行う保育、教育は原則として無償にするのだ。
この事業に要する費用は3兆円くらい。こういう事業の財源こそ、消費税に求めるべきだ。制度設計さえきちんとできていれば、1%もあれば財源は確保できるはずだ。
重要なのは富裕層も対象として、社会の分断をつくらないようにすること。
東西冷戦下においては、こういう再配分をしなければ共産主義の脅威が迫ってくるということで、富裕層も納得していた面がある。しかし、共産主義の脅威のない現在、社会全体が利益を被る政策を採るときは、富裕層を納得させ、富裕層も巻き込むことが必要になる。
富裕層とは、純金融資産保有額が1億円以上の世帯を言い、2013年現在、日本に100万世帯あるという(野村総合研究所)。全体の2%だ。彼らの子どもの教育費を無償にしたところで、支出はたいしたことはない。彼らにまわさなければ、海外に出てしまうリスクがある。
富裕層は経済成長によって利益を被る。子どもの貧困問題を解決するということは、労働力の質が向上することを意味する。将来、公的扶助を受ける人の数が減ってくる。子どもが育てば税収も増える。
してみれば、子どもの貧困対策こそ、成長戦略だ。
現在、国民は老後の不安とならんで教育の不安を抱えている。そのために貯蓄している家庭が少なくない。教育の不安がなくなれば、親世代がお金を使い始める経済的効果が見込まれる。
「子どもの貧困対策」を政策とするなら、「人の成長戦略」として教育の無償化に目を向けるべきだ。
(8)人間関係の商品化
以上、貧困問題を社会科学的アプローチ、論理性、実証性を重視して見てきた。しかし、それだけでは抜け落ちてしまう部分が残る。人間の心情だ。
人間の心情については、評伝、伝記、良質の小説を読むことが重要だ。
(9)資本主義の矛盾を解決する二つの方法
資本主義は格差をもたらす。資本主義の構造的矛盾を解決する処方箋は、おそらく二つに限られる。
①『貧乏物語』が唱える社会、特に自覚した富裕層による再分配だ。資本主義の競争に勝利した者が、自分の富の一部を自発的に社会的弱者に提供する「贈与」だ。<例>フードバンク。
②知人同士、友人同士の「相互扶助」だ。組織の内外で競争が激しくなっていく中、人間関係はますます希薄になっている。人間関係そのものが商品化されるのが資本主義だとすれば、商品経済とは異なる関係を築くことが必要だ。社員が会社の利益に貢献する限りにおいては、会社は互助組織として役立つ。NPOでも何でもいい。組織に属していること、組織にしがみつくこと。組織がセーフティネットであるのは間違いない。
社会問題という言葉は、しばらく死語になっていた。しかし現在、貧困、教育格差、限界集落、移民など社会問題が復活している。
1,980万人もの非正規社員の処遇をいかに改善するかが問題になっている。正規社員の1年間の平均給与が478万円であるのに対し、非正規社員は170万円だ【国税庁「民間給与実態統計調査」(2014年)】。これでは婚姻、子育てはできない。『貧乏物語』は日本に資本主義が成立してから間もないことに貧困と向かい合ったが、日本資本主義体制の危機が訪れている現在、絶対的な貧困をなくし、構造的な弱者である若年層の状態を改善することが求められている。
□河上肇/佐藤優・訳解説『貧乏物語 現代語訳』(講談社現代新書、2016)の「おわりに 貧困と資本主義」
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【参考】
「【佐藤優】の考える、貧乏をなくす方策 ~『貧乏物語』解説(3)~」
「【佐藤優】河上肇の、貧乏をなくす方策 ~『貧乏物語』解説(2)~」
「【佐藤優】貧乏とは何か、貧乏の原因は何か ~『貧乏物語』解説(1)~」
「【佐藤優】河上肇の思考実験を引き継ぐ」
「【佐藤優】貧富の格差が拡大した100年前と現代」
「【佐藤優】いくら働いても貧乏から脱出できない」
「【佐藤優】教育の右肩下がりの時代」
「【佐藤優】トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~」
「【佐藤優】「パナマ文書」は何を語るか ~資本主義は格差を生む~」
「【佐藤優】訳・解説『貧乏物語 現代語訳』の目次」
(1)「パナマ文書」は何を語るか ~資本主義は格差を生む~
(a)貧困という妖怪が世界を徘徊している。新聞やテレビなどでも、現在の深刻な状況はさまざまなかたちで報じられている。
しかし、今日に至るまで貧困の本質にまで迫るような論考はさほど多くない。その数少ない一つが河上肇『貧乏物語』だ。100年前に出た本だが、まったく古びていない。むしろ今こそ読まれなければならない。なぜ今こそ読まれなければならないか、順を追って説明しよう。
(b)2016年4月3日、「南ドイツ新聞」(本社:ミュンヘン)と国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ/本部:ワシントン)が「パナマ文書」に関する報道を行った【注1】。「パナマ文書」とは、タックスヘイブンでの企業の設立支援を得意分野とする法律事務所「モサック・フォンセカ」(パナマ)が持つ秘密文書だ。世界の富裕層が税金逃れをしていた、と世界中に衝撃を与えている。
タックスヘイブンを利用して蓄財した一人、グンロイグソン・アイルランド首相は引責辞任した。ほかにも、キャメロン・イギリス首相(当時)、プーチン・ロシア大統領の親友セルゲイ・ロルドゥギン氏、ペトロ・ポロシェンコ・ウクライナ大統領など、国際社会の大物の名前が多数出ている。
(c)タックスヘイブンの利用自体は違法ではない。そもそも資本の目的は利潤を増やすことにある。政府は、タックスヘイブンを介した取引への規制を強化しようとしているが、自国政府のいうことを全面的に聞く必要はないというのが、資本の論理を体現した多国籍企業や富裕層の言い分だ。
しかし、国家から完全に独立して、資本が自由に動くことはできない。
<金融資本が、明らかに国家を彼らの自由に動かし、その財政を食いものにしている。外見的にこれは、巨大なカネの力による強力な支配として現れる。しかし、財政・税制から金融政策まで、国家を動かすように見えながら、それはその強さ--根拠に立脚した強さによるのではなく、依存し寄生しなければ存立しえないという弱さを示すものなのである>【注2】
タックスヘイブンを利用している多国籍企業や富裕層も、自らの利益を増大させるために、国家を最大限に利用している。にもかかわらず、必要な税金を払わずに「ただ乗り」している。
従来は容認されていたタックスヘイブン経由の取引に対し、諸国家の姿勢は厳しくなっている。違法行為ではないにせよ、法の間隙を利用して、脱法的に納税を回避する行為が多国籍企業や富裕層の間で常態化すれば、各国の税収が減り、財政収入が減少し、結果として、多くの普通の国民や真面目に納税している企業にツケが回ってくるからだ。タックスヘイブンを利用する富裕層と一般国民のあいだの格差が広がると、一般国民の納税制度への信頼を失わせる。その結果、国家を弱体化させる。よって、今後、国家はタックスヘイブンにt害する規制に取り組むことになろう。
(d)「パナマ文書」問題が指し示している重要な点は、そもそも資本主義は必ず格差を生み出す、という事実だ。
会社は営利の追求を目的とする。会社が二倍、三倍儲かろうとも、社員の賃金が二倍、三倍と上がるわけではない。サインの賃金を超える価値は、資本家の利潤になる。それが資本主義の論理だ。
資本主義によって生まれる経済格差は、国家によっても、もはや制御しがたいのが現実だ。
かつては「共産主義という妖怪」が、資本主義諸国における経済格差の拡大抑制に一定の役割を果たしていた。東西冷戦下、共産主義の脅威を目前に差し迫った危機としてとらえていた西側陣営においては、貧困層に分配しなければ革命が起きてしまう、という言説が説得力を持っていたからだ。
妖怪を信じる者がいなくなったいま、資本主義の力はとどまるところを知らない。
【注1】「【メディア】調査報道がジャーナリズムを変革する ~チャールズ・ルイス/ICIJ創設者~」
【注2】鎌倉孝夫『帝国主義支配を平和だという倒錯』(社会評論社、2015)p.262
(2)トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~
(a)2016年の国際社会のもう一つの大きな話題は、米国大統領選挙だ。共和党ではドナルド・トランプ、民主党ではバーニー・サンダースが台頭した。
女性、ラテン系、イスラム教徒、外国人などのマイノリティを標的としたヘイトスピーチを売りものにするトランプ。「共和党をぶっこわす」ということで支持を得ている点、小泉純一郎・元首相と重なるものがある。
最低賃金15ドルや公立大学の無償化など、大胆な所得再分配政策を主張するサンダース。日本では社会主義者、社会民主主義者などと言われることもあるが、彼は1980年代に第四インターナショナル加盟政党の社会主義労働者党の活動に参加している。米国の社会主義労働者党はトロッキスト、つまり共産党より左の思想を持つ政党だ。どちらも、従来であれば泡沫候補として片付けられていたタイプだ。
(b)共和党主流派が推していたテッド・クルーズ(5月3日に撤退を表明)も、政策など何もない、トランプ以上のポピュリストだ。
彼が選挙用に作成したプロモーション動画に「マシンガンのベーコン」と題するものがある。テキサス州のスーパーマーケットでベーコンを購入する。「テキサスでは焼き方がちょっと違うよ」などといって、ベーコンをマシンガンに巻き付け、その上にアルミホイルを被せて、射撃場で銃を乱射する。その熱によってこんがりと焼けたベーコンをフォークでつまんで口に入れる。「マシンガン・ベーコン!」と口にする。ただそれだけだ。
米国の問題は、むしろ、共和党主流派がクルーズのような人物を推さざるをえないところにある。
(c)なぜトランプ、サンダースが事前の予想を裏切って支持を集めたのか。
トランプに対する支持基盤は、知識人、イスラム教徒、黒人、アジア系以外のあいだでは意外と厚い。「本来の米国人の権利を取り戻す」というトランプの基本戦略は、グローバル化や情報化の恩恵にあずかれず、競争のしわ寄せだけを受けた人びとの心に強く訴えかける力を持っている。彼らが「トランプはオレたちの代表だ」と支持し、求心力が生まれている。
サンダースの典型的な支持層は、20~30代の若年層だ。「強い米国」を知らず、レーガノミクスによる格差拡大と、リーマン・ショックの不況のあおりをもrに受けた世代だ。職に就けず、就いたとしても不安定で賃金が低い。親世代より生活水準が低くなる、いわば「右肩下がり」の世代ともいうべき彼らは、働けど楽にならざる暮らしに苛立ち、既存の政治家を信用していない。
(d)左右の両極端にある彼らへの支持は、経済格差の拡大、社会的流動性の低下、庶民の生活レベルの低下という、共通の土壌から生まれたものだ。上位1%の所得シェアは、1980年では10%だったのが、2008年には21%に増加した。これは米国の大恐慌の前の1920年代と同レベルだ。さらにエリート層が世襲化している。
米国では、結局はエリート層が富のほとんどを独占してくというしくみは、教育にもあられている。東京大学をトップで卒業し、財務省に勤めた後に弁護士になり、現在ハーバード大学に留学中の山口真由氏によれば、授業料が10ヵ月で7万ドル(800万円)、(800万円)かかる。ロースクール卒業まで6年かかるとすれば、授業料だけで4,800万円かかることになる。
これでは超富裕層の子どもしか入ることができない。普通の家庭の子どもにしてみれば、例外的な幸福に恵まれ奨学金が得られるのでなければ、とうてい支払うことのできない額だ。米国大学への留学サイト(「アメリカ留学の大学選び」栄陽子留学研究所)などでも紹介されるように、ハーバード大学と同じような授業料を設定している一流大学は珍しくない。格差を逆転する希望を抱くことすら難しいのが現実だ。
(e)米国の経済は決して悪いわけではない。少なくとも横ばいといえる。しかし、階級は固定化し、「格差」という言葉ではもはやカバーできない、「Povertry」すなわち絶対貧困というべき状況が米国を覆っている。これは日本のそう遠くない近未来の姿でもある。
(3)教育の右肩下がりの時代
(a)日本においても、近年、貧困は身近な問題となっている。1980年代前半、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)では明石家さんまらが「貧乏」をネタにすることができた。しかし、いま、テレビで「あなた貧乏人?」と突っ込むのは禁句に近い。それだけ貧困が現実に身近なものとして受け止められているのだ。
中世の神学で、「神は細部に宿り給う」という。子どもの貧困、教育の格差に目を向けてみれば、その深刻さがみえてくる。
(b)2016年4月に国際児童基金(ユニセフ)がまとめた報告書によれば、子どもがいる世帯の所得格差は、日本は先進41ヵ国中34位で、悪い方から8番目だった。日本では子どもがいる最貧困層の世帯の所得は、標準的的な世帯の4割にも満たない【朝日新聞デジタル 2016年4月14日】。
また、次のような記事がある【朝日新聞デジタル 2015年4月12日】。
<18歳未満の子どもの貧困率は過去最悪の水準だ。大人ひとりで子育てする世帯の貧困率は2012年で54.6%となり、高水準が続いている。特に、母親が家計を支える母子世帯の場合、全世帯の平均所得の半額以下となる年間243万円しかない。
生活が苦しく、学用品や給食の費用などの「就学援助」を受けている児童や生徒は、12年度で155万人。公立学校の児童・生徒数のおよそ6人に1人の割合だ。10年前とくらべて3割強増えている。民間の取り組みだけでは解消できない厳しい現実がある。
裕福な家庭は、子どもを塾に通わせるなどしてお金をかけて学力の向上に取り組みやすい。文部科学省の全国学力・学習状況調査をもとにした研究では、親の収入が高いほど子どもの正答率は上がる傾向にある。>
(c)大学教育においても、貧困の問題は深刻だ。2014年の日本学生支援機構の調査では、大学の学部生(昼間部)の51.3パーセントが奨学金を受給している。最近問題になっている貸与型の奨学金を満額借りれば、学部を卒業するときにすでに250万円の借金を抱えることになる。これでは、家に経済的な余裕がないかぎり、大学院に進むことはできない。
(d)他方、子ども服メーカーのfamiliar(ファミリア)が東京の白金台に開設した、1ヵ月の保育料が20万円を超えるような保育園もある。いわゆるお受験教育ではなく、実践的な内容を教えている。集中して机に向かう訓練をおこない、勤勉性を身につけ、モンテッソーリ教育を取り入れて人としての優しさも身につけることをめざしている。20万円と聞くとずいぶん高く感じるが、このプレスクールは暴利をむさぼっているわけではなく、小さい子にそのような充実した教育をおこなうとすれば、それくらいはかかる、ということだ。幼稚園、小学校からエスカレータ式に大学まで、そして就職も保証されるような私立の学校もある。
(e)2015年に刊行されて話題となった中室牧子『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015)は、著者が新自由主義を促進させる意図を有しているわけではないが、その著書が描き出すのは、人間を投資の対象として見る世界だ。富裕層の子弟ほど良好な教育を受ける可能性が高いという実態が見えてくるのだ。実際、東大生の親の世帯年収は、950万円以上が半数を超えるという調査もある【2014年東京大学学生生活生活実態調査】。
(f)かつて教育は、階級を流動化させる要素を持っていた。いまはそれが失われ、階級の再生産装置としての要素が強まっている。経済的なことを理由に子どもに進学を断念させる。その結果、社会に出るにあたって、能力に見合っただけの収入を得られないという貧困のサーキュレーション(循環)が生じる。教育を受ける機会を逃してしまうと、その家族から貧困が再生産されていく。
(g)佐藤優の世代は、父母の世代よりも、教育水準が高いのが一般的だ。これまでは子どもが親の学力を超えてきたが、いま起きているのはまったく逆の現象だ。子どもの世代に、佐藤優たちが受けてきたのと同じレベルの教育を、経済的理由から授けられない。明治維新以降はじめて、「教育の右肩下がり」を経験しているのだ。
格差が固定し、新自由主義のもとでは、カネがなければ、よい教育を受けることも、貧困から這い上がることもできない。努力をしても報われない。セイフティーネットが足りない現代社会において、「貧困」は今こそ取り組まねばならない問題だ。
(4)いくら働いても貧乏から脱出できない
(a)100年前の日本にも、まさに同じように考え、貧困問題と真剣に向かい合い、本質に迫ろうとした人がいた。河上肇である。河上は、『貧乏物語』のなかで、「貧乏神退治の大戦争」は「世界大戦以上の大戦争」だと述べている。
『貧乏物語』は、今からちょうど100年前の1916年9月から12月にかけて「大阪朝日新聞」に連載された。1917年に出版されるや、一大ブームを巻き起こし、30版を重ねた。文庫は40万部以上売れたといわれる。
(b)河上肇は、誠実な人、悲劇の人だ。『貧乏物語』を連載する前年(1915年)に京都帝国大学の教授になっていた。戦前の大学教授は、現在と違って高収入だった。にもかかわらず、貧しい大衆に対して人間としての共感を持ち続けていた。
河上は、1979(明治12)年、山口県の現在の岩国市にて旧・岩国藩士の家に生まれた。山口高等学校文科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。キリスト教や仏教から強い影響を受けた。卒業後、いくつかの大学で講師をしながら、読売新聞に経済記事を執筆した。1908(明治41)年、後に京都帝大初代経済学部長となった田島錦治の招きにより、京都帝大の講師に就いた。1913(大正2)年から2年間、欧州に留学し、ブリュッセル、パリ、ロンドンなどに滞在。『貧乏物語』には、留学で得た知見が盛り込まれている。
(c)『貧乏物語』は、一生懸命働いても人並みの生活を送ることができない貧困を考察の対象とした。
<世間にはいまだに一種の誤解があって、「働かないと貧乏するぞという制度にしておかないと、人間はとにかく怠けてしかたがない。だから、貧乏は人間を働かせるために必要なものだ」というような議論があります。しかし、少なくとも今日の西洋における貧乏は、決してそういう性質のものではありません。いくら働いても貧乏から逃れることができない、「絶望的な貧乏」なのです。>【注1】
(d)河上は、豊かであるとされる先進国において、なぜこれほど貧乏に困っている人がいるのかという問題を、真正面からとりあげる。一生懸命に働いても、生活に必要なお金を確保できない人【注2】がたくさんいる。彼らは怠けているから貧乏なのではな決してなく、いくら働いても貧乏から脱出できない。絶望的な貧乏なのだ、と強調する。
いわゆるワーキングプアの問題だ。
そして、このような構造的な貧困の根本原因がどこにあるか、を探っていくのだ。
【注1】『貧乏物語 現代語訳』pp.49~50
【注2】河上肇の言葉でいえば「貧乏線以下」の人。
(5)貧富の格差が拡大した100年前と現代
(a)河上が『貧乏物語』を「大阪朝日新聞」に連載した1916年は、1914年に始まった第一次世界大戦を受けて、日本の産業界が戦時景気に湧いている時期だった。第一次世界大戦で欧州諸国に被害が生じるなか、戦禍を免れていた日本の商品輸出が急増した。
<投資熱はあらゆる分野に及んだが、とくに造船・製鉄業の発展はめざましく、海運業も著しく進展した。繊維産業でも、ヨーロッパ諸国のアジア市場からの後退によって、日本の綿糸・綿布はイギリスに代わって中国市場をほぼ席巻し、南アフリカ・南アメリカにまで進出していった。日本の主要輸出品だった生糸は、ヨーロッパ市場を失って暴落したが、日本と同様な立場にあって好況を現出したアメリカに輸出され、以後、アメリカ市場に全面的に依存するようになった。こうして、1915年に入超から出超に転じ、1914年には約11億円の債務国だった日本は、1920(大正9)年には約27億円の債権国に変わっていた。>【注1】
(b)好況によって成金が生まれた。成金が百円札を燃やして「どうだ明るくなったろう」などという画まで登場した。船成金で有名な山本唯三郎は、1917年に朝鮮半島に虎刈りに出かけ、帝国ホテルを借り切って虎肉の晩餐会を催し、話題になった。
こうした信仰の成金のみならず、三井、三菱などの大財閥は資本の集中をよりいっそう進めた。第一次世界大戦は、寡占資本家を発展させたのだ。
一方1916年前後は、物価も激しく上昇していた。物価に見合った賃金が得られず、生活に困る労働者が増えた。賃金や俸給は物価に合わせて上昇したわけではなかったので、多くの労働者は生活が苦しくなり、その日の食にも事欠く人が続出した。
<労働者の実質賃金は、1914年を100とすると、1918年には92.3に低下した。また、当時、一般生計費は一人当たり年2,000円程度が必要だったが、その該当者は人口のわずか2%で、約93%は500円以下の収入だった。>【注2】
(c)1918年に富山から始まった米騒動には、インフレによる生活難という背景があった。「トリクルダウン」【注3】は、この時代にもなかったのだ。
このように、資本家と労働者のあいだの格差が拡大し、資本主義が猛威をふるうという事態は、現代と酷似する。企業の業績は好調だが、社員の賃上げにはつながらない現在の状況と重なっている。
だからこそ、そうしたなか、河上がどのように貧困と知的格闘を繰り広げたかを知ることは、現代を生きる人にとって意味がある。
【注1】安藤達朗・著/佐藤優・企画・編集・解説/山岸良二・監修『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』pp.163~164
【注2】前掲書p.167
【注3】富裕層に続いて貧困層にも富が行き渡ること。
「【経済】小企業や家計の赤字=大企業の利益 ~トリクルダウン(2)~」
「【経済】円安で小企業や家計は赤字 ~トリクルダウンはなぜ生じない?~」
(6)河上の思考実験を引き継ぐ
(a)今回、現代語訳というかたちで100年前のベストセラー『貧乏物語』を甦らせるのは、この本から現代の貧困に係る処方箋を導くことができるからだ。
河上は貧乏根絶策の第一に「贅沢の禁止」を挙げた。
河上がもし現代に生きていれば関心を示したであろう「相互扶助」を、「贅沢の禁止」と併せて今日の問題と関連づけ、別途「おわりに 貧困と資本主義」で示した。
河上は、『貧乏物語』のなかで、構造的な貧困がなぜ生じ、それを克服するにはどうすればよいか、という問題を正面から受け止め、格闘した。その思考の軌跡は、現在の私たちが読んでもまったく古びていない。それどころか、今こそ広く読まれなければならない。
(b)じつは『貧乏物語』は刊行後、資本主義体制を前提とする貧困対策を説いている点をマルクス主義者から批判され、河上自ら絶版にしたという経緯がある。
『貧乏物語』以後の河上は、本格的に『資本論』はじめマルクス経済学関連の文献に没頭し、マルクス経済学者としての道を歩み始める。そして、教職をなげうち、当時非合法だった共産党に縫う党した。
1933(昭和8)年に思想犯として特高に検挙され、豊多摩刑務所(東京都中野区)に収容された。その後、市ヶ谷刑務所を経て小菅刑務所(現・東京拘置所/葛飾区)で服役。収容中に河上は、自らの共産党活動を敗北と総括し、今後共産主義とはまったく関係を断つと転向声明を公表した。拘留をふくめ4年半の刑期を務め上げた。出所後も、戦争がいっそう深刻になり、物質が乏しくなっていくなか、研究を断念し、原稿料の収入も失った河上は質素な生活を強いられた。1946年1月、発禁処分になっていた自著や、戦争中に営々と書き続けていた『自叙伝』の出版を見ることなく永眠した。
(c)『貧乏物語』は、従来、河上の助走期というべき時代に書かれた著作で、その後正しいマルクス主義に変身を遂げた、という見方が一般的だった。
しかし、『貧乏物語』こそ、スターリン主義(ソ連型共産主義)から虚値をとった河上肇の原型だ。
河上が生きた時代、スターリン主義の猛威が吹き荒れていた。共産党の運動は、国際共産党(コミンテルン)インターナショナルの運動にしたがうことによってのみ問題は解決する・・・・というドグマが支配的な時代だった。このようななか、当時の知識人は共産党に引き寄せられた【注】。
『貧乏物語』以後の河上は、こうした戦前の知識人と同じように、自ら考えることを放棄してしまった、という側面もある。
【注】たとえば松田道雄『日本知識人の思想』(筑摩書房、1965)が証言する。
□河上肇/佐藤優・訳解説『貧乏物語 現代語訳』(講談社現代新書、2016)の「はじめに 『貧乏物語』と現代」
↓クリック、プリーズ。↓
【参考】
「【佐藤優】河上肇の思考実験を引き継ぐ」
「【佐藤優】貧富の格差が拡大した100年前と現代」
「【佐藤優】いくら働いても貧乏から脱出できない」
「【佐藤優】教育の右肩下がりの時代」
「【佐藤優】トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~」
「【佐藤優】「パナマ文書」は何を語るか ~資本主義は格差を生む~」
「【佐藤優】訳・解説『貧乏物語 現代語訳』の目次」
(a)貧困という妖怪が世界を徘徊している。新聞やテレビなどでも、現在の深刻な状況はさまざまなかたちで報じられている。
しかし、今日に至るまで貧困の本質にまで迫るような論考はさほど多くない。その数少ない一つが河上肇『貧乏物語』だ。100年前に出た本だが、まったく古びていない。むしろ今こそ読まれなければならない。なぜ今こそ読まれなければならないか、順を追って説明しよう。
(b)2016年4月3日、「南ドイツ新聞」(本社:ミュンヘン)と国際調査報道ジャーナリスト連合(ICIJ/本部:ワシントン)が「パナマ文書」に関する報道を行った【注1】。「パナマ文書」とは、タックスヘイブンでの企業の設立支援を得意分野とする法律事務所「モサック・フォンセカ」(パナマ)が持つ秘密文書だ。世界の富裕層が税金逃れをしていた、と世界中に衝撃を与えている。
タックスヘイブンを利用して蓄財した一人、グンロイグソン・アイルランド首相は引責辞任した。ほかにも、キャメロン・イギリス首相(当時)、プーチン・ロシア大統領の親友セルゲイ・ロルドゥギン氏、ペトロ・ポロシェンコ・ウクライナ大統領など、国際社会の大物の名前が多数出ている。
(c)タックスヘイブンの利用自体は違法ではない。そもそも資本の目的は利潤を増やすことにある。政府は、タックスヘイブンを介した取引への規制を強化しようとしているが、自国政府のいうことを全面的に聞く必要はないというのが、資本の論理を体現した多国籍企業や富裕層の言い分だ。
しかし、国家から完全に独立して、資本が自由に動くことはできない。
<金融資本が、明らかに国家を彼らの自由に動かし、その財政を食いものにしている。外見的にこれは、巨大なカネの力による強力な支配として現れる。しかし、財政・税制から金融政策まで、国家を動かすように見えながら、それはその強さ--根拠に立脚した強さによるのではなく、依存し寄生しなければ存立しえないという弱さを示すものなのである>【注2】
タックスヘイブンを利用している多国籍企業や富裕層も、自らの利益を増大させるために、国家を最大限に利用している。にもかかわらず、必要な税金を払わずに「ただ乗り」している。
従来は容認されていたタックスヘイブン経由の取引に対し、諸国家の姿勢は厳しくなっている。違法行為ではないにせよ、法の間隙を利用して、脱法的に納税を回避する行為が多国籍企業や富裕層の間で常態化すれば、各国の税収が減り、財政収入が減少し、結果として、多くの普通の国民や真面目に納税している企業にツケが回ってくるからだ。タックスヘイブンを利用する富裕層と一般国民のあいだの格差が広がると、一般国民の納税制度への信頼を失わせる。その結果、国家を弱体化させる。よって、今後、国家はタックスヘイブンにt害する規制に取り組むことになろう。
(d)「パナマ文書」問題が指し示している重要な点は、そもそも資本主義は必ず格差を生み出す、という事実だ。
会社は営利の追求を目的とする。会社が二倍、三倍儲かろうとも、社員の賃金が二倍、三倍と上がるわけではない。サインの賃金を超える価値は、資本家の利潤になる。それが資本主義の論理だ。
資本主義によって生まれる経済格差は、国家によっても、もはや制御しがたいのが現実だ。
かつては「共産主義という妖怪」が、資本主義諸国における経済格差の拡大抑制に一定の役割を果たしていた。東西冷戦下、共産主義の脅威を目前に差し迫った危機としてとらえていた西側陣営においては、貧困層に分配しなければ革命が起きてしまう、という言説が説得力を持っていたからだ。
妖怪を信じる者がいなくなったいま、資本主義の力はとどまるところを知らない。
【注1】「【メディア】調査報道がジャーナリズムを変革する ~チャールズ・ルイス/ICIJ創設者~」
【注2】鎌倉孝夫『帝国主義支配を平和だという倒錯』(社会評論社、2015)p.262
(2)トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~
(a)2016年の国際社会のもう一つの大きな話題は、米国大統領選挙だ。共和党ではドナルド・トランプ、民主党ではバーニー・サンダースが台頭した。
女性、ラテン系、イスラム教徒、外国人などのマイノリティを標的としたヘイトスピーチを売りものにするトランプ。「共和党をぶっこわす」ということで支持を得ている点、小泉純一郎・元首相と重なるものがある。
最低賃金15ドルや公立大学の無償化など、大胆な所得再分配政策を主張するサンダース。日本では社会主義者、社会民主主義者などと言われることもあるが、彼は1980年代に第四インターナショナル加盟政党の社会主義労働者党の活動に参加している。米国の社会主義労働者党はトロッキスト、つまり共産党より左の思想を持つ政党だ。どちらも、従来であれば泡沫候補として片付けられていたタイプだ。
(b)共和党主流派が推していたテッド・クルーズ(5月3日に撤退を表明)も、政策など何もない、トランプ以上のポピュリストだ。
彼が選挙用に作成したプロモーション動画に「マシンガンのベーコン」と題するものがある。テキサス州のスーパーマーケットでベーコンを購入する。「テキサスでは焼き方がちょっと違うよ」などといって、ベーコンをマシンガンに巻き付け、その上にアルミホイルを被せて、射撃場で銃を乱射する。その熱によってこんがりと焼けたベーコンをフォークでつまんで口に入れる。「マシンガン・ベーコン!」と口にする。ただそれだけだ。
米国の問題は、むしろ、共和党主流派がクルーズのような人物を推さざるをえないところにある。
(c)なぜトランプ、サンダースが事前の予想を裏切って支持を集めたのか。
トランプに対する支持基盤は、知識人、イスラム教徒、黒人、アジア系以外のあいだでは意外と厚い。「本来の米国人の権利を取り戻す」というトランプの基本戦略は、グローバル化や情報化の恩恵にあずかれず、競争のしわ寄せだけを受けた人びとの心に強く訴えかける力を持っている。彼らが「トランプはオレたちの代表だ」と支持し、求心力が生まれている。
サンダースの典型的な支持層は、20~30代の若年層だ。「強い米国」を知らず、レーガノミクスによる格差拡大と、リーマン・ショックの不況のあおりをもrに受けた世代だ。職に就けず、就いたとしても不安定で賃金が低い。親世代より生活水準が低くなる、いわば「右肩下がり」の世代ともいうべき彼らは、働けど楽にならざる暮らしに苛立ち、既存の政治家を信用していない。
(d)左右の両極端にある彼らへの支持は、経済格差の拡大、社会的流動性の低下、庶民の生活レベルの低下という、共通の土壌から生まれたものだ。上位1%の所得シェアは、1980年では10%だったのが、2008年には21%に増加した。これは米国の大恐慌の前の1920年代と同レベルだ。さらにエリート層が世襲化している。
米国では、結局はエリート層が富のほとんどを独占してくというしくみは、教育にもあられている。東京大学をトップで卒業し、財務省に勤めた後に弁護士になり、現在ハーバード大学に留学中の山口真由氏によれば、授業料が10ヵ月で7万ドル(800万円)、(800万円)かかる。ロースクール卒業まで6年かかるとすれば、授業料だけで4,800万円かかることになる。
これでは超富裕層の子どもしか入ることができない。普通の家庭の子どもにしてみれば、例外的な幸福に恵まれ奨学金が得られるのでなければ、とうてい支払うことのできない額だ。米国大学への留学サイト(「アメリカ留学の大学選び」栄陽子留学研究所)などでも紹介されるように、ハーバード大学と同じような授業料を設定している一流大学は珍しくない。格差を逆転する希望を抱くことすら難しいのが現実だ。
(e)米国の経済は決して悪いわけではない。少なくとも横ばいといえる。しかし、階級は固定化し、「格差」という言葉ではもはやカバーできない、「Povertry」すなわち絶対貧困というべき状況が米国を覆っている。これは日本のそう遠くない近未来の姿でもある。
(3)教育の右肩下がりの時代
(a)日本においても、近年、貧困は身近な問題となっている。1980年代前半、「オレたちひょうきん族」(フジテレビ系)では明石家さんまらが「貧乏」をネタにすることができた。しかし、いま、テレビで「あなた貧乏人?」と突っ込むのは禁句に近い。それだけ貧困が現実に身近なものとして受け止められているのだ。
中世の神学で、「神は細部に宿り給う」という。子どもの貧困、教育の格差に目を向けてみれば、その深刻さがみえてくる。
(b)2016年4月に国際児童基金(ユニセフ)がまとめた報告書によれば、子どもがいる世帯の所得格差は、日本は先進41ヵ国中34位で、悪い方から8番目だった。日本では子どもがいる最貧困層の世帯の所得は、標準的的な世帯の4割にも満たない【朝日新聞デジタル 2016年4月14日】。
また、次のような記事がある【朝日新聞デジタル 2015年4月12日】。
<18歳未満の子どもの貧困率は過去最悪の水準だ。大人ひとりで子育てする世帯の貧困率は2012年で54.6%となり、高水準が続いている。特に、母親が家計を支える母子世帯の場合、全世帯の平均所得の半額以下となる年間243万円しかない。
生活が苦しく、学用品や給食の費用などの「就学援助」を受けている児童や生徒は、12年度で155万人。公立学校の児童・生徒数のおよそ6人に1人の割合だ。10年前とくらべて3割強増えている。民間の取り組みだけでは解消できない厳しい現実がある。
裕福な家庭は、子どもを塾に通わせるなどしてお金をかけて学力の向上に取り組みやすい。文部科学省の全国学力・学習状況調査をもとにした研究では、親の収入が高いほど子どもの正答率は上がる傾向にある。>
(c)大学教育においても、貧困の問題は深刻だ。2014年の日本学生支援機構の調査では、大学の学部生(昼間部)の51.3パーセントが奨学金を受給している。最近問題になっている貸与型の奨学金を満額借りれば、学部を卒業するときにすでに250万円の借金を抱えることになる。これでは、家に経済的な余裕がないかぎり、大学院に進むことはできない。
(d)他方、子ども服メーカーのfamiliar(ファミリア)が東京の白金台に開設した、1ヵ月の保育料が20万円を超えるような保育園もある。いわゆるお受験教育ではなく、実践的な内容を教えている。集中して机に向かう訓練をおこない、勤勉性を身につけ、モンテッソーリ教育を取り入れて人としての優しさも身につけることをめざしている。20万円と聞くとずいぶん高く感じるが、このプレスクールは暴利をむさぼっているわけではなく、小さい子にそのような充実した教育をおこなうとすれば、それくらいはかかる、ということだ。幼稚園、小学校からエスカレータ式に大学まで、そして就職も保証されるような私立の学校もある。
(e)2015年に刊行されて話題となった中室牧子『「学力」の経済学』(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015)は、著者が新自由主義を促進させる意図を有しているわけではないが、その著書が描き出すのは、人間を投資の対象として見る世界だ。富裕層の子弟ほど良好な教育を受ける可能性が高いという実態が見えてくるのだ。実際、東大生の親の世帯年収は、950万円以上が半数を超えるという調査もある【2014年東京大学学生生活生活実態調査】。
(f)かつて教育は、階級を流動化させる要素を持っていた。いまはそれが失われ、階級の再生産装置としての要素が強まっている。経済的なことを理由に子どもに進学を断念させる。その結果、社会に出るにあたって、能力に見合っただけの収入を得られないという貧困のサーキュレーション(循環)が生じる。教育を受ける機会を逃してしまうと、その家族から貧困が再生産されていく。
(g)佐藤優の世代は、父母の世代よりも、教育水準が高いのが一般的だ。これまでは子どもが親の学力を超えてきたが、いま起きているのはまったく逆の現象だ。子どもの世代に、佐藤優たちが受けてきたのと同じレベルの教育を、経済的理由から授けられない。明治維新以降はじめて、「教育の右肩下がり」を経験しているのだ。
格差が固定し、新自由主義のもとでは、カネがなければ、よい教育を受けることも、貧困から這い上がることもできない。努力をしても報われない。セイフティーネットが足りない現代社会において、「貧困」は今こそ取り組まねばならない問題だ。
(4)いくら働いても貧乏から脱出できない
(a)100年前の日本にも、まさに同じように考え、貧困問題と真剣に向かい合い、本質に迫ろうとした人がいた。河上肇である。河上は、『貧乏物語』のなかで、「貧乏神退治の大戦争」は「世界大戦以上の大戦争」だと述べている。
『貧乏物語』は、今からちょうど100年前の1916年9月から12月にかけて「大阪朝日新聞」に連載された。1917年に出版されるや、一大ブームを巻き起こし、30版を重ねた。文庫は40万部以上売れたといわれる。
(b)河上肇は、誠実な人、悲劇の人だ。『貧乏物語』を連載する前年(1915年)に京都帝国大学の教授になっていた。戦前の大学教授は、現在と違って高収入だった。にもかかわらず、貧しい大衆に対して人間としての共感を持ち続けていた。
河上は、1979(明治12)年、山口県の現在の岩国市にて旧・岩国藩士の家に生まれた。山口高等学校文科を卒業し、東京帝国大学法科大学政治科に入学。キリスト教や仏教から強い影響を受けた。卒業後、いくつかの大学で講師をしながら、読売新聞に経済記事を執筆した。1908(明治41)年、後に京都帝大初代経済学部長となった田島錦治の招きにより、京都帝大の講師に就いた。1913(大正2)年から2年間、欧州に留学し、ブリュッセル、パリ、ロンドンなどに滞在。『貧乏物語』には、留学で得た知見が盛り込まれている。
(c)『貧乏物語』は、一生懸命働いても人並みの生活を送ることができない貧困を考察の対象とした。
<世間にはいまだに一種の誤解があって、「働かないと貧乏するぞという制度にしておかないと、人間はとにかく怠けてしかたがない。だから、貧乏は人間を働かせるために必要なものだ」というような議論があります。しかし、少なくとも今日の西洋における貧乏は、決してそういう性質のものではありません。いくら働いても貧乏から逃れることができない、「絶望的な貧乏」なのです。>【注1】
(d)河上は、豊かであるとされる先進国において、なぜこれほど貧乏に困っている人がいるのかという問題を、真正面からとりあげる。一生懸命に働いても、生活に必要なお金を確保できない人【注2】がたくさんいる。彼らは怠けているから貧乏なのではな決してなく、いくら働いても貧乏から脱出できない。絶望的な貧乏なのだ、と強調する。
いわゆるワーキングプアの問題だ。
そして、このような構造的な貧困の根本原因がどこにあるか、を探っていくのだ。
【注1】『貧乏物語 現代語訳』pp.49~50
【注2】河上肇の言葉でいえば「貧乏線以下」の人。
(5)貧富の格差が拡大した100年前と現代
(a)河上が『貧乏物語』を「大阪朝日新聞」に連載した1916年は、1914年に始まった第一次世界大戦を受けて、日本の産業界が戦時景気に湧いている時期だった。第一次世界大戦で欧州諸国に被害が生じるなか、戦禍を免れていた日本の商品輸出が急増した。
<投資熱はあらゆる分野に及んだが、とくに造船・製鉄業の発展はめざましく、海運業も著しく進展した。繊維産業でも、ヨーロッパ諸国のアジア市場からの後退によって、日本の綿糸・綿布はイギリスに代わって中国市場をほぼ席巻し、南アフリカ・南アメリカにまで進出していった。日本の主要輸出品だった生糸は、ヨーロッパ市場を失って暴落したが、日本と同様な立場にあって好況を現出したアメリカに輸出され、以後、アメリカ市場に全面的に依存するようになった。こうして、1915年に入超から出超に転じ、1914年には約11億円の債務国だった日本は、1920(大正9)年には約27億円の債権国に変わっていた。>【注1】
(b)好況によって成金が生まれた。成金が百円札を燃やして「どうだ明るくなったろう」などという画まで登場した。船成金で有名な山本唯三郎は、1917年に朝鮮半島に虎刈りに出かけ、帝国ホテルを借り切って虎肉の晩餐会を催し、話題になった。
こうした信仰の成金のみならず、三井、三菱などの大財閥は資本の集中をよりいっそう進めた。第一次世界大戦は、寡占資本家を発展させたのだ。
一方1916年前後は、物価も激しく上昇していた。物価に見合った賃金が得られず、生活に困る労働者が増えた。賃金や俸給は物価に合わせて上昇したわけではなかったので、多くの労働者は生活が苦しくなり、その日の食にも事欠く人が続出した。
<労働者の実質賃金は、1914年を100とすると、1918年には92.3に低下した。また、当時、一般生計費は一人当たり年2,000円程度が必要だったが、その該当者は人口のわずか2%で、約93%は500円以下の収入だった。>【注2】
(c)1918年に富山から始まった米騒動には、インフレによる生活難という背景があった。「トリクルダウン」【注3】は、この時代にもなかったのだ。
このように、資本家と労働者のあいだの格差が拡大し、資本主義が猛威をふるうという事態は、現代と酷似する。企業の業績は好調だが、社員の賃上げにはつながらない現在の状況と重なっている。
だからこそ、そうしたなか、河上がどのように貧困と知的格闘を繰り広げたかを知ることは、現代を生きる人にとって意味がある。
【注1】安藤達朗・著/佐藤優・企画・編集・解説/山岸良二・監修『いっきに学び直す日本史 近代・現代 実用編』pp.163~164
【注2】前掲書p.167
【注3】富裕層に続いて貧困層にも富が行き渡ること。
「【経済】小企業や家計の赤字=大企業の利益 ~トリクルダウン(2)~」
「【経済】円安で小企業や家計は赤字 ~トリクルダウンはなぜ生じない?~」
(6)河上の思考実験を引き継ぐ
(a)今回、現代語訳というかたちで100年前のベストセラー『貧乏物語』を甦らせるのは、この本から現代の貧困に係る処方箋を導くことができるからだ。
河上は貧乏根絶策の第一に「贅沢の禁止」を挙げた。
河上がもし現代に生きていれば関心を示したであろう「相互扶助」を、「贅沢の禁止」と併せて今日の問題と関連づけ、別途「おわりに 貧困と資本主義」で示した。
河上は、『貧乏物語』のなかで、構造的な貧困がなぜ生じ、それを克服するにはどうすればよいか、という問題を正面から受け止め、格闘した。その思考の軌跡は、現在の私たちが読んでもまったく古びていない。それどころか、今こそ広く読まれなければならない。
(b)じつは『貧乏物語』は刊行後、資本主義体制を前提とする貧困対策を説いている点をマルクス主義者から批判され、河上自ら絶版にしたという経緯がある。
『貧乏物語』以後の河上は、本格的に『資本論』はじめマルクス経済学関連の文献に没頭し、マルクス経済学者としての道を歩み始める。そして、教職をなげうち、当時非合法だった共産党に縫う党した。
1933(昭和8)年に思想犯として特高に検挙され、豊多摩刑務所(東京都中野区)に収容された。その後、市ヶ谷刑務所を経て小菅刑務所(現・東京拘置所/葛飾区)で服役。収容中に河上は、自らの共産党活動を敗北と総括し、今後共産主義とはまったく関係を断つと転向声明を公表した。拘留をふくめ4年半の刑期を務め上げた。出所後も、戦争がいっそう深刻になり、物質が乏しくなっていくなか、研究を断念し、原稿料の収入も失った河上は質素な生活を強いられた。1946年1月、発禁処分になっていた自著や、戦争中に営々と書き続けていた『自叙伝』の出版を見ることなく永眠した。
(c)『貧乏物語』は、従来、河上の助走期というべき時代に書かれた著作で、その後正しいマルクス主義に変身を遂げた、という見方が一般的だった。
しかし、『貧乏物語』こそ、スターリン主義(ソ連型共産主義)から虚値をとった河上肇の原型だ。
河上が生きた時代、スターリン主義の猛威が吹き荒れていた。共産党の運動は、国際共産党(コミンテルン)インターナショナルの運動にしたがうことによってのみ問題は解決する・・・・というドグマが支配的な時代だった。このようななか、当時の知識人は共産党に引き寄せられた【注】。
『貧乏物語』以後の河上は、こうした戦前の知識人と同じように、自ら考えることを放棄してしまった、という側面もある。
【注】たとえば松田道雄『日本知識人の思想』(筑摩書房、1965)が証言する。
□河上肇/佐藤優・訳解説『貧乏物語 現代語訳』(講談社現代新書、2016)の「はじめに 『貧乏物語』と現代」
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【参考】
「【佐藤優】河上肇の思考実験を引き継ぐ」
「【佐藤優】貧富の格差が拡大した100年前と現代」
「【佐藤優】いくら働いても貧乏から脱出できない」
「【佐藤優】教育の右肩下がりの時代」
「【佐藤優】トランプ、サンダース旋風の正体 ~米国における絶対貧困~」
「【佐藤優】「パナマ文書」は何を語るか ~資本主義は格差を生む~」
「【佐藤優】訳・解説『貧乏物語 現代語訳』の目次」
(1)9・11が開けたパンドラの箱
9・11から15年。9・11とその後の国際政治の展開は、あまりにも多くのパンドラの箱を開けすぎて、もはや何が変わり、何が当たり前のことだったのかすら、わからなくなってしまった。
たとえば、テロの増大。2004年以降、中東でのテロ件数が右肩上がりのまま下がらなくなった。
あるいは、暴力が宗教性を纏うと同時に、「宗派対立」もまた、当たり前のように語られるようになった。
(a)2003年のイラク戦争以降、スンナ派とシーア派に大別されるイスラームの宗派が、暴力的衝突の原因として前面に出てくる。
(b)2006年2月、イラク中北部にあるシーア派の聖地サマッラーの聖廟が爆破されたことを契機に、イラクではどの宗派に属するかを巡って殺しあいが始まった。
強権政治による抑圧があったとはいえ、イラク戦争以前のフセイン政権のものとでは、宗派を理由にイラク人同士が戦い合うことはほとんどなかった。それが一挙に内戦ともいえる宗派抗争へと発展したことに、一番衝撃を受けたのは当のイラク人たちだ。
次々に宗派テロが発生した。極めつけが「イスラム国」だシーア派を「異端」として徹底した殺戮を是とするIS。ISの侵略から祖国防衛を謳いつつ、「シーア派性」を前面に押し出す対IS掃討舞台。
かくしてイラクでは、内戦開始から10年の月日を経て、今や宗派的対立は当たり前のものとみなされ、それを前提に政治が組み立てられるようになった。
テロ、宗教的暴力、宗派対立。これらはイラク戦争、アフガニスタン戦争、さらにはイラクとシリアでの内戦とISの出現によって加速度的に増大したものだ。イラク戦争がなければISは出現しなかったし、イラクでフセイン政権が倒れてシーア派イスラーム主義政党が政権をとらなければ、シリア内戦がイラン、イラクとサウディアラビア、トルコなど周辺国の間での代理戦争と化すこともなかった。
だが、その出発点にあるのは9・11である。9・11がなければ、イラク戦争もアフガニスタン戦争もなかった。9・11とその後の戦争こそが、現在に至るまでの中東での内戦とテロの増大と拡散を生んだ。底が抜けたような暴力のエスカレートは、ヨーロッパや東南アジアへと、世界全体を巻き込んで広がった。それが、9・11が開けたパンドラの箱だ。
(2)これは宗派対立なのか? ~中東における暴力的衝突~
9・11はさまざまな問題を惹起した。その一つが、宗派的対立とみなされる今の中東における暴力的衝突だ。
2006年からほぼ2年間イラクで繰り広げられた内戦では、名前を名乗っただけで出身宗派を推測されて拉致、殺害されたり、他宗派の民兵から立ち退きを強要する脅迫状を受け取ったりといった出来事は日常茶飯事であった。
(a)2011年に発生したバハレーン版「アラブの春」では、反政府抗議運動として始まったデモは、シーア派による反王政活動とみなされてシーア派活動家の弾圧に繋がった。
(b)連動して活動を活発化させたサウディアラビア東部のシーア派社会に対して、サウディ政府はその中心的宗教指導者ニムル・アルニムル師を2016年1月に処刑した。
(c)2011年から始まったシリア内戦では、アサド政権の強権的支配はいつの間にかアラウィー派=シーア派の少数支配と読み替えられ、政権側にイラン、イラクが支援し、反政府側にはトルコ、サウディアラビアなどの湾岸諸国が支援する「中東の新冷戦」(グレゴリー・ゴーズ)ともいうべき事態に至っている。
なぜ「宗派」は突然対立の火種になったのだろうか? それは本当に宗派対立なのだろうか?
湾岸戦争後、英米に結集した反政府勢力が仮に設定した
「イラク政治を構成する三要素=①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族」
という三区分の枠組みがある。湾岸戦争後に国際社会がポスト・フセイン体制を模索し始めたとき、アイデアとして提示されたのが宗派別に政治代表制を分ける方式だった。
宗派をベースにした権力構造は、今や、戦後イラク政治のなかにしっかりと定着してしまった。
戦後のイラクに駐留した米軍のなかには、むしろ本質は宗派的対立ではない、と見抜く識者が登場した。内戦の最前線、シーア派イスラーム主義武装勢力のマフディ軍が首都東部で陣地拡大を繰り広げる過程を経験し、研究対象とした研究者に、ニコラス・クロフリーがいる。彼は、2015年に出版した『マフディ軍の死』(未邦訳)で、シーア派イスラーム主義政党が人びとに支持され勢力を拡大するのは宗派の問題ではない。中央・地方間の格差の問題だ、と指摘する。
イラクや中東で対立はあってもその本質は宗派ではなく社会格差、階層間の対立なのだ、との主張だ。
確かに従来から、イラクやレバノン、湾岸諸国で宗派的差別はあり、政治社会的マイノリティとされたシーア派社会は、いずれの国でも社会経済的に劣位に置かれてきた。しかし、それは宗派としての差別というより、宗派社会を取り巻く政治経済的環境によって、歴史的に積み重ねられてきた結果であった。
その結果、イラクでは南部と都市においてシーア派貧困層が生まれた。食い詰めた南部の農村を捨て、都市に流れ込んでスラムを形成したシーア派住民が今のサドル潮流のベースにある。歴代の政権は貧しいシーア派の若者の異議申し立てを、シーア派としての反発というより持たざる者としての反発とみなし、教育政策や社会経済政策で対処してきた。そこでは富裕層への羨望や下層社会への蔑視が宗派対立に見える衝突を生むことはあったが、その対立を説明し政治へと結びつけるのは宗教政党ではなく、左翼政党だった。現在サドル潮流の支持基盤の核となっているサドル・シティ(旧サウラ地区)は、1970年代後半までイラク共産党の牙城だった。
問題は、このような対立を生む「宗派」以外の要素が、対立を分析するうえですっかり抜け落ちてしまい、宗派を前提とした対策しか講じられないことだ。本来、雇用や生活水準の向上などを通じて社会経済的平等を図ることが求められているのに、宗派や民族のポスト配分でしか対処方法を考えられない。イラク人識者の多くが「宗派対立は欧米が持ち込んだ」と主張するが、それをより正確に換言すれば、宗派以外の要素を捨象して、すべて宗派や民族などのわかりやすい対立へと矮小化したのが欧米流だったということだ。
そのことは、湾岸戦争後、英米在住の亡命イラク人たちが確立した「①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族という三区分の枠組み」が、当時とイラク戦争後でいかに変質したかを見れば明らかだ。
1990年代前半から亡命イラク人の間で、フセイン政権後は①、②、③の集団指導体制でやっていくしかないという認識が生まれていた。しかし、そこで実際に選ばれた「宗派・民族」代表には、別の側面もあった。②のムハンマド・バハルウルームが宗教界を、③のマスウード・バルザーニがクルド民族運動を代表する一方で、①のハサン・ナキーブは元バアス党反主流派で軍将校だった。つまり、各「宗派・民族」代表という意味とは別に、
「①世俗的ナショナリスト軍人、②宗教界、③自治を求める民族マイノリティ」
という、イラク近現代史を彩っていた主要な政治潮流がこの三人に代表されたのだ。
しかし、9・11後、イラクへの戦争を急ぐ米政権の発想から「三つの区分」に政治潮流を代表させるという要素が消えた。米国は、フセイン後のイラクの青写真を十分描かないうちに、イラクの軍事攻撃を決断した。戦後の準備のない軍事攻撃は、旧軍、旧与党たる世俗ナショナリスト勢力の追放につながり、戦後イラクの「三つの区分」に含まれるはずだった「世俗ナショナリスト軍人」の要素が消えた。その結果、「スンナ派だったら誰でもいい」的な、宗教的要素を形だけ維持した「宗派・民族区分」が独り歩きしてしまったのだ。
(3)蔓延する「わかりやすい二項対立」
階層や不平等や格差といった対立の本質を捨象して、なぜ対立軸が「宗派」という形としてだけ残ったのか。そこには、シンボルに引きずられた9・11以降の政治の新しさがある。9・11後、「敵」と「味方」に世界を分断する「分かりやすい二項対立」が蔓延した。
ブッシュ大統領の宣言、「我々につくか、やつらにつくか」。
攻撃される自由世界の人びとと、攻撃する非民主的なテロリスト。犯人たちの属性である「イスラーム教徒」は十把一絡げに後者に分類された。
実際には、歴史的に破壊と攻撃の被害者であり続けてきた中東の住民たちは、むしろ「これで米国も私たちの不安、恐怖を共通するのでは」と、米国社会との共振を期待した。にもかかわらず、中東の人びとが自分たちの「悲劇の象徴」を提示したところで、9・11と同列に扱ってもらうことができないばかりか、9・11の悲劇性に挑戦するものとみなされてしまった。
同じことは2015年のパリでも起きた。「私はシャルリ」のハッシュタグ(1月)、トリコロールへの連帯表明(11月)は、似たような悲劇を経験しながら「シャルリ」や「トリコロール」を共有しないものを、連帯の広がりから排除した。共闘と団結を象徴するようなイメージ、画像、スローガンは「我々」と「他者」を切り分ける。9・11を契機に始まった「対テロ戦争」という二項対立の図式は、米国のみならず世界中で敵と味方を分け続けることになった。
SNSなどネットによって簡単に世界中に広げる技術の進歩が、15年前のブッシュ発言とは比べものにならない勢いで、世界中に敵と味方を判別するラベルを溢れさせる。
その中には宗教的なシンボルも含まれる。イラク戦争後、イラクでは社会経済的に劣位に置かれていたシーア派社会が一気にその宗派的アイデンティティを復活させ、シーア派の宗教儀礼や行事を復活させた。フセイン政権の転覆により、これまでの「持たざる者」の地位から抜け出し、新しい人生を歩むことができるんだ、という解放感が、シーア派儀礼の実践というアイデンティティの発露につながった。掲げられなかった旗、集まれなかった集会の復活に、数百万の人びとが集まった。
だが、この掲げられる解放の象徴がシーア派にとってのみのイメージやスローガンや画像だったとき、非シーア派のスンナ派やキリスト教徒の人びとにとっては、統合や共感や連帯ではなく排除のシンボルとなる。それが最も鮮烈だったのが、2014年以降イラクで展開されたIS掃討作戦だった。
2014年6月、イラクのモースルを制圧したISは、そこで国防にあたっていたイラク国軍のシーア派兵士を殺害した。ISは、シーア派は異端、イスラームに反するものとして死に値すると考える。そう断罪されたシーア派にとって、ISは断固撃滅されなければならないものとなる。ティクリートやアンバール県など、ISに制圧された地域に対してイラク軍が軍事作戦を展開する際、動員されたシーア派中心の部隊(人民動員組織)は、シーア派儀礼で繰り返されるイマーム賛美の掛け声「ヤー、アリー」などを叫びながら突入した。その露骨な宗派性は、非シーア派にとっては「祖国防衛」を共有するものではなく、むしろあからさまな「他者」の表明だった。
(4)シンボルの増殖
シンボルは増殖する。シーア派的シンボルの圧力に圧倒されたスンナ派社会がシンボルとしたのは、ファッルージャという対米抵抗運動の街だった。
イラク西部の都市ファッルージャでは住民のほとんどがスンナ派だが、フセイン政権時代に特段優遇されていたわけではなく、イラク戦争で敗北してもフセインと連座するという認識はほとんどなかった。
しかし、イラク社会を宗派と民族で分けて考えるのが当たり前とする欧米の認識では、この街を親フセイン、反米の街とみなし、戦争直後から警戒心を抱いていた。その結果、いくつかの不幸な衝突、事故が積み重なり、駐留米軍に対する激しい抵抗運動の拠点と化したのだ。2004年に日本人5名が拉致された事件は、そうした流れの中で発生した。
米軍の占領統治の失敗によって反米化し、繰り返し激しい掃討戦の対象となりながら、シーア派など他の地域住民からは同情を得られず、むしろ外国から流入した国際テロ組織によって抵抗運動が過激で暴力的な方向へと歪められていく。
宗派的シンボルを前面に押し出すシーア派に対して、スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれた。イラク戦後、一貫して素朴な抵抗運動が弾圧と無理解に苦しめられてきた、というイメージがファッルージャという街に付きまとっていった。さらにファッルージャがイラク建国前夜の1920年に南部に発生した反英独立暴動に参加したという史実から、反英=反米=独立の志士というイメージがファッルージャに加わった。
かくして、宗派的シンボルを前面に押し出す①シーア派に対して、②スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれたのだ。
ここで重要なのは、①シーア派も②スンニ派も、自らの尊厳や権利や価値を主張する際の原点となるのが、自分たちがいかに犠牲になってきたか、犠牲の度合いということだ。①も②もいずれも自分たちのほうがいかに「イラク」という祖国を守るのに犠牲を重ねてきたかを競うのだ。
①シーア派社会・・・・7世紀にウマイヤ朝軍に殲滅された記憶を再生産してきた。フセイン政権下でいかに被害を受けてきたか、その犠牲者としての立場をシーア派の歴史に重ね合わせて、宗派的シンボルを惜しげもなく自己主張に使用する。
②スンナ派社会・・・・外国支配、植民地統治に抗するナショナリストとしての犠牲の大きさを語る。
(5)湾岸地域内のパワーバランスの変化
9・11後、ペルシャ湾岸地域内のパワーバランスが変化した。これが中東の「宗派対立」に決定的影響を与えた。
米国の対中東政策は9・11までサウディなど親米湾岸アラブ産油国と協力して、イラン、イラクの両勢力を域内で封じ込めるというものだった。
ところが9・11後、バランスが大きく変化する。アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、近隣の地域大国たるイランの役割が重要となった。イラク戦争後、イラクの政権がイランの影響の強いシーア派イスラーム主義政党に担われるようになり、内戦や対IS対策で治安上シーア派民兵の活動に依存せざるを得なくなると、ますます背後にあるイランを無視することができなくなった。
逆に米国との関係がぎくしゃくしたのがサウディアラビアだ。ビンラーディン自身や9・11の実行犯の多くがサウディ国籍だったこと、湾岸アラブ産油国出身のISやアルカーイダとの資金的つながり、さらにはサウディの非民主的体制にもかかわらず米政権が協力関係を維持していることに疑問を抱く米世論などから、9・11以降の米・サウディ関係は緊張感を含んだものとなった。
<例1>形式的であれ「アラブの春」の民主化を支持するオバマ政権は、バハレーンの反政府デモに介入したサウディなどGCC諸国に対して好意的な反応はしなかった。
<例2>その2年後、シリア内戦においてシリア政府軍を攻撃する、といったん手を挙げながら軍事介入を取りやめた。シリア反政府勢力を支援してきた湾岸アラブ諸国には、オバマの心変わりは衝撃であった。
特にサウディの神経を逆なでしているのが、米政権のイランとの接近だ。
9・11後の湾岸地域の域内勢力のバランスの変化と、米国の中東政策の変化によって、サウディアラビアはイランとのむき出しの対立関係に晒されることになった。それが「宗派対立」の本質にある。つまり「宗派」というよりは、サウディアラビアとイランの域内覇権抗争、「中東新冷戦」が根幹にあるのだ。
だが、冷戦が域内全体を巻き込むには、それぞれ自派の立場を正当化する論理が必要だ。そこで持ち出されるのが宗派だ。相手の宗派がいかに非愛国的で、対外従属的で、社会の連帯を破壊するものであり、秩序を乱すものか、を強調する。シーア派のイラン、イラクは、ISなどスンナ派の武装勢力を「タクフィール主義者」(他者を異端扱いする排外主義者)と非難する。一方でスンナ派諸国は、イランやイラクなどのシーア派政治家を「ターイフィーヤ」(宗派主義者)と非難する。
換言すれば、シーア派はスンナ派を、自分たちを排除するものとみなし、スンナ派はシーア派を、共同体から分派して出ていこうとしているものとみなしている。双方とも相手をイスラーム共同体を破壊するものとみているのだ。
つまり、シーア派対スンナ派という宗教的対立構造は、9・11以降大きく崩れた湾岸、ひいては中東全体の「共同体」をどちらが「正しく」代表しているかを競い合う、その正当化のために持ち出された論理だ。イランもサウディアラビアも、どちらも「正しさ」を打ち出すために宗派性を持ち出しているのだ。
(6)国際社会の最大の失敗とは何か
9・11が残した最大の遺恨は、誰が「正しいか」を巡って命を賭ける殺人が是である、という認識ではあるまいか。その「正しさ」のなかでも「犠牲を受けた者だからこそ掲げることのできる正しさ」が、圧倒的な説得力を持って軍事行動を容認することになった。
(a)9・11を実行した犯人とその組織の攻撃の犠牲になった米国は、絶対に「正しい」。だから、それらをかくまうアフガニスタンやイスラーム社会全体に対して、何をやってもよい。
(b)フセイン政権下で犠牲になり続けてきたシーア派社会は絶対に「正しい」。だから、宗派色満載のシンボルが祖国を埋め尽くしても、かまわない。
(c)シリア内戦でアサド政府軍やロシア軍の破壊的な攻撃の犠牲となるスンナ派の住民たちは、絶対的に「正しい」。だからジハードに身を投じてまでも、全世界のイスラーム教徒がISに馳せ参じる。
9・11後の国際社会の最大の失敗は、その「正しさ」の横行に歯止めをかけられなかったことだ。「正しさ」の主張が乱立すること、「正しさ」が裏切られたときにそれを絶望のまま放置したことが、この15年間の国際社会の混迷を生んでいる。
なぜアルカーイダが、ビンラーディンが、タリバーンが、9・11を「正しい」と主張するに至ったのか、なぜ彼らの「正しさ」が9・11に至るまでの過程で他の「正しさ」と折り合いをつけることができなかったのか。そうした根本的な問題は、15年経てもなお解明されていない。解明されていないから、それが再発することを予防する手立てを得られていない。
その間に、「正しさ」を裏切られた人びとが、新たに自分たちだけの「正しさ」を見つけては、戦いを繰り広げていく。それを解きほぐす糸口はまだ見えない。
□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)
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【参考】
「【酒井啓子】国際社会の最大の失敗とは何か ~中東・宗派対立の起源(6)~」
「【酒井啓子】湾岸地域内のパワーバランスの変化 ~中東・宗派対立の起源(5)~」
「【酒井啓子】対立のシンボルの増殖 ~中東・宗派対立の起源(4)~」
「【酒井啓子】蔓延する「わかりやすい二項対立」 ~中東・宗派対立の起源(3)~」
「【酒井啓子】宗派ではなく社会格差・階層間の対立 ~中東・宗派対立の起源(2)~」
「【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~」
9・11から15年。9・11とその後の国際政治の展開は、あまりにも多くのパンドラの箱を開けすぎて、もはや何が変わり、何が当たり前のことだったのかすら、わからなくなってしまった。
たとえば、テロの増大。2004年以降、中東でのテロ件数が右肩上がりのまま下がらなくなった。
あるいは、暴力が宗教性を纏うと同時に、「宗派対立」もまた、当たり前のように語られるようになった。
(a)2003年のイラク戦争以降、スンナ派とシーア派に大別されるイスラームの宗派が、暴力的衝突の原因として前面に出てくる。
(b)2006年2月、イラク中北部にあるシーア派の聖地サマッラーの聖廟が爆破されたことを契機に、イラクではどの宗派に属するかを巡って殺しあいが始まった。
強権政治による抑圧があったとはいえ、イラク戦争以前のフセイン政権のものとでは、宗派を理由にイラク人同士が戦い合うことはほとんどなかった。それが一挙に内戦ともいえる宗派抗争へと発展したことに、一番衝撃を受けたのは当のイラク人たちだ。
次々に宗派テロが発生した。極めつけが「イスラム国」だシーア派を「異端」として徹底した殺戮を是とするIS。ISの侵略から祖国防衛を謳いつつ、「シーア派性」を前面に押し出す対IS掃討舞台。
かくしてイラクでは、内戦開始から10年の月日を経て、今や宗派的対立は当たり前のものとみなされ、それを前提に政治が組み立てられるようになった。
テロ、宗教的暴力、宗派対立。これらはイラク戦争、アフガニスタン戦争、さらにはイラクとシリアでの内戦とISの出現によって加速度的に増大したものだ。イラク戦争がなければISは出現しなかったし、イラクでフセイン政権が倒れてシーア派イスラーム主義政党が政権をとらなければ、シリア内戦がイラン、イラクとサウディアラビア、トルコなど周辺国の間での代理戦争と化すこともなかった。
だが、その出発点にあるのは9・11である。9・11がなければ、イラク戦争もアフガニスタン戦争もなかった。9・11とその後の戦争こそが、現在に至るまでの中東での内戦とテロの増大と拡散を生んだ。底が抜けたような暴力のエスカレートは、ヨーロッパや東南アジアへと、世界全体を巻き込んで広がった。それが、9・11が開けたパンドラの箱だ。
(2)これは宗派対立なのか? ~中東における暴力的衝突~
9・11はさまざまな問題を惹起した。その一つが、宗派的対立とみなされる今の中東における暴力的衝突だ。
2006年からほぼ2年間イラクで繰り広げられた内戦では、名前を名乗っただけで出身宗派を推測されて拉致、殺害されたり、他宗派の民兵から立ち退きを強要する脅迫状を受け取ったりといった出来事は日常茶飯事であった。
(a)2011年に発生したバハレーン版「アラブの春」では、反政府抗議運動として始まったデモは、シーア派による反王政活動とみなされてシーア派活動家の弾圧に繋がった。
(b)連動して活動を活発化させたサウディアラビア東部のシーア派社会に対して、サウディ政府はその中心的宗教指導者ニムル・アルニムル師を2016年1月に処刑した。
(c)2011年から始まったシリア内戦では、アサド政権の強権的支配はいつの間にかアラウィー派=シーア派の少数支配と読み替えられ、政権側にイラン、イラクが支援し、反政府側にはトルコ、サウディアラビアなどの湾岸諸国が支援する「中東の新冷戦」(グレゴリー・ゴーズ)ともいうべき事態に至っている。
なぜ「宗派」は突然対立の火種になったのだろうか? それは本当に宗派対立なのだろうか?
湾岸戦争後、英米に結集した反政府勢力が仮に設定した
「イラク政治を構成する三要素=①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族」
という三区分の枠組みがある。湾岸戦争後に国際社会がポスト・フセイン体制を模索し始めたとき、アイデアとして提示されたのが宗派別に政治代表制を分ける方式だった。
宗派をベースにした権力構造は、今や、戦後イラク政治のなかにしっかりと定着してしまった。
戦後のイラクに駐留した米軍のなかには、むしろ本質は宗派的対立ではない、と見抜く識者が登場した。内戦の最前線、シーア派イスラーム主義武装勢力のマフディ軍が首都東部で陣地拡大を繰り広げる過程を経験し、研究対象とした研究者に、ニコラス・クロフリーがいる。彼は、2015年に出版した『マフディ軍の死』(未邦訳)で、シーア派イスラーム主義政党が人びとに支持され勢力を拡大するのは宗派の問題ではない。中央・地方間の格差の問題だ、と指摘する。
イラクや中東で対立はあってもその本質は宗派ではなく社会格差、階層間の対立なのだ、との主張だ。
確かに従来から、イラクやレバノン、湾岸諸国で宗派的差別はあり、政治社会的マイノリティとされたシーア派社会は、いずれの国でも社会経済的に劣位に置かれてきた。しかし、それは宗派としての差別というより、宗派社会を取り巻く政治経済的環境によって、歴史的に積み重ねられてきた結果であった。
その結果、イラクでは南部と都市においてシーア派貧困層が生まれた。食い詰めた南部の農村を捨て、都市に流れ込んでスラムを形成したシーア派住民が今のサドル潮流のベースにある。歴代の政権は貧しいシーア派の若者の異議申し立てを、シーア派としての反発というより持たざる者としての反発とみなし、教育政策や社会経済政策で対処してきた。そこでは富裕層への羨望や下層社会への蔑視が宗派対立に見える衝突を生むことはあったが、その対立を説明し政治へと結びつけるのは宗教政党ではなく、左翼政党だった。現在サドル潮流の支持基盤の核となっているサドル・シティ(旧サウラ地区)は、1970年代後半までイラク共産党の牙城だった。
問題は、このような対立を生む「宗派」以外の要素が、対立を分析するうえですっかり抜け落ちてしまい、宗派を前提とした対策しか講じられないことだ。本来、雇用や生活水準の向上などを通じて社会経済的平等を図ることが求められているのに、宗派や民族のポスト配分でしか対処方法を考えられない。イラク人識者の多くが「宗派対立は欧米が持ち込んだ」と主張するが、それをより正確に換言すれば、宗派以外の要素を捨象して、すべて宗派や民族などのわかりやすい対立へと矮小化したのが欧米流だったということだ。
そのことは、湾岸戦争後、英米在住の亡命イラク人たちが確立した「①アラブ人スンナ派、②アラブ人シーア派、③クルド民族という三区分の枠組み」が、当時とイラク戦争後でいかに変質したかを見れば明らかだ。
1990年代前半から亡命イラク人の間で、フセイン政権後は①、②、③の集団指導体制でやっていくしかないという認識が生まれていた。しかし、そこで実際に選ばれた「宗派・民族」代表には、別の側面もあった。②のムハンマド・バハルウルームが宗教界を、③のマスウード・バルザーニがクルド民族運動を代表する一方で、①のハサン・ナキーブは元バアス党反主流派で軍将校だった。つまり、各「宗派・民族」代表という意味とは別に、
「①世俗的ナショナリスト軍人、②宗教界、③自治を求める民族マイノリティ」
という、イラク近現代史を彩っていた主要な政治潮流がこの三人に代表されたのだ。
しかし、9・11後、イラクへの戦争を急ぐ米政権の発想から「三つの区分」に政治潮流を代表させるという要素が消えた。米国は、フセイン後のイラクの青写真を十分描かないうちに、イラクの軍事攻撃を決断した。戦後の準備のない軍事攻撃は、旧軍、旧与党たる世俗ナショナリスト勢力の追放につながり、戦後イラクの「三つの区分」に含まれるはずだった「世俗ナショナリスト軍人」の要素が消えた。その結果、「スンナ派だったら誰でもいい」的な、宗教的要素を形だけ維持した「宗派・民族区分」が独り歩きしてしまったのだ。
(3)蔓延する「わかりやすい二項対立」
階層や不平等や格差といった対立の本質を捨象して、なぜ対立軸が「宗派」という形としてだけ残ったのか。そこには、シンボルに引きずられた9・11以降の政治の新しさがある。9・11後、「敵」と「味方」に世界を分断する「分かりやすい二項対立」が蔓延した。
ブッシュ大統領の宣言、「我々につくか、やつらにつくか」。
攻撃される自由世界の人びとと、攻撃する非民主的なテロリスト。犯人たちの属性である「イスラーム教徒」は十把一絡げに後者に分類された。
実際には、歴史的に破壊と攻撃の被害者であり続けてきた中東の住民たちは、むしろ「これで米国も私たちの不安、恐怖を共通するのでは」と、米国社会との共振を期待した。にもかかわらず、中東の人びとが自分たちの「悲劇の象徴」を提示したところで、9・11と同列に扱ってもらうことができないばかりか、9・11の悲劇性に挑戦するものとみなされてしまった。
同じことは2015年のパリでも起きた。「私はシャルリ」のハッシュタグ(1月)、トリコロールへの連帯表明(11月)は、似たような悲劇を経験しながら「シャルリ」や「トリコロール」を共有しないものを、連帯の広がりから排除した。共闘と団結を象徴するようなイメージ、画像、スローガンは「我々」と「他者」を切り分ける。9・11を契機に始まった「対テロ戦争」という二項対立の図式は、米国のみならず世界中で敵と味方を分け続けることになった。
SNSなどネットによって簡単に世界中に広げる技術の進歩が、15年前のブッシュ発言とは比べものにならない勢いで、世界中に敵と味方を判別するラベルを溢れさせる。
その中には宗教的なシンボルも含まれる。イラク戦争後、イラクでは社会経済的に劣位に置かれていたシーア派社会が一気にその宗派的アイデンティティを復活させ、シーア派の宗教儀礼や行事を復活させた。フセイン政権の転覆により、これまでの「持たざる者」の地位から抜け出し、新しい人生を歩むことができるんだ、という解放感が、シーア派儀礼の実践というアイデンティティの発露につながった。掲げられなかった旗、集まれなかった集会の復活に、数百万の人びとが集まった。
だが、この掲げられる解放の象徴がシーア派にとってのみのイメージやスローガンや画像だったとき、非シーア派のスンナ派やキリスト教徒の人びとにとっては、統合や共感や連帯ではなく排除のシンボルとなる。それが最も鮮烈だったのが、2014年以降イラクで展開されたIS掃討作戦だった。
2014年6月、イラクのモースルを制圧したISは、そこで国防にあたっていたイラク国軍のシーア派兵士を殺害した。ISは、シーア派は異端、イスラームに反するものとして死に値すると考える。そう断罪されたシーア派にとって、ISは断固撃滅されなければならないものとなる。ティクリートやアンバール県など、ISに制圧された地域に対してイラク軍が軍事作戦を展開する際、動員されたシーア派中心の部隊(人民動員組織)は、シーア派儀礼で繰り返されるイマーム賛美の掛け声「ヤー、アリー」などを叫びながら突入した。その露骨な宗派性は、非シーア派にとっては「祖国防衛」を共有するものではなく、むしろあからさまな「他者」の表明だった。
(4)シンボルの増殖
シンボルは増殖する。シーア派的シンボルの圧力に圧倒されたスンナ派社会がシンボルとしたのは、ファッルージャという対米抵抗運動の街だった。
イラク西部の都市ファッルージャでは住民のほとんどがスンナ派だが、フセイン政権時代に特段優遇されていたわけではなく、イラク戦争で敗北してもフセインと連座するという認識はほとんどなかった。
しかし、イラク社会を宗派と民族で分けて考えるのが当たり前とする欧米の認識では、この街を親フセイン、反米の街とみなし、戦争直後から警戒心を抱いていた。その結果、いくつかの不幸な衝突、事故が積み重なり、駐留米軍に対する激しい抵抗運動の拠点と化したのだ。2004年に日本人5名が拉致された事件は、そうした流れの中で発生した。
米軍の占領統治の失敗によって反米化し、繰り返し激しい掃討戦の対象となりながら、シーア派など他の地域住民からは同情を得られず、むしろ外国から流入した国際テロ組織によって抵抗運動が過激で暴力的な方向へと歪められていく。
宗派的シンボルを前面に押し出すシーア派に対して、スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれた。イラク戦後、一貫して素朴な抵抗運動が弾圧と無理解に苦しめられてきた、というイメージがファッルージャという街に付きまとっていった。さらにファッルージャがイラク建国前夜の1920年に南部に発生した反英独立暴動に参加したという史実から、反英=反米=独立の志士というイメージがファッルージャに加わった。
かくして、宗派的シンボルを前面に押し出す①シーア派に対して、②スンナ派の間にはイラク戦争、米軍統治の被害者というシンボルが生まれたのだ。
ここで重要なのは、①シーア派も②スンニ派も、自らの尊厳や権利や価値を主張する際の原点となるのが、自分たちがいかに犠牲になってきたか、犠牲の度合いということだ。①も②もいずれも自分たちのほうがいかに「イラク」という祖国を守るのに犠牲を重ねてきたかを競うのだ。
①シーア派社会・・・・7世紀にウマイヤ朝軍に殲滅された記憶を再生産してきた。フセイン政権下でいかに被害を受けてきたか、その犠牲者としての立場をシーア派の歴史に重ね合わせて、宗派的シンボルを惜しげもなく自己主張に使用する。
②スンナ派社会・・・・外国支配、植民地統治に抗するナショナリストとしての犠牲の大きさを語る。
(5)湾岸地域内のパワーバランスの変化
9・11後、ペルシャ湾岸地域内のパワーバランスが変化した。これが中東の「宗派対立」に決定的影響を与えた。
米国の対中東政策は9・11までサウディなど親米湾岸アラブ産油国と協力して、イラン、イラクの両勢力を域内で封じ込めるというものだった。
ところが9・11後、バランスが大きく変化する。アフガニスタン戦争でもイラク戦争でも、近隣の地域大国たるイランの役割が重要となった。イラク戦争後、イラクの政権がイランの影響の強いシーア派イスラーム主義政党に担われるようになり、内戦や対IS対策で治安上シーア派民兵の活動に依存せざるを得なくなると、ますます背後にあるイランを無視することができなくなった。
逆に米国との関係がぎくしゃくしたのがサウディアラビアだ。ビンラーディン自身や9・11の実行犯の多くがサウディ国籍だったこと、湾岸アラブ産油国出身のISやアルカーイダとの資金的つながり、さらにはサウディの非民主的体制にもかかわらず米政権が協力関係を維持していることに疑問を抱く米世論などから、9・11以降の米・サウディ関係は緊張感を含んだものとなった。
<例1>形式的であれ「アラブの春」の民主化を支持するオバマ政権は、バハレーンの反政府デモに介入したサウディなどGCC諸国に対して好意的な反応はしなかった。
<例2>その2年後、シリア内戦においてシリア政府軍を攻撃する、といったん手を挙げながら軍事介入を取りやめた。シリア反政府勢力を支援してきた湾岸アラブ諸国には、オバマの心変わりは衝撃であった。
特にサウディの神経を逆なでしているのが、米政権のイランとの接近だ。
9・11後の湾岸地域の域内勢力のバランスの変化と、米国の中東政策の変化によって、サウディアラビアはイランとのむき出しの対立関係に晒されることになった。それが「宗派対立」の本質にある。つまり「宗派」というよりは、サウディアラビアとイランの域内覇権抗争、「中東新冷戦」が根幹にあるのだ。
だが、冷戦が域内全体を巻き込むには、それぞれ自派の立場を正当化する論理が必要だ。そこで持ち出されるのが宗派だ。相手の宗派がいかに非愛国的で、対外従属的で、社会の連帯を破壊するものであり、秩序を乱すものか、を強調する。シーア派のイラン、イラクは、ISなどスンナ派の武装勢力を「タクフィール主義者」(他者を異端扱いする排外主義者)と非難する。一方でスンナ派諸国は、イランやイラクなどのシーア派政治家を「ターイフィーヤ」(宗派主義者)と非難する。
換言すれば、シーア派はスンナ派を、自分たちを排除するものとみなし、スンナ派はシーア派を、共同体から分派して出ていこうとしているものとみなしている。双方とも相手をイスラーム共同体を破壊するものとみているのだ。
つまり、シーア派対スンナ派という宗教的対立構造は、9・11以降大きく崩れた湾岸、ひいては中東全体の「共同体」をどちらが「正しく」代表しているかを競い合う、その正当化のために持ち出された論理だ。イランもサウディアラビアも、どちらも「正しさ」を打ち出すために宗派性を持ち出しているのだ。
(6)国際社会の最大の失敗とは何か
9・11が残した最大の遺恨は、誰が「正しいか」を巡って命を賭ける殺人が是である、という認識ではあるまいか。その「正しさ」のなかでも「犠牲を受けた者だからこそ掲げることのできる正しさ」が、圧倒的な説得力を持って軍事行動を容認することになった。
(a)9・11を実行した犯人とその組織の攻撃の犠牲になった米国は、絶対に「正しい」。だから、それらをかくまうアフガニスタンやイスラーム社会全体に対して、何をやってもよい。
(b)フセイン政権下で犠牲になり続けてきたシーア派社会は絶対に「正しい」。だから、宗派色満載のシンボルが祖国を埋め尽くしても、かまわない。
(c)シリア内戦でアサド政府軍やロシア軍の破壊的な攻撃の犠牲となるスンナ派の住民たちは、絶対的に「正しい」。だからジハードに身を投じてまでも、全世界のイスラーム教徒がISに馳せ参じる。
9・11後の国際社会の最大の失敗は、その「正しさ」の横行に歯止めをかけられなかったことだ。「正しさ」の主張が乱立すること、「正しさ」が裏切られたときにそれを絶望のまま放置したことが、この15年間の国際社会の混迷を生んでいる。
なぜアルカーイダが、ビンラーディンが、タリバーンが、9・11を「正しい」と主張するに至ったのか、なぜ彼らの「正しさ」が9・11に至るまでの過程で他の「正しさ」と折り合いをつけることができなかったのか。そうした根本的な問題は、15年経てもなお解明されていない。解明されていないから、それが再発することを予防する手立てを得られていない。
その間に、「正しさ」を裏切られた人びとが、新たに自分たちだけの「正しさ」を見つけては、戦いを繰り広げていく。それを解きほぐす糸口はまだ見えない。
□酒井啓子(千葉大学教授)「誰が「正しい」かを競う戦い 9・11から中東の宗派対立へ」(「世界」2016年10月号)
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【参考】
「【酒井啓子】国際社会の最大の失敗とは何か ~中東・宗派対立の起源(6)~」
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「【酒井啓子】9・11が開けたパンドラの箱 ~中東・宗派対立の起源(1)~」