語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【言葉】西欧人から見た日本の自然

2010年03月24日 | エッセイ
 秋、晴れた空、紅葉、古寺、谷川、これだけ言えば、フランスの秋も日本の秋も変わりはないように見える。しかし実際にそこにいてみると、何という大きな違いだろう。それはよい、悪いの問題ではない。自然までがちがう。それはどういうことだろう。一度だけ来日中のサルトルに会ったことがあるが、日本では自然までが違う、と言っていた。そしてサルトルは、自然は一つの筈だが、とつけ加えた。だからかれは、そう言った時、風土のちがいを決して忘れているわけではないのだ。そういうものを考慮に入れても、日本の自然はいかにも特殊だ、と言いたかったのだと思う。私にとっては、それは日本の自然は人を孤独にしない、という点に要約できると思う。人間の感情があまりにも深く自然に浸透している。そういう感じである。どういう風景を見ても、それと直接触れることができない。そこには先人によって詠まれた和歌や俳句がすでに入りこんで来る。日本の自然は余りにも人によって見られており、また日本人は、そういう温か味のある自然を求めているようである。そしてこれは人間と人間との関係がそこに投影されているだのだと思う。だからそれは人を孤独にしない。フランスではその逆のようである。自然はあくまで自然としてそこに在る。そういう自然の中に入る時、人は孤独になる。そしてこの関係は、人間同士の間にも投影される。人間はあくまで自然存在を強く帯びており、その孤独の中から人間経験が生まれてくるのである。

【出典】森有正「遙かなノートルダム」(『遙かなノートルダム』、筑摩書房、1967)
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書評:『鶴』

2010年03月23日 | 小説・戯曲
 自分が短編小説のアンソロジーを編むならば、どの作品をえらぶことになるだろうか。
 長谷川四郎の初期の短編は、はずせない。ただ、一作家一編の制約をもうけると、選択に難儀する。『シベリア物語』と『鶴』の諸作品は、いずれも甲乙つけがたく、選出するのに悩む。
 あえて蛮行をおかすならば、短編集の表題作になっている『鶴』をえらびたい。

 ごく簡単にいうと、戦友が脱走する話だ。
 この戦友、矢野一等兵は、語り手吉野と友情めいた交情があって、その関わりが短い小説の過半を占める。暢気な、ともいえる語り口で進行するのだが、小説がおわりに近づくころ、急転直下の展開になる。
 矢野は、遠謀深慮から不寝番の順番を吉野と代わってもらう。吉野は、戦友が脱走を敢行するまで気づかない。加えて、矢野が期待したらしいとおりに、友情から上司への報告を故意に省いてた。それまで二人がわりと親しかったのは周知の事実だったであろうし、主人公が立哨中の(またはその直前)の事件である。とがめられなかったのは、静穏がつづいて士気がたるんでいたせいか。
 いや、軍隊という階級社会の非情さは描かれてはいる。ただ、長谷川四郎らしい静かで茫洋たる描き方なので、うっかりすると見逃してしまうのだ。
 監視哨舎が砲撃を受けて、監視兵たちは後方へしりぞく。退却の道が開けたとたん、将校は望遠鏡を置き忘れてきたことに気づく。そして、これは軍律違反であることも思い出す。そこで、「誰か一人行って」とってきてくれ、と命令をくだす。「確信を失い、従来の傲慢さがなくなって」「懇願の調子」で。将校は「漠然と」下士官に命令を発し、下士官はこれを上等兵へ、上等兵はこれを古年兵へ、古年兵はこれを主人公に伝える。「最後に私に届いた時は、それは全員の発した命令のようになっていた」
 かくて、吉野は死地におもむく。あらかじめ定められた道をあゆむかのごとく、飄々たる軽さで監視哨舎へたち戻る。片われのいない道行である。そして戦死するのだが、死の直前まで冷静かつ茫洋たる語り口は乱れない。あたかも死者の霊が語るかのように。

 長谷川四郎は、南満州鉄道株式会社に入社後、1944年に応召、興安嶺の山中でソ連軍の捕虜になり、シベリアに抑留された。帰国は1950年。
 翌1951年に『シベリア物語』を書きはじめた。当時42歳。
 作家として出発した当初から、大人の風格をただよわせていた。太宰治と同年生まれの長谷川は、太宰とは逆に主観的な言辞を漏らさない。一見無表情で、低音の淡々とした語り口の背後には、一種の含羞があり、ある種の諦念があり、諦念は頑健な肉体によって、時に大陸的な茫洋たるユーモアと化して噴出する。
 長谷川の公平で透徹したまなざしは、自分自身をも相対化する目から発っしている。当然ながら、日本人と中国人とを人間として区別しない。短編集『鶴』の冒頭におさめる短編『張徳義』は、戦さに翻弄される中国の民衆を張徳義という一個人をつうじて感傷のない乾いた文体で描きつくす。

 短編『鶴』は、軍隊の厳しい階級構造を相対化し、軍人の掟に従って死地へおもむく語り手吉野を相対化し、すべてを大陸的茫洋が穏やかに包みこんで、あとに醇々乎たる読後感をのこす。この読後感は、『シベリア物語』と『鶴』の全編が与えてくれる。

□長谷川四郎『鶴』(『現代日本文學体系第73巻 阿部知二・田宮虎彦・丸岡明・長谷川四郎集』、筑摩書房、1973、所収)
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【言葉】意見と事実

2010年03月22日 | ミステリー・SF
 さて諸君、おもしろい話を聞いたね。われわれの意見はひとまずおいて、まずさしあたってわれわれが行わねばならぬことは、今の話をできるだけ事実と照合してみることだね。

【出典】F・W・クロフツ(長谷川修二訳)『樽』(創元推理文庫、1959)
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【言葉】発想の転換

2010年03月21日 | ミステリー・SF
 プレストンを考え込ませたのは、それらが何であるかではなく、何でないかということだった。

【出典】フレデリック・フォーサイス(篠原慎訳)『第四の核』(角川文庫、1986)
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【大岡昇平ノート】『萌野』

2010年03月21日 | ●大岡昇平
 大岡昇平には少なからぬ紀行文がある。フィリピン、米国、欧州、ソ連、中国といった海外がもっぱらだが、私小説的な「逆杉」や日記ふうの「土佐日記」も紀行文に含めてよい。
 原型は一連の俘虜ものの番外編、『敗走紀行』に遡ることができる。通常は戦記の範疇にふくめられるが、大岡昇平が描くところの敗走行には一種の解放感が漂い、それは不思議と旅のもつ自由きままさに通じている。
 本書も紀行文だが、他のおおくが孤独な旅人であったのに対し、旅先に家族がいた点で他の紀行文と事情が異なる。家族すなわち長男及びその嫁である。嫁の博子は臨月だった。要するに、本書は、異国の旅をつづる紀行文であると同時に、家族との関わりをつづる私小説でもある。

 大岡昇平の長男貞一は、慶応大学社会学科卒。1967年に結婚し、同年夫婦ともども渡米した。1971年にプラット・インスティテュート芸術大学(ブルックリン)を卒業後、同年6月にデイヴィス・ブロディ建築事務所(ニューヨーク)に採用された。このあたりは大岡昇平研究家には必須の知識だ。

 大岡昇平が、1972年4月1日から1週間、ヴァンクーバー経由メキシコ行の航路を開設した日本航空のイノギュレーション・フライトに加わり、帰途、ニューヨークに立ち寄った目的の第一は夫婦に会うことだが、長男に帰国をそれとなく勧めるが目的の第二、滞在中に初孫が産まれた場合には祖父の役目をはたすのが第三であった。
 結果としては、第二点と第三点は果たせなかった。長男の上司の好意で建築士の資格をとるために夜学に通うことになり、滞在はさらに4年伸びるのが必至となったからである。そして、初孫の萌野は、帰国後の5月3日に誕生した。

 しかし、目的の第一点は有意義な結果を残した。2年間ぶりに再会した長男に、これまで著者が思いこんでいた資質とは違ったそれを息子に発見したのである。何事も見とおさなければ気がすまないこの明晰な作家にとっては、嬉しい誤算だっただろう。
 親子の仲は微妙である。親にとっては子どもは何時までも子どもで、ことに未熟な頃の印象が脳裡に強くのこる。
 大岡昇平の目にうつる息子は、リースマンのいわゆる「他人志向型」、「いくら反対してもむだなんじゃないかね」という哲学の持ち主であった。1960年、17歳のとき、安保改定に賛成で、彼の姉、鞆絵から「怒れる17歳じゃなくて、いかれた17歳ね」と揶揄されたほどだった。
 しかるに、「テイイチは野心的ですよ」と息子の上司から太鼓判をおされて、大岡昇平は耳を疑う。そして、いい気分になって、言わずもがなの冗談を口にしたりする。プラット芸大の成績は上位だったが、この事実をこれまで言わなかったのも大岡昇平の気に入った。
 子どもと親との生活年齢の絶対的な差は変わらないが、精神年齢は、親の伸びぐあいにくらべて子どもの伸びは急なのだ。その変化を親が知るのは、第三者による積極的な評価を耳にしたときだ。
 かくて、大岡昇平は不案内なニューヨークで息子の「保護下にある幸福」を感じるのである。

 もっとも子どもの自我の成長は、親に幸福のみをもたらすわけではない。
 初孫の命名について、moyaは重い、と大岡昇平がいくぶん否定的評価をくだすと、長男は長男の思いに固執する。夫婦の諍いが解消した時、「靄」がそこにあった。その思い出につながる「靄」に音が通じる「萌野」は、捨てられないのだ。
 小さな意見の相違は、貞一はテイイチと読むのかサダイチなのか定かではない、と長男が口ばしるに及んで大岡昇平はカッとする。自分が出征すれば死は免れないだろう、自分の父の一字をとって名づければ、当時1歳の長男を親族はほっとかないだろう。こうした配慮をこめた命名なのだったが、名づけた当人から苦情を申し立てられてはたまらない。
 翌日さっそく電話を入れてさりげなく冷却期間を置くことにしたり、長男及びその上司たちとの会食で初孫の名を軽く冗談めかして話題にし、わだかまりを解消する工夫に忙しいが、どうやら息子のほうでは、いつものこと、と悟っている気配だ。このあたり、親子の微妙な関係がうかがわれて、少々可笑しい。
 大岡昇平の古風な義理人情、人柄の暖かみを語る人は多いが、彼の気くばりは他人にも子にも発揮されたわけだ。
 本書にはかかる挿話がいくつも披露される。いずれも観点はホテルに仮寓する著者だし、相手は自宅で暮らす息子夫婦だから、いくぶん一人相撲めくが、その分大岡昇平の神経のこまやかさと純情がひしひしと伝わってくる。

 しかし、本書は家族関係のみを描いているわけではない。この旅人は、あふれるほどの知的好奇心の赴くままに行動する。
 「ニューヨーク・タイムズ」の分厚い日曜版に掲載の書評、劇評、広告に目をとおして買うべき本、見るべき演劇などをチェックする。
 『ミシュラン』や『世界文化ガイド』ニューヨーク編で美術館、博物館を研究する。ちなみに、美術館の陳列について強い『ギード・ブルー』は手に入らなかった。車で移動する人種には『ミシュラン』で十分なのだ、というのが大岡昇平の所見である。
 かくて、当時評判の「オー、カルカッタ」やシェイクスピア・フェスティバル・グループによる黒人劇「ブラック・ヴィジョン」を見物し、「ゴッドファザー」は中途で席を立ち、映画『時計じかけのオレンジ』には堪能しつつも原作の末尾との違いに着目して「(キューブリック)監督はこの世界制覇暴力のイメージ化をさぼることにより、棘を柔げてショーに扇情的統一を与えた」と評する。「バレーとコンサートは時々東京に来るからニューヨークで見る必要はない」のであった。

 あるいは、ホテルから徒歩1分のモダン・アート美術館に5度訪れて「ゲルニカ」とモンドリアンを「発見」し、後期印象派の画家たちが「実に幸福な時代に生きていたことを改めて感じる」
 作家、文学者としても行動している。日本でたまたま読んでいたブレジンスキイ『ひよわな花』係る書評に目をとめ、書評の紹介と所見を書きつける。
 長男夫婦をかわいがっているユダヤ系老婦人シルヴィヤ・バーコヴィッツが勤めるゴーサム・ブック・マート書店で、『金閣寺』の訳者アイヴァン・モリス(『野火』の訳者でもある)とゴア・ヴィダルという作家兼批評家の論争が載った掲載誌『ニューヨーク・レヴュ・オブ・ブックス』をはじめ、ポー関連文献などを買い込む。
 ちなみに、ゴーサム・ブック・マート書店では、ベンギン叢書の『野火』が正面中央、目につく位置に並べられていた。1971年、David Madden編 Rediscoveries という小冊子で「忘れられた本」が注解された。コンスタン『アドルフ』、ムジール『特性のない男』、ジュリアン・グラック『アルゴールの城』などと並んで『野火』が入っている。「私は日本で唯一『忘れられた』作家になる名誉を持つことになった」
 「忘れられた」ことが名誉なわけはないが、錚々たるたるヨーロッパ作家にまじって陳列されてるのは名誉に違いない。こうしたいくぶん自虐めいた諧謔は、大岡昇平の性癖である。

 前々年フィンランドからパリ、コルシカ島を旅したとき、三島由紀夫の自殺についてたびたび意見を求められた。『萌野』において、大岡昇平は所見を書きしるす。
 日本の文学者は三島由紀夫の政治的な主張にあまり重きを置いていない。文学者は、文学の上でまだすることがあるならば自殺はしない。1961年に『花影』を刊行したとき、自殺の決意をうまく予告することができず、最後の章で「準備はとっくにできていた」と書いた。極めて技巧的な作家であった三島由紀夫はこのくだりを褒めた。三島由紀夫は自分に即して語ったのではないか。その頃、大岡昇平は三島由紀夫の書くものに危険な徴候を感じ、好きになれなくなっていた。三島が「私的暴力を擁して、1970年の安保条約改定期限になにかを企んでいることを隠さなくなって以来。彼はわれわれの前に公然たる敵として現れた」
 だが、4月16日、川端康成の自殺の報に接し、現地はもとより日本からも意見を求められても、大岡昇平は三島由紀夫に対するほど明確な意見を表明していない。元警察総監の立候補応援後、しかも彼が落選した後「少し言動がおかしくなっていた」という噂を長男に伝えるにとどめている。むしろ、川端康成の爽やかな思い出しか書いていない(川端康成自身が選者だった日本文学全集に、2巻を予想した周囲に対して自分の作品は1巻に収録できる、と断言した)。死んでまもない故人への配慮であろう。しかも、三島由紀夫とちがって、大岡昇平にとっては先輩である。ケンカ大岡には、こうした気くばりがある。

 時事への関心も旺盛で、たびたび朝日新聞ニューヨーク支局を訪れては、支局長松田幸雄から北爆やニクソン政権に係るレクチャーを受けている。米国にいるからといってよく見えるわけではない、と松田支局長(当時)はいうが、報道する者の自己限定があって、かえってその言辞が信頼できる。
 それはともかく、時代へのこうした敏感さは、小説は時代を写す鏡、という小説観だけによるのではあるまい。ことに戦争は現代社会、現代政治を読み解く手がかりとして大岡昇平の関心の的だったに違いないし、そうでなくとも自分の戦争体験からしてほっとけない、という気持ちもあったのではないか。

 出立時、「4時29分で61.9度。4月8日に着いた頃には39度前後、12日間の間にニューヨークには春が来たのである」と書く。
 空間の把握に敏感なこの元兵士は、時間の推移にも敏感な人であった。

□大岡昇平『萌野』(講談社文庫、1978)
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書評:『人間、とりあえず主義』

2010年03月21日 | 批評・思想
 なだ いなだは、単純な言葉で、単純でない考えを述べる。
 そして、一見とりとめのないけれども柔軟かつ実際的な思考に、形を与えるネーミングがうまい。「カラミ学」がそうだし、「人間、とりあえず主義」もそうだ。

 「とりあえず主義」とはなにか。
 理屈を徹底させないでもよいから、「とりあえず」実際に何かを行うこと、それが「とりあえず主義」だ。
 神さまがいるかいないか、大切な問題には違いなくても難問である。では、神の存在を証明できないと、朝ご飯を食べられないか。いや、腹がへっては戦さはできぬ。「とりあえず」ご飯を食べてから、つぎに哲学的問題に取り組む。
 あるいは、また、知識も経験も浅い医師の卵は、知識と経験を深めてから医療行為をはじめるのか。いや、未熟なら未熟なままで「とりあえず」診察し、治療する。
 こうした割りきり方が大事だ、と著者はいう。生きている以上、いろんな問題がふりかかってくるのだから、まず目の前の問題を「とりあえず」解決し、難しい問題はあとで(時間的余裕ができたら)考える。

 2,500年前、中国で都が大火に見舞われた。庶民は二度とこんな目に遭わさないでくれ、と天にお願いしようとした。これに対し、時の政治家、子産は考えた。「天の道理は人間にはちと大きすぎる。人間には人間の道理のほうが身の丈にあっている。天に頼らず、人間の力に頼ろう」
 かくて、人々は天に莫大な供物を捧げるかわりに、自分たちの力で火に強い町を再建しようと努力した。「人間、とりあえず主義」者は古代からいたのである。

 「とりあえず主義」は、権威に盲従しないから、時として偶像破壊にいたる。
 たとえば、本書所収の一編「森鴎外はそんなにえらい人だったか」。
 軍医総監に昇りつめた森鴎外は、脚気の原因は脚気菌にあるという説(東大病理学教授がとなえた)の信奉者だった。海軍では、軍医の高木兼寛が食生活改善を進めて、脚気死亡者をゼロにした。しかし、鴎外は改革を頑固に拒否した。ために、陸軍は戦死者と同数の脚気による戦病死者をだした。第三軍、乃木将軍麾下の兵士は脚気でまともに走れず、酔ったようにふらふらと立ち上がって突撃した、と当時の記者は記す。のちに陸軍も食事を変え、脚気死亡者はいなくなった。しかし、陸軍軍医総監、森鴎外は死ぬまで自説の誤りについて語らなかった。文学者としても一言も語らなかった。公私の双方において官僚の処世術、クサイものにはフタ、を通したのである。

 要するに、「とりあえず主義」は、生活人がおのずから身につけている相対主義をすこし徹底させたものだ。一定の前提のもとに一定の結論をだし、行動する。前提が誤っていれば、結論も誤り、その結果まちがった行動をとることもあるが、犯さざるをえないリスクである。前提を可能なかぎり検討する習慣があれば、リスクは小さくなる。
 また、相対主義は、ひとつの見方を絶対化しない。社会には多様な見方をする大勢の人々がいて、かれらと付き合っていかなければならないからだ。
 壮大な体系的理論を正装とすれば、「とりあえず主義」はふだん着だ。日常生活、社会生活をいとなむ者の知恵である。
 本書は、月刊「ちくま」に連載した巻頭コラム、1998年10月から2001年12月までの分をおさめる。何年まえに書かれたものであっても、「とりあえず主義」はいっこうに古びない。ふだん着の強みである。

□なだいなだ『人間、とりあえず主義』(筑摩書房、2002)
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【言葉】下降と上昇の心理学

2010年03月20日 | ミステリー・SF
 サックスは他の三人に向かって宣言した。「上に戻りましょう」膝の刺すような痛みをこらえながら、採石場のへりをじっと見上げる。「下りる前は、そう高いと思わなかったのに」
 「それは、だ。そういう決まりだからさ--丘というのは、登るときは下ったときの倍の高さになるものなんだよ」格言の生き字引ジェシー・コーンはそう言うと、恭しく彼女に道を譲った。

【出典】ジェフリー・ディ-ヴァー(池田真紀子訳)『エンプティ・チェア』(文藝春秋、2001)
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【言葉】アメリカ人に多い姓

2010年03月20日 | ミステリー・SF
 名前・・・・やれやれ、なんと面倒な代物か。例を挙げよう。ジョーンズとブラウンというラストネームを持つ人間は、それぞれアメリカの人口のざっと0.6パーセントを占める。ムーアは0.3パーセント。一番人気のスミスに至っては、驚きの1パーセントだ。この国には300万人近くのスミスがいる(ちなみに、ファーストネームで一番多いのは? ジョン? 外れだ。ジョンは二番手--3.2パーセント。栄えある第一位は、3.3パーセントのジェームズだ)。

【出典】ジェフリー・ディ-ヴァー(池田真紀子訳)『ソウル・コレクター』(文藝春秋、2009)
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書評:『ジョニーは戦争へ行った』

2010年03月19日 | 小説・戯曲
 トランボは、赤狩りに抵抗してしぶとく生き抜いた脚本家である。
 本書は、反戦文学の傑作である。映画化作品も秀作だ。
 時は第一次世界大戦中。米国が参戦し、青年ジョニーも応召した。戦火の中にたおれ、気づいた時には、目は見えず、耳は聞こえない、両手両足はない、顎もなく、舌もなく、鼻さえもない、という肉塊と化していた。しかし、意識は明瞭であった。
 映画では、たえずフラッシュ・バックのように過去へ遡り、あまりにも短いが甘味な女友だちとの交際や、家族たちが想起される。回想はカラー、現実は白黒で区別して表現される。回想のみずみずしさと、凄まじい現実の対比が際だつ。
 振動感と皮膚への触覚しか残っていないが、そのわずかに許された感覚を通じて様々な想像をめぐらす。看護婦あるいは医者の動向、ネズミに対する恐怖。もとより周囲の人々は意識のない植物人間と見なしていたわけだが、こうした状態でも可能なコミュニケーション手段に想到し、「人間」であることを証明する。首を前後左右に動かすことで、モールス信号を送ったのだ。単なる「物体」と目していた周囲の人々の驚愕はいかほどばかりか。意識がないものと勘違いして医学用患者として生存させていた医師は、強い自責の念にかられる(ジョニーの一人称で語られる小説では明瞭ではないが、映画ではまざまざと示されている)。小説ではこうした状態が今後も無限に続くかのようだが、映画ではジョニーの希望による安楽死で終わる。
 本書は、戦さがもたらす悲惨さを徹底して描きつくした。ために、米国で発禁の浮き目にあった。そして、後にヴェトナム戦争反対運動のバイブルとなった。
 しかし、本書に悲惨さのみを見て取るのは誤りだと思う。身体がいかなる状況に陥っても、意識を有するかぎり自己決定は可能な点を示すから、今日では別の読み方もできる。

□ジョン・トランボ(信太英男訳)『ジョニーは戦争へ行った』(角川文庫、1971、原作は1939年刊)
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書評:『エキプ・ド・シネマ Part2』

2010年03月18日 | エッセイ
 高野悦子は、1929年生。東宝退社後、パリ高等映画学院(IDHEC)に留学。岩波ホールが設立された1968年に、同ホールの総支配人に就任した。1974年からエキプ・ド・シネマを主宰し、世界の埋もれた名画の上映する運動を行った。1985年から東京国際映画祭国際女性映画週間のプロデューサーをつとめ、1997年に東京国立近代美術館フィルムセンター初代名誉館長に就いた。

 本書の第1部は、エキプ・ド・シネマの11年目(1984年)から20年目(1994年)までの10年間を回顧し、作品をめぐる話題やエキプをとりまく情勢の変化を綴る。
 映画への愛情ときらめく洞察もさりながら、映画仲間(中野好夫、野上弥生子、川喜多かしこ、山本安英、ルタ・サドゥール夫人)を惜しむ追悼文が読む者の心にしみる。

 第2部は、10年間に上映した53本の作品を紹介する。付録として、LIST OF CAST AND PRODUCTION TEAMS 及び映画祭一覧がつく。
 読者は、一見した作品については記憶をよみがえらせ、観てない作品には食指をそそられるだろう。

 「はじめに」によれば、最初の10年にくらべて、岩波ホールに類似したミニ・シアターが増加した。名画を愛する人がそれだけ増えたわけだ。こうした社会情勢の変化だけではない。高野悦子自身の内面的変化があった。名画の生みの親にはなれなくても育ての親になることはできる、という覚悟ができたのだ。
 育ての親になるとは、名画を紹介し、観る人を増やしていくことだ。
 観る場所は岩波ホールでなくてもよい。めったに岩波ホールを訪れることはできない地方住まいの者も、エキプの運動をつうじて、あるいはその一環としての本書をつうじて、作品の名を記憶しておけば、いずれ観る機会が訪れる。

 たとえば、『歌っているのはだれ?』(ユーゴスラビア、1980)はNHKで放映された。『芙蓉鎮』(中国、1987)は当地でも自主上映された。
 あるいは、ビデオ/DVDがある。たとえば『ダントン』(ポーランド・仏合作、1982)、『マルチニックの少年』(仏、1983)、『ローザ・ルクセンブルク』(西独、1986)、『八月の鯨』(英、1987)、『達磨はなぜ東へ行ったのか』(韓国、1989)。こうした作品のビデオやDVDが日本に普及するにあたってエキプのはたした役割は小さくあるまい。

 著者は、映画の上映を別の大衆運動に展開する「創造的な興行」も試みている。たとえば、アンジェイ・ワイダ監督『コルチャック先生』が岩波ホールで上映されたとき、ポーランドの「クラクフ日本美術センター」建設資金のための募金箱が置かれた。運動は順調に広がり、4年間で参加者は13万人となり、目標額の5億円に達した。1993年5月28日の地鎮祭には高野悦子も出席した。

 映画を愛する思いがみなぎる本書は、映画好きをしてますます深みに誘いこむ、危険かつ蠱惑的な本だ。

□高野悦子編『エキプ・ド・シネマ Part2』(講談社、1994)
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書評:『思考のレッスン』

2010年03月17日 | ●丸谷才一
 しょっぱなから、すごいことが書いてある。「正しくて、おもしろくて、そして新しいことを、上手に言う。それが文筆家の務めではないか」
 文筆業者でなくてよかった、こんな芸当は自分にはとうていできない・・・・などと慌てないように。すぐ後に、この四拍子が全部そろうのは難しい、とつけ加えられている。せめて新味のあることを言うのを心がけよ、と。たしかに、夫子自身はオリジナリティあふれる文章を書きまくっている。

 では、その秘訣は何か。これが本書のテーマである。
 6つのレッスンで構成される。すなわち、(1)思考の型の形成史、(2)私の考え方を励ましてくれた三人、(3)思考の準備、(4)本を読むコツ、(5)考えるコツ、(6)書き方のコツ、である。

 誰にでもできる具体的なレッスンがある。(4)の「本を読むコツ」から例をひこう。
 読みながら、人物表や年表を作るのだ。人物表とは、ハワカワ・ミステリーの最初に用意されている登場人物一覧表のようなものである。これを自分で作る。登場人物の関係図を作ると、理解が深まる。同様に、年表も自分で作り、関係する事項を追加していく。

 しかし、こうしたテクニックより興趣がまさるのは、丸谷が著作をものするきっかけである。
 たとえば、丸谷が少年時代にいだいた二つの疑問だ。その一つは、「日本の小説は、なぜこんなに景気が悪いことばかり扱うんだろう」というもので、これが後年批評家として大成する出発点となった。

 疑問の力はおおきい。
 日本文学史の本はみなつまらない、という不満を丸谷はかねてから抱懐していた。ある日、英国人が詞華集を好きなのはなぜか、という疑問が湧いた。英国人が引用好きなせいではないか。いやいや、日本人も明治以前には詞華集が好きだった、勅撰集や七部集があった。今はよいアンソロジーがない、共同体の文学が失われた。待てよ、これを使ったら日本文学史の時代区分ができるのではないか。・・・・という思考の流れがあって、政治的時代区分を借用していた従来の文学史を一新する『日本文学史早わかり』が誕生した。

 このあたりも、本書で定式化されている。
 つまり、第一によい問いを立てること。
 第二に自分自身が発した謎をうまく育てること。
 そして、これは文章を書くコツにつながる。問いがあり、謎を育てていくうちに言いたいことが出てくるし、言うべきことを持てば、言葉が湧き、文章が生まれるのだ。

 本書は、ハウツー的な発想法としても読めるが、批評家丸谷才一の楽屋裏をのぞくのに格好な本である。

□丸谷才一『思考のレッスン』(文藝春秋、1999。後に文春文庫、2002)
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書評:『青春漂流』

2010年03月16日 | ノンフィクション
 立花隆の数多い作品中、万民に愛された・・・・かどうか知らないが、愛されてしかるべき作品だ。
 11の青春がとりあげられている。

 飛騨高山の山中で家具を手造りする集団「オーク・ヴィレッジ」の漆塗り職人、稲本裕、32歳(当時。以下同じ)。
 アメリカまで名が売れている手づくりナイフ職人、古川四郎、33歳。
 大道芸猿まわしの復活に賭ける猿まわし調教師、村崎太郎、22歳。
 中卒後丁稚奉公し、やがて20店以上を転々とした流れ職人、今は有数の精肉職人として鳴らす森安常義、33歳。
 野生を野生のままに愛する動物カメラマン、宮崎学、34歳。
 事故で自転車競技の選手を断念し、走る側から造る側に転じてフレーム・ビルダーとなった長沢義明、36歳。
 自分は自然の中で生きるしかないと見定めた鷹匠、松原英俊、33歳。
 19歳のときに言葉もわからないフランスへ旅だって修行したソムリエ、田崎真也、25歳。
 はじめの3年間は皿洗いと鍋洗いばかり、料理は芸術だと発見するまで10年間、いまや名レストラン「ランボワジ」のシェフ、斎須政雄、34歳。
 オーストリア、イギリスで働きながあら自分独自の織り方を求め続けた染織家、冨田潤、34歳。
 日本初のフリーのレコーディング・ミキサー、吉野金次、36歳。

 いずれも、当時世の中の多数が願っていた安定した職業からほど遠い職に就いた。職種はさまざまで、共通するのは専門性の高い職人である点と、全員が落ちこぼれであることだ。はやい人は中学生のときに落ちこぼれた。
 ありきたりのコースに乗りたくなかったから落ちこぼれたのだ、と立花は観察する。
 ありきたりのコースは、自分がその仕事についたらどうなるかの予測をたてやすい。本書の11人は、容易に予測できる未来を拒否したから、落ちこぼれたのだ。多数の者が選びがちなコースから落ちこぼれて、独り未知の大海に乗りだし、ひとたび自分を賭けるべきものを見出してから後は、一直線に新しい人生を切り開いてきた。深い森のなかでひとたび方向を定めたら、断固直進するデカルト的意志をもって。
 立花隆は、必要以上の時間をかけて、すなわち最低でも4、5時間、長いときには泊まりがけで語り合った。彼らの「求めんとする意志」に共感したからだろう。

 かつてはありきたりだったコースが、ちっともありきたりではなくなった21世紀の日本。
 本書は、四半世紀以上前のルポタージュだが、独立独歩の青春が今こそ煌めく。

□立花隆、清家冨夫・写真『青春漂流』(スコラ、1975。後に講談社文庫、1988)
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【旅】倉敷

2010年03月16日 | □旅
 倉敷駅を出ると、初夏の熱気がおし寄せてきた。はやくも肌が汗ばむ。
 ぼくらは陸橋をわたり、大通りをまっすぐ進んだ。彼女には初めての街だが、足取りは緩まない。
 ひとたび進路を定めたら、逡巡しない。それが彼女の流儀である。
 美観地区に足を踏み入れた。蛇行する川に沿って松がしげる。いかにもそれらしい古い町なみで、家居の壁は白く、あたかも芝居の書割のようだ。ぼくらは観客であると同時に、演技する役者でもあった。時折カメラをむけると、彼女はポーズして、無言の嬌声をたてるのであった。
 大原美術館の門をくぐったら、まず工芸館のバーナード・リーチにあいさつする。これがぼくの流儀だ。
 そして、東洋館。遠いペルシアの宮廷から時空を越えてここへ流れ着いたラスター彩の皿よりも、磁器に閉じこめられている童話的な小動物のほうがぼくの好みにあう。彼女の好みにも合った。リーチは初めて目にする、と言っていたが、それまでにいくたびか足を運んだぼくと、ほぼ同じ感興を漏らしたのに満足した。
 その人の人となりを知るには、直接たずねる必要はない。美術館で何を見たがって、何に感興をおぼえるかに、黙って耳をかたむければ足りる。
 本館でも、気に入った作品を前にすると、彼女はしばし歩みをとどめ、感想をチラチラと、しかし途切れなく漏らしつづけた。彼女は、みずから絵筆をにぎる人である。
 セガンティニの前で立ち止まると、つぶやきはハタと止んだ。
 『アルプスの真昼』のカンバスは茶色で下塗りされ、細長い筆致による純色が画面に埋めつくしている。紺青の空、草原、群れる山羊、白い潅木に寄りそう牧婦。アルプスの自然が鮮明に浮き彫りされ、しかも真昼の明るさのうちに陰影がともなう。
 セガンティニは、伊東静雄が愛した画家である。識者は、「曠野の歌」の背後に『アルプスの真昼』がある、という。
 伊東は、かれが傾倒したヘルダーリンと同じく、自然をうたいつつも自然を描写しなかった。自然を超える何ものかを見つめた。「曠野の歌」にも描写はない。

   わが死せむ美しき日のために
   連嶺の夢想よ! 汝(ナ)が白雪を
   消さずあれ
   息苦しい稀薄のこれの曠野に
   ひと知れぬ泉をすぎ
   非時(トキジク)の木の実熟るる場しよをすぎ
   われの播種(マ)く花のしるし
   近づく日わが屍骸(ナキガラ)を曵かむ馬を
   この道標(シメ)はいざなひ還さむ
   あヽかくてわが永久(トワ)の帰郷を
   高貴なる汝(ナ)が白き光見送り
   木の実照り 泉はわらひ
   わが痛き夢よこの時ぞ遂に
   休らはむもの!

 彼女は、セガンティニに何を見いだしたのだろうか。
 感想は、その唇から、ついに漏れなかった。
 ぼくの目にうつったのは、その長い髪、瓜ざね顔、ひきしまった口、そして暗く燃える瞳だけだった。

【参考】伊東静雄「曠野の歌」(『定本 伊東静雄全集 全一巻』、人文書院、1971、所収)
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書評:『行動科学への招待 -現代心理学のアプローチ-』

2010年03月15日 | 心理
 ジェーン・エリオットは、米国アリゾナ州ルイスビルの小学校教師である。
 1968年、キング牧師の暗殺を契機に、自分の学級で人種差別の問題をとりあげた。その実験授業は、こんなものだった。

 初日、青い目の人は茶色い目の人より優秀だ、と切り出して、青い目の子ども達を特権的に扱う一方、茶色い目の子ども達には黒い襟をつけさせて差別的に扱った。
 その結果、青い目の子どもたちは茶色い目の子ども達を見下し、差別するようになった。
 他方、茶色い目の子ども達は一日中抑圧された気分に陥り、青い目の子ども達に攻撃をしかける子どもも出てきた。

 二日目、エリオットは生徒達に、自分は間違っていた、実は茶色い目の人のほうが青い目の人より優秀なのだ、と述べて、初日とは逆に茶色い目の子ども達を特権的に扱い、青い目の子ども達を差別的に扱った。
 すると、前日元気のなかった茶色い目の子ども達は生き生きとなり、算数の問題を前日より早く解くことができた。
 他方、青い目の子ども達はうって変わって自信をなくし、同じ算数の問題を解くのにかかる時間が前日より長くなり、茶色い目の子ども達より遅くなってしまった。

 三日目、エリオットは、目の色で人を区別することに意味があるか、と生徒に尋ねた。答えは全員、否定的だった。
 かくて、エリオットは、生徒達に、体の一部を理由に他の者を差別することの不当性を体験を通じて学習させることができたのである。

 実験授業は録画され、全米各地で上映された。その上映会でエリオットは講演し、いろいろな企業で同様の実験を行ってみせた。
 エリオットいわく、「この授業はすべての教育者、そして行政当局に対して行われるべきだ」

   *

 米谷淳(まいや・きよし)は、ここに行動科学のひとつのありようを見る。現実問題に取り組み、実験によって自分の考えを試し、確かめようとする姿勢、自分の経験や知見を一般に広めて社会に役立てていこうとする実践・・・・であると。

 本書は、概説書だが、心理学各分野の基礎知識を単に網羅的に概説するのではなく、序章にしるされた前述の実験にみられるように、生きた人間と動いていく現実に反映される学問という観点を強く打ちだしている。
 この観点は、構成に顕著に見ることができる。社会の中の人間を第1部「関係のなかの私」(青年期の心理と性格、対人行動、集団、異文化の心理、ヒューマンファクター)に、生涯発達を第2部「人の生涯をとらえる」(きずなの発達、自己の発達、現代女性のライフサイクルとライフコース、医療における人間関係)にまとめているのだ。もちろん、概説書として欠くべからざる定石も、序章(心理学の歴史と方法の概観)および第3部「私を支える心のメカニズム」(学習と学習支援、知覚、記憶、思考の主な基礎心理学)で押さえてある。

 第3部の終章では、共同執筆者10名それぞれによる各自の研究模様がスケッチされ、執筆者の人間くささが感じられ、親しみやすい。
 引用・参考文献が豊富だから、さらに学習したい人に役立つ。人名索引、事項索引もきちんと付いている。索引のない本は、底のない桶と同じだ。
 各章ごとに文献案内があり、巻末の詳しい引用文献・参考文献とあいまって、初心者に親切だ。

□米谷淳、米澤好史編著『行動科学への招待 -現代心理学のアプローチ-』(福村出版、2001)
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書評:『エッセイスト』

2010年03月14日 | ●玉村豊男
 フットワークの軽さ、明快な文章で数々のエッセーをものしてきた玉村豊男が、50歳を区切りに書き下ろした半自伝である。
 四半世紀にわたる文筆活動を回想する。

 玉村豊男は、終戦の年に生まれた。言語学に関心をもち、学部学生時代の1968年9月から1970年4月までパリ大学言語学研究所へ留学した。
 ところが、1968年は5月革命が起きた年だった。
 ために、もっぱら本を読み、友人と交友する日々となった。通訳のバイトをきっかけに、放浪の旅へのめりこんで「遊学」の徒となり、フランス内外の各地で人々の生活と文化にふれた。料理に目覚めたのもこの頃である。

 帰国して就職活動をしたものの時期が遅くて就職口が見つからなかった。
 つてをたどってやっとフジテレビに潜り込んだが、採用が内定されたフジテレビは合宿の段階で辞退。組織になじめなかったのである。

 以後、通訳、添乗員、技術翻訳、雑文書き、その他で生活を支え、やがて筆一本で生きることになった。
 32歳で処女作を刊行し、フリーのエッセイストとして次第に業界に名を知られていった。
 38歳のとき軽井沢に本拠を移した。当時珍しく、高価でもあったファックスを導入することで、原稿の注文と発送をこなしたのである。

 自営業のシビアな事情が「取材と必要経費」で記される。
 コピー機などの設備に要する費用、電話代・交通費その他もろもろの経費は自分持ちだから、サラリーマンと同じレベルの仕事と生活を維持するには、フリーは2.5~3倍の年収が必要である。それでも給料取りは性に合わない、やってなんぼの稼ぎ方がいい、と著者はいう。

 ところで、エッセイストとは何か。
 著者の考えは次のとおりだ。
 (1)小説とちがって作り話をしない。
 (2)ノンフィクション(ルポ)よりも私的である。
 (3)随筆とくらべるとより考察的な散文の形式で、扱うテーマに制限はないが、どんなテーマを扱ってもそれに対処する自分というものが同時にひとつのテーマとなっており、思索や考察も日常感覚に根ざした筆者の等身大を越えない。天下の大事を語らず、大義も説かず、口先だけの話もしない。
 (4)記述はかならず体験に裏づけられていなければならず、感想は生活者の視点から語られるが、つねになんらかの意味で、面白いものでなくてはならない。

 ここでいう「面白い」とは、単に楽しいとか笑えるとかいうことではない。
 この言葉は、目の前がパッと明るくなる、白くなるというのが元の意味だ。転じて、目前の風景が急にクリアーになり、明快になり、目からウロコが落ちる、ということ。
 日常の誰もが目撃する光景、どんな人生にもありそうな出来事、だれも見逃してしまいそうなささいな事柄を語りながら、だれも気づかなかった物の見方をさりげなく呈示する。このあたりがよくできたエッセイの醍醐味である。要するに、「エッセイストは試みの人生を生きる人」だ。
 たしかに、玉村豊男の半生をたどると、夫子自身いろいろと試みることの多い人生ではあった。

□玉村豊男『エッセイスト』(中公文庫、1997)
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