序文がきわめて長いから、本書は3部構成とみてよい。
すわなち、(1)「序 宇宙・人類・書物」、(2)「週間文春」に5週間ごとに連載した「私の読書日記」(1995年11月から2001年2月まで)、(3)1冊の本を徹底的に批判した「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」・・・・である。
(1)では、書評を(ア)批評に重点を置くものと、(イ)内容の紹介に重点を置くものとに分け、著者は自分の書評を(イ)に分類する。
小賢しい批評を付すより、どんなことが書かれているのか、また、そのさわりを要約ないし引用するほうが未読の読者にとって親切だ、というわけだ。わざわざ買ってまでして読むに価するか否かの手がかりになるからだ。
評語がない場合でも、要約ないし引用する箇所の選択それ自体、批評となっている。文献や論文のアブストラクトに似た感じだが、書評する者がさわりを選択する点で、多くは書き手自身が要約・抜粋するアブストラクトとは異なる。
著者が重視する「内容」は、もっぱら資料的価値のように思われる。だから、初版本や稀覯本をそれ自体貴重なモノとして大事に扱う、といった態度からほど遠いのが著者の読書術だ。遠慮なく端を折ったり、書き込んだり、破いたりもする。
愛書家には心臓に悪い読書術だが、読んだ本を血肉化するにはそこまでやらなければならないらしい。
(2)は、立花式書評の実践例だ。「私の読書日記」でとりあげた本は、自分の仕事をこなす都合上買った本ではなくて(部分的にはそんな本もあるらしいが)、書評するために(あるいは興味のおもむくままに)わざわざ買いこんだ本がもっぱららしい。サービス精神たっぷり、と言わねばならぬ。特に評価したいのは、高価でふつうの読者には簡単には手が出ない本をどんどん紹介していることだ。
たとえば『ピエール・ベール著作集』。全8巻、4万7千円。ピエール・ベールは17世紀のフランスの思想家、徹底的な宗教批判、歴史批判を展開して、近代社会の思想的基礎づくりをした人である(らしい)。著者の筆は、ベールの紹介から本作りまでおよぶ。価格からして、あるいは思想史というジャンルからして、多くの人にとってはまず買わない本だが、紹介されたさわりを読むだけでもトクした気分、ひとつ悧巧になった気分になる。
価格は手ごろでもふだん興味をもっているジャンルではないから店頭で目にしても看過したにちがいない本、しかしさわりを読んで一読してみようか、という気になる本もある。
たとえば、ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』。米国イロコイ族が代々語り継いできた口承の歴史を文字に記したもの。氷河期にユーラシア大陸からベーリング海峡を渡ってきた。紹介されたさわりを読んで、すくなくとも評者は好奇心をかき立てられた。
(3)は、著者がきちんと書評するとなれば、あるいは、ある主張を徹底的に批判するとなれば、ここまでやる、という見本だ。「関連性がない仕事をしていても、思いがけないコンテクストで、前に使った資料が必要になってくることが少くない」という指摘は、著者よりもはるかに狭い分野で動いている人にも思いあたるところがあるはずだ。
本書でとりあげられている本は、ノンフィクションが多い。事実に関心をもつ者にはとてもありがたいが、絵空事に関心のある者は本書にあまり関心をもてないだろう。そういう人は、絵空事中心の書評を読めばよい。さいわい、この分野の書評は浜の真砂ほど出版されている。
もっとも、著者は文学にも(量的にはすくないが)目くばりしている。たとえば、天沢退二郎訳『ヴィヨン詩集成』。「当代一流の詩人の手になる」との評語がある。青年時代はともかくとして近年は文学とはあまり縁のなさそうな著者だが、その作品は難解をもって鳴る詩人の天沢退二郎に、そしてその著作に目をつけるとは、さすがだ。引用されたバラードが読者を誘惑する。
掲載書目一覧が巻末に載っているのは、この手の本として当然の配慮だ。これもありがたい。
□立花隆『ぼくが読んだ面白い本、ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫、2003)
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すわなち、(1)「序 宇宙・人類・書物」、(2)「週間文春」に5週間ごとに連載した「私の読書日記」(1995年11月から2001年2月まで)、(3)1冊の本を徹底的に批判した「『「捨てる!」技術』を一刀両断する」・・・・である。
(1)では、書評を(ア)批評に重点を置くものと、(イ)内容の紹介に重点を置くものとに分け、著者は自分の書評を(イ)に分類する。
小賢しい批評を付すより、どんなことが書かれているのか、また、そのさわりを要約ないし引用するほうが未読の読者にとって親切だ、というわけだ。わざわざ買ってまでして読むに価するか否かの手がかりになるからだ。
評語がない場合でも、要約ないし引用する箇所の選択それ自体、批評となっている。文献や論文のアブストラクトに似た感じだが、書評する者がさわりを選択する点で、多くは書き手自身が要約・抜粋するアブストラクトとは異なる。
著者が重視する「内容」は、もっぱら資料的価値のように思われる。だから、初版本や稀覯本をそれ自体貴重なモノとして大事に扱う、といった態度からほど遠いのが著者の読書術だ。遠慮なく端を折ったり、書き込んだり、破いたりもする。
愛書家には心臓に悪い読書術だが、読んだ本を血肉化するにはそこまでやらなければならないらしい。
(2)は、立花式書評の実践例だ。「私の読書日記」でとりあげた本は、自分の仕事をこなす都合上買った本ではなくて(部分的にはそんな本もあるらしいが)、書評するために(あるいは興味のおもむくままに)わざわざ買いこんだ本がもっぱららしい。サービス精神たっぷり、と言わねばならぬ。特に評価したいのは、高価でふつうの読者には簡単には手が出ない本をどんどん紹介していることだ。
たとえば『ピエール・ベール著作集』。全8巻、4万7千円。ピエール・ベールは17世紀のフランスの思想家、徹底的な宗教批判、歴史批判を展開して、近代社会の思想的基礎づくりをした人である(らしい)。著者の筆は、ベールの紹介から本作りまでおよぶ。価格からして、あるいは思想史というジャンルからして、多くの人にとってはまず買わない本だが、紹介されたさわりを読むだけでもトクした気分、ひとつ悧巧になった気分になる。
価格は手ごろでもふだん興味をもっているジャンルではないから店頭で目にしても看過したにちがいない本、しかしさわりを読んで一読してみようか、という気になる本もある。
たとえば、ポーラ・アンダーウッド『一万年の旅路』。米国イロコイ族が代々語り継いできた口承の歴史を文字に記したもの。氷河期にユーラシア大陸からベーリング海峡を渡ってきた。紹介されたさわりを読んで、すくなくとも評者は好奇心をかき立てられた。
(3)は、著者がきちんと書評するとなれば、あるいは、ある主張を徹底的に批判するとなれば、ここまでやる、という見本だ。「関連性がない仕事をしていても、思いがけないコンテクストで、前に使った資料が必要になってくることが少くない」という指摘は、著者よりもはるかに狭い分野で動いている人にも思いあたるところがあるはずだ。
本書でとりあげられている本は、ノンフィクションが多い。事実に関心をもつ者にはとてもありがたいが、絵空事に関心のある者は本書にあまり関心をもてないだろう。そういう人は、絵空事中心の書評を読めばよい。さいわい、この分野の書評は浜の真砂ほど出版されている。
もっとも、著者は文学にも(量的にはすくないが)目くばりしている。たとえば、天沢退二郎訳『ヴィヨン詩集成』。「当代一流の詩人の手になる」との評語がある。青年時代はともかくとして近年は文学とはあまり縁のなさそうな著者だが、その作品は難解をもって鳴る詩人の天沢退二郎に、そしてその著作に目をつけるとは、さすがだ。引用されたバラードが読者を誘惑する。
掲載書目一覧が巻末に載っているのは、この手の本として当然の配慮だ。これもありがたい。
□立花隆『ぼくが読んだ面白い本、ダメな本 そしてぼくの大量読書術・驚異の速読術』(文春文庫、2003)
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