極和ファシリテーター養成スクールでは、
「学び愛」「磨き愛」を合言葉に、メンバー全員がお互いの成長に
貢献しあおう!と心をひとつにしていますが、
磨き合う・・・ということは、時には「痛い」こともあります。
ゴシゴシ磨けば体が痛いのと同じように、
ファシリの「磨き愛」でも、磨かれれば心がイタイこともあります。
ですが、そこを磨けばその人がキラキラ輝くのであれば、
ちょっとぐらい痛みをガマンしても磨いた方がピカピカになります。
そのようなときに、
「私たちは“痛がり”だから、このぐらい磨き合えばいいよね♪」
と、妥協したりしてはいないでしょうか?
また、「私たちは体が硬いから、背中は届かないけどしょうがないよね。」
と、しっかり背中を磨くことを諦めてはいないでしょうか?
同じように磨き合わない仲間がいると、
自分だけじゃないし・・・と安心できるかも知れませんが、
それは「真の磨き愛」ではなく、「傷のなめ合い」のようなものです。
「真の磨き愛」とは、例え相手が磨いてくれなくても、
例え磨いた時に「イタイ!イタイ!!」と逃げ回っても、
ここを磨かないと綺麗にならないから!!と、
断固として磨く勇気も必要なのです。
もしもそうしたら、人の嫌がることをしてなんて人なの?
私はこんなにイタイ!って言ってるのに・・・と、
その人に恨まれるかも知れません。
恨まれるのが怖くて磨かないのであれば、
それは最初から「愛」ではありません。
自分が大事なだけです。
「私はまだできないけど、あなたならこうすればきっとできるわよ♪」
「私も頑張るから、あなたもこの部分頑張って♪」
「あなたの苦手なところ、私も最初はできなかったけど、こんなふうに工夫したら
少しできるようになったからやってみて♪」
「私たちまだまだかも知れないけど、お互い痛くても磨き合おうね♪」
このような会話が出てくれば間違いなく「磨き愛」です。
スクール生の言葉の中に、
できないことを言い訳したり、開き直ったり、
できなくてもできない仲間がいるうちは安心だわ♪
なんだか、そんな空気を感じてしまって、
それじゃ傷をなめ合ってるだけで、磨き愛じゃないじゃない!!
ちょっとそんなことを感じたので書いてみましたが、
スクール生の皆さん
見せかけの磨き愛ではなく、
「真の磨き愛」をしていますか?