JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
10年以上前に御紹介した券も再度御紹介しようかと思います。
古紙蒐集雑記帖
鉄道省 會津若松驛発行 東京市内ゆき片道乗車券
昭和17年10月に磐越西線会津若松駅で発行された、東京市内(現・東京都区内)ゆきの片道乗車券です。
桃色GJRてつだうしゃう地紋のA型一般式大人・小児用券です。3等券のために桃色となっており、郡山駅の途中下車印が捺印されています。
発駅の会津若松駅の「會」や「通用發賣日共3日」、「4圓50錢」、「下車前途無效」などの旧字体が散りばめられています。
裏面です。
裏面には着駅である「東京市内」がどの区間内なのかが分かるよう東京市内の路線図が書かれており、「下圖(図)省線内の一驛(駅)行」と記載されています。
この路線図を見ると、京葉線などの新規開業路線を除き、現在の東京都区内のエリアと変わりないことがわかります。
鉄道省 蒲田から35銭区間ゆき地図式券
本日は69回目の終戦記念日です。終戦記念日に因んで、戦争関連の乗車券を御紹介いたしましょう。
昭和19年4月に蒲田駅で発行された、3等35銭区間ゆきの片道乗車券です。
白色無地紋のB型地図式券で、東京印刷場にて調製されたものと思われます。
昭和18年ごろから戦局が激しくなってくると、乗車券を印刷する用紙やインク、印刷工の人数に至るまで節約をしなければならない状況となり、東京印刷場では比較的偽造のしにくいと考えられていた地図式券に関して地紋の印刷を省略することが認めれられ、この時期に印刷された地図式券については無地紋の券紙を使用して調製されています。
また、日本史の時間に聞いたことがある「帝国議会」において、「戦時下ニ於ケル鉄道運営ノ現況並ニ一般経済ノ諸情勢二鑑ミ陸運ノ強化ヲ図リ併セテ購買力ノ吸収卜旅客輸送ノ調整二資スル為鉄道運賃ニ付左ノ措置ヲ講ズルモノトス」という決定があり、昭和19年4月1日以降、普通運賃の他に3割を上限とする「戦時特別運賃」が加算されるようになりました。そのため、この券には戦時特別運賃が加算されていることを表すため、左上に「特別運賃共」という表記があります。
路線の並びは現在の路線図とほぼ同じですが、当然ながら総武快速線や横須賀線(品鶴線)、京葉線の記載はありません。
都心方面の着駅は山手線高田馬場~代々木~中央東線代々木間、駒込~鶯谷間および常磐線三河島、総武本線両国から亀戸間となっており、横浜方面は東海道線東神奈川および鶴見線浜川崎~昭和間および大川支線の終点である大川です。
地図で見ますと大川が途中駅のような感じになってしまっていますが、大川駅は末端の盲腸駅ですので、ミス図版ということが言えます。
鉄道作業局 レプリカ乗車券
前回エントリーで国鉄が作成した帝國鉄道廰のレプリカ硬券を御紹介いたしましたが、同時に鉄道作業局時代のレプリカ券もございますので、御紹介いたしましょう。
桃色鉄道作業局地紋のA型券です。やはり、昭和47年の鉄道100年を記念して、国鉄東京印刷場で作成されたレプリカ券です。
「富士登山回遊乗車券」というこの券は企画乗車券の元祖のような券と思われますが、中央本線の飯田町駅から大月駅までの乗車券と、東海道本線(現・御殿場線)御殿場駅から新橋までの環状乗車券となっており、途中大月~御殿場間を富士登山で走破するものです。
「回遊乗車券」とは環状の乗車券である、という記述のサイトを見かけたことがありますが、ここでの回遊乗車券は企画乗車券の一種と考えられます。
この時代ですと尋常小学校ではひらがなではなくカタカナから教育をしたからでしょうか、ひらがなは一切なく、漢字とカタカナで券面が印刷されています。
そして、面白いことに運賃の表記が「賃金ハ掲示ヲ見ラルベシ」と記載されており、もしかすると季節によって運賃が変動していたのかもしれません。
地紋部分を拡大してみました。
鉄道作業局という文字を中心として、帝國鉄道廰のもの同様に紙幣のような文様が描かれています。
鉄道作業局は帝國鉄道廰の前身で、明治30年に逓信省鉄道局の現業部門が分離された時にできた部署で、鉄道局が監督行政のみを所管していたのに対し、鉄道作業局は現業部門全体を管理していました。
鉄道作業局は発足してから10年後の明治40年に、帝國鉄道廰に改組されています。
帝國鉄道廰 レプリカ乗車券
昭和47年10月に国鉄東京印刷場が作成した、帝國鉄道廰(帝国鉄道庁)時代の乗車券のレプリカです。
東京印刷場で調製されたA型の一般式券で、帝國鉄道廰地紋の当時の様式を再現したものとなっています。
帝國鉄道廰は、明治40年に逓信省(後の運輸通信省。現在の国土交通省の母体。)鉄道局から分離された逓信省外局である鉄道作業局から改組された組織で、鉄道を運営する現業部門として設けられましたが、監督部門と現業部門が分かれていることによる混乱から、翌41年には鉄道局と統合されて鉄道院に改組され、実質1年足らずの組織であったようです。
そのため、帝國鉄道廰時代の乗車券は明治40年から41年の1年間に発行されていたこととなり、発行期間が極端に短かったことから実物はさほど現存していないものと思われます。
国鉄東京印刷場では、鉄道100年を記念して、このレプリカ乗車券を作成し、乗車券見本帳に添付して関係者に配布されましたが、縁あってその中の1枚が私のコレクションとして手元に保管されています。
御紹介の券は、志ながは(=品川)からおほさか(=大坂。現、大阪)までの3等常備片道券で当時の様式が再現されています。当然ながら、明治40年から41年の間に発行されたものが原型となっているものと思われますので、当時の乗車券はこのようなものであったのでしょう。
地紋は桃色で、真ん中に「帝國鉄道廰」を配置し、放射状に現在でも紙幣や有価証券等に描かれている文様のような地紋になっています。
「帝國鉄道廰」部分の拡大です。「國」と「廰」の文字が旧字体となっており、明治時代ですから右側から読むようになっています。
当時の券は、注意書き等は漢字が使用されておりますが、発駅および着駅についてはひらがなが使用されておりました。これは当時はまだ日本人の識字率が低かったためにひらがなが使用されたのではないかと考えられます。
頸城鉄道 鉄道省からの連絡乗車券 (~その2)
しばらく連載させていただきましたくびき野レールパークで蒐集した頸城鉄道の乗車券の話題ですが、あと1回ばかりお付き合いください。
前回エントリーでは鉄道省および運輸通信省から頸城鉄道への常備連絡乗車券を御紹介いたしましたが、補充片道乗車券も数枚ございましたので入手いたしました。
昭和11年1月に赤羽駅で発行された、明治村ゆきの片道乗車券です。桃色GJRてつだうしやう地紋の券で、報告片が切り取られていますから小さくなっていますが、恐らく元の大きさはA型券であったと推測されます。発駅である赤羽の右側には東京鉄道局(後の東京鉄道管理局)管内であることを示す「〇東」の符号
経由欄には黒井と表記があります。これは鉄道省線から頸城鉄道への乗換駅であり、鉄道省側は信越本線黒井駅ですが、頸城鉄道は黒井駅の山側に隣接した新黒井駅を起点としていました。現在の黒井駅は直江津駅管理の無人駅となっています。
こちらは昭和20年3月に仙薹(台)駅で発行された浦川原ゆきの乗車券です。発駅名の右側には仙台鉄道局管内であることを示す「〇仙」の表記があります。
小児断線のある様式の補充片道乗車券で、1枚目に御紹介したものとは様式的に異なります。運輸通信省となってからのものですが、国鉄になるまで鉄道省時代の地紋が使用されていましたので、桃色GJRてつだうしやう地紋となっています。
また、運賃の他に特別運賃と通行税が加算されており、かなり戦局が悪化してきている頃のものであることが分かります。
戦時特別運賃は帝国議会において、「戦時下ニ於ケル鉄道運営ノ現況並ニ一般経済ノ諸情勢二鑑ミ陸運ノ強化ヲ図リ併セテ購買力ノ吸収卜旅客輸送ノ調整二資スル為鉄道運賃ニ付左ノ措置ヲ講ズルモノトス」という決定により、昭和19年4月1日以降、普通運賃の他に3割を上限とする「戦時特別運賃」を加算するものでした。
この券が発行された一週間前の10日には東京大空襲が、前日17日には大本営が硫黄島の戦いに破れて米軍に占領され(残存日本兵による遊撃戦は続き、栗林忠道大将以下300名余りが最後の総攻撃を敢行し壊滅、日米の組織的戦闘が終結したのは26日)、という状況であり、かなり逼迫した時期に発券されたことが伺えます。
「〇兵」というゴム印が捺印されていることから、そのような戦局の中、大日本帝国軍の下士官が何らかの事情で仙台から浦川原まで移動したときのもののようです。
頸城鉄道 鉄道省からの連絡乗車券
前回エントリーに引き続き、くびき野レールパークでの話題です。
くびき野レールパークでのイベント会場にありました頸城自動車の記念品販売ブースでは、書庫から出てきた着札も販売していました。
昭和17年1月に鉄道省(国鉄の前身)信越本線高田駅発行の百間町ゆき連絡乗車券です。
状態は決して良くはありませんが、戦前に発行された頸城鉄道への常備連絡乗車券として大変希少価値の高いものと思われます。しかし、特段昔の乗車券類の販売告知の全く無いイベントでしたので、会場内には乗車券蒐集家は皆無のようで、このようなはっきり言って小汚い乗車券を手にするような人は居らず、縁あって管理人のコレクションに加えられたわけです。
券は桃色GJRてつだうしやう地紋のA型券で、運賃は3等で32銭となっています。
現在の連絡乗車券では接続駅が経由表記されているのが普通ですが、この券には経由表記はありません。
鉄道省からの常備連絡乗車券はもう1枚ありました。
これは昭和19年2月に同じく信越本線直江津駅発行の明治村ゆき乗車券です。桃色GJRてつだうしやう地紋のB型券となっています。
昭和19年となりますと、前年11月には鉄道省は運輸通信省に改組されていますので、正式には運輸通信省時代の券となりますが、昭和24年に国鉄となるまで運輸通信省地紋の券は誕生していませんので、てつだうしやう地紋のままとなっています。
このころになりますと戦局が厳しくなってきている頃ですので、昭和17年当時はA型券であったものが、用紙節約のためにB型券に変更となっています。
この券の裏面を見てみますと、何らかの書類を貼り付けたような跡があります。少々見づらいので、左右裏返しにして見てみましょう。
あまりはっきりしませんが、「願拂(払)戻候…」と記載された用紙がくっついており、恐らく経理精算業務の過程において貼り付けられていた伝票であったのではないかと推測されます。
詳細は分かりませんが、もしかすると、運輸通信省に対して頸城鉄道線分の運賃を請求(払戻)するための経理処理をしたものの、実際には請求されないまま現在に至ってしまったのかもしれません。
鉄道省 天王寺駅発行 工地紋乗車券
昭和23年(?)4月に天王寺駅で発行された、森ノ宮ゆきの片道乗車券です。
まだ終戦後の物資が乏しい時代の券で、わら半紙のようなペラペラの券紙の千切り券となっています。
注目すべきは地紋であり、桃色の工地紋となっています。
工地紋は戦時中の混乱期の昭和19年に広島鉄道局で考案された印刷工程を簡素化するための省略地紋で、広島局の他に大鉄局・門鉄局・名鉄局で使用され、戦後になって仙鉄局でも使用されていたようです。
工は鉄道省のマークを組み合わせて地紋としたものであり、鉄道省以前の国有鉄道の所管官庁が工部省であったことを由来としています。
(鉄道省のマーク)
この「工」のマークは現在でも鉄道用地の境界線に建てられている杭に刻印されており、その姿を見ることができます。
鉄道省 横須賀駅発行 田浦ゆき乗車券
昭和19年5月に横須賀駅で発行された、田浦ゆきの乗車券です。
桃色GJRてつだうしゃう地紋のB型券で、相互式となっています。
相互式券は現在の感覚では発駅が左側・着駅が右側というのが普通ですが、時期によっては発駅が右側に記載された時期があり、戦前から戦後にかけて、何回か繰り返しています。
これは入鋏する際、「鋏の位置は発駅の下」という原則に基づいたものであると聞いたことがありますが、発駅が右側ではややっこしいためか、毎回左側に改められて現在に至っています。
この原則に倣ってか、国鉄時代末期の改札氏には、発駅の下に鋏を入れるため、わざわざ切りにくい左下に入鋏する方も居られました。また、流鉄(旧・総武流山電鉄)でも、相互式硬券に対して左下に入鋏をしている出札氏が多いように感じますが、この原則に倣っているのかもしれません。
この券の発行された昭和19年は戦局が不利になってきた時期で、軍港のある横須賀地区は戦時色一色だったと言われています。明治時代の軍歌「敷島艦行進曲」にも、「隧道つきて顕わるる 横須賀みなとの深緑 潮に浮ぶ城塞は 名もかんばしき敷島艦」と、横須賀線のこの区間を歌われているくらいです。
列車は田浦のトンネルを出ると日除けを下ろし、車窓から見える軍事施設を部外者に見せないようにしたり、線路脇にコンクリートの高い塀を建てて車窓を遮ったりしたと言われるほど、防諜策のためにベールに覆われた地域であったようです。
そのような戦時体制下の横須賀近辺への不要不急な旅行は制限されていたからでしょうか、当時の乗車券はさほど残されていないのか、あまり見かけないような気がします。
82年前の乗車券
ちょうど82年前の昭和5(1930)年12月7日に万世橋駅で発行された、御茶ノ水・飯田橋間ゆきの片道乗車券です。
桃色GJRてつだうしやう地紋のB型券で、駅名が四角で囲まれた縦型表記の矢印式券となっており、当時の首都圏省線電車区間内では一般的な様式の券です。
万世橋駅は神田~御茶ノ水間のかつて交通博物館のあった位置にあった駅で、現在もホームが残されていますが、かつて駅があったとは思えない風景になっています。
同駅は明治45(1912)年に中央線の都心延伸のために開設されたターミナル駅として開業しましたが、開業7年後の大正8(1919)年には中央線は東京駅まで延伸され、途中駅となってしまいます。
途中駅となってしまった同駅は縮小されて鉄道博物館(のちの交通博物館)が併設されましたが、昭和18(1943)年11月には不要不急駅として休止され、事実上は廃止されているようなものですが、書類上は休止されたまま現在に至っています。
嵯峨駅発行 追徴切符
昭和8年6月に山陰本線嵯峨(現・嵯峨嵐山)駅で発行された追徴切符です。
青色GJRてつだうしゃう地紋の軟券式補充券です。京都→東京間の燕号の特急券として発行されています。
恐らく、同駅には京都~東京間の特急券の常備券の設備がなかったために補充券対応となったのでしょう。
特急「燕」は昭和5年に東京~神戸間に登場した特急列車で、全行程を9時間で結ぶ駿足ぶりから「超特急」と呼ばれた名列車です。
全区間をC51型蒸気機関車が牽引し、当初は東京~名古屋間をノンストップで運転したことから給水ができず、補助水槽車を連結していましたが、昭和7年には補助水槽車の連結は中止され、静岡駅で給水のための停車をするようになっています。今回ご紹介の券は昭和8年のものですので、補助水槽車の連結が中止された後のものとなります。
追徴切符は駅での精算用のきっぷであり、現在の出札および改札補充券にあたるものです。追徴切符に対し、車内で発行される現在の車内補充券に当たるものは概算切符というものでした。
これらは昭和20年にそれぞれ特殊(種)補充券・車内補充券と改称されています。
券を上から見ていきますと、現在の第1種補充券類は事由欄が左上にあるのが普通ですが、当時は真ん中に配置されていました。その横にある「〇大」は大阪鉄道局(後の大阪鉄道管理局)を表す符号であり、册番と券番が記載されています。
次いで、原券欄および徴収・変更欄があり、右横に金額記載欄となります。時代によっては金額を漢数字で縦書きするものもありましたが、これはアラビア数字の横書きです。
そして、人員欄や記事欄、差引金額記入欄などがあります。
この時代の概算および追徴切符にある特徴として、「驛(駅) 申告 發(発)見」という言葉があり、「追徴」という言葉と共に、発券されること自体が少々後ろめたいような錯覚に陥るような雰囲気の漂う様式です。
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