JR直営の印刷場名は国鉄時代の印刷場名を使用します。
10年以上前に御紹介した券も再度御紹介しようかと思います。
古紙蒐集雑記帖
西荻窪駅発行 平泉駅ゆき 補充片道乗車券
国鉄発足前の運輸省時代の昭和23年8月に中央本線西荻窪駅で発行された、平泉ゆきの補充片道乗車券です。
桃色GJRてつだうしゃう地紋のB型硬券が原型と思われ、右側の一部が報告片として切り取られたものです。真ん中に「二割」と押印されていますので、学割等の割引運賃にて発売されたものと思われます。
戦時末期から戦後の混乱期おける物資の欠乏時、貴重な紙資源を節約するため、鉄道乗車券は様々な倹約に対する工夫が凝らされました。この券はそのような中で誕生した様式で、従来D型硬券を使用していた補充片道乗車券のサイズをB型まで切り詰めて作成されたものです。
御覧の通り、必要事項を記入したらいっぱいになるような券面で、経由欄には殆ど記載するスペースが与えられていません。
また、運賃欄もぎりぎりに印刷されており、入鋏を入れれば記載事項が切り落とされてしまうような状況です。
報告片に至っては、残された片から察しますと約1.4cm幅しかありませんので、記載するには相当大変であったことが想像できます。
このような様式では、経由欄の記載は現在のように詳細に記載することはかなり至難であり、御紹介の券のように、比較的簡易に記載されていたものが大多数であると思われます。
経由は「仙台」とのみ記載されており、考えようによっては様々な経路で旅行することが可能であったと思われますが、まだ食べることさえ満足でなかったこの時代ですので、「呑気」に旅行をするような状況ではなかったことでしょう。
きょうはこどもの日
きょうは5月5日のこどもの日です。
こどもの日にちなんで、昭和初期の鉄道省時代の小児用券を御紹介します。
昭和5年5月に品川駅で発行された、新大久保⇔信濃町間ゆきの小児用乗車券です。
鉄道省時代の硬券乗車券では大人・小児用券はよく見かけますが、小児用乗車券はあまり見かけません。当然ながら、大人用よりも発行枚数が少ないですから現存する枚数が少ないのは判りますが、それにしても数が少ないようです。よほど需要がない限り、あまり小児専用券は設備されていなかったのかもしれません。
現在では小児用の券には「小」の影文字が印刷されていますが、当時は「小兒」(「兒」は「児」の旧字体)という影文字が印刷されていました。
新宿駅発行 日本最古と言われる地図式乗車券
昭和10年6月15日、新宿駅の硬券式自動券売機において、試験的に地図式乗車券が発売されました。
これは、発売開始から約1年が経過した頃のもので、発売当初のものと同じ、日本最古の地図式乗車券と言われています。
この時代、「金額式」という万能なものはまだ誕生しておらず、首都圏の駅で矢印式や相互式を使用してすべての着駅分の硬券口座を設備していました。
これでは同じ運賃であっても着駅によって口座を分ける必要があり、相当数の口座を設備しなければならなかったため、地図式の誕生は画期的なことであったと思われます。
B型硬券であるにもかかわらず下車できるすべての着駅が記載され、注意書きまでが表面に印刷されており、少々きつそうなイメージです。
しかし、文字は手書きで書かれたようで、大変味があるものとなっています。
今は亡き万世橋駅も書かれていることもおわかりになると思います。
登場から1年後の昭和11年後半には、地図式券が首都圏の駅で正式に採用されたようですが、下車できる駅のすべてが記載されているところは変わりませんが、注意書きが裏面に移り、大きさもB型からA型に変わっています。
戦後資材不足時の1/2硬券 (~その2)
菅沼天虎さまのコメントでは、1/2硬券にある、「い」「ろ」の符号が在るか無いかということでした。答えはわかりません。
裏面を見ますと、2905という券番は確認できますが、符号は見当たりません。
このような符号は大抵真ん中もしくは若干真ん中より下に印刷されているのが普通であり、パンチで切れてしまうような場所にはないでしょう。
若干拡大して表面を改めて見てみましても、符号は見当たりません。
菅沼天虎さまが仰せのように、小児断線の「大村」と「小」の文字の間にあったものが切り落とされてしまった可能性が否定できません。しかし、発行箇所名の印刷もありませんし、そのようなものは省略されていた(或いは当初から無かった)可能性もあります。
ちなみに、JTB発行の「国鉄乗車券類大事典」によりますと、このような硬券の正式な名称は「2片連結式乗車券」というようです。
この記事は、菅沼天虎さまのブログ「菅沼天虎の紙屑談義」6月16日エントリーの「1/2常備片道乗車券の券番」にトラックバックさせていただきました。
戦後資材不足時の1/2硬券
一見すると往復乗車券の往路用片に見えますが、これは片道乗車券です。
当時、資材不足に対応するため、B型硬券を往復乗車券状に2分割の状態で印刷し、それぞれ切り離して発売されました。
通常、往復乗車券では往路用に運賃の記載はありませんが、この券には運賃記載があることが往復乗車券との大きな違いです。
この券は鉄道省地紋(GJRてつだうしゃう)となっており、鉄道省時代もしくは、昭和18年11月以降の運輸通信省時代になってから印刷されたものですが、発行日の末尾がはっきり特定できませんが、「24.-5.2x」と読み取れることから、運輸通信省時代に発行されたことがわかります。
これから約1週間後の昭和24年6月1日には日本国有鉄道(国鉄)が発足していますので、鉄道省様式券としては末期のものとなります。
運輸省 與瀬から淺川駅ゆき乗車券
運輸省時代の昭和22年7月に発行された與瀬駅発行の淺川駅ゆき乗車券です。
與瀬駅は現在の中央本線相模湖駅で、昭和31年4月10日に相模湖駅に改称されています。
一方、淺川駅は現在の中央本線高尾駅で、昭和36年3月20日に高尾駅に改称されています。
発着駅双方共改称されてしまっていることになります。
そして、旧鉄道省が所管していた国有鉄道の運営および民営鉄道の監督業務を鉄道総局が所掌し、旧逓信省が所管していた海運関係業務を海運総局が所掌し、同じく旧逓信省が所管していた逓信事業(郵便・貯金・保険・電信・電話)は外局として設置された通信院がそれぞれ所掌することになりましたが、組織が巨大化してしまったため、昭和20年5月19日、通信院を内閣直轄の逓信院として再度分離され、残りの組織が運輸省として独立改組されています。
しかし、地紋を拡大してみますと、不鮮明ではありますが「てつだうしゃう」地紋のままとなっており、“Japanese Government Railways”からとった「GJR」の文字も確認できます。
(地紋拡大)
戦後の昭和24年6月1日に日本国有鉄道(国鉄)が発足し、後年に国鉄乗車券類に使用する国鉄地紋が制定されますが、昭和18年の運輸通信省時代から国鉄になるまでの間に新地紋の乗車券が作成されることはなく、鉄道省のものが引き続き使用されています。
強いて言えば、この時代に出た「新地紋」といえば、戦時中の昭和19年に広島局で考案された「工地紋」と呼ばれる簡易地紋くらいと思われます。
地紋を見ているだけでは、あたかも鉄道省という組織が戦後まで存在し、戦後になって国鉄に引き継がれたかのように感じられます。
この事件は「湯の花トンネル列車銃撃事件」と呼ばれ、現場には慰霊碑が建立されており、事実を後世に伝えています。
(ED16型電気機関車)
当時列車を牽引していたED16 7号機は昭和55年頃に廃車となって現存していませんが、同型機は1号機が東京の青梅鉄道公園に保存されており、その他、10号機がJR東日本大宮総合車両センター、15号機が山梨県南アルプス市役所若草支所に保存されているとのことです。
鉄道省 私鉄連絡乗車券
忙しさとgooブログの画像添付方法が変更され、何だか分からないまま更新が滞ってしまいました。
(飯田橋駅発行)
ダッチングがハッキリしないので発行日が特定できませんが、戦時特別運賃制度が昭和21年に廃止されているということなので、その辺の4月24日に発行されたものなのでしょう。
中央線飯田橋駅から新宿駅を経由して小田急線(当時は東急小田原線)の和泉多摩川駅および稲田登戸駅までの連絡乗車券です。
稲田登戸駅は現在の向ヶ丘遊園駅です。今や由来となる遊園地も閉園されてしまっていますが、かつて園内には小さな小田急の鉄道博物館があったり、駅と遊園地の間にモノレール(かつては豆汽車というものだったと聞きますが)、鉄道好きにはたまらない施設がありました。
なぜこの券が未使用のまま我が家の屋根裏でひっそりと残っていたのかわかりませんが、裏を見ると、きっぷマニアの感覚だったら解るような気がします。
(裏面)
なんと、券番が0001だったのです。
本当のことはどうでも良いこととして、この券が私の手元に残されていたことを喜びたいと思います。
表面には「通用2日」と書かれており、途中下車が出来そうな雰囲気です。
途中下車についての注意書きは裏面にありました。
「省線内及び共通着駅区間内下車前途無効」とあることから、省線内では途中下車は出来ないようですが、社線内においては、新宿駅~狛江駅間は途中下車が可能であったようです。
戦時特別運賃
今日は63回目の終戦記念日です。これにちなんで、戦時中ネタをひとつ。
これは戦時中の昭和18年3月に上野駅で発行された3等10銭の地図式乗車券です。
当時の地図の原版は手書きで、文字の字体に独特な風情のようなものが感じられます。
地紋も「てつだうしゃう」の文字がくっきりとし、堂々とした佇まいです。
ところが、同じ昭和18年9月に五反田駅で発行された地図式券を見ますと、地紋がありません。
このころになると戦局は悪化し、「ぜいたくは敵だ!!」のスローガンの下、硬券にも戦時色が見えてきます。その第一弾が地紋の廃止でした。
入場券を除く殆どの乗車券類には偽造防止対策として地紋が刷り込まれているのが一般的ですが、地紋を印刷する印刷工程を省略するため、当時、比較的偽造がしにくいと言われていた地図式券については地紋が廃止されました。
昭和19年4月5日に蒲田駅で発行された3等35銭の地図式券です。
戦局はますます悪化し、帝国議会に於ける、「戦時下ニ於ケル鉄道運営ノ現況並ニ一般経済ノ諸情勢二鑑ミ陸運ノ強化ヲ図リ併セテ購買力ノ吸収卜旅客輸送ノ調整二資スル為鉄道運賃ニ付左ノ措置ヲ講ズルモノトス」という決定により、昭和19年4月1日以降、普通運賃の他に3割を上限とする「戦時特別運賃」が加算されるようになりました。
それまで、左上に「(裏面注意)」と書かれていたところが「特別運賃共」となり、戦時特別運賃が加算されていることがわかります。
平和になった現在では考えられないことですが、これが60年以上前の日本が直面していた現実です。
飯田町駅ってご存知ですか?
飯田町駅は1895(明治28)年4月に甲武鉄道(現在のJR中央線)のターミナル駅として開設された駅でした。そして1904(明治37)年8月には国電の元祖と呼ばれる電車が中野駅まで運転されると電車の始発駅となりましたが、1928(昭和3)年11月、関東大震災の復興工事の際に、新宿駅までの客貨分離を目的とした複々線化が完成し、それによって飯田橋駅の新宿寄りの折り返し線付近にあった隣駅である牛込駅と統合されて飯田橋駅が開業し、電車の発着は無くなりました。
その後の飯田町駅は長距離列車用の駅となって営業が続けられましたが、1933(昭和8)年3月に長距離列車のターミナル駅は新宿駅に変更され、旅客営業が休止されて貨物駅となりました。
しかし、1997(平成9)年3月には貨物列車の発着が無くなり、1999(平成11)年3月に駅自体が廃止され、現在その跡地にはJR貨物本社やJR系のホテルメトロポリタンエドモンドが建っています。
上の券は往復の半券ですが、水道橋駅発行の飯田町~千駄ヶ谷間ゆきの往復乗車券の往路片です。発行された年が不鮮明ではっきりしませんが、日付部分を拡大してみると「13」もしくは「15」と読み取れるところから、まだ電車が発着していた頃の大正13年ないし15年の10月30日発行の券であろうと思われます。
次の券もやはり往復の半券ですが、昭和3年7月8日品川駅発行の牛込から濱松町間ゆきの往復乗車券の復券片です。牛込駅はこの4ヵ月後に飯田橋駅と統合されて消滅してしまっています。
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