先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

「武四郎 人権考えていた」 浜頓別で講演会

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/20 05:00
 【浜頓別】「北海道」の名付け親として知られる幕末の探検家松浦武四郎(1818~88年)の生涯や功績を紹介する講演会が町郷土資料館で開かれた。
 町教委が北海道命名150年を記念して企画。5日に、三重県松阪市の松浦武四郎記念館の元館長高瀬英雄さん(80)と北海道博物館学芸員の三浦泰之さん(44)が講師となり、約30人が聴講した。
 高瀬さんは、武四郎がアイヌ民族の協力を得ながら蝦夷地(えぞち)を探査し、アイヌ民族が差別され、安い賃金で不当に働かされていると江戸幕府に訴えていたことなどを紹介。3回訪れた浜頓別でも、アイヌ民族の家族の窮状を記録していたことに触れ、「人権という言葉がない時代に人権のことを考えていた」とたたえた。
 三浦さんは、武四郎が青年期から旅に憧れ、日本各地を放浪していたことや、記憶力は良いがプライドが高く、強烈な個性の持ち主であったため「大久保利通には評価されていたが、木戸孝允には好かれていなかった」などと説明した。探究心旺盛でさまざまなものを見て情報を集め、人々に伝えようとした生きざまは「われわれがこれからの時代を生きていくうえでヒントになる」と強調した。(宍戸透)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219717

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アイヌ民族の遺骨題材の短編 国際映画祭で最優秀賞

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/19 05:00
 研究目的で大学が持ち出したアイヌ民族の遺骨が親族らに返還されるまでを描いた短編ドキュメンタリー「85年ぶりの帰還~アイヌ遺骨 杵臼(きねうす)コタンへ」が、スペインのマドリード・アジア国際映画祭で最優秀ドキュメンタリー賞を受賞した。制作団体で、遺骨の返還に取り組む「コタンの会」の清水裕二代表(77)は「この事実を広く知ってもらいたい」と願っている。
 作品は、同会と北大開示文書研究所が制作。1930年代に北大医学部の研究者によって日高管内浦河町の杵臼共同墓地から持ち去られた遺骨12体と副葬品が、親族らの訴えで一昨年に返還され、再埋葬されるまでを追った。
 同映画祭は映画制作に携わる人たちが主催し、アジア映画を毎年表彰している。同作は、ドキュメンタリー部門14作から最優秀に選ばれた。上映後、来場者からは「日本に、こんな問題があるとは知らなかった。大きな人権問題だ」などの感想が上がったという。
 監督・撮影を務めた札幌市の映像制作者、藤野知明さん(52)は「返還に取り組むを人たちを勇気づけ、アイヌ政策が良い方向に進むきっかけになれば」と話す。同作は今後、米国や福岡などの映画祭に出品されるほか、10月11~14日に開催される札幌国際短編映画祭での上映作品にも選ばれている。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219562

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武四郎歩いた山道学ぶ 増毛でシンポ 専門家らの講演に80人

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/19 05:00
 【増毛】北海道開拓の礎を築いた幕末の探検家松浦武四郎(1818~1888年)と、武四郎の踏査に大きな役割を果たした道内各地の山道について学ぶ「北海道山道シンポジウム」(留萌振興局主催)が18日、増毛町文化センターで開かれた。町内外から約80人が来場し、専門家の講演やパネルディスカッションに耳を傾けた。
 はじめにNPO法人増毛山道の会の伊達淳信副会長があいさつ。一等水準点や駅逓跡の発見など増毛山道の復元活動を振り返り、「若い人にも保存活動に参加してもらい、山道を将来に継承していきたい」と述べた。増毛町の堀雅志町長は「増毛山道を契機として石狩市との交流が生まれた」と成果を強調した。
 続いて北海道博物館の三浦泰之学芸主幹が講演。「武四郎は松前藩の統治のずさんさを指摘し、ロシアがアイヌ民族に近寄れば、北方の地が危うくなると訴えた」と述べ、踏査の背景に国防の理由があったと解説。武四郎は北海道開拓のために新しい街道の整備が必要と考えていたとし、幕府に出した約200通の意見書のうち3割が新道開削に関するものだったことを紹介した。
 また、日高地方にある猿留(さるる)山道の保全に関わっている日高管内えりも町郷土資料館の中岡利泰館長は講演で「猿留山道は様似山道とともに幕府が最初に手がけた。地域全体で貴重な史跡であることを確認し、今年、国史跡に指定された」と話した。来場者たちは、講演を熱心に聴き、道内各地の山道について理解を深めた。(高橋浩志)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219541

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アイヌ遺骨14体、浦幌に再埋葬 北大から返還

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/18 20:02
 【浦幌】北大は18日、研究目的で保管していたアイヌ民族の遺骨14体と副葬品を、浦幌アイヌ協会(十勝管内浦幌町、差間正樹会長)に返還した。同協会が遺骨返還を求めた訴訟の和解に基づくもので、同町営墓園に再埋葬された。
 北大の長谷川晃副学長らが浦幌を訪れ、同協会に引き渡した。長谷川副学長は取材に対し、「浦幌のすべての遺骨をお渡しできた。民族の尊厳に配慮しない研究を過去に行ったことについては真摯(しんし)に受け止め、反省したい」と述べた。差間会長は「ようやくふるさとにお迎えでき、安心した。先祖と私たちの新たな関係が始められる」と語った。
 遺骨は、北大医学部の研究者が1934~35年(昭和9~10年)に同町内の墓地から持ち去った。浦幌アイヌ協会が2014年に返還などを求め提訴し、昨年3月に和解。同8月に身元不明の63体が返還、再埋葬された。今回の返還は身元が分かっていた13体と、その後の資料分析で市立函館博物館での所蔵が判明した首の遺骨。この骨は、昨夏に再埋葬された1体の一部だった。(米林千晴)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219533

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<北海道>アイヌ民族の遺骨返還 浦幌町で供養儀式

2018-08-20 | アイヌ民族関連
HTB 8/19(日) 18:06配信
 研究用として北大に持ち出されていたアイヌ民族の遺骨が十勝の浦幌町に返還され、19日、先祖供養の儀式が行われました。
 浦幌アイヌ協会が行った「イチャルパ」の儀式には、十勝や日高のアイヌ民族らが参列しました。遺骨は、北大の研究者が84年前に浦幌町の墓地から持ち出していたもので、北大から返還され、14体が再び埋葬されました。去年返還された63体を含め、これで浦幌アイヌ協会が返還を求めていたすべての遺骨が故郷に戻ったことになります。浦幌アイヌ協会の差間正樹会長は「これから私たちと先祖との関係が新たに始まるという意識が強くなった」と話しました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180819-00000003-htbv-hok

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<麗しの島から>「ニホンゴ」の村で収穫祭に参加した

2018-08-20 | 先住民族関連
毎日新聞 8/18(土) 8:40配信
 台湾の先住民族タイヤル族が多く住む台湾北東部・寒渓(かんけい)村。ここでは今も、日本語と先住民族タイヤル族の言語が交ざった、日本語とは異なる新言語「ニホンゴ」(宜蘭クレオール)が主に中高年の間で話されている。8月初旬に行われた村の収穫祭に誘われ、参加した。
◇先祖との対話を重視
 収穫祭は「小米感謝祭」という。「小米」は中国語で穀物のアワのこと。タイヤル族が狩猟やアワの栽培で生活していた名残だという。寒渓村では、作物の種をまく「播種(はしゅ)祭」(1月)▽作物の間引きをする「間抜祭」(3月)▽収穫の始まりを祝う「収割祭」(6月)▽「小米感謝祭」(8月)--と年間を通じて祭事が続く。いずれも祖先と対話をする、とても大切な祭事だ。
 早朝6時。「アンタロコイクー」(どこへ行くのか?)。中国語に交ざり、ニホンゴが飛び交っている。現地を訪れると、メスの豚が村の集会所の床に寝かされていた。既に事切れている。先祖へのいけにえだ。豚の体を触ってみると、まだ生温かい。タイヤル族の伝統衣装に身を包んだ村の長老、鄭豊栄(てい・ほうえい)さん(81)が刀を手に「これで心臓を一突きよ」。日本語教育を受けた世代だけに、流ちょうな日本語だ。頭にはイノシシの牙をあしらった帽子をかぶっている。
 鄭さんは見事な刀さばきで豚の腹を割き、手を差し込んで、まず肝臓を切り出した。さらに耳、尾を切り取り、葉っぱに丁寧に包み、ヒモでしばる。近くに設営された祭壇には収穫されたばかりのアワや果物、花々が並ぶ。祭壇の近くにある木の枝に、肝臓、耳、尾が包まれた葉が、順にくくりつけられた。鄭さんが「肝臓は体の大事な部分だから。耳としっぽは、頭から尾まで豚の全体を先祖に贈るという意味がある」と解説してくれた。
 祭壇の前に村の役員ら6人が、太陽の昇る東の方角に向かって並んだ。先祖への感謝の儀式だ。「タイカサムハラナママケ……」。鄭さんがタイヤル語で3分ほど語り続けた。後ほど意味を尋ねると「これが今年の収穫です。本当にありがとうございます。来年も私たちを助けてください」と、先祖に対し、収穫の報告や感謝の気持ちを述べたという。続いて役員らは「小米酒」と呼ばれる伝統のアワ酒を飲み干した。
 ◇タイヤル族としての誇り
 豚の肉は大きな釜で野菜などと一緒に煮込まれ、村人たちに振る舞われた。「タベタモ?(食べましたか?)」。私にも勧めてくれた。さっきまで生温かかった、その豚を食べる--。改めて、生き物をいただくことの感謝の気持ちが心の底からこみ上げてくる。少し硬めの歯ごたえのある肉は、特別な味がした。会場にはタイヤル語の伝統的な歌が響き、村人たちは日々の疲れをいやしていた。
 鄭さんは1937年3月生まれ。8歳まで日本語教育を受けた。寒渓村では戦前、先住民族の言語は禁じられたが、村人どうしではタイヤル語も使われていた。鄭さんは「おやじは日本語があまりできなかったから、家ではだいたい山地語(タイヤル語のこと)で話していた。だから私は山地語もできる」と言う。
 戦後、日本が去り、先住民族たちは今度は急に中国語を学ばねばならなくなった。台湾を独裁統治した蒋介石が中国語教育を強制し、先住民族の言語を禁じたためだ。このため寒渓村に限らず、80代以上の日本語世代の人々は、今も中国語があまり得意ではない。例えばタイヤル族とアミ族のように異なる現住民族間の共通語として、今でも日本語を使う高齢者が多い。鄭さんは「僕は今も中国語が下手だね。日本語のほうが話せる」と笑う。
 タイヤル族も長年にわたり言語権を抑圧されたため、鄭さんのようなタイヤル語を流ちょうに操れる人は限られている。「最近の若い者は全然、タイヤル語を話せない。しかしタイヤル語を残していきたいし、伝統行事は受け継いでいかねばならない。それは祖先に対する私たちの責任です」。その言葉にはタイヤル族としての誇りがみなぎっていた。【福岡静哉】
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180818-00000000-maiall-cn

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北海道)アイヌ民族遺骨収集の詳細な記録、北大が公表

2018-08-20 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2018年8月18日03時00分芳垣文子
 北海道大学は17日、「医学部アイヌ人骨収蔵経緯に関する調査報告書」の追録を公表した。北海道帝国大学医学部教授だった児玉作左衛門が保管していた資料をもとにしたもの。アイヌ民族の遺骨収集にかかった費用やどのように調査を行ったかなどが、書類や直筆のメモなどからつぶさに浮かび上がった。
 「追録」収録の資料は、主に1930年代の書類などで、北大が保管していた児玉家から寄贈を受けて整理し、公表した。
 「日本学術振興会第八小委員会(アイヌ研究)解剖学之部 昭和十年度予算総額」と題した書類では、予算総額は3324円88銭。遺骨発掘の出張費用として、教授、助教授ら計6人の20日間の手当計920円のほか、遺体提供の際に遺族に贈呈された祭祀(さいし)料や遺骨発掘の作業員の費用などが記録されている。
 また、アイヌ民族の居住地から墓地発掘や人骨収受の了解を得るには、現地に出向く必要があり長時間を要すること、アイヌ民族居住地の保導員(方面委員)に遺体寄贈の仲介を依頼し、亡くなった人があるごとに現地に赴き、遺族にお願いして説得すること、などの記述もあった。追録はこれらの手続きについて「アイヌ側の了解を得ることに腐心している」と記している。
 このほか、1934年に行った墓地発掘を巡って警察の訪問を受けたことを示す本人の懐中日記のメモがあり、追録では「警察から厳しい取り調べを受けた日が確認できる」としている。
 北大は「資料を調べる中で、盗掘を示すものはなかった」と説明。北大のアイヌ納骨堂には現在、アイヌ民族の遺骨943体などが安置されており、今月3日、アイヌの人たちによる先祖供養の儀式が行われた。
https://www.asahi.com/articles/ASL8K5WC2L8KIIPE01S.html

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「聖地」巡りアイヌ文化知って ゴールデンカムイ19日からラリー

2018-08-20 | 先住民族関連
北海道新聞 08/19 00:45 更新
 北海道観光振興機構は19日、アイヌ民族の少女らが活躍するテレビアニメ「ゴールデンカムイ」とゆかりのある場所をファンに「聖地巡礼」してもらう、スタンプラリーを始める。各地でアニメのキャラクターと並んでいるような写真をスマートフォンで撮影でき、アイヌ文化への理解や周遊観光につなげたい考えだ。
 ラリーで巡る場所は、アイヌ文化や開拓期の歴史を学べる小樽市総合博物館や北海道博物館(札幌)、博物館網走監獄など道内11カ所。アニメの舞台となった場所を巡るアプリ「舞台めぐり」を入れたスマホで施設内のポスターに記したQRコードを読み込むと、AR(拡張現実)の技術でゴールデンカムイのキャラクターとの記念撮影が可能となる。キャラクターは施設ごとに異なり、すべて巡ればゴールデンカムイのスマホ用の壁紙をもらえる。
 今回のスタンプラリーに合わせて、アニメとゆかりのある空知管内月形町や旭川市、釧路市など道内10カ所の風景を約3分にまとめた仮想現実(VR)映像を制作。スタンプラリーの対象施設や道外の北海道観光PRイベントなどで専用ゴーグルを使い観賞できる。
 スタンプラリーは来年3月31日までで、詳細は、北海道観光振興機構のホームページ(http://www.visit-hokkaido.jp)で。
 スタンプラリーは道の「北海道はゴールデンカムイを応援しています」と銘打ったキャンペーンの一環。道はキャンペーンの専用ロゴマークをつくっており、6月から自治体や企業が道内への誘客ための観光チラシに使うなど、活用が始まっている。(村田亮)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219504

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アイヌ民族は「先住民族」7割超 内閣府世論調査、5年前より増 「象徴空間」認知度は9%

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/18 05:00

 内閣府は17日、アイヌ民族政策に関する全国世論調査の結果を発表した。アイヌ民族を「知っている」と答えた人は2013年の前回調査比1・1ポイント減の94・2%で、このうち「先住民族」だと知っているのは同9・0ポイント増の77・3%。全体の7割以上が認識している計算になる。一方、20年4月に胆振管内白老町に開設するアイヌ文化の復興拠点「民族共生象徴空間」を知っている人は同3・4ポイント減の9・2%で、認知度の低さが浮き彫りになった。
 道内分では、アイヌ民族を知っている人は98・7%(前回比1・3ポイント減)、このうち先住民族と認識しているのは88・0%(同1・1ポイント増)で、象徴空間を知っている人は39・5%(同3・8ポイント増)。いずれも全国を上回った。
 調査全体で見ると、先住民族と知っていた人の年代別では18~29歳が87・2%と最も高く、30~39歳が83・2%で続いた。年齢層が高いほど低くなり、70歳以上は68・5%だった。
 若年層の認知割合が高い理由について、内閣府は1998年に学習指導要領が改訂され、歴史の教科書などにアイヌ民族の記述が加えられたことが奏功したと分析。アイヌ民族の少女がヒロインの漫画「ゴールデンカムイ」(集英社)が人気を集めていることなども影響したとみられる。
 一方、年間100万人の来場目標を掲げる民族共生象徴空間の認知度は、設置決定直後に行われた前回より低下し、「知っている」の約半数の4・7%も「言葉だけは聞いたことがある」だった。また、重視すべきアイヌ民族施策について複数回答可で尋ねたところ「歴史・文化の知識を深める学校教育」が45・4%と最多で、「広報活動」が42・5%、「文化継承の人材育成」が30・2%と続いた。
 調査は13年12月に公表した前回以来2度目。6月28日から7月8日にかけて全国の18歳以上3千人を対象に面接方式で実施し、1710人から回答を得た。(広田孝明)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219377

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台湾で根を下ろした日本人シリーズ:知る喜びを分かち合う——作家・コーディネーター 片倉真理

2018-08-20 | 先住民族関連
nippon.com [2018.08.19] 馬場 克樹
片倉 真理KATAKURA Mari
台湾在住作家、コーディネーター。メディア取材のコーディネーションの傍ら自身も筆を執り続け、2018年4月に台湾生活19年間の集大成として、日本では初の単著となる『台湾探見—ちょっぴりディープに台湾(フォルモサ)体験』(ウェッジ)を出版。さらに深く台湾を知りたいという多くの読者からの支持を集めている。
片倉真理の作品は、自身が体感した台湾を知る喜びを読者と分かち合いたいという思いにあふれている。台湾史研究家で作家の夫、片倉佳史の取材に同行して台湾各地の伝統行事を体験し、日本統治時代の史跡や先住民族の集落を巡るうちに、自らも台湾の魅力を伝える役割を担うようになっていった。
できるだけ多くの日本語世代の人々の言葉を記録して伝えていきたい
片倉が最初に台湾の土を踏んだのは1994年。台湾の民主化が始まって間もない頃だった。その後も何度か旅行で訪れたことはあったが、台湾に本格的に拠点を移したのは、大学の合気道サークルの先輩で、97年に既に台湾に居を構えていた佳史との結婚がきっかけだった。99年のことだった。
その頃、台湾に対する知識はほぼ皆無に等しかったと片倉は振り返る。当時の日本では台湾を紹介する書籍が限られ、テレビ番組などで取り上げられることもまれだった。しかし、夫の取材に同行して台湾各地の伝統行事に参加し、日本統治時代の史跡や先住民族の集落を訪ね、現地の古老から話を聞くうちに、台湾の魅力にはまっていく。台湾を知れば知るほど、この島は新鮮な驚きを彼女に与えてくれた。
「台東の太麻里郷の先住民族の集落を初めて訪れた時のことでした。そこに住んでいたおじいさんが、半世紀ぶりに日本人に会ったと言って、流ちょうな日本語で話し始めたのです。日本語を話したい、自分たちの歴史を知ってほしいという気持ちに満ちあふれていました。さらに驚いたのは、そのおじいさんの子どもたちが、自分の親が日本語をこれだけ自在に操れる事実を全く知らなかったことでした。この世代間のギャップに疑問を思ったことが、台湾をもっと知りたい原点になりました」
日本の敗戦と中華民国による台湾の接収、二二八事件の発生とその後の白色テロの時代、戒厳令が敷かれ、学校教育の現場では日本語はもちろん、母語である現地語を話すことさえ禁じられた台湾の戦後史。こんなに日本に近く、行き来もある場所なのに自分の知らないことばかりだった。教科書では習うことのなかった歴史を、台湾各地で出会った日本語世代のお年寄りから教わることとなった。折しも陳水扁総統が誕生し、長らく封印されてきた過去をようやく誰もが語れる時代とも重なった。
「政治犯として緑島に収容されていた老人が、淡々と昔のことを語ってくださったことがありました。当事者としての深い悲しみの中にも、感情を抑え自分の運命を静かに受け入れている姿に胸を打たれました。こうした先人の知恵や経験を自分たちだけで聞くのはもったいない、より多くの方々と共有していかなければならないと、思いを強くしました」
できるだけ多くの日本語世代の人々と交流し、その言葉を記録し、より多くの人に伝えていくことが自分たちの使命ではなかろうか。既に高齢となった日本語世代の人々から直接話を聞ける時間は、それほど多く残されているわけではない。2017年、夫が「台湾を学ぶ会」を立ち上げた。日本にいる台湾に関心のある人々と、自分たちが台湾で学んだ知識や経験を分かち合うこの活動を全面的にサポートし始めたのもそんな思いからだった。
日本語世代の孫たちにも注目
片倉は日本語世代の孫たちの動向にも注目している。日本語世代が、「愛日」という表現で自分たちの生きた日本統治時代を主観的に語る傾向があるのに対し、現在の30〜40代前半の孫の世代は、より客観的にその時代を捉えようとしている。そして、台湾人としての自らのアイデンティティーを模索する中で、祖父母の生きた時代にその源流を見出していると片倉は考える。
「高雄で季刊誌『薫風』を主宰する姚銘偉(よう・めいい)さんは、兵役時代に台湾の歴史に関心を持ち始め、日本統治時代も台湾史の一部であるという考えに行き着いた方です。昨今、台湾各地で見られる日本統治時代の建築物の保存の動きも、日本が好きだからそうするのではなく、自分たちの郷土に刻まれた歴史を残すという文脈で捉えています。これは非常に健全な方向です。彼らの世代は『知日』の体を採りながらも、その実は『知台』なのです」
戦前、台北市にあった建成小学校の同窓会に「建成会」という組織がある。2年前に台北市で会合を開いたところ、地元から200人以上の参加があった。日本語世代に混じって30~40代の知台世代が多数参集した。彼らの親の世代までは、「族群(エスニックグループ。先住民族、ホーロー人、客家人、外省人の四つに分類)」意識が強く、時には族群間の対立を生み出すこともあった。今もこの枠組みは存在するが、知台世代の多くは、ある概念を共有すれば人々が一つにまとまることは可能だと考えている。
「『土生土長』、すなわちこの土地で生まれ育った人たちは、みんな台湾人であるという概念です。戦後70年以上が過ぎ、本省人と外省人の通婚も進み、4年前に『太陽花学運(ひまわり学生運動)』を主導した『天然独(自分が生まれた時からそもそも台湾は独立した国であるという考え)』の世代も台頭してきています。今のトレンドや文化を引っ張っているのも、知台世代とそれに続く彼らなのです」
台湾では「自分たちの文化とは何か」という問いを模索する時期が長らく続いた。だが、今ではこの問いに対して、台北101や故宮博物院だけではなく、祖父母の家の壁や床にあったタイルや、アパートの窓枠、さらにはレトロな花模様の布など、この土地にあるあらゆるものが台湾文化なのだと、世界に向かって堂々と発信できる時代になったと知台世代は感じている。また、これらをデザイン化し、店名や商品にさり気なく、おしゃれに入れ込むのがトレンドにもなっているという。
徹底した取材が読者を魅了
東日本大震災以降、日本人の台湾に対する関心は飛躍的に高まった。台湾を訪れるリピーターも急増し、これまでの台北とその近郊、高雄、台中といった定番の観光地だけでは飽き足らず、地方へと足を延ばす層も着実に増えている。特にここ数年は台南がブームで、台南を特集した単行本やガイドブック、雑誌が多数出版されている。台湾の地方都市の魅力について、片倉はこう語っている。
「その土地ごとに漂う異なる空気感が好きなのです。例えば、嘉義という街は、これまでは台北から高雄や台南に向かう通過点にしか過ぎませんでしたが、実際に散策してみると『嘉義スタイル』と呼ぶべき独特な文化があることに気付きます。嘉義で『鶏肉飯』といえば、鶏肉ではなくて七面鳥の肉。『涼麺』と呼ばれる常温の汁なし麺は、他の土地ではごまだれが一般的ですが、嘉義ではさらにマヨネーズが載っています。豆乳に豆花を入れたデザート『豆漿豆花』も、実は嘉義が発祥です」
片倉の関心は都市だけに留まらない。観光ガイドブックでは取り上げられることのなかった小さな町や村にも、温かな眼差しを向けている。雲林県の土庫鎮の媽祖廟には、日本統治時代に群馬県の吉祥寺から持ち込まれた観音像が一緒に祭られている、彰化県の社頭郷の駅前には、この地の地場産業の靴下の博物館がある、苗栗県白沙屯を拠点とする媽祖巡礼では、媽祖像の乗るみこしを衛星利用測位システム(GPS)で追跡できるなど、そのネタは尽きない。そして取材する片倉のそばには、カメラを構える夫の姿がある。新著の『台湾探見—ちょっぴりディープに台湾(フォルモサ)体験』でも、写真は夫が担当した。
「夫は物書きの先輩であり、良きアドバイザーでもあります。同じ事象でも2人の見る角度が違うので、かえって気付きを与えてくれ、自分の視野を広げてくれます。文章に合わせて写真を撮ってくれるのも心強いです」
年配者への取材の現場では、同性同士の方が心を許して話してくれることも多いという。相互補完できることがペアで取材することの強みでもあり、まさに「水魚の交わり」を地で行く2人の姿がそこにある。民間企業の営業畑から、特に大きな決意もなく、台湾に足を踏み入れてしまったという片倉だが、台湾生活術の極意をこんな表現で語ってくれた。
「台湾では流れに任せることです。気負わずに一つ一つのご縁を大切にし、時には日本人が重きを置く計画性やこだわりをいったん手放してみるのも必要です。雑誌やデザイナーショップを展開する『小日子』のオーナーの劉冠吟(りゅう・かんぎん)さんの言葉ですが、『新しいことに挑んで失敗したことよりも、台湾では挑戦したことを褒めたたえる』というのが、この土地の空気感なのです」
片倉は「台湾は誰かにその魅力を伝えたくなるパワーを秘めた土地」と繰り返し述べている。外国人でも旅人でも受け入れてくれる敷居の低さと懐の深さ。知りたい問いへの答えに確実にたどり着ける心地良さ。こうした魅力を前面に押し出しながらも、片倉の筆は一つ一つのテーマを丁寧に掘り下げ、紹介した店の裏側に潜む店主の思い、その土地に暮らす人々の郷土への思い、読者がその土地の空気感を知るために役立つヒントなどを次々と描き出していく。そして、彼女の文章からは、一貫して台湾という土地とそこに暮らす人々への深い共感と愛情を感じ取ることができるはずだ。最後に座右の銘を聞いてみた。
「警察用語で私たち夫妻がモットーとしていることですが、『現場百回(げんじょうひゃっかい)』という言葉です。現場に何回も行って初めて見えてくるものがあるのです。新著の書名『台湾探見』の『見』にも、そんな思いが込められています」
徹底した現場主義の取材と書き手の豊かな感性に裏打ちされ、「台湾を知る喜び、学ぶ楽しさを分かち合う」ことを旨とする片倉の作品は、これからも台湾を知りたがっているファンの心をくすぐり続けることだろう。次回作が今から待ち遠しい。
バナー写真=片倉真理氏(片倉佳史氏撮影)
馬場 克樹  BABA Masaki
[ 署名記事数: 11 最終更新日: 2018.08.19 ]
シンガーソングライター。1963年仙台市生まれ。国際交流基金日中交流センター事務局次長、財団法人交流協会台北事務所文化室長を歴任。退職後、2013年台湾で蒲公英音楽交流有限公司を設立。「八得力(Battery)」でボーカルとギターを担当。ソングライターや俳優としても活動する。代表曲には映画『光にふれる(原題:逆光飛翔)』の主題歌で、台湾金曲奨最優秀女性ボーカリストの蔡健雅(タニア・チュア)が歌った「很靠近海(海のそばで)」がある。プロフィール写真撮影=Jonny Wei
https://www.nippon.com/ja/column/g00566/

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中村信子さん/5止 故郷はやはり台湾・蘇澳 現地と交流「女性生活史」執筆 /東京

2018-08-20 | 先住民族関連
会員限定有料記事 毎日新聞2018年8月18日 地方版
 中村(旧姓・竹中)信子さん(87)は1979年夏、15歳まで暮らした台湾北東部・蘇澳(すおう)を再訪した。日本敗戦後の46年に引き揚げてから33年の歳月が流れていた。
 信子さんは戦後、日本による台湾統治に「負い目」を感じ、台湾から遠のいていた。だが訪台の前年、竹中家が蘇澳で営んだ炭酸水工場で働いていた台湾人の陳桂枝さんの家族が来日。「台湾に来てほしい」と熱心に誘った。訪台をためらっていた信子さんの背中を押した。
 近代化に向けて躍進していた台湾は、各地でインフラ建設が進み、蘇澳の道路や港も大きく姿を変えていた。…
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関係者「過去の歴史も知って」 アイヌ民族調査

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/18 05:00
 内閣府の世論調査結果で、アイヌ民族への認識が少しずつ広がりつつある状況を、関係者は前向きに受け止めた。一方で、アイヌ民族の歴史への理解や「民族共生象徴空間」の認知度は低く、不満や懸念も漏れた。
 日高管内平取町の二風谷アイヌ文化博物館の学芸員補で、アイヌ語教室の講師も務める関根健司さん(47)は「漫画『ゴールデンカムイ』人気などで、独自の文化があると知る人が増えるのはうれしい」と歓迎した。アイヌ語という独自の言語があると知っている人も全国で64・6%に上り、「日常生活の中で、アイヌ語に接する機会がもっと増えてほしい」と期待する。
 北海道アイヌ協会の阿部一司副理事長(71)も、アイヌ民族が先住民族であるとの認識が広がっていることについて「国や道が中心となって、精力的にアイヌ文化を発信している成果が出てきた」と受け止めた。
 ただ「明治以降、アイヌ民族が非常に貧しく独自の文化を制限された」ことを知る人は、40%程度。阿部副理事長は「歴史を知らずに未来は語れない。教育現場などを通して、子供たちには過去の歴史も深く理解してほしい」と強調する。
 相模原市在住のアイヌ民族島田あけみさん(62)=日高管内静内町(現新ひだか町)出身=は「首都圏にいて、そんなにアイヌ民族への知識が深まっていると思えない」と複雑な表情だ。首都圏で、アイヌ民族の文化や歴史に関する講演などの活動を10年以上続けるが「理解されていないと感じることが多い」という。
 実際「アイヌ民族が全国各地で暮らしていることを知っている」人は34・3%にとどまり、「アイヌについて正しく理解してもらうために、一人でも多くの人に会い、話すしかない」。
 認知度の低さが際立った「象徴空間」について、胆振管内白老町の旧アイヌ民族博物館の元館長で、現在は運営本部の文化振興・体験交流部長を務める野本正博さん(55)は「道内外ともに厳しい数字で、危機感を覚える」と漏らした。
 道は本年度、象徴空間のPRに約4億円を計上。道内外で伝統舞踊を披露するなど事業を進めるが、野本さんは「これまで通りの発信方法でいいのか。国や関係機関が考え、戦略を立て直す必要がある」と話した。(村田亮、斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219374

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アイヌ民族への理解、限定的 格差解消へ課題山積

2018-08-20 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/18 05:00
 <解説>内閣府のアイヌ民族政策に関する世論調査結果では、政府がアイヌ文化の復興拠点と位置づける「民族共生象徴空間」を知っている人が9・2%にとどまり、認知度の低さが際立った。「先住民族」であるとの認知は少しずつ高まってきたものの、文化の制限や貧困といった民族の歴史などへの理解も限定的で、差別や経済格差の解消に向けた課題は山積している。
 政府は2020年4月に設置する象徴空間について、年間来場者数100万人を目標に掲げる。国のアイヌ民族施策の中心的存在になるものだが、認知度は5年前の前回調査よりも低下した。内閣官房アイヌ総合政策室は「開設までのプロモーション(広報)活動をしっかりやる」と話すが、周知活動が不足していたことは明白だ。
 アイヌ民族について知っていることを尋ねた設問(複数回答)では「明治以降、アイヌ民族が貧しく独自の文化を制限されたこと」が40・0%、「伝統文化の保持、継承などに取り組んでいるアイヌ民族がいること」は34・1%にとどまった。先住民族であることは知っていても、表層的な理解にとどまっている傾向がうかがえる。
 政府は、20年までのアイヌ民族に関する新法制定を目指している。北海道アイヌ協会などが求めた生活支援の明記は見送られる見通しだが、「多くのアイヌ民族は文化を継承する余裕がない」との声は根強い。差別や格差の解消のためにも、政府にはアイヌ民族への国民的な理解をさらに深める努力が求められる。(広田孝明)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/219373

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社説:アイヌ新法 先住民族の権利明記を

2018-08-20 | アイヌ民族関連
[京都新聞 2018年08月17日掲載]
 アイヌ民族の生活や教育の向上を支援する新たな法案を、政府が来年の通常国会に提出する。
 日本の法律で初めてアイヌを「先住民族」と明記する方向だ。
 これまで文化振興に限ってきたアイヌ政策を修正する。先住民としての権利を認め、同化政策で生まれた経済格差の解消や民族教育を受ける権利を具体的に保障する。
 生活支援を含めた新法の必要性は2009年の有識者懇談会が政府に提言しており、それが動きだす。「ようやく」という感は否めない。確実に成立させ政策を実施する必要がある。
 同時に、国内の一部にある「日本は単一民族国家」といった認識を改め、多様性を認め合う契機にしたい。
 国連では07年に「先住民族権利宣言」が採択されている。先住民族の自決権や土地、資源に対する権利を幅広く認める一方、関係各国に権利保障のための立法措置を求めている。
 宣言には日本も賛成した。これを受けて翌08年には衆参両院で「アイヌ民族を先住民族とすることを認める決議」が採択され、政府も先住民族と認める官房長官談話を出した。
 だが、具体的な政策は1997年のアイヌ文化振興法に基づくものに限られていた。アイヌ語の教育や民族文化、技術の継承などは一定の成果を上げているが、北海道の調査では、アイヌの世帯収入や進学率の低さなど、さまざまな格差が残っているという。
 狩猟や漁業で生活していたアイヌは同化政策で農業への転換を迫られた。だが、与えられたのは多くが農業に不向きなやせた土地だった。日本語の強制は独自の文化の衰退を招いた。北海道アイヌ協会の記録には、今に続く問題の歴史的経緯が明記されている。
 政府がこの間、文化振興にとどまった背景には、「特別扱い」という批判を恐れたことがある。土地や資源の権利回復が具体的に浮上することも懸念された。
 だが、97年まで続いた旧北海道土人保護法による同化政策が生んだ矛盾を解消し、アイヌの血を引く人の誇りと尊厳を取り戻す責任は国にある。新法では歴史的経緯にも触れるべきだ。
 国は2020年4月に北海道白老町にアイヌ文化振興の拠点施設を開設する。アイヌへの理解と民族共生のための情報発信や教育の拠点になる。新法の整備と合わせ、アイヌ政策の柱となることを期待したい。
https://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20180817000059




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