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「ヒグマとの戦い」復刊 養老牛温泉発見の故西村氏著 根釧での冒険、克明に

2021-09-07 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/06 18:31
 【中標津】町内の名所・養老牛温泉を発見、開発した西村武重氏(1892~1983)が、自身の狩猟や冒険について記した「ヒグマとの戦い」が文庫化して復刊され、山と渓谷社(東京)から全国発売されている。開拓者とクマの衝突や、著者とアイヌ民族との交流など、大正、昭和の地域の様子を平易に記している。
 「ヒグマとの戦い」は71年初版。同社が雑誌「山と渓谷」の常連投稿者だった武重氏に声をかけ発刊した。その後、絶版となったが今年7月に文庫本で復刊。山と渓谷社は「100年前、今は想像もつかないような大自然が広がり、活気みなぎる人がいたことを伝える、知る人ぞ知る名著。広く読み継いでほしい」と話す。
 風蓮川流域や養老牛など根釧地域をはじめ、硫黄鉱探索で訪れた択捉島、武重氏が根釧を探索する前に訪れた道北地域や千歳川を舞台に、開拓に携わる人々や地域の動植物、狩猟を通じて巡り合った出来事が記されている。西別川流域のアイヌ民族の集落の長、榛(はしばみ)幸太郎氏との交流や、犬や馬を使うアイヌ民族のクマ狩猟も紹介している。
 また、クマが開拓で山林に入る人々を襲った事件、牧場で牛馬を食う場面も詳述しており、同社は「クマの怖さの一端がわかり、事故が相次ぐ昨今、読み直す価値がある」としている。
 武重氏は1892年に香川県で生まれ、96年に札幌に移住。その後は道内各地で狩猟、探検し、1916年に養老牛温泉に到達、20年に同温泉で最初の旅館「養老園」を開業した。孫の西村穣・中標津町長は「読み返すと民間の記録として歴史的価値を感じる。祖父の冒険の楽しさが多くの人に伝わればうれしい」と話している。990円で、全国の書店などで販売中。(小野田伝治郎)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/586321

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アイヌ文様入り 認証商品続々

2021-09-07 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/06 16:00
一般社団法人・阿寒コンサルン設立2年
 【阿寒湖温泉】アイヌ文化を活用した商品開発の監修などを担う一般社団法人阿寒アイヌコンサルン(釧路市阿寒町阿寒湖温泉4)が、8月で設立から2年を迎えた。道内外からアイヌ文様などを利用する商品開発の相談が増加し、同法人が認証した新商品が続々と生まれている。(伊藤美穂)
クリエーター派遣 使い方監修
 同法人はアイヌ文化を正しく理解してもらい、知的財産として広く普及させようと、2019年8月に設立。阿寒湖アイヌコタンのアイヌ民族が主体となり、アイヌ文様やアイヌ語表記などを利用したい企業・団体などに対して適切な使い方を指導・監修している。
 アイヌ文様などを利用する商品開発の依頼が企業などから寄せられると、内容を検討後、同法人の認定委員会が審査する。審査を通過すると、同法人が認定した地域の木彫家など「アイヌ文化クリエーター」14人の中から内容に応じたクリエーターを派遣。同法人が監修・製作した商品にはアイヌ知的財産権の略である認証マーク「ⒶAIPR」と認証コードが与えられる。依頼した企業などが同法人にデザイン料や使用料などを支払う仕組みだ。
 同法人は20年9月、これまで受けた代表的な相談内容を掲載した専用ホームページ(https://a-ainucon.com/)を開設。「アイヌ文化クリエーター」を全員掲載し、それぞれの得意分野とアイヌ文化への思いを紹介している。
相談件数 右肩上がり
 こうした取り組みが実を結び、相談件数は右肩上がりで商品化にもつながっている。19年度は相談25件、認証件数2件だったが、20年度は相談56件、認証件数40件にまで増加。21年度は7月までに17件の相談があり、認証件数は7件に上る。
 釧路市内でも、アイヌ文様を施した認証商品が誕生している。阿寒湖温泉の北海まりも製菓では名物「まりもようかん」と阿寒シンプイゼリーをセットにした商品のパッケージデザインを今年5月に一新。石川栄一社長(42)は「地元のお土産品として売れ行きも良い」と手応えを語る。
 釧路市阿寒町で栽培したイチゴの出荷を20年6月から本格的に始めた「夢の杜(もり)ファーム」は、パックを詰める段ボールに文様を印刷している。長江文男社長(81)は「阿寒産ということをPRできる」と話す。
 このほか、釧路市音別町行政センターによる特産品フキの紙が原料の和紙「富貴紙」を使ったアイヌ文様入りの扇子や、NPO法人阿寒観光協会まちづくり推進機構によるオリジナル布マスクも発売された。
「正しい文化広めたい」
 道外からの商品開発などの依頼も増えている。デニムの生産が盛んな岡山県井原市の井原被服協同組合のウェブサイトでは、アイヌ文様が入ったデニム生地の商品シリーズを昨年3月から販売。着物や日本伝統織物を素材として帽子を製作する埼玉県本庄市のワンダーファブリックは、アイヌ文様を全体に施した帽子を今年3月にオンラインストアで売り出した。製作・販売を担当する今井俊之さん(37)は「アイヌ文様を正しく使いたいという思いで相談した。かっこいいと評判のデザインで、今後も協力して新たな商品を販売していければ」と力を込める。
 同法人は認証した手拭いやトートバッグなどを胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の売店に置いてもらうなどPRにも力を入れる。同法人理事長で阿寒アイヌ協会会長の広野洋さん(56)は「相談窓口として認知も進んでいる。正しいアイヌ文化を広め、さらなる販路拡大を進めていきたい」と話している。
クリエーター派遣 使い方監修
 同法人はアイヌ文化を正しく理解してもらい、知的財産として広く普及させようと、2019年8月に設立。阿寒湖アイヌコタンのアイヌ民族が主体となり、アイヌ文様やアイヌ語表記などを利用したい企業・団体などに対して適切な使い方を指導・監修している。
 アイヌ文様などを利用する商品開発の依頼が企業などから寄せられると、内容を検討後、同法人の認定委員会が審査する。審査を通過すると、同法人が認定した地域の木彫家など「アイヌ文化クリエーター」14人の中から内容に応じたクリエーターを派遣。同法人が監修・製作した商品にはアイヌ知的財産権の略である認証マーク「ⒶAIPR」と認証コードが与えられる。依頼した企業などが同法人にデザイン料や使用料などを支払う仕組みだ。
 同法人は20年9月、これまで受けた代表的な相談内容を掲載した専用ホームページ(https://a-ainucon.com/)を開設。「アイヌ文化クリエーター」を全員掲載し、それぞれの得意分野とアイヌ文化への思いを紹介している。
相談件数 右肩上がり
 こうした取り組みが実を結び、相談件数は右肩上がりで商品化にもつながっている。19年度は相談25件、認証件数2件だったが、20年度は相談56件、認証件数40件にまで増加。21年度は7月までに17件の相談があり、認証件数は7件に上る。
 釧路市内でも、アイヌ文様を施した認証商品が誕生している。阿寒湖温泉の北海まりも製菓では名物「まりもようかん」と阿寒シンプイゼリーをセットにした商品のパッケージデザインを今年5月に一新。石川栄一社長(42)は「地元のお土産品として売れ行きも良い」と手応えを語る。
 釧路市阿寒町で栽培したイチゴの出荷を20年6月から本格的に始めた「夢の杜(もり)ファーム」は、パックを詰める段ボールに文様を印刷している。長江文男社長(81)は「阿寒産ということをPRできる」と話す。
 このほか、釧路市音別町行政センターによる特産品フキの紙が原料の和紙「富貴紙」を使ったアイヌ文様入りの扇子や、NPO法人阿寒観光協会まちづくり推進機構によるオリジナル布マスクも発売された。
「正しい文化広めたい」
 道外からの商品開発などの依頼も増えている。デニムの生産が盛んな岡山県井原市の井原被服協同組合のウェブサイトでは、アイヌ文様が入ったデニム生地の商品シリーズを昨年3月から販売。着物や日本伝統織物を素材として帽子を製作する埼玉県本庄市のワンダーファブリックは、アイヌ文様を全体に施した帽子を今年3月にオンラインストアで売り出した。製作・販売を担当する今井俊之さん(37)は「アイヌ文様を正しく使いたいという思いで相談した。かっこいいと評判のデザインで、今後も協力して新たな商品を販売していければ」と力を込める。
 同法人は認証した手拭いやトートバッグなどを胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の売店に置いてもらうなどPRにも力を入れる。同法人理事長で阿寒アイヌ協会会長の広野洋さん(56)は「相談窓口として認知も進んでいる。正しいアイヌ文化を広め、さらなる販路拡大を進めていきたい」と話している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/586231

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水曜日のカンパネラ、コムアイ脱退 二代目・詩羽が加入 今夜2人がインスタライブ配信

2021-09-07 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/06 12:00
 3人組ユニット「水曜日のカンパネラ」の主演・歌唱担当のコムアイが脱退することが6日、発表された。同時に、二代目主演・歌唱担当として詩羽(うたは)が加入することも明らかになった。
 コムアイは脱退の理由について「特別にきっかけがあったわけではないのですが、3年くらい前から、このプロジェクトで私が活動を続けていくのが想像できなくなりました。自分の興味が広がり、もっと自由になりたかったです。それまでも、ずいぶん自由にさせてもらっていたけれど、これ以上、私の興味にケンモチさんやDir.Fを振り回したり、歩み寄ってもらうのではなく、水曜日のカンパネラの重心をもっと2人の方へ戻すべきだと考えるようになりました」と説明する。
 コムアイは脱退の理由について「特別にきっかけがあったわけではないのですが、3年くらい前から、このプロジェクトで私が活動を続けていくのが想像できなくなりました。自分の興味が広がり、もっと自由になりたかったです。それまでも、ずいぶん自由にさせてもらっていたけれど、これ以上、私の興味にケンモチさんやDir.Fを振り回したり、歩み寄ってもらうのではなく、水曜日のカンパネラの重心をもっと2人の方へ戻すべきだと考えるようになりました」と説明する。
 ファッションやアート、カルチャーと、幅広い分野で活動するコムアイは近年、屋久島でのフィールドワークをもとにプロデューサーにオオルタイチを迎えて制作した音源「YAKUSHIMA TREASURE」をリリース。新しい形の音楽体験をオンラインで公開しているほか、現在はオオルタイチと熊野に通いながら新作を準備中。2020年からはOLAibi(オライビ)とのコラボレーションも始動し、北インドの古典音楽や能楽、アイヌの人々の音楽に大きなインスピレーションを受けながら音楽性の幅を広げている。
 二代目ボーカルの詩羽にも会ったというコムアイは「すっかり彼女のことが好きになりました。彼女がきゃきゃっと笑うと、周りがぱっと照らされたみたいに明るくなる、そういう魅力のある人です」と紹介。「詩羽ちゃんはとても頼もしくて、ここは変えていきたい、ここは変えたくない、とビジョンを向こうから話してくれて、今までの曲も歌わせてくださいって言ってくれて、本当に嬉しかった。詩羽ちゃんの水曜日のカンパネラ、楽しみ!と思いました」と胸中を明かした。
 新ボーカルを迎えることについては「自分が歌う気がなくなってしまったことで、今までの歌が埃をかぶってしまうことは、ケンモチさんや他の作曲家に対しても、申し訳ないと思っていたので、とても救われました。自分が住まなくなった家が、誰も住まずに鍵がかかっているよりも、誰かが改修して違った形で住み続けてくれる方が、私は嬉しいです」とつづっている。
 水曜日のカンパネラは、2012年に主演・歌唱担当のコムアイ、音楽担当のケンモチヒデフミ、その他担当のDir.Fで結成。インディーズ時代の2014年、クセの強い歌詞とアニメMVに中毒者続出となった「桃太郎」が大きな話題を呼び、15年には『ヤフオク!』のCMにコムアイが出演。16年6月に『UMA』でメジャーデビューし、17年3月には初の日本武道館公演で1万人を動員した。
 新ボーカルの詩羽もコメントを寄せ、「この度『水曜日のカンパネラ』の二代目ヴォーカリストになりました、詩羽(うたは)です! 私の「やりたいこと」「伝えていきたいこと」を、水曜日のカンパネラとして、一緒に進んでいくことを決めました。みんなも私も楽しくハッピーな日々になるように頑張っていきます! 今後の活動を楽しみにしていてくださると嬉しいです! よろしくお願い致します」とあいさつした。
 きょう6日午後9時より、コムアイ、詩羽の2人のアカウントでインスタライブを配信する。現メンバー3人および詩羽のコメント全文は以下のとおり。
■「水曜日のカンパネラ」メンバー全員コメント
▼コムアイ「自分の興味が広がり、もっと自由になりたかった」
プロジェクトが始まった頃、ケンモチさんがよく「水曜日のカンパネラは乗り合いバスだ」と言っていたことを思い出します。それぞれが行きたい道のりの、分かれるところまで一緒に乗っていこうと。
3人のやりたい表現は最初から少しずつ違っていて、でもとても奇妙なバランスで、違うセンス…もしくはナンセンスを内包しながらここまで来れたことは、貴重なことでした。それはひとえに、10歳ほど年上だった2人が、なぜか私を対等に扱ってくれた余裕と配慮の賜物です。私はプライドの高い普通の大学生だったのに、歌える子と踊れる子がいるから!ということで、3人目として拾われました。結局1人だけ残り、スタートすることになったのですが、そこからはがむしゃらに活動を続けていって、記憶がおぼろげな時期もあります。
ステージの袖から、破裂しそうな気持ちをぎゅっと握りしめて飛び出していって、観客の輝きと、目が合う瞬間。全身がぞわぞわ身震いして、もう1人の自分に乗っ取られて勝手に声が出て身体が動いているような瞬間。頭でっかちだった自分を、チームとオーディエンスにたくさん解放してきてもらいました。
私はこれからも、音楽や表現と離れず、たくさんの人に出逢い人生を送っていきたいと思いますが、そういう生き方の素晴らしさを教えてもらい、最初に長い冒険を共にした仲間のことは、忘れることができません。今までお世話になった皆さんひとりひとりにご挨拶することがかなわないですが、期待してサポートしてきてくださったみなさま、貴重なパワーのお裾分けを、本当にありがとうございました。
私は、水曜日のカンパネラとしてやってきたことに、心から満足しています。悩みながらもひとつひとつ、自分で決めて進んでこれました。
特別にきっかけがあったわけではないのですが、3年くらい前から、このプロジェクトで私が活動を続けていくのが想像できなくなりました。自分の興味が広がり、もっと自由になりたかったです。それまでも、ずいぶん自由にさせてもらっていたけれど、これ以上、私の興味にケンモチさんやDir.Fを振り回したり、歩み寄ってもらうのではなく、水曜日のカンパネラの重心をもっと2人の方へ戻すべきだと考えるようになりました。
びっくりさせてしまったけれど、時間をかけてチームの皆さんにも理解していただきました。
私が入る前から水曜日のカンパネラという名前もあったし、ケンモチさんもDir.Fもいました。だから、私が抜けても水曜日のカンパネラは大丈夫です。
それに、詩羽ちゃんという素敵な人が入ります。
彼女は、この変わった状況でバスに乗ってくれる稀有な人です。会ってみて、すっかり彼女のことが好きになりました。彼女がきゃきゃっと笑うと、周りがぱっと照らされたみたいに明るくなる、そういう魅力のある人です。会ったときに、私のこと気にしないで好きに変えてってほしいと伝えたけれど、それもそんなに簡単に言うなよって感じですよね。でも詩羽ちゃんはとても頼もしくて、ここは変えていきたい、ここは変えたくない、とビジョンを向こうから話してくれて、今までの曲も歌わせてくださいって言ってくれて、本当に嬉しかった。詩羽ちゃんの水曜日のカンパネラ、楽しみ!と思いました。
自分が歌う気がなくなってしまったことで、今までの歌が埃をかぶってしまうことは、ケンモチさんや他の作曲家に対しても、申し訳ないと思っていたので、とても救われました。
自分が住まなくなった家が、誰も住まずに鍵がかかっているよりも、誰かが改修して違った形で住み続けてくれる方が、私は嬉しいです。
発表が遅くなり、ご心配をおかけしました。
応援や祈りに、たくさん支えられてきました。
ありがとうございます。
どうか温かいそのお気持ちを、詩羽ちゃんの加入したこれからの水曜日のカンパネラにも、たくさんたくさん注いでくださいますよう、お願い申し上げます。
▼ケンモチヒデフミ「それぞれまたイチから再スタート」
この度、ボーカルのコムアイが脱退し、詩羽が新メンバーとして加入することになりました。
10年前のユニット結成当時。コムアイは人前で歌を歌ったこともなく、私はJ-POPを作ったこともなかったという、シロウト同然の集まりで始まった『水曜日のカンパネラ』。「2年間やって芽が出なかったらすぐ解散しよう」などと言いながら、何とか幸運に恵まれここまでやってくることが出来ました。
私が今もこうして音楽を続けられているのは水曜日のカンパネラがあったからで、世に知られるきっかけになったのはフロントマンであったコムアイの才能と努力のおかげだったと思っています。彼女と出会いここまで一緒に音楽活動を出来たことに本当に感謝しています。
コムアイは脱退することになりますが、これからも彼女の活動は我々と違った形で続いていきます。また、私とDir.Fも新メンバー詩羽と協力しながら、これからの時代に合う新しい水曜日のカンパネラを作っていこうと思っています。
今まで応援してくださったファンの皆様には、ここ数年は表立った活動をお伝えすることが出来ずに申し訳ありませんでした。それぞれまたイチから再スタートになりますが、引き続き応援していただければ幸いです。
▼Dir.F「コムアイでなきゃあり得ない活動でした」
コムアイへ、出会ってからは10年間。
この場を借りて、本当にありがとう!そしてお疲れ様でした。
この10年間は、まさにコムアイでなきゃあり得ない活動でした。ちょっとずつ変わっていく姿もコムアイらしいと思っていました。出会った当初に感じていたコムアイの才能が最大限伝わるようにこれからは個人名義として活動をしていくことになります。
これからのコムアイが表現する世界も一ファンとして応援したいです。
そして、新加入の詩羽へ、2代目として襲名しフロントに立つことになりますが、自分らしく新たな水曜日のカンパネラを楽しんでください。
ファンの皆さま、関係者の皆さまへ、少しお待たせしましたが、今後とも引き続きよろしくお願い致します!
▼詩羽「みんなも私も楽しくハッピーな日々になるように」
この度『水曜日のカンパネラ』の二代目ヴォーカリストになりました、詩羽(うたは)です!
私の「やりたいこと」「伝えていきたいこと」を、水曜日のカンパネラとして、一緒に進んでいくことを決めました。
みんなも私も楽しくハッピーな日々になるように頑張っていきます!
今後の活動を楽しみにしていてくださると嬉しいです!
よろしくお願い致します。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/586181

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<書評>海神の子

2021-09-07 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/05 05:00
川越宗一著
海賊の力ずくの生きざま 爽快に
評 佐川光晴(作家)
 昨年1月の直木賞受賞作「熱源」でアイヌ民族の苦難を描いた著者が次に挑んだのは、台湾をオランダの支配から解放した英雄・鄭成功(幼名・福松)の生涯だ。
 近松門左衛門作の人形浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」の主人公・和籐内(わとうない)のモデルとしても有名だが、作者は史実を大胆に改変し、福松の実母・松を武略に優れた海賊の頭目にする。この設定が見事に効いて、血沸き肉躍る合戦シーンに引き込まれること請け合いだ。だからこそ静粛な会話が胸を打つ。
 「あたしたちは海賊しかできなかった」
 背丈ほどもある野太刀を振るって戦っていた松は、7歳の福松にそう語る。
 「どこにもいられなかったやつが、あさってくらいまで生きていられる場所がないものか、あたしなりにずっと探している」とも続ける。
 時は17世紀前半、腐敗を極める明王朝の末期。松が育った長崎・平戸は明と日本を結ぶ貿易で栄え、両国の人々が入り交じる。松が率いる海賊一家「鄭家」は徐々に勢力を拡大していくが、敵は多く、前途は多難だ。
 「私は、官僚になりたいと思います。科挙を受けます」
 数年後、福松は宣言し、南京で師について勉学に励む。出世して大官となり、鄭家を守るために。ところが福松が科挙に合格する前に明帝は反乱軍に襲われて自害し、中華は大いに乱れる。福松は新帝を立てて明の復興を図るが、北方の清が中原にまで進出し、母と息子の関係にも修復しがたいヒビが入る。鄭家の運命やいかに。
 本作の面目は「国性爺合戦」のテーマであった忠義になど目もくれず、海賊たちの力ずくの手前勝手な生きざまを武骨な筆致で描いていることにある。
 「今日は無事でも、明日は分からない」
 そのことが骨身に沁(し)みて分かっているからこそ、松も海賊たちも悪びれず強い者につく。一方、御曹司である福松にはその機微が本当には分からず、もはや天命が失われてしまったと知りつつ、明王朝復興という幻想を捨てきれないのである。苦さの中にも爽快さがみなぎる快作だ。(文芸春秋 1760円)
<略歴>
かわごえ・そういち 1978年生まれ。2018年「天地に燦(さん)たり」で松本清張賞を受賞しデビュー。19年刊行の「熱源」で直木賞
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/586135

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米先住民の文化抹殺に協力したスイス人宣教師

2021-09-07 | 先住民族関連
SWI 2021/09/06 06:00
スー族を地獄の炎から救いたい一心で首長シッティング・ブルをもキリスト教に改宗させようとしたベネディクト派の修道士マルティン・マーティ。彼は布教活動を通じて米先住民族の文化的抹殺政策(エスノサイド)の一翼を担うことになった。スイス人であるマーティが米国政府の先住民「文明化」政策に加わったのはなぜなのか。
米サウスダコタ州ヤンクトンにあるマーティ司教記念礼拝堂。第2次世界大戦終結後しばらくして、「ベネディクト派がダコタに到来する端緒を開いた尊い司教の記念碑」として建てられた。スイス出身のベネディクト派修道士マルティン・マーティは「スー族の使徒」としてこの地で名を馳せた。多くの学校に彼の名が付けられ、その名にちなんだ小さな集落もある。
記念礼拝堂のステンドグラスには、1870年代終わり、マーティがまもなく銃殺されることになる反抗的な首長シッティング・ブルに布教を試みた(失敗に終わった)エピソードが描かれている。ガラス絵の中の彼は偉大な首長を尊敬の眼差しでうやうやしく見上げ、後ろでは先住民の女性たちが歌集を手に歌っている。
マーティ司教記念礼拝堂のステンドグラス(部分)。米サウスダコタ州ヤンクトン Collection Manuel Menrath
しかし、マーティの生涯や、彼がスー族の「文明化」に果たした役割を詳細に調べ上げたスイスの史学者マヌエル・メンラート氏の目には、こうした描写はいかにも偽善的に映る。「後世の人は、長髪に頭飾りといったステレオタイプな先住民に混じって信心深く歌うマーティを厳かに描いたが、これは絵空事だ。マーティの寄宿学校の実態はそれとは大違いで、アクセサリーや長髪は異教的で忌まわしいと、真っ先に禁じられた」
現在もスー族にカトリック信者が多いのは、マーティの功績だ。彼の寄宿学校は、先住民の子を勤労な米国人、何よりカトリックに育て上げるという計画を助けた。マーティは、宗教的な志を持った人間が、自らを植民地主義の手先にならしめた典型的な例だ。そもそも19世紀の中央スイスに生まれた修道士が渡米するきっかけとは何だったのだろう。
西部開拓地を夢見て
マーティは、教会の管理人の息子としていわば教会で育った。3人いた兄弟も全員、司祭になった。5歳からイエズス会士に教育されたマーティは、世界各地に赴き信仰のために戦うイエズス会に幼くして魅了され、16世紀の日本やモザンビーク、インドで布教活動を行った聖フランシスコ・ザビエルに憧れる少年時代を過ごした。ザビエルは米国を訪れたことはなかったが、中央スイスでは「インディアンの宣教師」としても敬われていた。
しかし、マーティがイエズス会士になることは、スイスではもう無理だった。ローマにのみ忠誠を誓う同組織は反国家的とされ、1848年、誕生したばかりのスイス連邦の憲法で禁止されたからだ。そこでマーティは16歳でベネディクト派の修道士になり、「マルティン」という修道名を授かった。
しかし、新しいスイス連邦ではプロテスタント諸州が着々と勢力を広げ、その影響はカトリック教徒全般に及び始めていた。多くの州で修道院やカトリック系の大学が閉鎖の憂き目をみた。マーティが所属するアインジーデルン修道院も、解散を回避する方法を探していた。
修道士を米国に派遣したのもこうした事情からだった。1854年、派遣修道士らはインディアナ州テルシティ市近くに聖マインラート修道院を設立した。50年代にスイス人の入植が盛んだった土地だ。メンラート氏によると、修道士らは米国に避難する際、カトリック教徒が移住した先を選ぶようにしていた。「移民が異国でプロテスタントに改宗してしまうことを懸念していたからだ」
しかし、西部開拓の地に作られた修道院の運営はアインジーデルンから見て満足の行くものではなく、1860年、26歳のマーティがてこ入れ役として派遣された。マーティはその役目を立派に果たす。彼が入植者の子供たちのために作った学校の周りには人が集まり、町ができた。70年、聖マインラートは独立の修道院に、マーティはその院長に昇格した。
しかし、1カ所にこもる修道院の生活は彼の性に合わなかった。フロンティア運動の宣教師を自認していたマーティは、「暗闇と死の影の中にいる異教徒」にカトリックの真理を伝えたいと願っていた。管理職として赴任したとはいえ、「インディアンの宣教師」になるという個人的な目標には近づいていた。状況も有利だった。
(左)ペンシルベニア州カーライル・インディアン工業学校入学時のスー族の少年(1883年)。(右)3年後の同じ少年 Collection Manuel Menrath
根絶ではなく「文明化」
それというのも南北戦争を経た米国の人々は、先住民への対応を含め戦いというものに嫌気がさしており、人道主義者や教会関係者は、先住民に対しより暴力的でないアプローチを求めていた。その結果、当時の内務長官の言葉を借りれば「無力で恵まれない種族」である先住民を「我々の高等なキリスト教文明の教え」に基づき教育する方向に舵を切ることになった。
ただし、平等を目指していたわけではない、とメンラート氏は言う。「エリートではなく、女中や工場労働者、善良なキリスト教徒など社会にとって便利な人材が欲しかったのだ」
そこで、宗派を問わず様々な教会に出番が訪れることになった。騎兵隊による処刑の脅迫を受けながら諸部族が移り住んだ居留地が、布教団体に割り当てられることになったのだ。割り当てに際しては当該地域で既に活動実績のある団体が優先された。
ここで留意すべきは、この「平和政策」は、米国家が先住民の根絶を断念したというよりも、彼らの言語や文化、精神性を破壊するという最終的な行為を試みた、という点だ。今日、人はこれをエスノサイドと呼ぶ。メンラート氏によると、こうした政策は入植者中心の植民地主義の典型であり、オーストラリアやニュージーランドなどでも見られた。
「始まりはごく牧歌的だ。新しい地域を目指して入植した人々が土地を少々必要とする。そこで先住民が場所を移動し、平和が保たれる。ところが、入植者の土地需要が高まるにつれ、やはり先住民が邪魔になる。残された選択肢は2つ。根絶か、再教育だ」
入植者植民地主義は、入植者が必ずしも宗主国の国民である必要がない、という点も特徴だ。優良とみなされる人種であれば、どの国の出身者にもチャンスがあった。
マーティが大きな役割を果たせたのもそのおかげだ。しかし、メンラート氏は一方的非難には待ったをかける。「拙速な教会批判に走るべきではない。第1に、この政策の牽引(けんいん)役は国家だった。教会側には善行をしているという意識があった。新しい政策に協力することで、少なくとも肉体面の人助けにはなったからだ」
マーティの文明化施設
1874年に設立されたカトリック教会インディアン宣教局から宣教師探しへの協力を依頼されたマーティは、彼自身が夢見ていた道に進むチャンスがやっと到来したと考えた。そして1876年、スタンディングロック居留地で暮らすスー族への布教活動に専念するため、修道院長の地位にもかかわらず聖マインラート修道院を離れた。
マーティは日頃から先住民に対する暴力的政策に反対意見を唱え、スー族が「放浪者、怠け者、物乞い」になったのは米国の戦略のせいだという認識も持っていた。しかし、その一方で、彼らの文化は後進的で保護には値しないとも考えていた。そこでまず、先住民を欧州の農民に近づけるため、土地の区画分割を計画した。
しかし、彼が早くから事業の中心に据えていたのは子供たちだった。子供は大人よりも文明化のハードルが低いと考えたためだが、それには子供たちを親元から引き離す必要があった。彼は「悪習が正されないままの乱れた家族の輪の中に定期的に戻ることが許される」ならば、子供たちの教育の意味がなくなると考えた。
子供たちを大人になるまで隔離し、良きカトリック教徒となったあかつきに自分自身の家庭を持たせる。そんな青写真に基づき、1876年、マーティはスー族と共に寄宿学校を建設した。これはメンラート氏がいみじくも表現したように、スー族にとっては「自分たちの文化の墓穴を掘る」行為だった。
多くの親は、自発的に子供をマーティやその協力者らに託したが、そこには子供が居留地外の軍の寄宿学校に送られるのを避けたいという大きな理由があった。軍の寄宿学校では子供が死ぬ確率が極めて高かったのだ。
米国ではマーティが来る以前から、「平和政策」の一環として先住民の子供たちを居留地外の寄宿学校に送り込んで本来の文化を奪い取るという試みが行われていた。寄宿舎の寝室はウイルスやバクテリアにうってつけの環境で、生徒の多くが亡くなった。寄宿学校にはそれぞれ専用墓地があり、ペンシルベニア州カーライルの寄宿学校だけでも埋葬された子供の数は190人に上った。
マーティ運営下のカトリック寄宿学校は軍隊的カラーが比較的薄く、子供たちが部族の言葉を使うことも許されていた。しかし、これは文化の尊重というよりも布教活動の効率化のためだった。彼らの母語で福音を伝えた方が心に響きやすいと考えられたのだ。到着後さっそく髪を切ったり、伝統的衣服から白いローブに着替えさせたりするといったことは、ここでも行われた。
閉め切った室内で授業を受けること自体が子供たちには劇的な変化だったことは、想像に難くない。これについてメンラート氏は、子供たちは季節の自然の営みや太陽と星の軌道で方角を知る世界から、どこを見ても四角い世界に連れて行かれたとし、「長方形の机、ベッド、ドア。森の代わりに長方形の花壇がある整然とした庭。これだけでも先住民の魂にとってはレイプだった」と述べた。
殴打と辱め
こうしたカトリック系寄宿学校での子供の扱い方は、20世紀に入った欧州の施設でもまだ、唯一正しいとされていた方法と同じだった。「ブルジョアの社会通念に反するものは全て矯正されなければならなかった」(メンラート氏)。全寮制の学校では権威主義的教育法が横行していた。厳しい懲罰は日常茶飯事で、子供たちは監禁されたり殴打や辱めを受けたりした。
「キリスト教系の学校では、現世の罰は来世への償いの先取りになるという考えから、こうした行為がなおさら正当化された。肉体的懲罰を受けることで魂は煉獄の苦しみから救われると考えられたのだ」。カトリックの学校では、仕事や懲罰に加えて祈りという義務もあった。ミサは国が定める始業時間前に行われ、1日の開始をさらに早めた。
「インディアンを殺し、人間を救え」が新しい「平和政策」のモットーとなったが、必ずしも思惑通りには行かなかった。カトリックの寄宿学校でも病気がはびこり、亡くなる子供が多かったのだ。人ではなく魂の救済に重きを置く姿勢がグロテスクな形で表れたのが、1890年頃、サウスダコタ州ローズバッド居留地で起きたある事件だ。
息子を亡くした先住民の父親が、悲しみのあまりフランシスコ会の寄宿学校に押しかけ、伝統的な方法で埋葬するため遺体を家に運び去った。修道女らにとってそれは子供のカトリックの魂を無にする許し難い行為だった。父親は逮捕され子の亡骸(なきがら)は没収となり、改めてカトリック教徒として埋葬された。
1896年にマーティが他界した時、スー族内のカトリック教徒は6千人超を数え、彼は米国で最も成功した宣教師の1人だと認識されていた。しかし、文明化政策は成功したと言えるのだろうか。メンラート氏は疑いの目を向ける。「もちろん、現在のラコタ(スー族)のほとんどはカトリック教徒で『文明人』だ。一方で、特に州立学校に異なる部族の子供たちを集めたことは、汎インディアン主義運動を生む直接のきっかけともなっている」
「また、読み書きの習得は彼らの文化の支えとなり、居留地は故郷になった。多くの人が苦しみ命を落としたのは事実だ。しかし、言語、精神性、羽飾り、聖なるパイプなど、彼ら固有の文化を根絶するという目標に照らした場合、エスノサイドは失敗したと言える」
マヌエル・メンラート氏によるマルティン・マーティの伝記「Mission Sitting Bull, The Story of the Catholic Sioux(仮訳:シッティング・ブルを改宗させよ:カトリックに帰依したスー族の物語」は2016年に出版された。
2020年には、当時の人々の証言を豊富に収めた北米先住民史「Unter dem Nordlicht: Indianer aus Kanada erzählen von ihrem Land(仮訳:オーロラの下で:カナダのインディアンが語る彼らの土地)」も出版されている。
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(独語からの翻訳・フュレマン直美)
https://www.swissinfo.ch/jpn/culture/%E7%B1%B3%E5%85%88%E4%BD%8F%E6%B0%91%E3%81%AE%E6%96%87%E5%8C%96%E6%8A%B9%E6%AE%BA%E3%81%AB%E5%8D%94%E5%8A%9B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E4%BA%BA%E5%AE%A3%E6%95%99%E5%B8%AB/46882918

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米国務省、ロシアによるクリミア先住民組織の幹部拘束を非難

2021-09-07 | 先住民族関連
ロイター 2021年9月6日
[ワシントン 5日 ロイター] - 米国務省は5日、ロシアが2014年に併合したしたクリミア半島の先住民族タタール人を代表する組織の幹部とメンバー45人以上を拘束したとして、非難する声明を出した。
声明は「ロシアの占領当局」に対し、拘束したタタール人の「即時釈放」を求め、今回の件はタタール人組織メジリス(Mejlis)やその指導部に対する「政治的な動機に基づく数々の立ち入り調査や拘束、懲罰を示す最新事例」と批判した。
ロシアのインタファクス通信は先に、消息筋の話として、タタール人組織の幹部とクリミア住民4人が、天然ガスパイプライン損傷との関連で拘束されたと報じた。
ウクライナのクレバ外相は4日のツイッターへの投稿で、ロシアはタタール人組織の幹部を拘束することで「占領下のクリミアにおける恐怖心を助長した」と訴えた。
ロシアがウクライナのクリミアを併合し、ウクライナ東部の戦闘が始まって以来、米国はウクライナを支持し続けている。
https://jp.reuters.com/article/usa-russia-crimea-idJPKBN2G208O

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あらゆる要素を詰め込みまくった『ゴールデンカムイ』 人の縁を紡ぎ編まれた物語を考察

2021-09-07 | アイヌ民族関連
リアルサウンド 9/6(月) 10:49
 野田サトルによる漫画『ゴールデンカムイ』(集英社)が最終章に突入することを記念し、9月17日まで、WEBコミックサイト「となりのヤングジャンプ」と、アプリ「ヤンジャン!」にて全話無料で公開している。コミックスは26巻までの累計で1600万部を突破し、「第22回手塚治虫文化賞」マンガ大賞をはじめ、数々の賞を受賞してきた超人気作だ。まだ読んだことがない人も、途中までしか読んでいなかった人も、もう一度読み返したい人も、このチャンスに一気読みして、クライマックスを目撃する準備をしておきたい。
 明治時代後期、「不死身の杉元」と呼ばれる日露戦争の英雄・杉元佐一は北海道にいた。そこで杉元は、アイヌから奪われた莫大な埋蔵金の存在と、そのありかを示した暗号の刺青を刻まれた24人の脱獄囚の存在を知る。とある事情から大金を必要としていた杉元は、アイヌの少女・アシリパとともに刺青人皮を集め、黄金を求める旅を始める。だが、金塊を狙うのは杉元たちだけではない。軍事政権の実現という野望を抱く鶴見中尉率いる「第七師団」。蝦夷地独立を目指す、元新選組副長・土方歳三の一派。ロシアの反体制過激派組織。そしてもちろん、正体を隠しながら暮らしている凶暴な脱獄囚たち。敵か味方か、生きるか死ぬか、息つく暇もないスピード感で展開していく冒険譚――それが『ゴールデンカムイ』の物語である。
 金塊をめぐるバトルアクションが本作のベースではあるが、「冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・GAG&LOVE 和風闇鍋ウエスタン」と公式が評している通り、あらゆる要素を内包した作品でもある。
 例えば、すでに幾度となく言及されているように、アイヌ文化の精密な描写が『ゴールデンカムイ』の大きな特徴だ。「チタタプ(我々が刻むもの/たたきのこと)」や「ヒンナ(おいしい)」などの言葉をこの作品で知った人は少なくないはず。
 また、アイヌだけでなく、明治後期の日本や北海道文化も細かく描写されており、歴史的背景を感じることもできる。世界観は壮大で重厚でありながら、決してシリアス一辺倒ではない。杉元たちがアシリパに教わりながら狩猟・調理をし、「ヒンナ」と言いながら食事をするシーンには生活感漂う癒しがあるし、ムチムチの男たちが閉ざされた部屋でラッコ鍋を食べ、だんだんおかしな雰囲気になっていく「ラッコ鍋回」(115話)は、『ゴールデンカムイ』屈指のユーモア回だ。
 何気ない日常シーンのゆるさと、命を懸けたバトルシーンの緊張感。この緩急こそ、多くの読者をこの作品にのめり込ませる中毒性の一つだろう。
 数多くの登場人物の利害関係と時勢の変化が絡むことによって、物語はどんどん複雑化していく。敵だった者が味方になることも、共闘していた者が裏切ることも日常茶飯事だ。
杉元とアシリパにだけ感情移入して読むのなら、敵だらけということになる。けれど、読み進めていくほどに、どのキャラクターも「ただの敵」とは思えなくなってくるのではないだろうか。それは、この作品が戦い一辺倒ではなく、一人一人の人生が感じられるからだ。
 どんな人間も必ず食べて眠る。ギリギリの戦いのかたわらで、杉元たちはいつか敵になるかもしれない相手と一緒に風呂に入ったり、同じ鍋を囲んで食事したりする。殺しかけたり殺されかけたりした後に冗談を言い合ったり、共闘して助け合ったりもする。そんなシーンが積み重なることで、どのキャラクターもご都合主義で主人公の前に配置された「敵」ではなく、それぞれの意思を持って行動し、その結果杉元たちとぶつかり合った一人の人間であることが感じられるのだ。
 『ゴールデンカムイ』を読んでいると、物語とはつまり、人と人との出会いなのだと思わされる。誰といつ出会うかによって、人生は無数に枝分かれしていく。杉元がアシリパよりも鶴見中尉や土方歳三と先に出会っていれば、埋蔵金を巡る勢力図は違ったものになっていたかもしれない。脱獄王の白石がいなければ、杉元もアシリパもとっくに死んでいたかもしれない。そして、そのちょっとした偶然を生み出すのは、その人が生きた時代であり、生まれた場所であり、食べてきたものであり、ともに時間を過ごしてきた相手だ。一見本筋からの脱線に思えるような狩猟シーンや、ラッコ鍋のようなエピソードがあるからこそ、彼らのリアリティは増していく。そう考えるとやはり、「冒険・歴史・文化・狩猟グルメ・GAG&LOVE 和風闇鍋ウエスタン」という詰め込みまくったキャッチコピーは、この上なく的確に『ゴールデンカムイ』という作品を表現していると言える。
 本編では、刺青の暗号が解読され、金塊を巡る最後の決戦の火蓋が落とされた。それぞれの野望がぶつかり合うなかで、願いを叶えるのは誰なのか。この最高級の闇鍋のクライマックスを、今こそぜひ味わってみてはいかがだろうか。
https://news.yahoo.co.jp/articles/f0e676df3cc2fd368eed1bb8883de8c9e898c8c9

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