先住民族関連ニュース

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サケ漁「慣習法が根拠」 アイヌ民族訴訟で原告側 札幌地裁

2021-09-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/16 19:05
 アイヌ民族には地元の川でサケ漁を行う先住権があるのに、不当に漁を禁止されているとして、十勝管内浦幌町のアイヌ民族団体「ラポロアイヌネイション」(旧浦幌アイヌ協会)が国と道に対し、サケ漁を行う権利の確認を求めた行政訴訟の第5回口頭弁論が16日、札幌地裁(中野琢郎裁判長)であった。原告側は、アイヌ民族によるサケの捕獲は「少なくとも江戸時代から繰り返されており、慣習法を根拠に認められる」と主張した。
 弁論で原告側は、「法の適用に関する通則法」が、公序良俗に反しないなど一定の条件を満たした慣習を、法的効果を持つ「慣習法」として認めていると指摘。アイヌ民族のサケ漁は「(明治以降の)政府が強制的に禁止したため事実上できなくなっただけで、慣習としては存続している」などとし、現行法上も認められるとした。
 国と道は、現行法の解釈上、先住権は「およそ導き出せない」としている。
 訴状によると、浦幌町の浦幌十勝川流域のアイヌ民族は江戸時代、集団ごとに独占的にサケ漁をし、河口周辺の漁業権は、子孫でつくる原告が引き継いだとしている。(角田悠馬)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/589999

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サケ捕獲権は先住民族の権利か…アイヌ民族団体「慣習法として認められなければならない」 札幌地裁

2021-09-17 | アイヌ民族関連
HBC 2021/09/16 22:15

 北海道浦幌町のアイヌ民族の団体が、サケ漁は先住民族の権利だとして、国や道を訴えている裁判の口頭弁論が、16日、札幌地裁で開かれました。
 訴えを起こしているのは、浦幌町アイヌ協会から名前を変えた「ラポロアイヌネイション」です。
 「ラポロアイヌネイション」は、国や道が水産資源保護法や北海道内水面漁業調整規則などにより禁じている十勝川河口地域でのサケの捕獲について、アイヌ民族の「先住権」に基づき、自由に捕獲できる権利があることの確認を求めています。
 河川でのサケの捕獲は、北海道内水面漁業調整規則で「伝統的な儀式や漁法の伝承・保存ならびに、これらの知識の普及啓発のため」の例外に限って北海道知事が許可する制度になっています。
 国と道は、これまで、「我が国に、アイヌ民族の集団のサケの捕獲権を認める義務はなく、法的な根拠もない」などと争う姿勢を示し、請求の棄却を求めています。
 16日、札幌地裁で開かれた5回目の口頭弁論で、原告側は「現行法制度に、アイヌ民族のサケの捕獲権について規定はない」と認めたうえで、「サケの捕獲は、少なくとも江戸時代までさかのぼることができる慣習に基づくもので、慣習法として認められなければならない」と主張しました。
 「アイヌ民族の集団に河川でサケを捕獲する権利はあるのか」が争点となっているこの裁判。
 次回の口頭弁論は11月18日に開かれる予定で、原告側は、アイヌ民族のサケの捕獲権について、別の観点から主張を展開することになります。
https://news.goo.ne.jp/article/hbc/region/hbc-9f16eff043249686f29b9673bc613aaf.html

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厚真アイヌ協に遺骨返還 文科省 札医大の13体、月内にも

2021-09-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/17 05:00
 文部科学省は16日、札幌医科大が保管しているアイヌ民族の遺骨13体について、遺骨が出土した胆振管内厚真町の厚真アイヌ協会(織田登会長)を返還対象団体と決定した。遺骨は月内にも返還される見通し。
 遺骨はダムの建設工事に伴い、町教委が2003~14年にかけて行った埋蔵文化財調査で見つかった。13~17世紀のアイヌ民族の集落や墓から出土し、札幌医科大が鑑定。町教委の依頼で同大が保管していた。
 町教委によると、遺骨は厚真アイヌ協会の主催でイチャルパ(先祖供養の儀式)を行った後、文化財を保管する町教委の施設に移される見通し。町教委は「出土した刀、首飾りなどの副葬品と共に安置したい」としている。政府は大学が保管しているアイヌ民族の身元不明の遺骨について、出土した地域のアイヌ民族団体からの申請があれば返還を認めている。昨年10月には日高管内新ひだか町、平取町で遺骨が返還されている。(大能伸悟)
※「イチャルパ」の「ル」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/590085

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白老にアイヌ文化拠点 来年開設目指す 宇梶静江さん 11月にも移住

2021-09-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/17 05:00

賃借契約を結ぶ民家をバックに、今後の構想を語る宇梶さん=16日
 【白老】アイヌ民族の詩人で古布絵作家の宇梶静江さん(88)=埼玉県在住=が、アイヌ文化の体験や交流の拠点とするため、胆振管内白老町の民家を借りることになった。来年のオープンを目指し、11月にも移住する。宇梶さんは「アイヌも和人も共に、アイヌとは何かを考え、語り合える生活空間をつくりたい」と話す。
 宇梶さんは16日、同町を訪れ、家主と契約を結ぶことを確認した。拠点とするのは、約200坪(約660平方メートル)の敷地にある木造平屋建ての倉庫付き民家。住居部分ではアイヌ民族の踊りなどを体験してもらったり、伝統的な料理を提供したりする。倉庫は宿泊施設にするほか、庭は遊び場として開放する。運営は寄付や来客者の利用料で賄う予定だ。
 宇梶さんの活動を支援する道内外の学者や出版社社長、建築家らも、アイヌ民族の視点を軸に文化や歴史を考える学問「アイヌ学」を研究したり、学んだりする場として活用する。知人のつてや立地条件などから白老町に決めたという。
 日高管内浦河町出身の宇梶さんは23歳で上京。首都圏からアイヌ民族の権利回復を訴え続けてきた。民家は白老町にある国のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」にも近く、宇梶さんは「アイヌ文化を伝える上で相乗効果になればうれしい」と話す。白老アイヌ協会の山丸和幸理事長は「宇梶さんの人生経験や苦労を若者が知る良い機会だと思っている。アイヌ文化を伝承するためのヒントを得てほしい」と歓迎。戸田安彦・白老町長も「アイヌ文化を発信する大きなツールが増える。連携していきたい」と期待を寄せる。
 宇梶さんの活動についての問い合わせは、支援者の井上千晴さんへメールainugaku@gmail.comか電話080・5459・7788(平日午前10時~午後5時)。(大沢祥子、小林彩乃)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/590087

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「読み信じて指せた」 防衛の里見女流王位 就位式

2021-09-17 | アイヌ民族関連
北海道新聞 09/17 05:00
 将棋の第32期女流王位戦(北海道新聞社主催)で防衛を果たした里見香奈女流王位(29)=清麗、女流名人、倉敷藤花=の就位式が16日、東京都千代田区のフランス料理店「日比谷パレス」で開かれた。女流タイトル通算獲得数を単独最多の44期とした今期の5番勝負を「終盤が難しかったが、自分の読みを信じて指せたことが結果につながった」と振り返った。
 新型コロナウイルス禍の中、東京と大阪の将棋会館のみで行われた前期と異なり、今期は札幌での第2局を含めて全国を転戦。タイトル初挑戦の山根ことみ女流二段(23)を3連勝で下し、女流王位通算7期獲得とした。
 日本将棋連盟の佐藤康光会長、日本女子プロ将棋協会の中倉宏美代表理事がそれぞれ就位状を授与。里見女流王位は「将棋ができる喜びを実感した。いい緊張感の下で対局するという貴重な経験をさせていただいた」とあいさつした。
 里見女流王位には、北海道新聞社から賞金のほか、日高管内平取町のアイヌ工芸作家・貝沢徹さんの「樹布(じゅふ)イタ」(盆)が記念品として贈られた。
 昨年に引き続き祝賀パーティーは中止され、就位状の授与のみが行われた。
(大原智也)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/590090

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「スッキリ」で圧巻のアイヌ民族舞踊紹介 加藤浩次「文化の多様性の大事さ分かった」

2021-09-17 | アイヌ民族関連
デイリースポーツ 9/16(木) 9:57配信
 日本テレビ系「スッキリ」で16日、アイヌ民族の舞踊パフォーマンスを紹介した。
 番組では東京五輪開催中の8月7日に札幌で行われたアイヌ民族の舞踊パフォーマンスの様子を放送し、総監督の秋辺デボ氏が踊りの持つ意味を解説。「アイヌ民族は自然と共生して仲良く暮らしてきました。それは自然に生かされているということをよく分かっていた平和主義です。ですからオリンピックの平和憲章と同じ根っこがあると思っている」と語り、最後に「全道から沢山の民族が集まって、世界に発信するアイヌ民族の心を伝えたい」と、今回の踊りに込めた思いも語った。
 圧巻の舞踊をVTRで見た加藤浩次は「世界では文化の多様性を大切にしましょうっていうのが大きな流れになっているが、6年間の練習、地域で踊りも違ってて衣装も違って、それをまとめ上げて練習してきたのが分かりますし、こういうパフォーマンスを見ると文化の多様性の大事さが分かった」と感心しきりだった。
 番組では今後もアイヌ民族の文化を伝える企画を放送していくという。
 「スッキリ」では、3月12日放送でアイヌ民族を描くドキュメンタリーを紹介したお笑い芸人の発言が問題となり、放送倫理・番組向上機構の放送倫理委員会は7月に「差別表現を含んだもの」と放送倫理違反があったとする意見書を公表した。それを受け、8月26日の「スッキリ」放送で問題の検証を放送し、経緯や再発防止策などを発表していた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/31375acdc37c25fd2a47a730ef7fa40b32e28997

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アイヌ文化伝える作品展 胎内市美術館で開催

2021-09-17 | アイヌ民族関連
北陸・信越観光ナビ 2021/09/16 11:49

アイヌ民族の儀式や生活を描いた中野雅友さんの作品展=胎内市下赤谷
 新潟県胎内市下赤谷の市美術館で、アイヌ民族を長年描き続けてきた洋画家・中野雅友さん(74)=新潟市中央区=の作品展が開かれている。アイヌの生活を描いた代表作をはじめ、衣服や楽器などが並び、アイヌの文化を感じることができる。
 中野さんは小学生の頃、北海道函館市に約1年間住み、アイヌの暮らしに魅了された。アイヌをテーマに約55年にわたり絵を描き続けてきた。
 会場には、アイヌの儀式や収穫の神とされるフクロウ、雪の中で猟に出る姿など56点の作品が並ぶ。中野さんがインスピレーションを得て描いた初期作品と、資料や取材を基に描き上げた近年の作品の違いも鑑賞できる。中野さんが集めたアイヌ民族の衣服や楽器、儀礼で使う道具なども展示されている。
 中野さんは「アイヌの自然と仲よく生きた文化が大好き。絵を描かせるエネルギーがアイヌにはある」と話した。
 11月4日まで。月曜休み。大人300円、小中学生150円、小学生未満は無料。
https://news.goo.ne.jp/article/hokurikushinkansen/region/hokurikushinkansen-NEWS0000028655.html

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幕末以降の近代史を“学び”を切り口に読み解く『学びの歴史像―わたりあう近代―』開催

2021-09-17 | アイヌ民族関連
ぴあ 9/16(木) 18:14配信
人々は何をどのように学んできたのか? 19世紀後半以降、日本列島に近代国民国家が成立していく様相を、“学び”の視点から紐解く展覧会『学びの歴史像―わたりあう近代―』が、10月12日(火)より千葉・国立歴史民俗博物館にて開催される。
同展では、幕末から明治という怒涛の流れの中にあった「学び」の姿を、対外関係史、文化史、経済史、医療・衛生史、アイヌ史など、さまざまな切り口から読み解いていく。アイヌ民族の歴史や言葉、首里や八重山の近代関係資料など、全国各地の資料を一堂に公開するほか《ブラントン日本図》や《元ト昌平阪聖堂ニ於テ博覧会図》など初公開の資料も含め、歴博の豊富な館蔵資料も紹介。さらに私たちにはなじみのない、初代の「君が代」のメロディなどを紹介する“聴く展示”もある。
伝統と近代、欧米とアジア、中央と周縁、強者と弱者など、教育や学知を通じて「国民」が生み出されていく過程を多面的に明らかにしながら、近代における“学び”の意義を考える。
【開催概要】
企画展示『学びの歴史像―わたりあう近代―』
会期:2021年10月12日(火)~12月12日(日)
会場:国立歴史民俗博物館 企画展示室A・B(https://www.rekihaku.ac.jp/)
時間:9:30~16:30(入館は16:00まで)
休館日:月曜日(休日にあたる場合は開館し、翌日休館)
料金:一般1,000円、大学生500円
※会期中展示替えあり
※半券の提示で当日に限りくらしの植物苑に入場可
※開館日・開館時間を変更する場合があり
※土日祝、12月7日(火)~12月12日(日)はオンラインによる事前予約制
https://news.yahoo.co.jp/articles/4e296bf7ecf37ab7d47c788c60311403d688e0bf

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オーストラリア日系ハーフの生き方から見えてくる、多文化に生きるためのヒント

2021-09-17 | 先住民族関連
GLOBE+2021年09月15日07時00分
「ハーフィー」の国 オーストラリアで考えた(前編)
シドニー特派員としての仕事を7月末に終えた。オーストラリア(豪州)で暮らした4年余り、現地の日本人と付き合っていて、ふと気づいたことがある。企業の駐在員とは違う、永住者の家族が思いのほかたくさんいるのだ。調べてみると、そうした日本人とオーストラリア人との間に生まれた子どもたちは数万人にも達するようだ。ここは、世界でも有数の「日系ハーフ」が住む国と言えそうだ。
英国系の「白人の国」という古いイメージから大きく変わりつつある豪州。若いハーフの彼らは、自らのアイデンティティーをどう感じ、生きているのだろう。その心の内をのぞいてみれば、移民問題や多文化共生に戸惑う日本社会にも、何らかのヒントが見えてくるのではないか。任期の最終盤に若者たちを訪ね、共に考えた。(小暮哲夫、文中敬称略)
■わたしは何者? 若者たちが語る
そもそも、日系ハーフの人たちは、豪州に何人いるのか。その数を調べた統計はないが、手がかりを見つけた。日本の外務省の海外在留邦人数調査統計によると、2019年10月現在で豪州に住む日本人は10万3千人あまり。米国と中国に次いで国別で3位だ。そのうち、企業の駐在員や留学生のような長期滞在者ではなく、永住者に限ると、約5万9千人。これは米国の次に多い。
豪州の国勢調査(16年)も調べてみると、「日本生まれ」と答えた人は約4万2千人。「母が日本生まれ」は約6万人、「父が日本生まれ」が約4万4千人いた。
永住者の子の多くが彼らと考えれば、その数は数万人になるとみられる。これはおそらく、日本国外では屈指の多さだ。しかも、彼らは日系人社会の第2世代で、3〜6世代までいる米国やブラジルなどと比べても新しい。
最近、民族や人種が違う両親から生まれた人たちは「ダブル」「ミックス」とも呼ばれるが、豪州では「ハーフ」に、ネガティブな響きはあまりない。若者たちが自ら「ハーフィー(Halfie)」と、くだけた感じで呼ぶこともある。単に「日系」と言われることも多い。
ちなみに、今夏の東京五輪にも豪代表で出場している。母方に日本のルーツがあるBMXレースのサヤ・サカキバラ(22)や、父が日本生まれの重量挙げのエリカ・ヤマサキ(34)らだ。
東京五輪のBMXレーシングに出場後、取材に応じるサヤ・サカキバラ=7月29日、北村玲奈撮影
そんな彼らに5〜7月、シドニーでじっくり話を聞くことができた。
■「ハワイアンじゃなかったの?」
「どこから来たの?」
地元の博物館に勤めるステラ・パルマー(25)は、この問いをこれまでの人生で幾度となく耳にしてきた。
ワーキングホリデーでシドニーに暮らしていた日本人の母が英国系のオーストラリア人の父と出会い、ステラが生まれた。ミドルネームのツバサ(翼)はふだん使わない。名前だけなら「白人」のようだけど、外見は少し違うから、「どこ?」と相手が当てようとすることもある。この種の質問、豪州では民族・文化的なルーツを尋ねる意味であることが多い。時に差別的なニュアンスを含むが、「友達の一人は、私をずっとハワイアンだと思っていた」とステラは笑う。
シドニー中西部の小学校時代、英語が母語でない子ども向けのESL(第2言語としての英語)のクラスに入れられたことがある。先生が外見から間違えたのだ。「今は笑い話だけど、当時は戸惑った。私はこの国で生まれ、オーストラリア人のアクセントの英語を話すから」
でも、学校で差別を感じたことはほとんどない。アジア系や太平洋の島国の出身など白人でない子が多数派で、みな自らの民族的な背景をオープンに話した。
ステラ・パルマー=シドニー、小暮哲夫撮影
中高で通ったシドニー北部の学校は生徒の8割が白人だった。日系だと言うと、クラスメートからは「クールでファッショナブルだと思われた」。街ですれ違いざまに、見知らぬ人に差別的な表現で「中国人」と言われても、気にしなかった。
ただ、アイデンティティーはいつも揺れていた。母の実家がある東京に行けば、「白人」と見られ、「金髪で青い目が美しい、とすり込まれてもいた」。でも、中高生になると、級友と比べ「どうして自分の髪は黒くて、目の色も体形も違うんだろう」と思った。
母に日本語で話しかけられ、「私はオーストラリア人よ」と反発して英語で返したことも。アイデンティティーを「白か黒か、二分法で考えていた」。
ハーフという自分を自然に受け止められるようになったのは、大人になってからだ。「自分は二つの文化を持つハイブリッドで、すばらしいことだ、と今は言える。昨日の夕食は、母が作ったおでんだったから、今日はとても幸せ」
反対に、「自分は、どこから来たの?とはあまり聞かれない」と話したのは、公務員のデックラン・フレミング(22)だ。母は日本人で父は白人のオーストラリア人だが、「外見からみな自分をアジア系だと思うから。自分のアイデンティティーは、と尋ねられたら、シンプルにオーストラリア人が半分、日本人が半分と答える」。自然体な様子が印象的だった。
デックラン・フレミング=シドニー、小暮哲夫撮影
日系ハーフだから嫌な思いをしたという経験はあまりない。思い出すとすれば、小学校で日本の捕鯨が話題に出たとき。豪州は強硬な反捕鯨国。同級生たちが「自分のことを変な目で見た」。
アジア系とみられるとき、数がはるかに多い中国系とみられることが多い。尋ねられて、日系だというと相手の態度が変わる。日本のポップカルチャーの印象がよく、関心を持ってくれるようだ。「でも、中国系の人たちに対してすまない気持ちになる」と話した。
■「中間点」でバランスを取る
シドニーの大学に通うトム・ディッキンソン(24)は、187センチの長身で、法学部で学ぶかたわらラグビーなども好むスポーツマンだ。彫りが深い顔立ちで一見、アジア系とは思えない。
父は英国生まれの移民で、豪州で育った。日本で英語講師をしていて母と知り合い結婚、トムが生まれた。生後3カ月でシドニーに移り住んだトムは、子どものころ日豪英3カ国のパスポートを持っていた。
今は豪英の二つになったけれど、トムは言う。「自分はまず第1にオーストラリア人。そして日本にルーツを持つ。英国のルーツもあるが日本寄りだと思う」
トム・ディッキンソン=シドニー、小暮哲夫撮影
毎年、学校の長期休みに母の実家に里帰りし、地元の小中学校にも通った。学校の玄関で靴を脱ぐ。掃除の時間がある。豪州との違いを感じた。目上の人に敬意を表す文化や、人との間に一定のスペースを保つ振る舞いが身についた。
だからなのか、今付き合っている彼女から、「こんな人に会ったことがない」と言われる。「日本語で言えば、こんな『マジメ』な人はいないと」。こんなに清潔で、整理整頓できる人は豪州にはあまりいないという意味だ。
だけど、父からの影響も自覚している。「豪州はもっと自由で平等を重んじる。自分は、この(日豪の)二つの中間点でバランスを取ってきた」
住みやすいのは豪社会だと思う。「見た目や話し方から、におい、着ているものまで、何も心配することはないから」
■親は「ワーホリ」世代
彼らの親世代が豪州に移住した大きな契機の一つが、ワーキングホリデー(ワーホリ)だ。日本が1980年に初めて協定を結んだのが豪州で、今でも最も人気の渡航先だ。新型コロナウイルスの感染防止のために外国人の入国が制限される前は、毎年8千〜9千人の日本人が滞在していた。
94年からワーホリの仲介支援業を営むアイエス留学(シドニー)の社長、田中和弘(55)によると、90年代はハングリー精神のある若者が多く、広大な豪州を何カ月も車やバイク、自転車で旅する「ラウンド」が人気だったという。
シドニー五輪があった2000年以降は豪州への注目が高まり、人数も右肩上がり。休学して来る学生が目立ち始めたのが05年ごろで、10年以降は現地企業でのインターンの希望が増えた。
他方、どの時代も日本での環境に居心地の悪さを感じてリセットしたいと来る人がいた。1〜3年間の滞在後、一部は移住を選ぶ。結婚相手を見つける人も珍しくない。「パートナービザはどう取れますか」。こんな相談をコロナ前は毎週のように受けていた、と田中は言う。
豪クイーンズランド大学で豪州の日系ハーフを研究しているイーファ・ウィルキンソン(23)は、18〜29歳の20人以上への聞き取りから、典型的な人物像を次のように分析する。
オーストラリア人の父と永住者の日本人の母の間に生まれ、子どものころは1、2年に1度、母の一時帰国で日本に行き、滞在中に日本の小中学校に通う場合もある。日本語は、家で母親と交わす日常会話程度はできるが、漢字が壁になる。周囲からの「日系」へのポジティブな受け止めを認識すると同時に、多くが自身をアジア系オーストラリア人、ともとらえている――。まさに、私が話を聞いた若者たちと重なる部分が多い。
ウィルキンソンは、都市部での非白人の増加や多文化社会の大切さを教える学校での教育が「ハーフたちが受け入れられる助けになっている」と指摘する。
■「完全な日本人」にはなれない
彼らの目に日本社会はどう映るのか。日豪の両方で暮らしたことのあるエンダ・セヤマ=ヘネガン(25)は言う。「日本では、日本語を話し、歴史やあらゆる文化行事も知っていないと、日本人として認められないように感じる。自分は全部の項目にチェックを入れられないから、『私はハーフ』という感じです」
エンダ・セヤマ=ヘネガン=シドニー、小暮哲夫撮影
英国人の父と日本人の母を持つ。5歳のとき東京からシドニーに移り住み、豪国籍を得た。中心部に近い小学校の級友たちはアジア系から中東系、先住民(アボリジナルピープル)、欧州系までいて、他人との「違い」は当然だった。
中高時代は父の仕事で再び日本へ。インターナショナルスクールに通いながら、多感な時期を東京で過ごした。友達と英語で話していたからか、街を歩けば自然と目立った。「かわいい」「脚が長いね」とほめられた。電車の中ではものを食べない、といった豪州と違うマナーを意識して守った。でも、常にこう感じていた。「自分は完全に日本人にはなれないだろう」
大学の進学先はシドニーを選び、単身で戻ってきた。豪州の方が快適だなと思った。大学の寮では、様々な背景を持つ人たちが住んでいた。
建築関連のエンジニアになった今、日本で身についた「勤勉さや、細心の注意を払う姿勢は役に立っている」と思う。
それでも、とエンダは言う。「自分は何者か。その答えは、いつまでも見つからないと思う。半分が日本人、半分が英国人、でも、オーストラリア国民です」(つづく)
【つづきを読む】ハーフが特別でないオーストラリア、昔は違った 先輩たちが語る差別体験
■移民を成長の原動力に
先住民が住んでいた豪大陸に英国から入植を始めたのは1788年。豪連邦が成立した1901年、政府は非白人の移民を排除する白豪主義を採用した。
英国系中心の白人国家、という姿は第2次大戦後に変わり始める。背景には経済的な事情があった。このとき、人口は約750万人。戦後の成長に労働力が必要で、50年代初めにかけて東欧や西欧に移民を求めた。
60年代にかけては南欧のイタリアやギリシャから受け入れた。彼らは「ウォグ(wog)」と差別的に呼ばれもした。
一方、日本から豪州への移民の歴史は戦前にさかのぼる。19世紀後半から20世紀前半にかけて真珠貝を採る潜水士として来た人たちがいた。白豪主義下でも、その技術と勤勉さから例外として就労が認められた。数千人いたが、太平洋戦争が起こると収容所に入れられ、戦後に日本へ送還された。
50〜60年代には連合軍の一員として日本に駐留した豪軍兵士と結婚した女性の移住が認められた。「戦争花嫁」と呼ばれたが、約650人にとどまった。
白豪主義を廃止した70年代半ば以降は、アジアや中東などからの移民が増え続ける。2016年の国勢調査によると、今や「自身か、両親のうち少なくとも一方が外国生まれ」が、人口2500万人の49%を占める。
政府の18年の報告書によると、移民の受け入れは20〜50年に毎年、GDP(国内総生産)の成長率で0.5〜1ポイント貢献すると見込まれる。10年代以降の成長率は年2〜3%ほどだから、決して小さくはない。
移民の大半は若く、高い技能を持った場合も多い。少子高齢化が進む社会の成長の原動力として期待されている。
http://topics.smt.docomo.ne.jp/article/globe_asahi/world/globe_asahi-14440014

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