NHK2022年11月24日(木)午後6時19分 更新
2022年は知里幸恵没後100年の年。 10月28日放送の北海道道では「没後100年・知里幸恵とアイヌ語のいま」と題し、知里幸恵の人生とアイヌ語・アイヌ文化が現在、インターネット等を通してどのように発信されているかをお伝えしました。 アイヌ語を後世に残すという偉業を成し遂げた幸恵はどんな人物だったのでしょうか。 登別にある「知里幸恵 銀のしずく記念館」理事長の松本徹さんにお話を伺いました。(札幌局 平野晶子)
目次 語りの家系に生まれて 発揮される語りの技術 旭川の職業学校へ 楽しげな書簡とは裏腹に… 夢か結婚か…揺れる心 東京へ 死の直前まで発揮された文才 「私こそ偽善者だ」 時を超え、幸恵が語りかけること
語りの家系に生まれて
1903年に北海道登別に生まれた知里幸恵は、祖母・モナシノウク、母・ナミのもとでアイヌ語を耳にしながら成長しました。祖母・モナシノウクは言語学者・金田一京助から「最後の最大の叙事詩人」と称されるほどでした。 加えて、ナミの姉・金成マツも金田一の研究に協力したユカㇻクㇽ(語り部)。 幸恵はまさに「語りの家系」に生まれたのでした。 一方、当時の北海道では同化政策が敷かれ、アイヌの子ども達は学校で日本語を学びました。幸恵は日本語とアイヌ語に触れながら育ったのです。
発揮される語りの技術
語りの家系に生まれ、アイヌ語に囲まれて育った幸恵。その語りの才能は幼い頃から発揮されたようです。 幸恵の母や金田一京助とも交流のあった、歌人・キリスト教伝道者のバチラー八重子は、幸恵の幼い頃の様子を以下のように綴っています。
(幸恵の母を訪ねていった際に)「長女の幸恵様が三才位と存じましたが、初めて会った私に『私は明治何年何月何日生まれの知里幸恵と申す者です』とお母様に教わった通り、暗記されて申されました」(藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』)
当時たったの3歳の少女が語った口上に、バチラー八重子は驚いたそうです。
旭川の職業学校へ
1917年、幸恵は旭川区立女子職業学校に4位の成績で合格。学校生活の様子を両親宛ての書簡にしたためています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/93/4a2c1c8a885f6800d99477ef21a2b921.jpg)
職業訓練学校の授業風景(銀のしずく記念館にて撮影)
1918年8月頃の長い長い書簡では、副級長を務めていること、各教科の先生方の様子、授業で面白かったことなどを綴っています。 例えば、理科・数学を担当する「石田先生」について。
「非常に厳しい先生で怒るときは教室もつぶれるかと思はれますほどおそろしいけれどもみんながおとなしくべんきょうする時はおやさしくておやさしくてそれはそれは自愛のふかいお父様のやうな気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども…私はかへって石田先生が一番好きだと思ひます。今日は数学の試験があって私は満点でありました」
1918年、職業学校2年生の春、両親に宛てた書簡(知里森舎所蔵)。 右から5行目~14行目にかけて石田先生についての描写が連なる。
臨場感のある文章力、という表現ではもったいないくらいの、まるでその場に居合わせて石田先生がお怒りの様子を幸恵と一緒に目撃したかのような事細かな描写。先生の激怒により「教室がつぶれる」というシニカルな表現。自分が満点であったことを入れ込む茶目っ気。まもなく15歳になろうかという時期の幸恵は、思春期の少女らしさも備えたチャーミングでテンポの良い文章を紡いだのでした。
職業訓練学校の通知表。国語・数学・理科・音楽など、ほとんどの科目は甲だが、造花・刺繍・体操など苦手科目も。
楽しげな書簡とは裏腹に…
銀のしずく記念館の松本さんは、楽しげで自信に満ちたような書簡とは裏腹に職業学校ではアイヌであること、キリスト教徒であることを理由に幸恵は孤独を感じていたと話します。 藤本英夫さんの著書によれば、幸恵に対して「ここはあんたのくるところじゃないわよ」と言い放つ同級生もおり、その時の心情を幸恵は以下のように綴ったと言います。 (以下、藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』より抜粋)
「悲しくって、悲しくって涙をポトポト落としながら、あすから、こんな冷淡な人たちの中に来るもんか、来るもんかと思った」
職業学校2年生の後期から幸恵は体調を崩し、卒業が危うくなるほど欠席を重ねます。 松本さんは休みがちになった2、3年生の時期について「身体のせいだけではなかったのでは」と指摘します。
夢か結婚か…揺れる心
1920年、職業学校を卒業した幸恵は将来について悩みはじめます。 文芸で身を立てていくのか、結婚して家庭に入るのか。 当時、幸恵には村井曾太郎といういいなずけがおり、幸恵の家族からの信頼を得ていました。 村井は幸恵より3歳年上、大きな農家の息子でした。 幸恵が村井にあてた手紙はアイヌ語を交えた日本語文をローマ字で綴っていたそう。 銀のしずく記念館の松井さんは、恋文をローマ字で記しているのがなんとも素敵だ、と特にお気に入りの様子でした。 村井は幸恵から届いた手紙を肌身離さず持っていたそうです。 勉強熱心でアイヌ語も日本語も堪能、成績も優秀!というイメージが強い分、いいなずけとの仲睦まじいやり取りを知ると一気に親近感が湧きますね。 1922年3月、村井と幸恵は仮祝言を挙げました。
家庭に入るイメージを持つ一方で、幸恵は夢を追うことも考えはじめます。 1918年、幸恵は言語学者である金田一京助に出会います。叔母・金成マツの元を訪れた金田一に幸恵は問いかけました。
先生は、私たちのユカㇻのために、貴重なお時間、貴重なお金をお使いくださって、御苦労なさいますが、私たちのユカㇻはそういう値打ちがあるものなのでしょうか。
この問いかけに対し、金田一は答えます。
叙事詩というものは、民族の歴史であると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖書でもあった。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。―中略―
いまの世にそれをなおそのまま生きて伝えている、という例は、世界にユカㇻのほかにない。だからわれわれがいまこれを書きつけないと、あとではみることも、知ることもできない、貴重なあなた方の生活なんだ。だから私は、全財産をついやしても、全精力をそそいでもおしいとは思わない―
この思いを受け止めた幸恵は、祖先が残してくれたユカㇻの研究に身を捧げることを決心します。 この後、金田一は東京から幸恵にノートを送り、ユカㇻを書きつけるよう勧めます。1921年4月、書き溜めたノートを初めて金田一に送りはじめました。 従来、ジョン・バチラー(宣教師。アイヌ語研究で知られる)の表記法が一般に知られており、金田一もそれを参考としていましたが、金田一は幸恵独自のアルファベット表記や文章の切れ目の独創性に驚き、出版したいと思うようになります。
旭川時代に書き上げたノートの復刻版。アイヌに伝わるユカㇻをアルファベットで表記し、日本語訳を付けた。
ノートにユカㇻを書き溜め、金田一に送り続けた幸恵は、1922年3月1日、『アイヌ神謡集』の序文を書き上げます。 ユカㇻのアルファベット表記・日本語訳について推敲を重ね、その集大成として書いた序文では、アイヌ語を将来に残していく必要性と、自らが『アイヌ神謡集』を執筆した動機を高らかに宣言しています。 金田一京助が幸恵の才能を見出し、東京へ来るよう誘って『アイヌ神謡集』の出版にこぎつけたというように理解されがちですが、松本さんは幸恵は金田一が東京に誘う以前から「文芸をもっと極めていきたい」という気持ちを持っていたのでは、と説明します。 旭川時代に金田一に送ったノートからもアイヌ語を後世に残していくことへの強い気持ちと、こだわって推敲した過程とが伝わってきます。 旭川での執筆期間を経て、1922年3月1日に『アイヌ神謡集』の序文を書き上げた段階で、東京で文芸を極めることへのモチベーションは高まっていたのかもしれません。
1922年4月9日、幸恵は父・高吉に東京行きを許してもらうために手紙を書きます。 父は幸恵の体調を心配しますが、幸恵は「東京で万国博覧会を見てくる」とあくまでも軽い物見遊山のかたちをとって上京の許しを得ます。 東京に着いた幸恵は金田一の元でアイヌ神謡集の出版に向けて仕上げ作業をはじめます。
東京へ
金田一京助の元で幸恵は何をしていたのでしょうか。 金田一から英語を学んだり東京で出会ったアイヌが語ったユカㇻを筆録したりと、自らの学びを深める時間を過ごしていたようです。 また、金田一の論文に出てくるアイヌ語について、ユカㇻのアルファベット表記を監修したりアイヌ語の用法やニュアンスを自然なものに変えたりと、研究活動を支えました。 こうして金田一の手伝いをしたり英語を学んだりする中で、アイヌ語をアルファベットで表記する技術を磨いていきました。
死の直前まで発揮された文才
東京で学びの日々を経て、やはり故郷・北海道で文芸をしたいと決意。 幸恵は北海道へ戻る準備をはじめます。 1922年9月4日の両親に宛てた手紙では9月中に北海道に帰る旨を記しますが、徐々に体調が悪化。『アイヌ神謡集』完成の翌日、9月18日に心臓発作のため東京の金田一宅で亡くなりました。
両親に宛てた手紙では亡くなる直前まで茶目っ気のある、幸恵らしい文章を送っています。
「かはいそうに胃吉さんが暑さに弱っている所へ毎日々々つめこまれるし、腸吉さんも倉にいっぱいものがたまって毒瓦斯(ガス)が発生するし、しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがって」
身体の不調に苛まれながらも、両親をなるべく心配させまいとする気遣いと、想像力の豊かさを感じ取ることができます。
「私こそ偽善者だ」
幸恵自身は自分をどのように見ていたのでしょうか。 銀のしずく記念館理事長の松本さんが上京後すぐの日記の言葉を教えてくれました。
「私こそ偽善者だ」
初めて「偽善者」という言葉を聞いた時、その語感の強さからでしょうか、この言葉を受け止めなければならない、幸恵がどのような意図で使ったのかを考えなければならない、という大きなプレッシャーや罪悪感のようなものを感じてしまいました。
しかし、幸恵が偽善者という言葉を用いたことについて、松本さんは
「19歳という時期に、幸恵は自分と向き合う中で自分という人間について掘り下げて考える苦しさに敢えて立ち向かったのではないか。自分に向き合うことで失うものは何もない、これから自分という人間を作り上げていくという気持ちだったのではないか」
と考察します。
アイヌであること、一人の女性であること…。 幸恵は自分のアイデンティティを否定する言葉を自らに投げかけることを恐れず、むしろ自分の成長に対する期待を込めて「偽善者」という強い言葉を使ったのでしょうか。 みなさんはどのように読み取りますか?
時を超え、幸恵が語りかけること
この記事を執筆している私自身、新社会人として日々自らの未熟さに向き合いながら札幌での日々を過ごしています。 若い時期に自分のアイデンティティと向き合い、自分とは異なる他者に向き合うことに苦しさはつきものです。
幸恵が「私こそ偽善者だ」という言葉を自らに突き付けたのは 「これから人生が大きく花開いていく、自分は何者かになることができる」 と自分自身に期待していたからこそできることなのかもしれません。 私は今回の取材を通して、100年前に幸恵が抱いた葛藤と、幸恵が自分に期待し続けた姿勢に勇気づけられました。 悩みながらも日々の仕事や生き方に向き合うのは自分が葛藤を乗り越え、成長できると信じているからこそ。 成長に繋がっていると思えば、私も自らの内面に向き合い続けられる気がします。
読者の皆さんは知里幸恵の言葉を受けて何を想うのでしょうか。 100年の時を超えて、今を生きる私たちへの問いかけは続きます。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-ndba5758cfbf7
2022年は知里幸恵没後100年の年。 10月28日放送の北海道道では「没後100年・知里幸恵とアイヌ語のいま」と題し、知里幸恵の人生とアイヌ語・アイヌ文化が現在、インターネット等を通してどのように発信されているかをお伝えしました。 アイヌ語を後世に残すという偉業を成し遂げた幸恵はどんな人物だったのでしょうか。 登別にある「知里幸恵 銀のしずく記念館」理事長の松本徹さんにお話を伺いました。(札幌局 平野晶子)
目次 語りの家系に生まれて 発揮される語りの技術 旭川の職業学校へ 楽しげな書簡とは裏腹に… 夢か結婚か…揺れる心 東京へ 死の直前まで発揮された文才 「私こそ偽善者だ」 時を超え、幸恵が語りかけること
語りの家系に生まれて
1903年に北海道登別に生まれた知里幸恵は、祖母・モナシノウク、母・ナミのもとでアイヌ語を耳にしながら成長しました。祖母・モナシノウクは言語学者・金田一京助から「最後の最大の叙事詩人」と称されるほどでした。 加えて、ナミの姉・金成マツも金田一の研究に協力したユカㇻクㇽ(語り部)。 幸恵はまさに「語りの家系」に生まれたのでした。 一方、当時の北海道では同化政策が敷かれ、アイヌの子ども達は学校で日本語を学びました。幸恵は日本語とアイヌ語に触れながら育ったのです。
発揮される語りの技術
語りの家系に生まれ、アイヌ語に囲まれて育った幸恵。その語りの才能は幼い頃から発揮されたようです。 幸恵の母や金田一京助とも交流のあった、歌人・キリスト教伝道者のバチラー八重子は、幸恵の幼い頃の様子を以下のように綴っています。
(幸恵の母を訪ねていった際に)「長女の幸恵様が三才位と存じましたが、初めて会った私に『私は明治何年何月何日生まれの知里幸恵と申す者です』とお母様に教わった通り、暗記されて申されました」(藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』)
当時たったの3歳の少女が語った口上に、バチラー八重子は驚いたそうです。
旭川の職業学校へ
1917年、幸恵は旭川区立女子職業学校に4位の成績で合格。学校生活の様子を両親宛ての書簡にしたためています。

![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/93/4a2c1c8a885f6800d99477ef21a2b921.jpg)
職業訓練学校の授業風景(銀のしずく記念館にて撮影)
1918年8月頃の長い長い書簡では、副級長を務めていること、各教科の先生方の様子、授業で面白かったことなどを綴っています。 例えば、理科・数学を担当する「石田先生」について。
「非常に厳しい先生で怒るときは教室もつぶれるかと思はれますほどおそろしいけれどもみんながおとなしくべんきょうする時はおやさしくておやさしくてそれはそれは自愛のふかいお父様のやうな気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども…私はかへって石田先生が一番好きだと思ひます。今日は数学の試験があって私は満点でありました」
1918年、職業学校2年生の春、両親に宛てた書簡(知里森舎所蔵)。 右から5行目~14行目にかけて石田先生についての描写が連なる。
臨場感のある文章力、という表現ではもったいないくらいの、まるでその場に居合わせて石田先生がお怒りの様子を幸恵と一緒に目撃したかのような事細かな描写。先生の激怒により「教室がつぶれる」というシニカルな表現。自分が満点であったことを入れ込む茶目っ気。まもなく15歳になろうかという時期の幸恵は、思春期の少女らしさも備えたチャーミングでテンポの良い文章を紡いだのでした。
職業訓練学校の通知表。国語・数学・理科・音楽など、ほとんどの科目は甲だが、造花・刺繍・体操など苦手科目も。
楽しげな書簡とは裏腹に…
銀のしずく記念館の松本さんは、楽しげで自信に満ちたような書簡とは裏腹に職業学校ではアイヌであること、キリスト教徒であることを理由に幸恵は孤独を感じていたと話します。 藤本英夫さんの著書によれば、幸恵に対して「ここはあんたのくるところじゃないわよ」と言い放つ同級生もおり、その時の心情を幸恵は以下のように綴ったと言います。 (以下、藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』より抜粋)
「悲しくって、悲しくって涙をポトポト落としながら、あすから、こんな冷淡な人たちの中に来るもんか、来るもんかと思った」
職業学校2年生の後期から幸恵は体調を崩し、卒業が危うくなるほど欠席を重ねます。 松本さんは休みがちになった2、3年生の時期について「身体のせいだけではなかったのでは」と指摘します。
夢か結婚か…揺れる心
1920年、職業学校を卒業した幸恵は将来について悩みはじめます。 文芸で身を立てていくのか、結婚して家庭に入るのか。 当時、幸恵には村井曾太郎といういいなずけがおり、幸恵の家族からの信頼を得ていました。 村井は幸恵より3歳年上、大きな農家の息子でした。 幸恵が村井にあてた手紙はアイヌ語を交えた日本語文をローマ字で綴っていたそう。 銀のしずく記念館の松井さんは、恋文をローマ字で記しているのがなんとも素敵だ、と特にお気に入りの様子でした。 村井は幸恵から届いた手紙を肌身離さず持っていたそうです。 勉強熱心でアイヌ語も日本語も堪能、成績も優秀!というイメージが強い分、いいなずけとの仲睦まじいやり取りを知ると一気に親近感が湧きますね。 1922年3月、村井と幸恵は仮祝言を挙げました。
家庭に入るイメージを持つ一方で、幸恵は夢を追うことも考えはじめます。 1918年、幸恵は言語学者である金田一京助に出会います。叔母・金成マツの元を訪れた金田一に幸恵は問いかけました。
先生は、私たちのユカㇻのために、貴重なお時間、貴重なお金をお使いくださって、御苦労なさいますが、私たちのユカㇻはそういう値打ちがあるものなのでしょうか。
この問いかけに対し、金田一は答えます。
叙事詩というものは、民族の歴史であると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖書でもあった。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。―中略―
いまの世にそれをなおそのまま生きて伝えている、という例は、世界にユカㇻのほかにない。だからわれわれがいまこれを書きつけないと、あとではみることも、知ることもできない、貴重なあなた方の生活なんだ。だから私は、全財産をついやしても、全精力をそそいでもおしいとは思わない―
この思いを受け止めた幸恵は、祖先が残してくれたユカㇻの研究に身を捧げることを決心します。 この後、金田一は東京から幸恵にノートを送り、ユカㇻを書きつけるよう勧めます。1921年4月、書き溜めたノートを初めて金田一に送りはじめました。 従来、ジョン・バチラー(宣教師。アイヌ語研究で知られる)の表記法が一般に知られており、金田一もそれを参考としていましたが、金田一は幸恵独自のアルファベット表記や文章の切れ目の独創性に驚き、出版したいと思うようになります。
旭川時代に書き上げたノートの復刻版。アイヌに伝わるユカㇻをアルファベットで表記し、日本語訳を付けた。
ノートにユカㇻを書き溜め、金田一に送り続けた幸恵は、1922年3月1日、『アイヌ神謡集』の序文を書き上げます。 ユカㇻのアルファベット表記・日本語訳について推敲を重ね、その集大成として書いた序文では、アイヌ語を将来に残していく必要性と、自らが『アイヌ神謡集』を執筆した動機を高らかに宣言しています。 金田一京助が幸恵の才能を見出し、東京へ来るよう誘って『アイヌ神謡集』の出版にこぎつけたというように理解されがちですが、松本さんは幸恵は金田一が東京に誘う以前から「文芸をもっと極めていきたい」という気持ちを持っていたのでは、と説明します。 旭川時代に金田一に送ったノートからもアイヌ語を後世に残していくことへの強い気持ちと、こだわって推敲した過程とが伝わってきます。 旭川での執筆期間を経て、1922年3月1日に『アイヌ神謡集』の序文を書き上げた段階で、東京で文芸を極めることへのモチベーションは高まっていたのかもしれません。
1922年4月9日、幸恵は父・高吉に東京行きを許してもらうために手紙を書きます。 父は幸恵の体調を心配しますが、幸恵は「東京で万国博覧会を見てくる」とあくまでも軽い物見遊山のかたちをとって上京の許しを得ます。 東京に着いた幸恵は金田一の元でアイヌ神謡集の出版に向けて仕上げ作業をはじめます。
東京へ
金田一京助の元で幸恵は何をしていたのでしょうか。 金田一から英語を学んだり東京で出会ったアイヌが語ったユカㇻを筆録したりと、自らの学びを深める時間を過ごしていたようです。 また、金田一の論文に出てくるアイヌ語について、ユカㇻのアルファベット表記を監修したりアイヌ語の用法やニュアンスを自然なものに変えたりと、研究活動を支えました。 こうして金田一の手伝いをしたり英語を学んだりする中で、アイヌ語をアルファベットで表記する技術を磨いていきました。
死の直前まで発揮された文才
東京で学びの日々を経て、やはり故郷・北海道で文芸をしたいと決意。 幸恵は北海道へ戻る準備をはじめます。 1922年9月4日の両親に宛てた手紙では9月中に北海道に帰る旨を記しますが、徐々に体調が悪化。『アイヌ神謡集』完成の翌日、9月18日に心臓発作のため東京の金田一宅で亡くなりました。
両親に宛てた手紙では亡くなる直前まで茶目っ気のある、幸恵らしい文章を送っています。
「かはいそうに胃吉さんが暑さに弱っている所へ毎日々々つめこまれるし、腸吉さんも倉にいっぱいものがたまって毒瓦斯(ガス)が発生するし、しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがって」
身体の不調に苛まれながらも、両親をなるべく心配させまいとする気遣いと、想像力の豊かさを感じ取ることができます。
「私こそ偽善者だ」
幸恵自身は自分をどのように見ていたのでしょうか。 銀のしずく記念館理事長の松本さんが上京後すぐの日記の言葉を教えてくれました。
「私こそ偽善者だ」
初めて「偽善者」という言葉を聞いた時、その語感の強さからでしょうか、この言葉を受け止めなければならない、幸恵がどのような意図で使ったのかを考えなければならない、という大きなプレッシャーや罪悪感のようなものを感じてしまいました。
しかし、幸恵が偽善者という言葉を用いたことについて、松本さんは
「19歳という時期に、幸恵は自分と向き合う中で自分という人間について掘り下げて考える苦しさに敢えて立ち向かったのではないか。自分に向き合うことで失うものは何もない、これから自分という人間を作り上げていくという気持ちだったのではないか」
と考察します。
アイヌであること、一人の女性であること…。 幸恵は自分のアイデンティティを否定する言葉を自らに投げかけることを恐れず、むしろ自分の成長に対する期待を込めて「偽善者」という強い言葉を使ったのでしょうか。 みなさんはどのように読み取りますか?
時を超え、幸恵が語りかけること
この記事を執筆している私自身、新社会人として日々自らの未熟さに向き合いながら札幌での日々を過ごしています。 若い時期に自分のアイデンティティと向き合い、自分とは異なる他者に向き合うことに苦しさはつきものです。
幸恵が「私こそ偽善者だ」という言葉を自らに突き付けたのは 「これから人生が大きく花開いていく、自分は何者かになることができる」 と自分自身に期待していたからこそできることなのかもしれません。 私は今回の取材を通して、100年前に幸恵が抱いた葛藤と、幸恵が自分に期待し続けた姿勢に勇気づけられました。 悩みながらも日々の仕事や生き方に向き合うのは自分が葛藤を乗り越え、成長できると信じているからこそ。 成長に繋がっていると思えば、私も自らの内面に向き合い続けられる気がします。
読者の皆さんは知里幸恵の言葉を受けて何を想うのでしょうか。 100年の時を超えて、今を生きる私たちへの問いかけは続きます。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-ndba5758cfbf7