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没後100年 知里幸恵が抱いた夢

2022-11-25 | アイヌ民族関連
NHK2022年11月24日(木)午後6時19分 更新
2022年は知里幸恵没後100年の年。
10月28日放送の北海道道では「没後100年・知里幸恵とアイヌ語のいま」と題し、知里幸恵の人生とアイヌ語・アイヌ文化が現在、インターネット等を通してどのように発信されているかをお伝えしました。
アイヌ語を後世に残すという偉業を成し遂げた幸恵はどんな人物だったのでしょうか。 登別にある「知里幸恵 銀のしずく記念館」理事長の松本徹さんにお話を伺いました。(札幌局 平野晶子) 
目次
語りの家系に生まれて
発揮される語りの技術
旭川の職業学校へ
楽しげな書簡とは裏腹に…
夢か結婚か…揺れる心
東京へ
死の直前まで発揮された文才
「私こそ偽善者だ」
時を超え、幸恵が語りかけること
語りの家系に生まれて
1903年に北海道登別に生まれた知里幸恵は、祖母・モナシノウク、母・ナミのもとでアイヌ語を耳にしながら成長しました。祖母・モナシノウクは言語学者・金田一京助から「最後の最大の叙事詩人」と称されるほどでした。
加えて、ナミの姉・金成マツも金田一の研究に協力したユカㇻクㇽ(語り部)。
幸恵はまさに「語りの家系」に生まれたのでした。
一方、当時の北海道では同化政策が敷かれ、アイヌの子ども達は学校で日本語を学びました。幸恵は日本語とアイヌ語に触れながら育ったのです。
発揮される語りの技術
語りの家系に生まれ、アイヌ語に囲まれて育った幸恵。その語りの才能は幼い頃から発揮されたようです。
幸恵の母や金田一京助とも交流のあった、歌人・キリスト教伝道者のバチラー八重子は、幸恵の幼い頃の様子を以下のように綴っています。
(幸恵の母を訪ねていった際に)「長女の幸恵様が三才位と存じましたが、初めて会った私に『私は明治何年何月何日生まれの知里幸恵と申す者です』とお母様に教わった通り、暗記されて申されました」(藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』)
当時たったの3歳の少女が語った口上に、バチラー八重子は驚いたそうです。
旭川の職業学校へ
1917年、幸恵は旭川区立女子職業学校に4位の成績で合格。学校生活の様子を両親宛ての書簡にしたためています。

職業訓練学校の授業風景(銀のしずく記念館にて撮影)
1918年8月頃の長い長い書簡では、副級長を務めていること、各教科の先生方の様子、授業で面白かったことなどを綴っています。
例えば、理科・数学を担当する「石田先生」について。
「非常に厳しい先生で怒るときは教室もつぶれるかと思はれますほどおそろしいけれどもみんながおとなしくべんきょうする時はおやさしくておやさしくてそれはそれは自愛のふかいお父様のやうな気がいたします。きびしいから生徒はみんな石田先生を嫌がりますけれども…私はかへって石田先生が一番好きだと思ひます。今日は数学の試験があって私は満点でありました」
1918年、職業学校2年生の春、両親に宛てた書簡(知里森舎所蔵)。
右から5行目~14行目にかけて石田先生についての描写が連なる。
臨場感のある文章力、という表現ではもったいないくらいの、まるでその場に居合わせて石田先生がお怒りの様子を幸恵と一緒に目撃したかのような事細かな描写。先生の激怒により「教室がつぶれる」というシニカルな表現。自分が満点であったことを入れ込む茶目っ気。まもなく15歳になろうかという時期の幸恵は、思春期の少女らしさも備えたチャーミングでテンポの良い文章を紡いだのでした。
職業訓練学校の通知表。国語・数学・理科・音楽など、ほとんどの科目は甲だが、造花・刺繍・体操など苦手科目も。
楽しげな書簡とは裏腹に…
銀のしずく記念館の松本さんは、楽しげで自信に満ちたような書簡とは裏腹に職業学校ではアイヌであること、キリスト教徒であることを理由に幸恵は孤独を感じていたと話します。  
藤本英夫さんの著書によれば、幸恵に対して「ここはあんたのくるところじゃないわよ」と言い放つ同級生もおり、その時の心情を幸恵は以下のように綴ったと言います。
(以下、藤本英夫著『銀のしずく降る降るまわりに 知里幸恵の生涯』より抜粋)
「悲しくって、悲しくって涙をポトポト落としながら、あすから、こんな冷淡な人たちの中に来るもんか、来るもんかと思った」
職業学校2年生の後期から幸恵は体調を崩し、卒業が危うくなるほど欠席を重ねます。
松本さんは休みがちになった2、3年生の時期について「身体のせいだけではなかったのでは」と指摘します。
夢か結婚か…揺れる心
1920年、職業学校を卒業した幸恵は将来について悩みはじめます。
文芸で身を立てていくのか、結婚して家庭に入るのか。
当時、幸恵には村井曾太郎といういいなずけがおり、幸恵の家族からの信頼を得ていました。
村井は幸恵より3歳年上、大きな農家の息子でした。
幸恵が村井にあてた手紙はアイヌ語を交えた日本語文をローマ字で綴っていたそう。
銀のしずく記念館の松井さんは、恋文をローマ字で記しているのがなんとも素敵だ、と特にお気に入りの様子でした。
村井は幸恵から届いた手紙を肌身離さず持っていたそうです。
勉強熱心でアイヌ語も日本語も堪能、成績も優秀!というイメージが強い分、いいなずけとの仲睦まじいやり取りを知ると一気に親近感が湧きますね。
1922年3月、村井と幸恵は仮祝言を挙げました。
家庭に入るイメージを持つ一方で、幸恵は夢を追うことも考えはじめます。
1918年、幸恵は言語学者である金田一京助に出会います。叔母・金成マツの元を訪れた金田一に幸恵は問いかけました。
先生は、私たちのユカㇻのために、貴重なお時間、貴重なお金をお使いくださって、御苦労なさいますが、私たちのユカㇻはそういう値打ちがあるものなのでしょうか。
この問いかけに対し、金田一は答えます。
叙事詩というものは、民族の歴史であると同時に文学でもあり、また宝典でもあり、聖書でもあった。それでもって、文字以前の人間生活が保持されてきたのだ。―中略―
いまの世にそれをなおそのまま生きて伝えている、という例は、世界にユカㇻのほかにない。だからわれわれがいまこれを書きつけないと、あとではみることも、知ることもできない、貴重なあなた方の生活なんだ。だから私は、全財産をついやしても、全精力をそそいでもおしいとは思わない―
この思いを受け止めた幸恵は、祖先が残してくれたユカㇻの研究に身を捧げることを決心します。
この後、金田一は東京から幸恵にノートを送り、ユカㇻを書きつけるよう勧めます。1921年4月、書き溜めたノートを初めて金田一に送りはじめました。
従来、ジョン・バチラー(宣教師。アイヌ語研究で知られる)の表記法が一般に知られており、金田一もそれを参考としていましたが、金田一は幸恵独自のアルファベット表記や文章の切れ目の独創性に驚き、出版したいと思うようになります。
旭川時代に書き上げたノートの復刻版。アイヌに伝わるユカㇻをアルファベットで表記し、日本語訳を付けた。
ノートにユカㇻを書き溜め、金田一に送り続けた幸恵は、1922年3月1日、『アイヌ神謡集』の序文を書き上げます。
ユカㇻのアルファベット表記・日本語訳について推敲を重ね、その集大成として書いた序文では、アイヌ語を将来に残していく必要性と、自らが『アイヌ神謡集』を執筆した動機を高らかに宣言しています。
金田一京助が幸恵の才能を見出し、東京へ来るよう誘って『アイヌ神謡集』の出版にこぎつけたというように理解されがちですが、松本さんは幸恵は金田一が東京に誘う以前から「文芸をもっと極めていきたい」という気持ちを持っていたのでは、と説明します。
旭川時代に金田一に送ったノートからもアイヌ語を後世に残していくことへの強い気持ちと、こだわって推敲した過程とが伝わってきます。
旭川での執筆期間を経て、1922年3月1日に『アイヌ神謡集』の序文を書き上げた段階で、東京で文芸を極めることへのモチベーションは高まっていたのかもしれません。
1922年4月9日、幸恵は父・高吉に東京行きを許してもらうために手紙を書きます。
父は幸恵の体調を心配しますが、幸恵は「東京で万国博覧会を見てくる」とあくまでも軽い物見遊山のかたちをとって上京の許しを得ます。
東京に着いた幸恵は金田一の元でアイヌ神謡集の出版に向けて仕上げ作業をはじめます。
東京へ
金田一京助の元で幸恵は何をしていたのでしょうか。
金田一から英語を学んだり東京で出会ったアイヌが語ったユカㇻを筆録したりと、自らの学びを深める時間を過ごしていたようです。
また、金田一の論文に出てくるアイヌ語について、ユカㇻのアルファベット表記を監修したりアイヌ語の用法やニュアンスを自然なものに変えたりと、研究活動を支えました。
こうして金田一の手伝いをしたり英語を学んだりする中で、アイヌ語をアルファベットで表記する技術を磨いていきました。
死の直前まで発揮された文才
東京で学びの日々を経て、やはり故郷・北海道で文芸をしたいと決意。
幸恵は北海道へ戻る準備をはじめます。
1922年9月4日の両親に宛てた手紙では9月中に北海道に帰る旨を記しますが、徐々に体調が悪化。『アイヌ神謡集』完成の翌日、9月18日に心臓発作のため東京の金田一宅で亡くなりました。
両親に宛てた手紙では亡くなる直前まで茶目っ気のある、幸恵らしい文章を送っています。
「かはいそうに胃吉さんが暑さに弱っている所へ毎日々々つめこまれるし、腸吉さんも倉にいっぱいものがたまって毒瓦斯(ガス)が発生するし、しんぞうさんは両方からおされるので夜もひるも苦しがって」
身体の不調に苛まれながらも、両親をなるべく心配させまいとする気遣いと、想像力の豊かさを感じ取ることができます。
「私こそ偽善者だ」
幸恵自身は自分をどのように見ていたのでしょうか。
銀のしずく記念館理事長の松本さんが上京後すぐの日記の言葉を教えてくれました。
「私こそ偽善者だ」
初めて「偽善者」という言葉を聞いた時、その語感の強さからでしょうか、この言葉を受け止めなければならない、幸恵がどのような意図で使ったのかを考えなければならない、という大きなプレッシャーや罪悪感のようなものを感じてしまいました。
しかし、幸恵が偽善者という言葉を用いたことについて、松本さんは
「19歳という時期に、幸恵は自分と向き合う中で自分という人間について掘り下げて考える苦しさに敢えて立ち向かったのではないか。自分に向き合うことで失うものは何もない、これから自分という人間を作り上げていくという気持ちだったのではないか」
と考察します。
アイヌであること、一人の女性であること…。
幸恵は自分のアイデンティティを否定する言葉を自らに投げかけることを恐れず、むしろ自分の成長に対する期待を込めて「偽善者」という強い言葉を使ったのでしょうか。
みなさんはどのように読み取りますか?
時を超え、幸恵が語りかけること
この記事を執筆している私自身、新社会人として日々自らの未熟さに向き合いながら札幌での日々を過ごしています。
若い時期に自分のアイデンティティと向き合い、自分とは異なる他者に向き合うことに苦しさはつきものです。
幸恵が「私こそ偽善者だ」という言葉を自らに突き付けたのは
「これから人生が大きく花開いていく、自分は何者かになることができる」
と自分自身に期待していたからこそできることなのかもしれません。
私は今回の取材を通して、100年前に幸恵が抱いた葛藤と、幸恵が自分に期待し続けた姿勢に勇気づけられました。
悩みながらも日々の仕事や生き方に向き合うのは自分が葛藤を乗り越え、成長できると信じているからこそ。
成長に繋がっていると思えば、私も自らの内面に向き合い続けられる気がします。
読者の皆さんは知里幸恵の言葉を受けて何を想うのでしょうか。
100年の時を超えて、今を生きる私たちへの問いかけは続きます。
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-ndba5758cfbf7

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週末のおでかけ先にも!札幌から1時間以内で行ける「北海道のおすすめ博物館」3つ

2022-11-25 | アイヌ民族関連
北海道Likers2022.11.24
独自の歴史を歩み、文化を築き上げてきた北海道。道内各地には、北海道ならではの歴史や文化を紹介している博物館がたくさんあります。定番の観光スポットを巡るのもいいですが、たまには北海道の歴史や文化に触れてみてはいかがでしょうか?
そこで今回は、札幌近郊にある博物館をご紹介します。すべて札幌から1時間ほどでアクセスできるので、日帰りのおでかけ先にもぴったりですよ。
1:不思議や驚きがいっぱい!北海道ならではの歴史や文化を学べる「北海道博物館」 / 札幌市厚別区
札幌駅から車で約35分の場所に位置する「北海道博物館」。北海道の自然や歴史、文化を紹介する総合博物館には、“不思議”や“驚き”がいっぱい! 北海道の貴重な宝である資料を収集・保存しているほか、展示やイベントなども行っています。
グランドホールから総合展示室内に入ると、ナウマンゾウとマンモスゾウの全身骨格(模型)が出迎えてくれます。ナウマンゾウの全身骨格は、十勝地方、現在の幕別町忠類で発掘された化石をもとに作られているそうで、その迫力ある姿に圧倒されることでしょう。

出典: 北海道Likers
館内には、アイヌ文化を紹介しているコーナーもあります。アイヌ民族と和人(大和民族)の交易で使われていたものなど、多数の資料を展示。
ほかにも、ちょっと昔の生活用具が展示されているコーナーや、北海道の自然や生き物の繋がりについて紹介しているコーナーなど、北海道ならではの歴史や文化について学べるスポットがたくさん!
ぜひ「北海道博物館」に足を運んで、北海道への興味を広げてくださいね。
<施設情報>
■施設名:北海道博物館
■住所:北海道札幌市厚別区厚別町小野幌53-2
⇒開館時間など詳細はこちら
2:鉄道好きにはたまらない!鉄道の歴史を伝える「小樽市総合博物館 本館」 / 小樽市手宮
小樽市博物館・小樽市青少年科学技術館の機能を統合し、2007年に開館した「小樽市総合博物館」。北海道の鉄道発祥の地といわれる旧手宮線・手宮駅構内跡地に建設されており、明治時代に建設された機関車庫や北海道鉄道開通起点をあらわす“0マイル標”があるなど、鉄道の歴史を今に伝えています。札幌からは車で50分ほど。
館内に入ると1885年から北海道を走っていた『しづか号(7106号機)』が出迎えてくれます! アメリカのH.K.ポーター社によって作られた蒸気機関車で、ダイヤモンド型の煙突や、カウキャッチャーと呼ばれる前方の障害物除けが特徴的。非力ではあるものの、小さな車体で開拓当時の鉄道を支えていました。普段なかなか見ることのできない蒸気機関車にワクワクしてしまいますよ。
国の重要文化財にも選ばれている「機関車庫第三号」は必見。
「機関車庫第三号」は1885年建造された現存する日本最古の機関車庫。機関車庫には3本の線路が敷かれ、日本で2番目に作られた国産機関車『大勝号』(1895年製造)、ローカル線で使用されたレールバス『キハ03』(1956年製造)、『第一号除雪車』のレプリカなどを見ることができます。機関車庫には蒸気機関車の煙を外に逃がすための煙突も。展示物を丁寧に見ていくことで、当時の工夫を発見することができますよ。
そのほかにも、館内には機関区の整備・点検で使われた工具や蒸気機関車の部品が展示されている「蒸気機関車資料館」や、プロジェクションマッピングで小樽の鉄道の移り変わりを見ることができる「鉄道展示室」などがあります。
ミュージアムショップでは、北海道の鉄道史と博物館の鉄道車両を解説した『小樽市総合博物館公式ガイドブック』が販売されています。入館前に購入して、ガイド片手に博物館を歩いてくださいね。
<施設情報>
■施設名:小樽市総合博物館 本館
■住所:北海道小樽市手宮1丁目3番6号
⇒開館時間など詳細はこちら
3:炭鉄港構成文化財にも指定!リアルな囚人生活を学べる「月形樺戸博物館」 / 樺戸郡月形町
札幌から車で約1時間の場所に位置する「月形樺戸博物館」。1973年より「北海道行刑資料館」として一般公開がはじまり、1996年には現行の「月形樺戸博物館」に。そして2012年に、展示を改修してリニューアルオープンしました。
「月形樺戸博物館」は、日本遺産『炭鉄港』の構成文化財にも指定されている『旧樺戸集治監本庁舎』のほか、『博物館本館』、『農業研修館』の3施設で構成されています。ここでは、月形町に集治監が作られた経緯や、囚人たちの生活の様子などを数多くの貴重な資料・展示品から学ぶことができますよ。
『旧樺戸集治監本庁舎』には、樺戸集治監が建設された当時の時代背景や集治監の様子などがわかる展示物があったり、札幌刑務所女区で実際に使われていた独居房があったりと、見どころがたくさん!
人気コミック『ゴールデンカムイ』に登場している一斉開房装置(非常時や災害時、20房の扉が一斉に開く装置)のモデルとなった展示物もあります。
『博物館本館』では、歴代の典獄や看守、囚人たちの生活や労働の様子などを紹介。峰延(みねのぶ)道路の建設の様子を再現したジオラマや、囚人たちを別の集治監へ移す際に被る編笠や手錠など、集治監ならではの展示物を鑑賞することができますよ。2階には、シアターコーナーや囚人の作業体験コーナーも。囚人たちによる北海道開拓についてより深い知識を得られます。
ほかでは見ることのできない貴重な資料や展示物がいっぱいの「月形樺戸博物館」。今回ご紹介できなかった『農業研修館』にもぜひ足を運んでみてくださいね。
<施設情報>
■施設名:月形樺戸博物館
■住所:北海道樺戸郡月形町1219番地
行ってみたい博物館は見つかりましたか? 今回ご紹介した博物館で北海道の歴史や文化を学び、新たな魅力を発見してください!
※こちらの記事は北海道Likersの過去掲載記事をもとに作成しています。メニューや営業時間はお店の公式SNS等でご確認ください。
https://hokkaidolikers.com/archives/62765

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お笑いコンビ「アップダウン」 時津で被爆体験描く二人芝居…笑い交え平和の尊さ訴え

2022-11-25 | アイヌ民族関連
読売新聞2022/11/24 19:24
 戦争をテーマにした劇を各地で上演しているお笑いコンビ「アップダウン」が、被爆者の体験を題材にした劇を時津町内で披露した。時折笑いを交えながら平和の尊さを訴える2人に、約200人の観客から大きな拍手が送られた。

原爆をテーマにした劇を披露したアップダウンの阿部さん(右)と竹森さん
 アップダウンは、いずれも北海道出身の阿部浩貴さん(45)と竹森巧さん(44)のコンビで、1996年に結成。数年前からお笑いの活動の傍ら、アイヌや鹿児島県・知覧の特攻隊などを描いた二人芝居に取り組んできた。
戦争もっと想像して
 劇は20日、時津町のとぎつカナリーホールで上演。「長崎被災協・被爆二世の会・長崎」の山崎和幸会長の依頼を受けて制作した。冒頭、テンポのいい掛け合いでコンビのプロフィルや原爆劇の制作に至った経緯を紹介後、11歳の時に被爆して家族を失った少年を阿部さんが、被爆医師・永井隆博士(1908~51年)を竹森さんが熱演した。
 少年が原爆で心の傷を負ったことや、永井博士が浦上天主堂から掘り出された鐘を鳴らして市民に希望を与えたというエピソードも表現。観客に「戦争のことをもっと想像してください」と訴えかけた。
 長崎市蚊焼町の栄養士、高比良依子さん(63)は、「原爆で日常が一転する恐ろしさを感じた。改めて今の幸せが当たり前でないということを気に留めたい」と語った。
https://www.yomiuri.co.jp/local/nagasaki/news/20221124-OYTNT50072/

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【東京ウオッチ】サンローラン「唯一無二の女性」―ベティ・カトルーさんの展覧会 いまのTokyoをつかむイベント情報(26日~12月4日)

2022-11-25 | アイヌ民族関連
秋田魁新報2022年11月24日 掲載 2022年11月24日 更新

フランスの有名デザイナー、イブ・サンローランのミューズで、ファッションアイコンのベティ・カトルーさん(右)の展覧会会場=東京・天王洲(提供写真)
 ◎今週の一推しイベント
 【26日(土)】
 ▽「BETTY CATROUX―YVES SAINT LAURENT 唯一無二の女性展」(~12月11日、品川区・寺田倉庫B&C HALL/E HALL、開場時間は10時から19時、閉館日なし、入場無料、LINE事前予約制)
 フランスの有名デザイナー、イブ・サンローランのミューズ(女神)であり、サンローランが自らの「片割れ」と呼んでいたベティ・カトルーさんの物語を振り返る展覧会が東京・天王洲の寺田倉庫で開催されている。2020年にパリ、21年に上海で行われた巡回展の一つとなる。
 ファッションアイコンである彼女の半生をたどりながら、サンローランの過去と現在をつなぐ構成となっている。カトルーさんから「ピエール・ベルジェ=イヴ・サンローラン財団」に寄贈されたワードロープなど、サンローランの貴重な服飾作品を紹介。彼女のユニークなパーソナリティーと美学を探る。
 監修を「サンローラン」の現クリエーティブ・ディレクター、アンソニー・バカレロさんが担当しているのも注目だ。
 ○そのほかのお薦めイベント
 【26日(土)】
 ▽「ポメラート『女性に対する暴力撤廃の国際デーに新動画“We believe you”を公開 暴力に反対する女性たちと共に立ち上がる』」(オンライン配信、配信終了日未定)
 女性に対する暴力撤廃の国際デーとなる11月25日、イタリアの高級宝飾品ブランド「ポメラート」が、この深刻な問題を解決するために新動画「We believe you」を公開。女性に向けられた攻撃に対して声を上げている。
 イタリアの俳優アレッサンドロ・ガスマンさん、同じく俳優・作家のドゥシラ・フォーアさん、フランスの俳優アイ・アイダラさんら男女8人の著名人が「暴力を止めることは、被害者を信じること、耳を傾けることから始まる」というメッセージを、それぞれの言葉でカメラに語りかける。
 ポメラートのCEOであるサビーナ・ベッリさんは「暴力被害を受けたすべての女性に、その連鎖を断ち切るために声を上げることを知ってほしいという願いが込められている」とコメント。イタリア・ミラノから世界へ発信し日本の女性にも勇気を与えてくれる。
 ▽「クレヨンハウス、表参道で最後のイベント」(9時、事前予約制、オンライン開催)
 作家の落合恵子さんが1976年に絵本やおもちゃ、オーガニック食材などを取り扱う店として東京・表参道に開いたクレヨンハウス。街のシンボルの一つとして地元を始め、多くの人々から愛されてきた。建物の老朽化に伴い、長年温めてきた農業に関わる構想も実現させるため、23日に閉店。吉祥寺へ移転する。
 落合さんは「70年代の表参道は手づくりの個人店が並び、人とのつながりが新たな創造を生む空気があった。クレヨンハウスも子どもと大人が交流できる場所へと成長した」と話す。「ここは46年の思い出がつまった故郷の一つ。『あなたはあなたのままでいい』というメッセージをこれからも届けていきたい」
 表参道での最後のイベントは、公開中の冤罪をテーマにしたドキュメンタリー映画「オレの記念日」の監督・金聖雄さんの講演会。公権力に暮らしや命が奪われる恐怖を伝える。人権や民主主義の尊重に危うさも漂う現在の日本。落合さんは「誰かが声を上げ続けなければ」と語った。
 【1日(木)】
 ▽「表参道 フェンディ イルミネーション 2022」(~12月29日、渋谷区・表参道)
 表参道のケヤキ並木約1キロを約90万球のLEDでライトアップするイルミネーションイベント。神宮橋交差点から表参道交差点までのエリアを幻想的な光で浮かび上がらせる。今年はイタリアのブランド「フェンディ」の協賛で開催される。
 また、11月16日から12月25日までは「表参道ヒルズ」でもクリスマスイルミネーションを実施。約1万4千個のバルーンを使い、吹抜け大階段に“宙に浮かぶ”光のツリーを表現している。
 16日、3年ぶりとなる点灯式にはスペシャルゲストとして俳優の新木優子さんが登場。「多様性やいろいろな思いをアートで楽しめるイルミネーションと感じた」とコメントした。
 ▽「六本木クロッシング2022展:往来オーライ!」(~23年3月26日、港区・森美術館、事前予約制)
 3年に1度、森美術館で開催されている日本の現代アートを総覧する展覧会。
 今回は石内都さん、青木野枝さん、AKI INOMATAさん、潘逸舟さんら1940~90年代生まれのアーティスト22組を紹介。変わりゆく世界を見つめる絵画や映像作品を展示し、ダイバーシティーやLGBTQ+といった言葉の影に隠される差異にも光を当てる。
 アイヌの人々をテーマにした池田宏さんの映像インスタレーションや、テキスタイルを用いて物語を紡ぎだす呉夏枝さんらの作品を通して、日本の中の多文化性についても考察する。
https://www.sakigake.jp/news/article/20221124EN0001/

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日本人の人権意識はどう変わったか?...今、関心高いのは「インターネット上の誹謗中傷」(鷲尾香一)

2022-11-25 | アイヌ民族関連
Jcast2022年11月24日11時45分
   内閣府は2022年11月15日、「人権擁護に関する世論調査」を発表した。今回は全国の18歳以上の1556人の回答をまとめた結果だが、果たして、日本人は人権に対してどのような意識を持っているのだろうか。
「日本で人権が侵害されるようなこと」...少なくなってきた21.9%、多くなってきた38.9%
   まず、「ここ5~6年の間に日本で人権が侵害されるようなこと」については、「少なくなってきた」が21.9%、「多くなってきた」が38.9%となった。
   「少なくなってきた」は、2007年、2012年、2017年の調査に続き、4回連続で増加している。ただ、半面では2017年調査では29.4%だった「多くなってきた」が10ポイント近い増加となっており、受け止め方が相違する傾向が見られる。
   男女では、男性698人のうち、「少なくなってきた」は23.2%、「多くなってきた」は37.3%だったのに対して、女性858人では、「少なくなってきた」は20.7%、「多くなってきた」は40.3%と女性の方が人権侵害に対して、身近に感じている傾向がありそうだ。
   それは、「自分の人権が侵害されたと思ったことがあるか」との質問の回答にも表れている。
   全体では「ある」が27.8%、「ない」が71.0%だった。だが、男女別では、男性が「ある」25.1%、「ない」73.8%だったのに対して、女性では「ある」30.0%、「ない」68.8%と「ある」が男性を上回っている。
   これは、「人権が侵害されたと思ったのは、どのような場合か」という質問の回答にも表れている。全体では、以下のようなケースが上位となっている。
・あらぬ噂、他人からの悪口、かげ口=54.4%
・職場で嫌がらせ=30.1%
・名誉・信用のき損、侮辱=22.9%
・プライバシーの侵害=18.8%
・学校でのいじめ=18.1%
・使用者による時間外労働の強制などの不当な待遇=17.1%
・セクシュアル・ハラスメント=16.0%
・人種・信条・性別・社会的身分などによる差別待遇=15.3%
   このうち、「あらぬ噂、他人からの悪口、かげ口」と「職場で嫌がらせ」は男女に大きな差はない。ところが、男性は「名誉・信用のき損、侮辱」、「使用者による時間外労働の強制などの不当な待遇」が女性を上回っているのに対して、女性は「プライバシーの侵害」、「学校でのいじめ」、「セクシュアル・ハラスメント」、「人種・信条・性別・社会的身分などによる差別待遇」で男性を上回っている。女性の方が、さまざまな局面で人権が侵害されるケース、もしくはされたと受け止めるケースが多いようだ。
関心ある項目...「インターネット上の誹謗中傷」53.0%、「障害者」50.8%、「子ども」43.1%、「女性」42.5%
   では、日本人はどのような人権問題に対して、関心があるかと言えば、最も多いのは、「インターネット上の誹謗中傷などの人権侵害」で53.0%を占めている。
   次いで、「障害者」50.8%、「子ども」43.1%、「女性」42.5%、「風評に基づく偏見や差別など災害に伴う人権侵害」32.6%、「高齢者」30.1%が上位となっている。各項目を詳しく見ていこう。
   「インターネットに関して、人権問題だと思ったこと」を尋ねたところ、「他人を誹謗中傷する情報が掲載されること」が67.7%と圧倒的に多く、次いで、「他人に差別をしようとする気持ちを起こさせたり、それを助長するような情報が掲載されること」が42.8%、「プライバシーに関する情報が掲載されること」が42.5%だった。
   「障害者に関して人権問題だと思ったこと」を尋ねると、「職場、学校などで嫌がらせやいじめを受けること」が43.3%、「じろじろ見られたり、避けられたりすること」が40.7%、「差別的な言葉を言われること」が38.9%、「就職・職場で不利な扱いを受けること」が 38.2%と続いた。
   「子どもに関して人権問題だと思ったこと」では、「いじめを受けること」が65.2%と圧倒的に多く、次いで、「いじめ、体罰や虐待について、周りの人が、気がついているのに何もしないこと」が56.0%、「虐待を受けること」が53.9%と多かった。
   「女性に関して人権問題だと思ったこと」では、「『家事は女性』など男女の固定的な役割分担意識に基づく差別的取扱いを受けること」が47.0%、「セクシュアル・ハラスメント」が42.0%、「女性が管理職になりにくいなど職場において差別待遇を受けること」が39.0%、「配偶者やパートナーからの暴力などのドメスティック・バイオレンス」が31.6%などだった。
   「高齢者に関して人権問題だと思ったこと」では、「悪徳商法、特殊詐欺の被害が多いこと」が44.7%、「病院での看護や介護施設において劣悪な処遇や虐待を受けること」が33.6%、「高齢者が邪魔者扱いされること」が31.7%などだった。
   俯瞰すると、日本人が人権問題だと取られていることは、身近に起きていることが中心となっており、さらに、「いじめ、体罰、虐待」や「セクハラ、ドメスティック・バイオレンス」、「悪徳商法、特殊詐欺」といった明らかな犯罪行為の被害に対して、人権意識を持つケースが多いようだ。
   そして、残念なことに、たとえば「LGBTQなどの性的マイノリティ」や「部落差別・同和問題」、「ハンセン病患者・元患者やその家族」、「アイヌの人々」のように、基本的人権が侵されていると考えられるマイノリティについては関心が低くなっている。
https://www.j-cast.com/kaisha/2022/11/24450767.html?p=all

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日加の林産業界の理解を深める「Canada Japan Wood Forum」開催

2022-11-25 | 先住民族関連
北海道新聞11/24 10:59

カナダ林産業界のトップリーダーたちが一堂に会し、日本市場向けの安定供給について発信
カナダ林産品の普及活動を行う非営利業界団体カナダウッドの日本事務所、カナダウッドジャパン(所在地:東京都港区、代表:ショーン・ローラー)より、2022年11月10日(木)に木材会館にて開催した「Canada Japan Wood Forum」についてご報告します。
カナダウッドジャパンが主催する「Canada Japan Wood Forum」は、カナダと日本の林産業界および木造建築業界の相互理解を深めるための場として2019年に初めて開催され、今年は3年ぶりの開催となりました。
冒頭にカナダブリティッシュ・コロンビア州(BC州)林業担当のリック・マンワーリング副大臣より今回の開催に寄せての開会の挨拶があり、「BC州は100年近くにわたって日本に製材を輸出しており、新型コロナウイルスによるパンデミックや気候の影響で世界経済と貿易が大きな影響を受け、ウッドショックによって市場は混乱したものの、カナダは日本に対して継続的にコミットメントしてきた。BC州は豊富な資源を保有しており、Jグレードをはじめとするプレミアムグレードの製材を輸出できる能力を持っている。建設的な協力関係が築ければ、今後も安定供給が保証できると考えている」と両国間の関係維持について言及しました。
カナダのパネリストによるパネル・ディスカッションでは、まずカナディアンフォレストプロダクツ社(Canfor)マーケティング&セールス バイスプレジデントのケビン・パンクラッツ氏より、EUを中心としたグローバルの市況について説明がありました。インフレによる影響や虫害の状況、またロシア・ウクライナ情勢などの世界的課題を挙げつつ今後のグローバル需要と生産予測について触れ、日本市場に関しては、「日本は希望が持てると感じており、環境に配慮したグリーンビルディングの潮流が来ている中、日本の需要動向を見ていきたいと考えている。BC州の森林はマウンテンパインビートルによる虫害が収束したことでより高品質の製材を供給できると期待され、日本には低いグレードの製材は入って来ないだろう」との見解を述べました。
続いて、トルコインダストリーズ社 輸出セールス&マーケティング ゼネラルマネージャーのジョン・ラングレー氏からは、木材市場に多大な影響を与える住宅需要の動向を中心に、北米の市況に関するプレゼンテーションがありました。「2023年のSPFハイラインとJグレードの生産量は併せて約10億BF(ボードフィート)と見込んでおり、日本市場を満たす十分な木材があると考えている。価格に関しては難しい部分もあるが調整期に入っており、競争力のある価格を提示できるのではないか。ロジスティクスの改善にも努めており、バンクーバーでは専用の施設から輸出を行っている。日本とは引き続き良い関係を構築していければと思う」と、日本市場に対する積極的かつ前向きな姿勢を示しました。
また、ウェスタンフォレストプロダクツ社 人事・コーポレートアフェアーズ シニアバイスプレジデントのジェニファー・フォスター氏からは、「先住民族の権利に関する国際連合宣言」の実行をはじめとした45の先住民族との協働による持続可能な林業について紹介があり、林産業は人間関係に基づいたビジネスであることを強調しました。
(左)B.C. Deputy Minister of Forests, Rick Manwaring
(右)Kevin Pankratz, Vice President, Marketing & Sales, Canadian Forest Products Ltd.
日本のパネリストからは、「木材業界は大きなチャンスを迎えていると考えており、現在(※当時)COP27が開催されているが、木材は炭素の吸収と固定に貢献する再利用可能な資源であるため、需要が拡大していくのは間違いない。日本もカナダも共に木材の消費が広がるよう努めていきたい」と、社会的な背景も交えた業界に対する期待感が語られました。
なお、今回来日したカナダ林産業界のトップリーダーたちは、NLT(Nail-Laminated Timber)が一部に採用された東京藝術大学の国際交流拠点(仮称)の視察やカナダ材を使用しているパネル工場の見学なども行い、さらなる意見交換と交流の場を設けました。
カナダウッドジャパンでは、今後も日本におけるカナダ材のさらなる活用促進を目指し、今回の「Canada Japan Wood Forum」をはじめとした業界の相互理解に基づく普及活動に取り組んでいきます。
本件に関するお問合せ先: カナダウッドジャパン TEL 03-5401-0531
プレスリリース詳細へ https://user.pr-automation.jp/r/65545
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/764949

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【アメリカ・メリーランド州】東海岸のネイティブ・アメリカンを知る祭りPOW WOW(パウワウ)

2022-11-25 | 先住民族関連
地球の歩き方2022年11月24日
最終更新 :2022年11月24日
筆者 :ベスト加島 聡子
ネイティブ・アメリカン(アメリカ先住民)のコミュニティがメリーランド州にもあることをご存じでしょうか? 11月は「ネイティブ・アメリカン伝統月間 National Native American Heritage Month」でもあり、この時期は全米各地のネイティブ・アメリカンのコミュニティによるPow Wow(パウワウ)というお祭りを開催しています。 そのひとつとして、メリーランド州ティモニウムで開かれたPow Wowの様子をレポートします。

参加者の多くはネイティブ・アメリカンだけでなく様々なルーツを先祖に持っています
* POW WOWとは、ネイティブ・アメリカンの言葉で「集まりGathering」を意味するそうで、人々が集まって踊ったり交流を深めるお祭りとして、現代では全米各地のネイティブ・アメリカンのコミュニティで開かれています。
* メリーランド州には1600年代まで広くネイティブ・アメリカンが居住しており、主に三つの部族(アルゴンキン族、イロコイ族、スー族)が住んでいたそうです。ボルチモア港に流れるパタプスコ川、チェサピーク湾など、ネイティブ・アメリカンの言葉に由来する地名も数多くあります。
* メリーランド州のネイティブ・アメリカンは、ヨーロッパからの入植者が入ってきた17世紀の前半に、多くが州外へ去りましたが、20世紀に入り少しずつ戻ってくる人々も増えて、現在は州内に約2万人弱が住んでいるそうです。
* ボルチモア市内東部にネイティブ・アメリカンの歴史資料館があり、ここでネイティブ・アメリカンの伝承、音楽や工芸などを広める活動をしています。
イベント情報 46th Annual BAIC POW WOW
会場 Maryland State Fiargrounds 4-H/Home Arts Building
住所 2200 York Road, Lutherville Timonium, MD 21093
2022年度開催日時 2022年11月19日土曜日 午前11時~午後7時
イベント主催団体
ボルチモア・アメリカインディアン・センター Baltimore American Indian Center (BAIC) 113 South Broadway, Baltimore, Maryland 21231 (Shop & Museum) TEL. 410-675-3535
https://www.arukikata.co.jp/web/article/item/3000371/

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オティケン―シベリアの先住民たちのバンドが世界を魅了した!(動画)

2022-11-25 | 先住民族関連
ロシアビヨンド2022年11月24日 ロシア・ビヨンド

OTYKEN/Youtube.com
 消滅しつつある民族の住民たちがバンドを結成し、その音楽が民族音楽に新たな息吹を吹きこんだ。そしてその音楽は今、ヨーロッパのパーティーでも演奏されている。
 シベリアのタイガの先住民が結成したバンドのメンバーたちが、凍りつく川に沿って移動している。空は雲に覆われ、風は次第に強くなり、・・・嵐が近づいている。彼らはワゴンの中から大きな太鼓を取り出し、それを叩き始める・・・。
 「東に行くの?」と色鮮やかな民族衣装を身につけた黒髪を腰まで伸ばした若い女性が声を上げる。 「なら、気をつけて!」と彼女は警告する。その後、喉歌にシンセサイザーや陽気なマラカス、タンバリンの音を合わせた民族音楽調のロックが始まる。そして画面には巨大な動物の頭蓋骨のようなものが現れる。そう、まさにこれは頭蓋骨である。 
https://www.youtube.com/watch?v=CqwrwwOzVcQ
バンド「オティケン」の曲の中でも最も再生回数の多い「ストーム(嵐)」のクリップは、こんな風に始まる。バンドのメンバーはシベリアの先住民たちである。この動画が公開されて半年の間に、YouTubeでの再生回数は400万回を超えた。現在、この音楽はヨーロッパのパーティーでも流され、2022年には「ジェネシス」という曲で、グラミー賞にノミネートされた。 
https://www.youtube.com/watch?v=tfVyY64FsLw
 オティケンはロシアでも珍しいタイプのバンドである。「民族音楽グループ」というと、普通は民族衣装を纏った女性が元気に民謡を歌い、輪になって踊り出すというようなナンバーを思い出す。ミニスカートを履いた若いアーティストたちがエレキギターを弾いて、テクノレイヴのようにリズミカルな動きをするとはとても想像できない。しかし、これこそがオティケンなのである。
 オティケンは、クラスノヤルスク地方の北極圏で誕生した。2019年にバンドを結成したのは、民俗学博物館のアンドレイ・メドノス館長である。そのスタイルは、異なるジャンルの音楽(ロックからR&B、ラップまで)と民族音楽のモチーフと喉歌を実験的に融合するというものである。歌は、チュルィム語、ハカス語、ロシア語で歌われている。
 グループのメンバーは全員、シベリアの先住民族である。チュルィム人、ケット人、セリクプ人である。メンバーたちはいずれも人里離れた、薬局もカフェも電気もない、ほとんど文明から切り離されたタイガの小さな村出身である。
https://www.youtube.com/watch?v=tXLoP9iSU5Y
 「わたしの村は漁業の村です。男の子が生まれたら、その子は漁師になります。たとえそれが好きでなくても、そうするしかないのです」と話すのは、ソリストのアジャンさん。彼女は人口わずか200人というチュルィムの村出身である。ある説によれば、チュルィム人は、チュルク系民族の先祖だとされている。
 アジャンさんはつづけて、「父も漁師です。魚は釣ったらすぐに食べなくてはなりません。岸についたら、まだ生きているうちに捌いて、洗って、食べるのです。そうするしかありません」とアジャンさんは指摘している。彼女は、オティケンの他のメンバー同様、夏にはコンサート活動を停止し、今も人々は魚を捕まえ、牛の乳を搾り、養蜂を営むなど伝統的な生活スタイルを守っている故郷のタイガに戻る。バンドのクリップやライブの模様が投稿されているYouTubeチャンネルでは、野生の養蜂場での蜂蜜の集め方や、野生肉の塩漬けや乾燥の仕方、プロポリスを使った絵の書き方などに関するブログも紹介されている。
https://www.youtube.com/watch?v=W7lwVHNkoyw
 彼らのクリップの中には故郷の北方の景色をバックに撮影されたものもある。 オティケンというバンドの名前は、テュルク語で「戦士が武器を置き、対話をする聖なる場所」という意味である。 
 アンドレイ・メドノスさんによれば、オティケンはシベリアの民族性に興味を持つ外国人観光客のお陰で人気となったと話す。特に、北米、南米、カナダ、コロンビアからの観光客がシベリアに大きな興味を持っているという。最初、オティケンの音楽はもっと古典的なものであったが、より多くの人々に関心を持ってもらうため、グループは実験的な音を使うようになり、ティックトック上で広まり、トレンドとなった。
https://www.youtube.com/watch?v=xHkgD7e7bVA
 それに合わせて衣装にも変更を加えることになった。この衣装は特定の民族のものではなく、伝統的な要素と現代的なデザインをミックスしたものである。クリップでは、動物の毛皮を身につけ、羽根や伝統的なオーナメントで飾った衣装を着ている。
 楽器について言えば、こちらもできるだけ「見栄えがするよう」努力している。口琴を演奏するツヴェータさんは、「かなり変わった楽器は、馬の頭蓋骨を使って作られているモリンフール(モンゴルの弓楽器)です。また骨でできた楽器、角のマラカスなどもあります」と話している。
 またアンドレイ・メドノスさんは、「多くの世界的DJと活動しています。こちらからトラックを送り、向こうでリミックス版が作られます。DJのみなさんが、ヨーロッパ、アメリカ、インドなどのフェスティヴァルやディスコで流してくれています」と語っている。
https://www.youtube.com/watch?v=5BMdk4aMLps
 これらのすべてが、民族音楽や少数民族を過去のものにしないという、彼らの主なアイデアの実現を助けている。アジャンさんは言う。「わたしたちはこのフォークロアを守るためにこのグループを結成しました。時代が変わり、これらすべてが消えつつあるのを感じています」。2010年、全ロシア国勢調査では、チュルィム人はわずか355人であり、その中で母国語を話すのは44人しかいないことが分かっている。
https://jp.rbth.com/arts/86839-otyken-siberia-senjyuumin-band-sekai-wo-miryou

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島で孤立生活18年、謎の先住民女性の逸話に「多くの誤り」米国の児童文学「青いイルカの島」のモデル、進む調査

2022-11-25 | 先住民族関連
ナショナルジオグラフィック2022.11.24

サン・ニコラス島で1人で暮らす「孤独な女性」を描いた絵。(HOLLI HARMON. HOLLIHARMON.COM)
 1853年、遠く離れた島を訪れたラッコ猟師たちが、1人の先住民女性を連れて米国カリフォルニア州のサンタバーバラに戻ってきた。彼女の年齢は50歳で、理解できない言葉を話し、その島で18年間も孤独に過ごしていたらしい。
 衝撃的で、ロマンチックな女性の物語は瞬く間に全米を魅了し、人々の想像力をかき立てた。ある記者は、「間違いなく、彼女は部族の最後の1人である」と書いた。
 名をもたず、物静かで、勇気ある「孤独な女性(ローン・ウーマン)」の物語は、いくつもの新聞記事になっただけでなく、スコット・オデルの児童文学『青いイルカの島』にも影響を与え、全米の小学校で教えられることになった。
 しかし、数々の史料に当たった現代の歴史家や考古学者は、この謎めいた女性に関する逸話には多くの誤りが含まれていると考えている。
女性版ロビンソン・クルーソー
 カリフォルニアの沿岸から約100キロ離れたサン・ニコラス島には、数千年前から先住民が暮らしていた。17世紀に島にやってきたスペイン人探検家は、この島に名前をつけ、先住民を「ニコレーニョ」と呼んだが、すぐに興味を失った。
 だが19世紀、この島に住む約300人の先住民の運命を大きく変える出来事が起きた。1814年、ロシアのラッコ猟師が毛皮を求めてサン・ニコラス島に上陸、大混乱を引き起こしたのだ。当時の文献によると、猟師の1人が殺された報復として、彼らはニコレーニョの90%を虐殺したという。生き残ったニコレーニョたちが、宣教師に連れられてロサンゼルス行きの船に乗り込んだのは1835年のことだった。すでに、島に豊富に生息していたラッコも絶滅寸前になっていたという。(参考記事:「宣教師を殺害したインド孤立部族、侵入者拒む歴史」)
 ニコレーニョはすべて島を後にしたと考えられていた。ところが18年後の1853年、カリフォルニアの新聞に「女性版ロビンソン・クルーソー」が発見されたという記事が掲載された。(参考記事:「ロビンソン・クルーソー「実在神話」の真相」)
 その数年前から「サン・ニコラス島にはまだ誰かが住んでいる」という噂があり、ラッコ猟師らの調査チームが彼女を発見し、「救出」したのだ。彼女は鳥の羽根で作ったスカートをはき、クジラの骨で作った小屋や洞窟に住み、アザラシの脂身や植物の球根、アワビや鳥を食べて生きていたという。
 彼女はサンタバーバラの街での新生活を楽しんでいたようだが、孤独であることに変わりはなかった。コミュニケーションの壁は越えがたかったし、本土には病気もあった。その病気が命取りとなり、彼女は「救出」から7週間もしないうちに死去した。生前、彼女はカトリックの宣教師から洗礼を受け、「フアナ・マリア」と命名されていた。
 歳月は流れ、この「高貴な未開人」の悲劇的な運命を知った作家スコット・オデルは、彼女をモデルに、孤島に一人きり取り残されながらもたくましく生き抜く少女カラーナの物語『青いイルカの島』を執筆、1960年に出版した。
見えてきた真実
 歴史研究者のスーザン・モリス氏は、小学4年生のときに『青いイルカの島』を読み、「サン・ニコラス島の孤独な女性」の勇気と機知に魅了されたという。彼女は今、他の研究者とともに、彼女の歴史的位置づけを取り巻く神話や誤解を取り除くために数年がかりで研究を進めている。
 モリス氏によると、19世紀の人々は、彼女に関するさまざまな史料を見落としていたという。たとえば、サン・ニコラス島を訪れた猟師たち、「孤独な女性」の生涯最後の数カ月間に彼女と交流した先住民たち、彼女に洗礼を授けた宣教師たち、ロサンゼルスに連れてこられたニコレーニョたちに関する史料や、サン・ニコラス島の考古学的記録などだ。
 史料を総合的に眺めると、これまでとは大きく異なる物語が浮かび上がってきた。モリス氏らは、1835年に島を出たニコレーニョのその後を追跡した。その結果、少なくとも7人のニコレーニョがロサンゼルスに定住していたことがわかった。そのうちの1人はトマースと呼ばれる男性で、「孤独な女性」よりも長生きし、彼女が「最後のニコレーニョ」であるというロマンチックな描写を否定している。
 誰も彼女と会話できなかったという主張も正確ではないようだ。言語学者たちは、彼女の方言の中の4つの単語が、米カリフォルニア州南部で使われていたタキック語派のものであることを明らかにしている。サンタバーバラの先住民が話していたのはチュマシュ語なので、彼女の話を理解できなかったのだろう。
「孤独な女性」は、それでも身振り手振りを使って自分の話をしようとしたが、その話は、彼女をサンタバーバラに連れてきた白人男性たちによって、大きく誤解されていた。彼らは、彼女が島にとどまったのは、全島民がカリフォルニアに向けて出発しようとしていたときに幼い子どもがいなくなってしまったからで、子どもは見つかったが後に野犬に食べられてしまったと理解していた。
 しかし、19世紀後半にこの物語についてカリフォルニア先住民にインタビューした民俗学者のジョン・ピーボディー・ハリントンのメモを研究チームが検証したところ、「孤独な女性」は、実際にはよそものから身を隠していた息子と共に島に残り、ずっと2人で暮らしていたという。しかし、息子がおそらくサメに襲われて死んでしまったため、サン・ニコラス島を離れることに同意したのだ。
「孤独な女性」に関する情報探しは今も続いている。モリス氏らはロサンゼルスのニコレーニョに注目し、彼らの子孫を探している。これは「孤独の女性」に敬意を表するとともに、カリフォルニア先住民が植民地化や蔑視に負けずに、たくましく生き抜いてきたことを賞賛する機会でもある。
「彼らは何千年も前から、この土地に住んでいるのです。そして今日も生き続けているのです」。おそらく今後の調査によって、「孤独な女性」の死後に、ニコレーニョに何が起こったのか、さらなる事実が明らかになるだろう。風に吹きさらされたこの島に、新たな神話が生まれるのだ。(参考記事:「32年間イタリアの島で孤立生活をしてきた男性、退去へ」)
文=Erin Blakemore/訳=三枝小夜子
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/22/111200522/

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アラスカ州で反トランプ派共和上院議員再選、下院選も民主現職勝利

2022-11-25 | 先住民族関連
Reuters - 2022/11/24 12:44
[ワシントン 23日 ロイター] - 8日投票の米中間選挙の上院選で、アラスカ州では共和党中道派の現職リサ・マカウスキ氏が、トランプ前大統領が推奨した元州高官のケリー・チバカ候補を破り再選を果たした。州当局が23日、集計結果を明らかにした。

米アラスカ州上院選、共和党の反トランプ派が再選
© Thomson Reuters
中間選挙ではトランプ氏が推した複数の候補が敗北しており、大統領選の再出馬を目指す同氏にとって打撃になるとみられる。
アラスカ州は有権者が順位をつけて複数の候補を選択できる優先順位付き投票を新たに採用。集計最終盤の様子が一般公開された。
マカウスキ氏はトランプ氏の支持者らによる昨年1月の連邦議会襲撃を受け、共和党上院議員として初めてトランプ氏の辞任を求め、その後、弾劾裁判でトランプ氏の有罪に投票した。
2002年から同州選出の上院議員を務めるマカウスキ氏は「あらゆる地域、背景、党派のアラスカ州民が信任を再び与えてくれたことを光栄に思う」とツイートした。
また同州の連邦下院議員選挙でも、アラスカ先住民の民主党現職であるメアリー・ペルトラ氏がトランプ氏支援のサラ・ペイリン元同州知事、および実業家ニック・ベギーチ氏の共和2候補に勝利。8月の補欠選挙でもペルトラ氏は同2候補を破っていた。
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/アラスカ州で反トランプ派共和上院議員再選、下院選も民主現職勝利/ar-AA14ulAm

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