武将ジャパン2023/12/13
2023年の朝ドラ『らんまん』に、倉木隼人と“えい”という夫妻が登場しました。
隼人は元彰義隊士。
えいは彼を匿い、それが縁で結ばれた夫婦です。
隼人は酒に溺れ、日雇いで生きています。
そんな夫でも、妻には深い愛情があります。
一体なぜ?
彼らのような江戸庶民の感情は、幕末の江戸城無血開城や慶喜の動向を振り返るとき、非常に重要な存在と言えます。
総大将が逃げ出し、決着がついているのに戦い続けた江戸っ子や東北諸藩――彼らは愚か者だったのか?
江戸っ子の目線から、幕末のクライマックスを振り返ってみましょう。
明治維新は「無血革命」なのか?
徳川慶喜の命が奪われることもなく、江戸城が無血開城となった印象が強いせいか。
明治維新は「無血革命」だった――そんな風に言われたりしますが、果たして実態はどうでしょう。
そこには無血革命を強調したい意図があり、以下のように数々のバイアスがかけられています。
◆明治政府の上層部が吹聴喧伝した
伊藤博文などの上層部が、海外でまでそう語りました。
明治維新から日露戦争後まで、日本は極東の優等生。清と違ってスムーズに近代化を成し遂げた。ロシアよりもずっと清新だ。
そんな宣伝戦略があり、イギリスの思惑も深く絡んでいます。
◆イギリスが無血革命を指向する
イギリスは【フランス革命】以来、国王斬首は野蛮だとしてライバル・フランスを激しく批判していました。
この姿勢は宿敵であるナポレオンにも発揮され、彼は流刑にとどめられています。
それどころか、ナポレオン3世と4世を庇護したのが他ならぬイギリス。
しかし彼らにとって流れる血とは青い血、つまりは王侯貴族を重視します。
幕末の動乱期にどれだけの志士や幕臣が死のうと、【戊辰戦争】でどれだけの庶民や兵士が死のうと、さして気にかけていないからこそ無血と言えてしまう。
◆維新前後の戦死者数の把握に疑義が生じている
戦国時代と幕末は、江戸時代という泰平の世を経て、遺体の扱いに大きな変化が生じました。
遺体を放置したら腐敗するため戦国時代は即座に埋めたものですが、江戸時代は罪人の死体は晒したのです。
戊辰戦争の場合、その慣習が残ったためか、遺体処理に不備が生じます。武士ではない層がやむなく担うこともありました。
【会津戦争】での遺体埋葬禁止令は、誇張があったとされますが、実際に不備があったからこそ語り伝えられた。
東北地方の戊辰戦争慰霊碑を比較すると、西軍の死者は詳細が刻まれている一方、東軍は曖昧なままのことがしばしばあります。同じ人命の損耗でも、東西格差が生じているのです。
靖国神社の英霊となるとさらに露骨であり、現在に至るまでそれは続いています。
◆明治政府の人命把握がそもそも格差ありき
明治になってからも人命格差は続きます。
その軋轢は北海道に集中。
明治政府は北海道開拓と、囚人の苦役を一石二鳥でまとめました。
当初は東北諸藩の者を屯田兵とし、監獄が整備されると囚人、日清戦争以降は海外からの労働力を酷使します。
北海道各地にはそんな犠牲者の慰霊碑が残されています。アイヌはそもそも人命として把握されていたかどうかもあやしいレベルです。
そういう人命の犠牲を数えるうえでも露骨なバイアスがかかっているのが明治という時代。
まさに「どの口が無血革命と言うのか」という話で、はっきり言えば綺麗事です。
人口差もあるため、フランス、ロシア、中国の革命より犠牲が少ないように見えるかもしれません。
適切な数え方、数字の比較はどうしたらよいか。その点も踏まえねばならないでしょう。
江戸っ子は大政奉還と王政復古に納得できた?
嘉永6年(1853年)にペリーが来航。
このとき現地の人々は見物に押しかけ、瓦版屋や浮世絵師たちは速報号外を印刷販売しました。
浮世絵でも時事ネタは売れる定番だったのです。
なにせ当時は、和宮が京都から嫁いでくるわ、将軍家茂が家光以来の上洛を果たすわ、大地震が頻発するわ、疫病が流行るわ、物価が高騰するわ、漁村だった横浜が急速に発展するわ……と、号外ネタづくしの時代です。
幕政改革は、江戸っ子にとって歓迎すべきものではありません。
例えば参勤交代が緩和されると、大名屋敷がお得意様だった江戸っ子は取引先を失います。
大奥もそうです。予算が削減されると、衣装や菓子を納入していた業者は収入が減ってしまう。
治安は急速に悪化しています。
【生麦事件】に続いて【薩英戦争】が勃発し、江戸も砲撃されるのではないか?と人心は不安で混乱したのです。
後世の私達は「薩英戦争後にイギリスと薩摩が手を組む」と冷静に状況を追えますが、騒乱真っ只中の当時は一寸先は闇。
実際、英国ではヴィクトリア女王が激怒して、対日戦争を訴え、江戸の攻撃案まで立てられていたのです。
しかし、現実に江戸は火の海にならず、日常生活が決定的に破壊されることはありませんでした。
こうした状況を前にして、江戸の幕閣はどうしていたか?
彼らは困り果てていました。
京都の朝廷が政治に口を挟むようになってきて、どうにもうまくいかない。自国のため外交を進めようとすると、京都の「孝明天皇の意見を聞け!」という横槍が入る。
同じく京都にいる徳川慶喜も厄介でした。
聡明で政治力は高い上に、くだけた言い方をすれば「空気を読まない」。
孝明天皇の信頼を盾にした【一会桑政権】という、幕府から半ば独立した政治体制を整え、ますますコントロールが効かない。
それでも幕閣では最善を尽くそうとする人物がいます。
例えば小栗忠順。
幕府内で重くどんよりとした空気が漂う最中、小栗は横須賀製鉄所の設立を進めました。
他の幕臣たちが、このままでは幕府は危ういと肌で感じていたところ、小栗は明るく言ってのけます。
「確かに幕府の前途は暗い。だからこそこの製鉄所は作らねばならない。幕府という母屋が売りに出されたとしても、そこに“土蔵付き売家”と札を貼れるだろう?」
と、この言葉通り、程なくして幕府は崩壊、その過程で小栗忠順は冤罪処刑という非業の死を遂げます。
しかし東郷平八郎は小栗の功績を認識していて、【日露戦争】の勝利は小栗あってのことだと語っています。
海軍の戦艦は、横須賀製鉄所改め造船所から出航していたのです。
将軍没落も時代の流れか
慶応4年(1868年)――江戸っ子たちは何を思い、正月を迎えたのか。
勝海舟は氷川の自宅で寝正月を過ごしていました。
罷免されて暇であり、緊張感はない。
それが突如、浜離宮まで呼び出されたと思うと、顔面蒼白の慶喜その人がいたのだから、まったくもってわけがわからない。
京都で将軍様が大敗北した上に、部下たちを置いたままトンズラって……いったい何事でぇ!
この一件を江戸っ子たちはどう思っていたのか? メディアはどう報じたか?
それを理解するうえで重要なヒントがあります。
当時の売れっ子であり、脂の乗り切った浮世絵師・月岡芳年の『魁題百撰相』です。
彼が得意とする武者絵であり、一見、鎌倉から江戸まで武士の姿を描くと思わせるようで、実は時事ネタづくしという作品。
その「足利義輝公」を見てみますと、詞書では第15代とされています。
ただのミス?
いいえ、この作品の詞書は、わざとまちがったと思われる箇所が出てきます。
幕府復興の志を持ち、京都に入るものの、三好・松永に襲撃される。
織田信長が上洛し、京都に入るも、織田と仲違えして再度京都から落ちてしまう。
嗚呼、これも時代というものだろうか。
13代義輝の名前でありながら、15代義昭と混ざっている。これには意図的なものがあるのでしょう。
以下のように読み替えるとどうでしょう?
幕府復興の志を持ち、一橋派から将軍候補にあげられるものの、結果的に失敗して処罰されてしまう。
島津久光が上洛し一橋派復権を実現し、京都に入るも、島津久光と仲違えして、再度京都から落ちてしまう。
嗚呼、これも時代というものだろうか。
絵を見れば、ますますこの読み解きはハッキリしてきます。
描かれた人物は悲運の将軍・義輝というよりも、よくいえば聡明、悪くいえば狡猾さが滲んだ美男。
何より、慶喜の写真によく似ています。
時代の流れといえばそうだけれども、納得できていない。そもそも政治的な手続きは京都で一方的に決まってしまった。
意味がわからない。納得できるわけもない。
それが江戸っ子の心境。
【フランス革命】のように、市民が武器を手にした革命とはまるで違い、頭の上で勝手に決まってしまったようなものでした。
この詞書はそれでも抑制されています。
江戸っ子はべらんめえ口調でこう語っていたとか。
「豚だの牛だの食らっていやがる一橋めがよォ、のこのこ戻ってきやがって。江戸が騒がしくて仕方ねェ! とっとと腹でも切ってくたばりやがれ!」
豚肉を食べる一橋家当主ということで、“豚一”と呼ばれた慶喜。
江戸っ子にしてみれば、親しみも何もあったもんじゃありません。
若き徳川家茂までは江戸で将軍となり、江戸城の主として君臨した期間があります。その家茂が上洛する様は浮世絵として販売されました。
歌川派の絵師である月岡芳年も落合芳畿らも筆を執り、東海道を歩む将軍様御一行を描いたのです。
描く者、刷る者、売る版元、それを眺める江戸っ子まで、みなが家茂に愛着を感じていました。
一方で慶喜は?
家茂亡き後、よくわからないまま京都で将軍となり、江戸っ子にしてみれば全く親しみを持てない親戚のようなもの。
しかもそいつのせいで、女子どもだけでも逃げろと江戸中大騒ぎなのです。
芳年の描く慶喜の絵は、美貌でありながら冷え切っていて、何を考えているのかわからない人物が描かれている。
これが慶長4年の江戸っ子から見た慶喜像なのでしょう。
無血開城といえるのか?
過去に起きた事実は変わらない。
ゆえに歴史的な出来事も認識をあらためる必要はない――というのは大きな誤解です。
歴史には、長い年月を経て認識が変化するものもあり、時には人為的に歪められたものもある。
それを精査研究を重ねて正しく修正してゆくことにより、より適切な記述に姿を変えてゆく。
たとえば【江戸無血開城】という言葉そのもの。
単に【江戸開城】とした方が実態に即しています。
結城素明の絵も、あまり用いられなくなってきています。誤解を招きかねないとされているのです。【大政奉還】の絵もそうで、イメージと実態がかけ離れていると指摘される。
実は「勝海舟と西郷隆盛と膝詰めで語り合って、江戸開城がなされた」という有名な会談ですら、明治時代から舌打ちされているような話。
山岡鉄舟本人はともかく、その弟子たちは「勝がでかいツラしすぎだ、鉄舟先生あってのことだ」と苛立っていました。
西郷との会談は
・勝海舟
・山岡鉄舟
・大久保一翁
の三者が協力して成立したのが実態。それだけでなく家茂の未亡人である和宮も、慶喜の助命に向けて京都と連絡を取り合っていました。
勝海舟のビッグマウスは歴史認識にまで悪影響を及ぼしています。
例えば【万延元年遣米使節】です。
教科書ですら長いこと、勝の乗船していた咸臨丸の方が重要であるかのように記載されていましたが、ポーハタン号組である小栗忠順らの方が歴史的意義は大きい。
明治維新を生き延びた上に知名度と発信力が高い勝海舟と福沢諭吉が乗っていたため、後に咸臨丸が目立つことになったのです。
【江戸開城】についていえば、渋沢栄一も忘れてはなりません。
彼は心酔する「徳川慶喜が内戦を避けたおかげで、日本の栄光がある」と喧伝することに努めました。
元幕臣で筆力抜群の福地桜痴も、この渋沢に協力しています。
いわばセルフプロデュース力が高い面々によって幻惑され、ハッピーエンドであるかのように描かれた江戸開城までの流れ。
「渋沢、いいかげんにしやがれ!」と江戸っ子や元幕臣たちが怒っても仕方のない話です。
江戸っ子にも武士にも、長年培ってきた誇りがあります。
花は桜木、人は武士――。
そんな彼らからすれば、武士の頂点に立ちながら、あまりにチキンな慶喜の振る舞いは、納得できるものではなく、とにかく失望でしかない。
桜のような武士が、将軍様のお膝元である江戸にいないということを、彼らはどうしたって認めたくなかったのです。
慶喜はどうなったのか?
慶喜は、徳川宗家当主としては認識されていません。
宗家当主として、家茂が指名したのは田安亀之助(徳川家達)。
当主ではない上に京都で勝手に政権を放り出した慶喜は、江戸城から白眼視されました。
天璋院に育てられた家達は、慶喜に冷たい目線を向けていたことが伝えられています。
【江戸開城】で命が救われた徳川慶喜は、その後どうなったのか。
西軍としても、ただ慶喜を助命するわけではなく、江戸城明け渡しと武装解除が条件に提示されました。
しかしこれは、現実には履行されず、戦火は東北へと広がり、和宮が慶喜助命を京都に依頼する一方、天璋院(篤姫)は東北諸藩を叱咤激励していたのでした。
岡山を謹慎地とされた慶喜は、交渉によって水戸へ。
思えば弘化4年(1847年)、一橋家の相続が決まり江戸へ旅立った慶喜はまだ幼い少年でした。それがこうして戻ってくるのですから、悲哀なものです。
しかし現実は、感傷にひたっている場合どころの話ではありません。
明治維新の衝撃は、水戸藩を怒濤の中へと引き摺り込んでゆきます。
【天狗党の乱】に敗れて藩士たちが大量処刑されると、水戸藩政は反天狗党(諸生党)が握っていました。
ところが維新の結果、天狗党は自分たちの味方が勝利したと勢いを増します。
束ねるはずの藩主・慶篤(慶喜の同母兄)はそんな動乱の最中の4月急死し、毒殺説まで流れる始末。
まるで火薬庫のような場所に慶喜を置くわけにもいきません。
さらに5月には武田耕雲斎の孫・金次郎が水戸に入り、反天狗党(諸生党)の大量殺戮を開始します。
白昼堂々、恨みのある相手を集団で襲撃し、殺し、生首が転がる……そんな地獄の様相を呈していました。
水戸藩は、幕末維新の歴史の中で、最も数奇で残酷な運命を辿りました。
内乱により藩士同士が徹底して殺し合い、あまりに多くの人命が奪われてしまったため、人財が枯渇したのです。
回天の動乱に至る思想は、水戸藩の生み出した【水戸学】に根ざすものの、肝心の人材はいない。
そもそもなぜ、徳川御三家から幕府打倒の源流思想が生まれ、最後の将軍である慶喜を苦しめたのか。
この影響は現在に至るまで払拭されているとはいえません。
勝った側は言うまでもない。負けた側だって、会津藩はじめ自分たちの歴史を雄弁に語っています。現に新選組は大人気です。
それが水戸藩では、まず自藩の歴史を辿らねばならず、そこで大きな壁に突き当たってしまいます。
2021年放映の大河ドラマ『青天を衝け』では、水戸藩の紛争が描かれました。【天狗党】関連ニュースのコメント欄まで水戸藩の歴史論争が繰り返されていたほどです。
そんな水戸藩ですから慶喜が長く置かれているわけにもいかず、山岡鉄舟が水戸に入り、慶喜から幕府の処置を勝海舟に任せるという言質をとってきます。
そして7月、銚子から静岡に向かい、宝台院へ。
徳川家康の側室であり、徳川秀忠の母である西郷局(お愛の方)の菩提寺です。
年末、そこで面会を果たしたのが渋沢栄一でした。
六畳ほどの薄暗い部屋にいる慶喜に、渋沢は「どうしてこうなったのか?」と悔しがりながら問いかけます。
しかし慶喜は応じない。これほどの没落ぶりに、倒幕は当然の帰結だと考えていた渋沢ですら、落涙を止めることはできません。
翌年の明治2年(1869年)まで【箱館戦争】は継続。
大久保利通は慶喜を函館に派遣し、榎本武揚と対峙させようとしますが、反対にあい実現には至りませんでした。
こうして慶喜の、長く静かな後半生は始まりますが、一方で、そんな平和な余生を迎えられなかった人々は江戸に大勢いました。
月岡芳年は上野戦争を見ていた
江戸城で白眼視された徳川慶喜。
まるで人望がないどころか嫌悪されるほどの主君ですが、個々の武士が掲げる意地は別物です。
江戸では【彰義隊】という慶喜護衛隊が結成されていました。
本丸が開城され、総大将の慶喜が水戸へ向かったのですから、彰義隊だって解散だろ……というわけにもいかない。
むしろ納得できず、武士の花となるべく、合流してくる者たちがいました。
中には、栄一のいとこである渋沢成一郎もいます。
彰義隊士は揃いの格好をしていました。
裾のくくりに紐がついた義経袴を履き、裾をキュッと締める。水色がかった打裂(ぶっさき)羽織を身につける。
彼らが、この世の名残を惜しむため、吉原へ繰り出すと、遊女たちの間ではこう言われました。
「情夫(いろ)に持つなら彰義隊」
女性たちは簪の飾りに将棋の駒をつけ、彼らを応援していました。
しかし【上野戦争】はわずか一日で決着がついてしまいます。
徳川将軍家の菩提寺であった寛永寺は、彰義隊を匿ったために境内を没収され、後に戻されたのは十分の一ほど。
徳川の象徴であった跡地にはさまざまな博物館が建てられ、浴衣姿で犬を連れた西郷隆盛の像まで立ち、激戦の跡はすっかり消えたようにすら思えます。
今や、ひっそりと佇む彰義隊の慰霊碑だけが往時を伝える……いや、江戸っ子の意地は残されています。
上野の山の物陰から、人気絵師の月岡芳年と弟子の年景は、戦の様子を目に焼き付け、スケッチしていました。
酷い戦だと江戸っ子たちはひそかに語りました。
西軍は、やたらめったら死体を斬りつけています。人肉に三杯酢をつけ、葱を入れ、味噌付けにして食べたと吹聴している者もいたとか。
その後に発表された月岡芳年『魁題百撰相』は、ディテールが細かい死に様が描かれています。
積み重ねた畳をバリケードにする。
簀子を盾にする。
よろめいた仲間を支え、水を飲ませる。
血にまみれた握り飯を無心で口に運ぶ。
切り落とした首から垂れる血を舐める。
首を肩にかけて歩いてゆく。
経帷子を首の周りにだらりと垂らして血まみれになっている。
酷い戦を目の当たりにしたとしか思えない、極めて生々しい絵です。
新政府は彰義隊の顕彰を禁じたため、詞書では『太平記』や『太閤記』が題材だとされているものの、当時あるはずのない大砲やボタン付きの軍服が描かれています。
江戸っ子たちが見れば、誰を描いたのかすぐにわかる。臨場感のある姿が記録されました。
この『魁題百撰相』には、他にも珍しい特徴があります。
上杉謙信、上杉景勝、伊達政宗、片倉小十郎など、東北ゆかりの英雄が多いのです。
北へと転戦する彰義隊士にエールを送るように、彼らは雄々しく描かれている。
そうなのです。彰義隊が壊滅しようと、流血は終わりません。
武装解除されなければ戦争は続行
慶喜の処分を見ていくと、外部から切り離され、旧幕臣と明治政府で決められていることがわかります。
幕臣にせよ、旗本にせよ、江戸っ子にせよ、西軍には全く納得ができていない。
幕府には戦力があります。
時代遅れで軍制改革もできずあっという間に敗北。「もはや刀や槍の時代じゃねえ」と嘆く新選組隊士はフィクションでのお約束です。
しかし、これはあまりに事を単純化しすぎていて、実際の幕府軍はそこまで脆弱ではありません。ざっと例を挙げてみましょう。
◆幕府海軍
実質的に海軍は幕府のみが有していました。
抗戦を主張した栗本忠順はもちろん、勝海舟ですら「海軍があるじゃねえか!」と慶喜を罵倒したほど。榎本武揚が函館へ向かったのも、海軍兵力があればこそです。
アメリカ産のストーンウォール(甲鉄艦)を購入するまで、明治政府はどうにもなりませんでした。
◆幕府陸軍
フランス式シャスポー銃を装備する幕府陸軍は、なかなかの戦力でした。
新選組にしても、実は洋式訓練を受けています。
◆武器の供給
新政府側に対しては、イギリスが【南北戦争】で余った武器を売りつけています。
東北諸藩に対しては、スネル兄弟を代表するプロイセン商人が接近、とりわけ長岡藩のガトリング砲は猛威を振るいました。
武器をいち早く購入した庄内藩も藩単位では敗北しておらず、秋田藩に攻め込み、藩主を自害寸前にまで追い詰んでいます。
しかし、です。あらためて考えてみたい。
そもそも武力による倒幕は必要だったのか?
当時は西軍側でも慎重な意見が多かった。
一方でイギリスは、明治新政府に武器と恩を売りつけておきたい。
日本国内の理論というより、列強の市場原理が働き、明治維新では大いに流血があったと言えるのです。
江戸っ子は上野戦争を忘れない
渋沢栄一をフィクションで描く際には、ひとつの定番がありました。
渋沢本人が【戊辰戦争】に従軍しないため、従兄弟の渋沢成一郎が彰義隊を率いる様が描かれます。
彼は小栗忠順のもとへ相談に向かっており、ひとつの見せ場となります。
しかし大河ドラマ『青天を衝け』では、成一郎ではなく、甥の渋沢平九郎が戦死するまでの姿が、ラブロマンスを踏まえつつ描かれました。
そのため上野戦争は描かれなかったのです。
個人的には、大河ドラマですら【上野戦争】を避けるのか!と唖然としたものですが、代わりに朝ドラ『らんまん』が補うとは思いもよらぬことでした。
台詞のみで語られるとはいえ、当時の江戸っ子の心境をよく再現しているのです。
上野へと向かう彰義隊士を、うっとりとした目で見送ったえい。
そして背中まで斬られて血まみれになりながら、えいの家へ転がり込んできた隼人。
まさかあのお侍が家に来るとは……。
そう驚きつつ、看病するえい。彼女は隼人の怪我が命に別状がないほど重いようにとそっと願いました。
なぜか?
もしも軽傷ならば、彼は北へと転戦してしまう。彼女にはその気持ちが理解できました。
維新後、俸禄を失った隼人は、日雇い人足として生計を立てます。
無口で酒に溺れる日々。
それでもえいは、そんな夫に心の底から惚れているとうっとりと語ります。
彼らの子の世代になると、江戸っ子には定番の自慢がありました。
「俺の親父はよォ、上野の戦で戦った。彰義隊にいたのよ!」
倉木隼人とえいの子も、両親の馴れ初めを知り、自慢の種としたことでしょう。明治時代にはそんな江戸っ子がまだいたのです。
『らんまん』には、維新前に火消しをしていた職人・大畑義平も登場します。
実はこの火消しも、勝海舟に声をかけられていました。
開城交渉が決裂したら、【ナポレオン戦争】のモスクワに倣い、江戸を焦土作戦で焼き尽くそうと考えていたのです。
結果的に実現されなかったものの、火消しである大畑義平にも、その話は耳に入っていてもおかしくはありません。
主人公が出入りすることになる大畑印刷所には、岩下という職人もいます。
彼は月岡芳年の師匠である歌川国芳の浮世絵を手がけたことが誇りなのだとか。
『らんまん』は、まだ江戸の風情を残した明治初期の世界観をよく再現しています。
月岡芳年『魁題百撰相』も、忘れられてはいない。
“最後の浮世絵師”という異名を取る彼は、ファンも多くおります。
谷崎潤一郎、江戸川乱歩、三島由紀夫……など、錚々たる面々が彼を礼賛。
アパレルブランドとのコラボレーションの定番でもあり、作品展もしばしば開催されます。
『魁題百撰相』を通して、人々は【上野戦争】で戦った勇姿を目にすることになるのです。
2023年、江戸川乱歩の弟子である山田風太郎原作『警視庁草紙』が連載されました。
東直輝氏作画によるこの作品は『芳幾・芳年』展とコラボを実施。単行本8巻収録の外伝『異聞・浮世絵草子』では、【上野戦争】を目に焼き付ける芳年の姿が描かれています。
150年以上を経ても、民衆の目に届くところへ蘇ってくる江戸っ子の意地、彰義隊の姿――これほどの痕跡を残した彼らの命は、どうして無駄であったといえるのでしょうか。
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