先住民族関連ニュース

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子どもたちへ 先人の旅と人生に学ぶ

2018-08-27 | アイヌ民族関連
東京新聞 2018年8月25日
 新学期シーズンが来た。子どもたちが自ら命を絶つ悲劇の相次ぐ時期。しかし、教室や学校だけが世界のすべてではない。ちょうど二百年前に生まれ、広い世界を目指した先人の生き方を紹介する。
 子どもたちの環境は厳しい。下着の色まで指示する「ブラック校則」、複雑な上下関係の「スクールカースト」、暴力やネットのいじめ…。なのに「我慢して登校しろ」と言われたら、どうすればいいのかと悩む子もいるだろう。
 だからといって、自分の道を閉ざすことはない。一八一八年に今の三重県松阪市で生まれた探検家の松浦武四郎は、そんな教訓を残してくれた偉人の一人だ。その名前と人生は、今月あった北海道の命名百五十年目の式典にちなんで盛んに報じられたから、ご存じの人も多いだろう。
 幼くして僧侶を志すが、父に許されない。やがて旅への憧れを募らせ、十六歳で「中国かインドに行く」と親類に手紙を書き、江戸に家出する。一度は連れ戻されるが、初志を貫き、翌年から全国を訪ね歩く。特に、当時は未開の地だった蝦夷地(北海道)を六度も訪れ、その命名にも貢献した。
 幕府や明治政府にも仕えたが、あっさり辞めた。発端は、北海道で見たアイヌ民族への厳しい迫害だ。先祖伝来の土地を奪われ、奴隷のように働かされている惨状を訴え、アイヌの救済を強く説いたが、取り上げられない。悪行に加担するよりは自分の信念を大切にする、という選択だったのだ。
 人が生まれた場所や身分に縛られて暮らす時代。強い者が弱い者を支配するのが当然だった時代。旅に生きた松浦の視線は、同時代のそんな狭さを通り越し、人が互いに認め合い、自由に生きる天地へと向いていたのではないか。
 その生涯にひかれる人は多く、今年は松浦が主役の小説『がいなもん』(河治和香作)も出た。題名は、三重県の一部などで「すごい人」という意味の方言だ。
 松浦をはじめ、広い世界を目指して大きく成長した先人は多い。今いる場所は狭く苦しくても、時間がたてば自分も周囲も変わる。自分の悩みは小さかったと知る時もあれば、救いの手が来る時もあるだろう。
 学校がどうしてもいやなら「行かない」という選択肢もある。家出は勧めないが、居場所のない子は図書館に行き『がいなもん』を読んではどうか。新しい人生を切り開く知恵と力を「すごい人」から学べるかもしれない。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2018082502000167.html

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Kolas Yotaka氏の「豊」は絶対に「夜鷹」ではない——氏名表記から考える多元化社会と文化

2018-08-27 | 先住民族関連
nippon.com [2018.08.26] 栖来 ひかり
わたしの名前は「ひかり」、ローマ字で“Hikari”と書く。
「光」を意味し、両親が名付けた。外国人にとっては少々呼びづらいようで、英語話者の場合は真ん中の「ka」の部分にアクセントが付き、「ke-a」という発音になる。台湾の方にとっては最初の「Hi」が呼びづらく「I-ka-ri」になることが多いので、初めて会った方には華語(中国語)読みで「光子」(グァン・ヅ,「光」一文字も呼びにくいので「子」を付けた) と呼んでください、と伝えてきた。しかしこの前、タイヤル族の方の取材で伺った際、いつものように「光子です」と名乗ったら「本当の名前の読み方を教えて」と言われ、ハッとした。
わたし自身は、それまで単に「相手が呼びやすい」という利便性のみで「光子」を名乗っていたが、タイヤル民族の方にとって、私はいかにも自分の名に無頓着な人間に映ったと思う。それは私が、これまで一度も名前や言葉を奪われたことのない「日本語を母語とする日本人」として、ぼんやりと生きてきたからに他ならない。
台湾の民主化と回復正名運動
2018年現在、台湾には約56万人、全人口の2%を占める先住民族16部族が暮らしている。台湾は元から彼ら先住民族が暮らしていた土地だが、そこに漢民族が移り住み、日本の領土となった後に、国民党と共に更に多くの人々が中国から台湾に移住した。清朝、日本統治時代、国民党政権と統治者が移り変わる中で、その時々に合わせて変更・同化を強いられてきたのが、先住民族自身の「名前」であり「言葉」だった。
1980年代には、台湾の民主化と共に先住民族の権利回復運動が本格化するが、中でも大きな流れとなったのが「土地や個人の伝統的な名前を回復する運動」(回復正名運動)だ。
その結果「姓名条例」の改正が行われ、先住民族本来の名前を選択できるようになったのが1995年。私と同年代の先住民族の方々は、自分の名前にまつわるアイデンティティーと向き合いながら、思春期を過ごしたと言っても過言ではないだろう。
台湾先住民族の文化では、儒教の影響を受けた日本人や漢民族のような「姓」という概念を持たず、「名前」+「母もしくは父の名前」+「土地や自然と関わる名称」という構成が少なくない。名前の中に、自分を生み出した土地への誇りや祖先とのつながりが刻み込まれており、それは個人のアイデンティティーそのものである。「回復正名運動」とは、先住民族の人々が自分の名前を取り戻すことで、民族の誇りとアイデンティティーをも回復する運動なのである。
日本語への変換が誤解を招いた出来事
出来事は、そんな「回復正名運動」の流れの上で起こった。
内閣の新しいスポークスパーソンとして任命されたアミス(パンツァハ)族出身のKolas Yotaka氏が、伝統的な先住民名を、従来の漢字の当て字ではなくローマ字表記することに理解を求めた。すると、Kolas氏の「Yotaka」がグーグル翻訳で日本語の「夜鷹」と変換された。その意味が日本語の「遊女(私娼)」であるという内容の投稿が台湾のSNSで出回り、Kolas氏関連のニュース記事や当人のフェイスブックに、名前にまつわる誹謗(ひぼう)中傷が次々と書き込まれた。
Kolas氏本人は以前のインタビューで、「Yotaka」という名前は彼女の祖父が日本統治時代に付けた「豊(ゆたか/日本語のローマ表記では”Yutaka”)」という名前を引き継いだものだ、と説明している。
しかし、これを受けてネットの論調はさらに過激になり「豊のローマ字表記はYutakaでありYotakaではない、日本人は台湾先住民族に対して『娼婦』という名前を付けてひどい支配をした」など、日本人に対して悪意のある見方も出現した。
歴史的にみれば、これまで先住民族のアイデンティティーを奪ってきた当事者として、日本人も含まれるのは確かだし、日本が台湾を領土とした事に関連して多くの先住民族の方々が命を落とし、差別されたことは事実だ。現在の台湾で進んでいる「移行期の正義」の延長として、日本人もきちんと向き合うべき問題であるに違いない。
しかし、これまで見聞きしてきた先住民族に関する研究や聞き書きに照らしても、日本人が先住民族の方に対して悪意を持って「遊女」、もしくはそれに類する名前を付けたような前例は聞かない(もし似たような例があれば、ご一報いただきたい)。さらに言えば、ここで問題となっている「夜鷹」が「遊女」であるという認識自体、日本でも一般的と言えず、現代では死語に等しい。グーグル翻訳の変換機能に大きな偏りがあると言わざるを得ない。
日本語の影響を受けた名詞の数々
この現象の説明として最も得心がいくのが、アミス(パンツァハ)語の母音に関する類推である。つまり、Kolas氏の祖父が日本語の「豊(ゆたか)」の音を転書したときに、「ゆ」と「よ」を混同してローマ字表記した可能性がある。
Kolas氏はアミス(パンツァハ)族のルーツを持っており、アミス(パンツァハ)語の母音にはuとoがあるが、uとoに明確な使用上の区別が無く、しばしば混用される。これは多くの言語学者によって指摘されている。
言語学者の前田均氏による論文「台北県政府『阿美語図解実用字典』中の日本語からの借用語」では、100例ほどのアミス(パンツァハ)語における日本語の影響を受けた名詞(借用語)が紹介されているが、その中には「Yutaka」を「Yotaka」と記したのと同じく、母音u→o表記の例を多く見つけることができた。
simpo 神父(shinpu)
focigkay 婦人会(fujinkai)
kagkofo 看護婦(kangofu)
komo ゴム(gomu)
solipa スリッパ(surippa)
cyofo チューブ(chubu)
cokoi つくえ(tsukue)
paso  バス(basu)
panco パンツ(pantsu)
omi 梅(ume)
katacomoli かたつむり(katatsumuri)
sakola さくら(sakura)
yolinohana ゆりのはな(yurinohana)
nanpokoy 南部鯉(nanbugoi)
lakota ラクダ(rakuda)
limpo 練武(renbu)
komoing 公務員(koumuin)
※左側がアミス(パンツァハ)語、真ん中が元の日本語で、右側に日本語におけるローマ字表記/ヘボン式、下線で示したのが母音u→o表記の該当部。
元は日本名といえども、日本語とは異なる表記で代々名前が伝わってきたという事は、すでに”Yotaka”という名が「豊か」という意味を持つアミス(パンツァハ)語なのであり、これ自体が独自の民族的なアイデンティティーを証明している。
また、今回のKolas氏への中傷は、明らかにKolas氏が女性であるから成立していることも問題だ。これは日本語と日本文化を利用した、女性および台湾先住民の方々への深刻な人権侵害である。
名前や言語に宿る誇りと文化を尊重
名前や言語には、それを使用する人々の誇りと文化が宿っている。それはどのような民族の言語においても同じだろう。今回の件で、Kolas氏を誹謗中傷するために、私の母語である日本語が悪用されたことで、日本語と日本文化が損なわれ、傷付けられたように感じる。しかしこれも、かつて日本人が他者の言葉や文化を奪った報いといえるのかもしれない。
未来にそのような事を繰り返さないためにも、日本人を含めて、この出来事の意味を考える意義は小さくない。他者の言語や文化を尊重していくことは、同時に自分たちの言語や文化を大切にすることでもあるからだ。そうした意味で、Kolas氏に中傷の言葉を投げ付けている人々もまた、自らの言葉や文化を自ら損なっているのかもしれない。
バナー写真=台湾行政院(内閣)報道官(閣僚)に今月就任したグラス・ユダカ氏(Kolas Yotaka)。先住民族アミ族出身。先住民族として初の行政院報道官となる。2018年7月25日、台北市の行政院(時事)
栖来 ひかり  SUMIKI Hikari
台湾在住ライター。京都市立芸術大学美術学部卒。台湾人男性と結婚し、2006年より台湾在住。一児の母。日本の各媒体に台湾事情を寄稿している。著書に『在台灣尋找Y字路/台湾、Y字路さがし』(2017年、玉山社)『山口,西京都的古城之美』(2018年、幸福文化)がある。 個人ブログ:
https://www.nippon.com/ja/column/g00571/

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象徴空間開設「認め合う出発点に」 宇梶剛士さんがPR大使就任

2018-08-26 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/25 19:14 更新
 道は25日、国が2020年4月に胆振管内白老町に開設するアイヌ文化の復興拠点「民族共生象徴空間」のPRアンバサダーとなった俳優の宇梶剛士さん(56)の就任発表会を札幌市内で行った。宇梶さんは象徴空間について「競ったり、優劣をつけたりするのは幸せではない。互いに認め合う一つの出発点にしたい」と力を込めた。
 宇梶さんは阿部啓二副知事から委任状を受け取り、「北海道の爽やかな風が吹き込んできて、背筋が伸びた。自分ができる限りのことをしたい」と語った。
 続くトークショーでは、制作中の松浦武四郎をテーマにしたドラマでエカシ(長老)役を務めて台詞がすべてアイヌ語だったことに触れ、「今更ながら自分の不勉強を嘆きながら乗り越えた」と話した。アイヌ民族の権利回復などに取り組む日高管内浦河町出身の母静江さん(85)との思い出も紹介した。
 道は29日までJR札幌駅西口で、伝統の料理や衣装の試着を楽しめるイベントを開催する。9月以降も道内外6カ所で同様のイベントを計画しており、宇梶さんも一部に参加する。(村田亮)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/221765

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宇梶剛士さん アイヌ文化振興のPR大使に

2018-08-26 | アイヌ民族関連
毎日新聞2018年8月25日 19時44分(最終更新 8月25日 20時02分)

 北海道は25日、俳優の宇梶剛士さん(56)を国立アイヌ民族博物館などを中核とする2020年4月開設のアイヌ文化振興拠点「民族共生象徴空間」(白老町)のPRアンバサダー(大使)に任命した。
 東京都出身の宇梶さんはアイヌ民族にルーツを持ち、母はアイヌ文化の継承活動を続けている浦河町出身の静江さん(85)=埼玉県在住。宇梶さんはこの日の就任式にも民族衣装で臨んだ。
 施設は知名度の低さが課題だが、「民族、共生、象徴空間という言葉をかみしめ、多くの人と目の高さを一緒にして向き合っていきたい」と宇梶さん。硬派な情熱で世界に魅力を発信していく。【真貝恒平】
https://mainichi.jp/articles/20180826/k00/00m/040/066000c

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<北海道>民族共生象徴空間のPR大使に宇梶剛士さんが就任(動画)

2018-08-26 | アイヌ民族関連
HTB 8/25(土) 18:40配信
 2020年4月に、胆振の白老町にオープンする「民族共生象徴空間」をPRする広報大使の就任式が、25日に札幌で行われました。
 「民族共生象徴空間」は、アイヌ民族の文化や歴史を展示・紹介する国立の博物館を中心に、交流スペースやアイヌ文化を体験する施設が設けられます。PRアンバサダーは、施設やアイヌ文化を広く紹介し、象徴空間の顔として知名度アップに努めます。このPRアンバサダーに、俳優で母親がアイヌ民族である宇梶剛士さん(56)が任命されました。就任式で宇梶さんは、ワクワクしながら臨みたいと抱負を述べ、「多くの人が互いに認め合えるように、地球全体が認め合えるように、象徴空間がその1つの出発点であったらいいな」と、就任への思いを語りました。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180825-00000005-htbv-hok

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民族共生象徴空間 宇梶剛士さんがPR大使に就任(動画)

2018-08-26 | アイヌ民族関連
HBC 8/25(土) 17:21配信
再来年、胆振の白老町にできるアイヌ文化復興拠点民族共生象徴空間のPR大使に、俳優の宇梶剛士さんが任命され、25日札幌で就任式が行われました。
俳優の宇梶剛士さんは、母親がアイヌの詩人でアイヌ民族とのかかわりが深いことから、今回PRアンバサダー=大使に選ばれました。
白老町ポロト湖畔にできる民族共生象徴空間は、国立アイヌ民族博物館などを核に2020年4月に開設され、年間100万人の来場者を目標にしています。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180825-00000004-hbcv-hok

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アイヌ語で熱唱 カラオケ&お笑い大会 札幌大ウレシパクラブ

2018-08-26 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/25 19:08

 アイヌ民族の風習などを題材にした漫才を披露したり、日本のポップスをアイヌ語で歌ったりする「お笑い&カラオケ大会」が25日、札幌市豊平区の札幌大で初めて開かれた。出場者は歌手の西城秀樹さんや竹内まりやさんの名曲をアイヌ語で熱唱し、会場は手拍子と歓声に包まれた。
 アイヌ文化の担い手を育てる一般社団法人・札幌大学ウレシパクラブなどが北海道命名150年に合わせて企画した。歌やお笑いを通して、アイヌ文化をより身近に感じてもらう狙い。お笑い部門に4組、カラオケ部門には13人が道内外から出場した。
 お笑い部門では「松浦武四郎が現代にいたら…」というコントなどもあり、会場は笑いが絶えなかった。お笑い部門は2人組のお笑いコンビ「ペナンペパナンペ」が、カラオケ部門は「ワダツミの木」(元ちとせ)を歌ったアイヌ文化伝承者の川上容子さん(40)が優勝。川上さんは「家族で練習したかいがありました」と喜んだ。(斉藤千絵)
※「ウレシパクラブ」の「シ」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/221764

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北海道)伝道・アイヌ民族の歴史刻む 伊達の記念堂

2018-08-26 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2018年8月26日03時00分
1909年製というバチラー八重子の足踏み式オルガン=北海道伊達市向有珠町
 北海道伊達市向有珠町の「カムイタッコブ(神の丘)」と呼ばれる小さな丘に、異彩を放つ建物がある。石造りの教会「有珠聖公会バチラー夫妻記念堂」。二つの円窓があり、外から眺めると、顔のように見えて愛嬌(あいきょう)がある。
 道内における明治~昭和のキリスト教伝道やアイヌ民族の歴史を刻んだ建物だ。
 「アイヌの父」と呼ばれた英国聖公会の宣教師ジョン・バチラーは、明治初期に来道した。平取や日高から伝道を始め、幌別(今の登別市)、有珠(今の伊達市)、釧路、そして札幌にも滞在。幌別の信徒には「アイヌ神謡集」を著した知里幸恵もいた。教育にも力を入れ、札幌にバチラー学園を創立。「誇りをもって生きよう」とアイヌ民族の青年らに教えたという。
 同時に「母語で聖書を読むべきだ」と聖書や祈禱(きとう)書などをアイヌ語に翻訳。2万余りのアイヌ語彙(ごい)と用例を収めた「アイヌ・英・和辞典」は今も貴重な資料とされている。
 記念堂は1937(昭和12)年に建てられた。献堂式で、バチラーは「有珠の美しき景色や人情が気に入った」とあいさつしたという。有珠山の噴石を積み上げた一部2階建てで、広さは延べ約150平方メートル。92年には伊達市文化財に指定された。2001年の修復で2階にできた展示室には、バチラーの辞典など25点の資料が並んでいる。
 有珠で生まれ育った八重子は22歳で夫妻の養女となり、伝道師として道内のアイヌ民族の集落を巡った。
 ふみにじられ ふみひしがれし ウタリの名 誰しかこれを 取り返すべき
 アイヌ民族の三大歌人に数えられる八重子。貧困や差別を目の当たりにし、それが歌集「若きウタリに」(1931年)となった。
 40年末、日英関係の悪化からバチラーは離日し、44年に亡くなった。遺志を継いだ八重子は、故郷で困窮をしのぎながら弟の司祭向井山雄と伝道に生涯を捧げ、62年に死去した。
 記念堂は4~10月の毎週土曜日に開館。近くに住む信者の片平芳裕さん(57)が鍵を託され、開け閉めしている。八重子は曽祖母の妹にあたる。「10月のバザーやクリスマスのコンサートはにぎわうが、毎月の礼拝は10人ほど。石造りなので室内はとても静かです」と話す。
 毎月の礼拝で出向く日本聖公会札幌キリスト教会の大町信也牧師(61)は「記念堂は、バチラーや八重子がアイヌの人たちに寄り添い、民族の将来に目を注いだ歴史を示しています」と説く。
 八重子は晩年、記念堂でも開かれていた日曜学校の子どもたちに、希望を託した。
 空にのみ 星ありとすな 人の世の 星を教へむ 良き子集めて(三上修)
https://www.asahi.com/articles/ASL8Q04M3L8PIIPE01D.html

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もはや絶滅危惧種!?修学旅行で一度は見た「郷土玩具」の数々

2018-08-26 | アイヌ民族関連
女性自身8/25(土) 16:01配信
「かつて多くの家庭には家族の思い出と記憶をとどめるために、玄関や応接間などにおみやげを飾るスペースがありました。しかし、今では居住空間の変化とともに、残念ながら昭和みやげたちの居場所が少なくなってしまいました」
こう語るのは、千葉県・国立歴史民俗博物館に勤務する川村清志さん。現在開催中の企画展示「ニッポンおみやげ博物誌」(9月17日まで)で紹介されている昭和みやげの多くは、誰もが「ウチにもあった!」「修学旅行で買った!」と親しみと懐かしさを感じるものばかり。
戦後、多くの人たちが旅行の記念にこぞって購入するおみやげの代表格が、こけし、だるま、土鈴、アイヌ細工、赤べこなどの「郷土玩具」だった。そんな、今では“いやげ物”なんて言われることもある、昭和の家には必ずあったおみやげの数々を紹介。
■木彫りのクマの置物&ニポポのルーツはスイスに!「アイヌ細工」
'60年代に爆発的に売れた木彫りのクマ。大正時代にスイスのおみやげが影響を与えたとも言われる。男女1対のニポポは、樺太アイヌの魔よけの人形と言われている。
■子どもの病いよけ&魔よけの意味を持つ会津の郷土玩具!「赤べこ」
福島県会津地方の郷土玩具。張り子の赤い牛は子どもの病いよけ、魔よけの意味を持つ。16世紀、農家の副業のために技術を伝授したのが始まりとされ、大正時代におみやげとして広がっていった。
■'50年代に誕生し、'70年代に最盛期を迎えた定番みやげ!「ちょうちん」
火袋に太字の地名や景色などの絵柄が描かれている。種類も大きさも多種多様。内部に明かりをともす実用性はなく、和室の鴨居などに飾る商品。'50年代に作られ始め、最盛期は'70年代。
■なぜ将棋の駒の形なのか……謎が深まる“地名みやげ”!「通行手形」
多くは将棋の駒の形をした地名が書かれた木製のおみやげ。江戸時代の通行手形は文書のため、なぜ五角形の木製なのかは不明。'70年代には全国で、現在では石川県などで製作されているという。
■修学旅行で男子生徒の注目を集めた懐かしの品!「ペナント」
細長い二等辺三角形をした布に観光地の絵柄が描かれ、真ん中に地名や寺社名が書かれている。'50年代に作られ、'70年代には飛ぶように売れたが、現在ではほぼ見かけなくなった。
■みうらじゅんが名付けた“いやげ物”の代表格!「“金プラ”」
城、寺、塔など、ご当地建物の金色のミニチュアレプリカ。“いやげ物”という言葉を生み出したみうらじゅんが、金ぴかのプラスチックフィギュアを総称して“金プラ”と名付けた。現在も健在の商品。
「観光ペナント、ちょうちん、通行手形は、はやったのも廃れたものほぼ同時期です。いずれも最盛期は'70年代。ターゲットは主に修学旅行に来た男子学生たちでしょう。全国の観光地の地名が入った同じ形状のおみやげは、コレクター気質をかきたて、コンプリートを目指して、多くの少年たちが収集に熱中したものでした」(川村さん)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180825-00010006-jisin-soci

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こけしやだるまら「ニッポンのお土産」、昭和時代の隆盛と衰退

2018-08-26 | アイヌ民族関連
女性自身8/25(土) 11:04配信
江戸時代から現代までの“おみやげ”を一堂に展示した「ニッポンおみやげ博物誌」(千葉県・国立歴史民俗博物館、9月17日まで)が話題に。そこには、今では“いやげ物”なんて言われることもある、昭和の家には必ずあったおみやげの数々が。その隆盛から衰退までを振り返る。
「かつて多くの家庭には家族の思い出と記憶をとどめるために、玄関や応接間などにおみやげを飾るスペースがありました。しかし、今では居住空間の変化とともに、残念ながら昭和みやげたちの居場所が少なくなってしまいました」
そう語るのは、国立歴史民俗博物館に勤務する川村清志さん。現在開催中の企画展示「ニッポンおみやげ博物誌」で紹介されている昭和みやげの多くは、誰もが「ウチにもあった!」「修学旅行で買った!」と親しみと懐かしさを感じるものばかり。
戦後、多くの人たちが旅行の記念にこぞって購入するおみやげの代表格が、こけし、だるま、土鈴、アイヌ細工、赤べこなどの「郷土玩具」だった。
「アイヌ細工で言えば、今では大きな木彫りのクマを買う人は少なくなっていますが、小さなかわいい木彫りのフクロウは女性客に人気のようです。アイヌ神話でフクロウはコタンコロカムイといって、村の守り神なんですよ」(川村さん・以下同)
もちろん今でも、ハイレベルなアイヌ細工を作る職人はたくさんいる。アイヌ細工はおみやげのみならず、アートとして残すべき貴重な日本の文化財のひとつなのだ。
また、壁に画びょうを刺して貼り並べられた観光ペナントや通行手形、和室の鴨居にズラーッと飾られていたちょうちんにも、ノスタルジーを抱く人は多いだろう。
「観光ペナント、ちょうちん、通行手形は、はやったのも廃れたものほぼ同時期です。いずれも最盛期は’70年代。ターゲットは主に修学旅行に来た男子学生たちでしょう。全国の観光地の地名が入った同じ形状のおみやげは、コレクター気質をかきたて、コンプリートを目指して、多くの少年たちが収集に熱中したものでした」
現在ではすっかり見かけなくなった昭和みやげも、実は意外な形で生き残っている。
「最近の人気みやげは、マグネットとクリアファイル。実は今、ペナント型や通行手形型のマグネットがたくさん売られているんです。昭和みやげはコンセプトやデザインが新しい人気みやげに引き継がれているんですよ。実用的なクリアファイルは、江戸時代からのおみやげの基本『重くなく、かさばらず、日持ちのするもの』と同じ概念。今後、おみやげは基本に戻っていくのかもしれませんね」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180825-00010004-jisin-soci

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台湾少年野球の聖地紅葉村を訪ねて

2018-08-26 | 先住民族関連
nippon.com [2018.08.25] 酒井 充子【Profile】
快挙から50年の紅葉村
1968年8月、世界大会で優勝した日本の少年野球チームが台湾へやって来た。そのチームとの親善試合を7-0で制し、台湾の希望となると同時に、少年野球ブームに火を付けたチームがあった。ブヌン族の紅葉少年野球団。野球少年たちが帽子を放り投げて喜んでいる台湾の500元紙幣は、少年野球が台湾に根付いている証しで、それは彼らの活躍がきっかけとなったと言える。快挙から50年、台湾少年野球の聖地・紅葉村は、先住民族エリートチームの養成地となっていた。

1968年当時、紅葉少年野球団の選手たちが使っていた練習道具。棒きれで石を打っていた(五十嵐真帆氏撮影)
台湾南東部、四方を山に囲まれた台東県延平郷紅葉村は人口約500人。日本統治時代に高地から強制的に移住させられたブヌン族が暮らしてきた。現在、幼稚園児から小学6年生までの子どもはわずか52人。うち22人が野球少年だ。そのうちブヌン族は1人だけで、あとはアミ族、プユマ族、タイヤル族の子どもたち。彼らは親元を離れ、監督、コーチと共に寮で合宿生活を送りながら学校へ通い、練習に励んでいる。国の機関「原住民族(先住民族)委員会」の肝いりで2014年、寮が整備され、全国から先住民族の有望選手が集められている。
先住民族チームの意味とは
なぜ先住民族だけでチームを作るのか。台湾先住民族は現在、台湾の総人口2350万人のわずか2.3%、約55万人。17世紀に漢民族が台湾に流入して以降、長い間、社会の周縁に追いやられていた。16年8月1日「原住民族(先住民族)の日」に、蔡英文総統が先住民族各部族の代表を総統府に招き、過去400年にわたって先住民族が受けてきた苦難と不平等に対し謝罪したことは記憶に新しい。わたしたち日本人は、その400年に50年間の日本統治も含まれていることを忘れてはならないと思う。
1980年代後半以降になってやっと、台湾の民主化と共に先住民族固有の文化や言語を守り、人権や土地所有権の確立を目指そうという機運が高まった。紅葉少年野球団の勝利はそれよりはるか前の時代。ブヌン族の子どもたちの活躍は、台湾の野球少年だけでなく、先住民族社会に大きな勇気を与えるものだったに違いない。民主化が進んだ現在の台湾においても、先住民族の置かれた環境は依然として厳しいものが残っており、委員会はさまざまな取り組みの一環として、少年野球チームの強化を推進している。そこには、少年たちの活躍は先住民族社会の活力になるとの考えがある。
「ありがとう」が必要ない社会と抵抗の歴史
紅葉村から車で1時間ほどの距離にある、映画『台湾萬歳』の舞台である台東県成功鎮在住のアミ族のオヤウさん(当時69歳)夫妻を取材したときのこと。アミ語で「ありがとう」は何と言うのかを尋ねたところ、返事は「ない」だった。驚いた。文で感謝の意を表すことはできるが、「ありがとう」に相当する単語はないという。ただ、近年は中国語の影響で「謝謝」の意味で「アライ」という言葉を使うことがあるそうだ。「阿美族語辞典」(呉明義編著)で「alai」を引くと、「拿」と出てきた。日本語で「取る」という意味。相手の好意を受け取るというところから来たのだろうか。いずれにせよ、先住民族最大の人口(現在約21万人)を数えるアミ族は、「ありがとう」を言う必要がない社会を作っていた。互いに助け合い、あげたりもらったりすることが当たり前の社会。そういう社会を持つ人たちが、不本意ながらも異なる民族を受け入れ、異なる文化を許容してきたわけだが、先住民族の振る舞いこそが、今の台湾をかたちづくったのだと思う。
先住民族は17世紀以降、被支配者の立場であり続けたが、それは同時に抵抗の歴史でもあった。セデック族の「霧社事件」は大規模武力衝突事件だったこともあり日本で最も知られているが、映画『セデック・バレ』(2013年日本公開)で初めて知ったという人も多いかもしれない。アミ族に限ると、花蓮県の村を舞台にした映画『太陽の子』(15年)で、住民が清の時代の虐殺事件に言及するシーンがあり、ドキリとさせられた。日本統治時代に入ると、1908年に起こったチカソワン事件が知られているが、その3年後の11年、成功鎮(当時台東庁成廣澳)でもマラウラウ事件が起こっていた。当時の東京朝日新聞には「台東平地蕃反抗事件」とある。地元の郷土史家、王河盛さんによると、過重な労役に対する不満が暴発し、日本人警察官2人と教師1人を殺害後、約300人が成廣澳支庁を襲う構えをみせたという。日本側は部隊を送り込んでこれを制圧した。事件から9年後、大正期に新港と改称された成功鎮には新港神社があった。かつてのままの石段を上った神社跡地に建てられた「阿美族英勇事件紀念碑(記念碑)」の前に立つと、複雑な思いに駆られる。
言葉と名前に宿る誇り
アミ族のオヤウさんは撮影中、台湾人のプロデューサーとは台湾語、私たちとは日本語で話してくれた。自身は戦後生まれだが、父親から日本語を習ったそうだ。そのオヤウさんが地元での上映会の時、「地元だからいいでしょ」と言ってアミ語であいさつを始めた。マイクを握るオヤウさんのりりしい横顔に心が震えた。成功鎮は人口約1万5000人で、アミ族と漢民族系の人たちがほぼ半数ずつ暮らす町だ。オヤウさんのスピーチを理解できたのは会場の半分だったかもしれない。それでも、あえてアミ語で話すことを選んだオヤウさんの気持ちを思った。先住民族が自分たちの言葉を失いかけている。学校の授業で習わなければならないほどに。そんな事態に対するじくじたる思いもあっただろう。彼らから言葉を奪ってきた歴史に日本も加担していることを考えると申し訳なく思う。
オヤウさんは中国語名も持っているが、最初に名乗ったのは部族名だった。漁師の仕事仲間も近所の人もみんな「オヤウ」と呼び、彼が中国語名で呼ばれるのを聞いたことは一度もなかった。映画の紹介テロップも民族名を優先させた。初めて監督した『台湾人生』に出演してくれたパイワン族の故タリグ・プジャズヤンさん(1928年生まれ)の言葉が忘れられない。「原住民族(先住民族)がこの台湾を守ってきた。原住民族がいなければ、今の台湾はない」。そして「名前が日本人になっても、中国人になっても、自分は原住民族であることを忘れてはならない」と。タリグさんは日本統治時代に生まれ、松田正一という名を持ち、戦後は「華愛」という中国語名で国会議員を務め、先住民族の権利回復を目指し力を尽くした。
紅葉少年野球団50年目の挑戦
紅葉少年野球団は昨年、全国大会で準優勝したが、主力選手はみな卒業してしまった。エースで主将を務める新5年生のファッサオ(中国語名:鄭景澤)君を中心に新しいチーム作りが進んでいる。彼は、父がアミ族で母はプユマ族だ。「野球が好きだから、3年生のときに転校してきた。始めは大変だったけど、キャプテンになってとてもうれしい。夢は大リーガー」と話す。今年の夏も「紅葉杯野球大会」が台東県で開かれる。国の内外の小学生から高校生まで66チームが参加する。全国制覇を目指すファッサオ君たち新チームの初舞台だ。68年にセンターで活躍したハイソル(邱春光)さんや、彼の息子で、子どもたちが学ぶ紅葉国民小学校のイマン(邱聖光)先生をはじめ、全員顔見知りの村人たちが彼らの成長を楽しみに見守っている。先住民族代表という意識うんぬんは別として、ひたすら練習に打ち込む子どもたちのこれからの人生が実りあるものであることを願ってやまない。紅葉村が再び脚光を浴びる日は来るのか。野球少年たちの50年目の挑戦が始まっている。
バナー写真=紅葉少年棒紀念(記念)館(田中紀子氏撮影)
酒井 充子  SAKAI Atsuko
[ 署名記事数: 3 最終更新日: 2018.08.25 ]
映画監督。山口県周南市生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。メーカー勤務、新聞記者を経て2009年、台湾の日本語世代に取材した初監督作品『台湾人生』公開。ほかに『空を拓く-建築家・郭茂林という男』(13)、『台湾アイデンティティー』(13)、『ふたつの祖国、ひとつの愛-イ・ジュンソプの妻-』(14)、『台湾萬歳』(17)、著書に「台湾人生」(光文社)がある。「いつ日本に帰化したんですか?」とよく聞かれる。故郷と台湾の懸け橋となるべく奮闘中。
https://www.nippon.com/ja/column/g00568/

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ロヒンギャ流出1年 遅い迫害対策 帰還遠く

2018-08-26 | 先住民族関連
東京新聞 2018年8月25日 朝刊

 【バンコク=北川成史】ミャンマーで治安部隊などに迫害されたイスラム教徒少数民族ロヒンギャの大量流出が始まってから二十五日で一年になる。隣国バングラデシュに逃れた約七十万人の帰還は事実上ゼロ。迫害に対するミャンマー政府の調査は歩みが遅く、難民が安心して帰還できる状況にはほど遠い。
 「所要期間を定めるのは難しい。どれだけ早く完了させたいかをバングラデシュも決めなくては」。ミャンマーのアウン・サン・スー・チー国家顧問兼外相は二十一日、シンガポールでの講演で帰還遅れの責任回避とも取れる発言をした。
 ミャンマーとバングラデシュは難民帰還を一月に開始すると合意。ミャンマーは四月、国境沿いの緩衝地帯から戻った一家族を初帰還として発表したが、両国が合意した手順での帰還作業は動いていない。最大の問題はミャンマーの国内事情にある。
 「推計二万四千世帯で人が殺され、十一万五千戸が焼かれた」。オーストラリアなど五カ国の研究者が十五日、昨年八月以降にバングラデシュに逃れたロヒンギャらへの聞き取りに基づく報告書を公表。帰還の前提として九割以上の回答者が市民権付与や加害者訴追、生活再建などを挙げた。
 難民大量発生の直前、故コフィ・アナン元国連事務総長らによるミャンマー政府の諮問委員会がロヒンギャへの市民権付与を妨げる国籍法見直しを提言したが、実践されていない。国際世論に押され、同政府は七月末、人権侵害調査の独立委員会を外国人も含めて設けたが、調査方法が明確でなく実効性が疑問視されている。帰還協力するため六月にミャンマーと覚書署名した国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)と国連開発計画(UNDP)もいら立ちを募らせる。
 両機関は八日、「(ロヒンギャが住む)ラカイン州の状況を具体的に改善するようミャンマー当局に促す」声明を発表。市民権問題を含めた争いの原因への対処を求めている。
<ロヒンギャ> ミャンマー西部ラカイン州を中心に暮らすイスラム教徒少数民族。人口約100万人。ミャンマー政府は先住民族と認めず、多くがバングラデシュからの不法移民として扱われ、市民権を持たない。難民流出は度々起きてきたが、昨年8月25日にロヒンギャが多数派の同州マウンドー周辺の武装勢力が警察施設などを襲撃。治安部隊が反撃に出て掃討したのを機に激しい迫害を受け、過去最大規模の難民が発生した。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/list/201808/CK2018082502000158.html

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マオリ族の青年がルーツ探しで台湾訪問 アミ族などと交流深める

2018-08-26 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾 2018/08/25 16:50
交流を深めるアミ族とマオリ族の若者ら=原住民族委員会提供
(花蓮 25日 中央社)ニュージーランドの先住民、マオリ族の青年らが22日から、自らのルーツを求めて台湾を訪れている。10日間の滞在で、最初に訪問した東部・花蓮県の台湾原住民(先住民)アミ族の集落では24~25日にかけて豊年祭に参加するなどして地元の文化を体験。それ以降も引き続き同県や東部・台東県の集落を巡って狩猟や機織りなどの技を学ぶほか、南部・屏東県にも足を伸ばして現地のパイワン族の言語や文化にも触れ、相互理解を深める。
訪問団はニュージーランド北島に住むナティ・マヌ(Ngati Manu)部族の青年10人を含む計18人。同部族は台湾をルーツと見なしており、祖先がたどったであろうルートや経緯について若い世代にも理解を深めてもらおうと台湾訪問が計画されたという。
一行に同行した原住民族委員会のイチャン・パルー主任委員によると、ニュージーランドは台湾発祥とされるオーストロネシア(南島)語族が移り住んだ最南端の地で、言語、文化において台湾の先住民との類似点が多く認められる。このため同計画を歓迎し、昨年から日程調整が進められていた。
今年はアミ族の豊年祭の時期に合わせ、マオリ族が訪台。来年は台湾の先住民の若者10人が「ワイタンギデー」(2月6日、1840年に英国とマオリ族が「ワイタンギ条約」を締結した記念日)に合わせてニュージーランドを訪問する予定。 (盧太城/編集:塚越西穂)
http://japan.cna.com.tw/news/asoc/201808250004.aspx

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開発予算6600億円超 概算要求 アイヌ民族施策に重点

2018-08-25 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/25 05:00
 国土交通省は24日、2019年度の北海道開発予算の概算要求額を、6600億円超とする方向で最終調整に入った。10年度以降の10年間では2番目に多く、18年度の当初予算(5550億円)を20%近く上回る見込み。アイヌ民族に関する施策や豪雨などの災害対策、観光振興などに重点配分する考えだ。
 道開発予算の概算要求額は5年連続で6千億円を超える見通し。昨年度の要求額は6473億円だった。国交省は31日に概算要求を財務省に提出する。
 同省北海道局は、閣議了解した概算要求基準に沿って公共事業など裁量的経費を18年度当初予算から10%削減する。一方、防災対策の強化や生産性向上を目指す事業に充てる4兆円の特別枠を使い、前年を上回る予算の確保を目指す。
 アイヌ民族関連では、胆振管内白老町で20年4月に開業するアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間」の整備が最終段階に入り、18年度当初の約21億円に対し、要求額を大きく積み増す。開業に向けたPR費やアイヌ文化の普及関連費も盛り込む。訪日観光客が急増する新千歳空港の機能強化では、本年度、冬季の安定運航対策として測量調査に着手した航空機誘導路の増設事業などを継続する。
 また、7月上旬に上川、空知管内で河川氾濫による浸水被害が発生するなど、豪雨被害が道内で近年頻発していることを踏まえ、ダムの機能強化や河川改修などの治水対策を推進する。
 道開発予算は1997年度の1兆59億円をピークに減少傾向が続き、12年度に4305億円まで落ち込んだ。13年度以降は6年連続で前年度を上回る水準を確保している。(木村啓太)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/221624

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笑って歌ってアイヌ文化身近に 札大で25日イベント

2018-08-25 | アイヌ民族関連
北海道新聞 08/25 05:00
 アイヌ文化を身近に感じてもらおうと25日に札幌大(札幌市豊平区西岡3の7)で初めて開かれる「お笑い&カラオケ大会」の出場者が決まった。カラオケ部門では、アイヌ民族の女性歌手や研究者らが日本のポップスをアイヌ語で披露する。主催の札幌大学ウレシパクラブは「たくさんの人にアイヌ文化の魅力を伝えたい」と来場を呼びかける。
 大会名は「ミナアンロー」で、アイヌ語で「笑いましょう」を意味する。アイヌ文化を紹介する漫才やコントの腕を競う第1部は、アイヌ民族のお笑いコンビ「ペナンペパナンペ」や「アイヌソフト竹内」など4組が出場予定。第2部のカラオケ部門は、歌手の川上容子さんや人気漫画「ゴールデンカムイ」でアイヌ語を監修した千葉大の中川裕教授ら13人が登場する。午後2時からで観覧無料。問い合わせは、同クラブ(電)011・852・9335へ。(斉藤千絵)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/221583

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