人間、60歳半ばを越しますと時々「自分の寿命」を意識する事が有ります。子育てが終えて居ない55歳位までは親の責任を果たさずにして「死ぬ事について」考える事は余り有りませんでしたし、死ねないと思って居ました。仮に若死にする運命だとしても子育て、子供が結婚する60歳位までは生かして欲しいと思って居ました。その私も66歳に成り此処近年に私が知り合った諸先輩の訃報を耳にする度に死について考える事が多く成って来ました。そして今、此の瞬間、瞬間にも確実に自分の寿命は一秒、一秒と短く成って居ます。しかしながら自分で勝手に死に至る原因や其の時期を選ぶ事は出来ない事から其の部分は運命としか言い様が無い様に思えます。
先日、病気療養中の実兄が突然に容態が急変し天国へと旅立ちました。80歳や90歳までは生きられない事は医者からの話で家族や本人も解っては居ましたが昨年の暮れまで自分で起業した(環境計測や非破壊検査)会社で主たる作業現場である水力発電用の送水管や発電所の建屋内の測定現場では陣頭指揮しながら活躍して居ました。兄は貧乏な農家の三男二女の五人兄弟の長男に生まれ厳しい父親に長男としての役目と躾をされました。偶々父親が土木関係の仕事をしていたので当時では県内では一番の工業高校の土木科に進み卒業時点で大阪府の公務員の道への切符も手にしながら長男の役目を全うする為に断念し県内のトップ・クラスの建設会社に血縁無しで入社し一兵卒から専務取締役まで進んで関連会社の社長を兼務した後に退職して小さいながらも「此れからの時代は今までの様にどんどん新しい物を作る時代で無く、環境管理や既存の建物を維持管理する時代の到来」を予見し其の需要から環境計測と非破壊検査の株式会社「日友テクニカル・サービス」を設立しました。
お互い現役中は仕事が忙しく実家に行っても顔を合わす事も無くご無沙汰気味で有ったが退職して会社を設立して安定した頃に調度私も現役を退き「家で ぶらぶら遊んで居るなら暇潰しにアルバイトに来い」と兄から声を掛けられて手間の必要な現場の時は兄の下で働く機会が多く成りました。仕事内容は私の長年勤務した職種とは違って天候に左右される外の仕事でヘルメットを被り命綱に身を託す仕事は厳しさも有ったが新鮮味が有り、高知県や愛媛県の水力発電所での仕事では泊り込みで身内同然の人と協力し合って仕上げる仕事は大変楽しかったし良い思い出として残っています。そして此処で得た収入が私の6年間に及ぶ全国行脚の軍資金に成り もし此の時の声掛が無ければ「私の長年の夢」も単なる夢物語に終わったに違い有りません。
兄は父親に「若い時には損得を考えず、とにかく沢山の友達を作れ、其の事が御前の人生を大きく左右する 友達こそが一番大切な宝物」と教えられたそうで学生時代の「やんちゃ」をしていた頃から兎に角 其の交友関係は多岐に渡り其の後も田舎の企業勤務の割には其の人脈は広く全国規模で其の交友関係の広さには今回の葬儀で私たち親族は驚かされました。其れと兄は何事にも好奇心が旺盛で多趣味、アマチュア無線、猟銃、射撃用のライフル銃、写真、ビデオカメラ、俳句、ピアノ、作詞作曲、釣り、ジェット・スキー、スキューバー・ダイビング、阿波踊りの鳴り物、アマチュア・バンド(ベース・ギター)、仕事柄の接待ゴルフ、各種資格取得、各種測定器や道具集め等々限が無い状態、其の中でも特に熱心で有ったのは船と写真関係とアマチュア無線で特に私がアマチュア無線に興味を持ち始める大きな切っ掛けを作ってくれた人でも有りました。兎に角、若い頃より武勇伝には事欠かぬスケールのでかい人で機会が有れば紹介したいと思って居ます。
私達5人兄弟も長男の兄と長女の姉が旅立ち残りは3人と成ってしまいました。我が家を新宅した初代は「質素倹約」を旨として其れ成りの蓄財を残しましたが世間に良く有る話の如く2代目が放蕩生活を続け家が傾き始め、家の浮沈に関わる3代目の私の父親は苦労に苦労を重ね「家の復興は農業に頼る事では無く子供の教育しか無い。」と考え家を建て直す基盤を作り4代目の兄に其の望みを託しました。兄は74年の生涯で逝き少し早い感じもするが人生は生き抜いた長さでは無く如何に過ごしたかで決まるべきで私から見ると兄は「立志伝中の人」で普通の人の倍以上の苦労を経験したものの其の生き様や達成感はそれ以上に実感した一生で有ったと思って居ますし葬儀の参列者を見て其れを強く実感しました。私は兄の弟に生まれた事に感謝して居るし我家は本当に兄に沢山御世話に成りました。「本当に沢山の思い出を有難う。」と感謝して居ます。