黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

 兄との思い出 (アマチュア無線との関わり)

2015年01月22日 | アマチュア無線


 無線運用は1月18日の07:29JSTに7MHzのCWで交信したEP6T以来、全く交信が出来ていない。兄の葬儀が19日(月曜日)に終わってから無線機のスイッチは数回入れたが数分間程、聞いただけで直にスイッチはOFFする状態・・・・・



 今朝も朝の7時頃から久振りに1時間程度7MHz帯を聞いてみたが、虚脱感だろうか?スピーカーからは賑やかな声が聞こえて来るのだが何時もの様に受信に集中する事が出来ずに ただ虚しく感じるだけ・・・・電源を落とした後は保々コタツの中で午前中を過ごす事に成った。



 コタツの中で横に成りながら兄との思い出に耽っていたが想い出される事は矢張り兄と共に歩んで来たアマチュア無線に関する事ばかり・・・・・アマチュア無線と言うか?ラジオに興味を持ったのは遥かに兄の方が早かったがアマチュア局の開局は私の方が1年位早かった。兄は社会人に成ったら(私は小学生)直に当時としては珍しかった飯盒の様な形をしたトランジスターを使ってラジオを作ったりして遊んで居たので家の中には其の系統の雑誌が結構沢山有ったし色んな部品は彼方此方に転がっていた。

 

 当時、私は小学校の3~4年生位だったと思うが当時は未だ各家庭にテレビは無く、しかも真空管が全盛の時代で半導体でラジオを組む事は可也、先進的であった様に思う。当然、小学生では雑誌を見ても其れ等を理解する事は出来なかったが雑誌の広告ページの製品や山水のトランスやコーラルのスピカーやトリオのIFT等の部品写真や製作記事の実体配線図を見ながら解らないのだが何故か?胸躍らせて居た事は今でもハッキリと覚えている。そしてアマチュア無線の存在をハッキリ知ったのは其れより可也後の中学3年生の後半であったが小学校の高学年にはレコード・プレイヤーや放送用機器を自由に取扱える事が楽しみで放送部に自ら志願して入り特権を行使していた。私が中学生の後半頃に兄が5球スーパーを利用してアマチュア無線の交信を聞き始め傍で其れを聞いていた私は初めてアマチュア無線の存在を知り「此れだ!!」と直感する程に強烈なインパクトを受けた。



 私がアマチュア無線を始める切っ掛けは此の中学生の頃と思い込んで居たが、よく思い返して見ると実際は放送部に興味を持った小学校の段階で不思議な無線との繋がりは始まって居た様に思う。放送部でマイクに向かい喋る事は一方通行では有る物の感覚的にはアマチュア無線のオペレートをしている状態と保々同じで感覚で全く違和感は無い。小学校~中学校と続いた放送部での経験は其の後の無線のオペレートには随分役立ったし少なくとも喋りが苦に成る事は全く無かった。



 私の中学3年生頃の最初の進路は工業高校の化学科を目指していたが3年生の後半頃にアマチュア無線の存在を知ってからは興味は電気の方に大きく方向転換し新設された地元の工業高校の電気科に進む事に成った。当時のアマチュア無線局の開局は今の様に簡単では無く学生の身分では技術面よりも特に経済的な問題の方がハードルが高かった。私の実家も裕福では無かったので個人局の開局は諦めて居たが兄が前記の様にラジオの組み立て等に興味が有った事から開局に対する資金面での全面協力を得られ晴れて高校在学中に個人局JA5CBBを開局する事が出来た。



 以来1~2年間のブランクは有った物の元々好きで始めたアマチュア無線は今年で48年目を迎えている。初めて5球スーパーでアマチュア無線を聞いてからは実に半世紀の時が流れた。此の歳に成るまで色んな遊びを楽しんで来たが此れほど継続している遊びは無線だけ、しかし兄の存在が無ければ多分アマチュア無線との出会いが無かったと思うし?仮に有ったとしても個人のアマチュア無線局の開局は不可能であった様に思える。其の意味で兄の存在は大きかったし感謝している。



 



 

コメント
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