井戸寺の歴史・由来
7世紀後半の白鳳時代は、清楚な日本文化が創造された時代で、律令制が漸く芽生えて、阿波の国にも国司がおかれた。此の国司に隣接して、天武天皇(在位673~86)が勅願道場として建立したのが井戸寺であり、当時の寺名は「妙照寺」であった。寺域は広く八町四方、此処に七堂伽藍の他に末寺十二坊を誇る壮大な寺院があり隆盛を極めたと伝えられて居る。本尊は、薬師瑠璃光如来を主尊とする七仏の薬師如来坐像で、聖徳大使の作と伝えられ、また脇仏の日光・月光菩薩は行基菩薩の彫造と伝えられる。後の弘仁6年(815年)に弘法大師が此れ等の尊像を拝む為に訪れた時に檜に像高1.9メートルの十一面観音像を彫って安置されて居る。此の像は右手に錫杖、左手に蓮華を挿した水瓶を持った姿形で、現在、国の重要文化財に指定されて居る。大師はまた、此の村が水不足や濁り水に悩んでいるのを哀れみ、自らの錫杖で井戸を掘ったところ、一夜にして清水が湧き出した。其処で付近を「井戸村」と名付け、寺名も「井戸寺」に改めたという。
ただ南北朝時代以降の寺史は激変し、先ず貞治元年(1362年)、細川頼之の兵乱で堂宇を焼失し、次いで天正10年(1852年)には三次存保と長宗我部元親との戦いでも罹災して居る。本堂が再建されたのは江戸時代の万治4年(1661年)であった。七仏薬師如来は全国的にも珍しく、七難即滅、七福即生などの開運に信仰が多い。
此の寺は付近に人家が在りながらも広大な境内に仁王門、本堂、大師堂、鐘楼堂と何れをとっても堂々とした立派な建物で此の日に訪れた札所の中では随一であった。
此処まで第1番札所から第16番札所まで巡礼した寺の中で可也の数の寺が戦国時代に四国を統一しようとした土佐の長宗我部氏に寄って戦火に巻き込まれて寺院を含む大変貴重な文化遺産が多数焼失して仕舞って居る。戦は致し方が無いにしても寺を焼き討ちにする必要が在ったのか?私感だが仏罰が当たったのか?良い最後は迎えられなかった様である。