黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国霊場八十八箇所 第20番札所「鶴林寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

        


    鶴林寺の歴史・由来


 第20番札所「鶴林寺」は徳島県勝浦町の標高550メートルの鷲が尾の山頂にあり、遠く紀州や淡路の山峰、遥かに太平洋を眺望出来る風光明媚な霊山が境内である。此の付近には樹齢千年を越すような老杉、檜や松の巨木が参道を覆っており、寺門は静かな参道に建ち其の姿は隆盛の面影をしのばせる。寺伝に寄ると延暦17年、桓武天皇(在位781?~806)の勅願に寄り、弘法大師に寄って開創された。大師が此の山で修行して居た時、雌雄二羽の白鳥が、かわるがわる翼を広げて老杉のこずえに舞い降り、小さな黄金のお地蔵さんを守護して居た。此の情景を見て歓喜した大師は、近くにあった霊木で高さ90センチ程の地蔵菩薩像を彫造し、其の胎内に5.5センチくらいの黄金の地蔵さんを納めて本尊とし、寺名を「鶴林寺」にしたという。


 また此の寺の境内の山容がインドで釈迦が説法をしたと伝えられる霊鷲山に似ている事から、山号は「霊鷲山」と定められた。以来、次の平城天皇、嵯峨天皇、淳和天皇と歴代天皇の帰依が篤く、また源頼朝、や義経、三次長治、蜂須賀家政など武将にも深く信仰されて、七堂伽藍の修築や寺領の寄進を受けるなど寺運は大きく栄えた。阿波一体の寺が兵火に遭遇した「天正の兵火」にも山頂の難所に寺があった為か此の難を免れている。




                


 此の「鶴林寺」は我家から可也近く山の麓までは車で8分程の距離に在り年に1~2回は必ず訪れるが険しい山道を登り駐車場で車を降りると200メートルの歩きが有るが途中の山門をくぐると境内は綺麗に掃き清められ然も辺りの凛とした空気に触れると自然に心が清められる感じに成り私の好きな場所である。此の「鶴林寺」と次の札所の「太龍寺」は何時も身近に感じながらもお遍路として納経に改めて訪れたのは初めての事であった。     
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四国八十八箇所霊場 第19番札所「立江寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

        


  立江寺の歴史・由来


 立江寺は高野山真言宗の別格本山「四国の総関所」として四国八十八箇所の根本道場といわれ、また「阿波の関所」としても知られている。縁起に寄ると聖武天皇(在位724~49)の勅願で行基菩薩に寄って創建された。勅命に寄り行基菩薩が光明皇后の安産を祈るため、念持仏として5.5
センチ程の小さな黄金の「子安の地蔵さん」を彫造した。此れを「延命地蔵菩薩」と名付けて本尊にし、堂塔を建立したと伝えられて居る。弘仁6年(815)弘法大師が此の寺を訪れ此のご本尊を拝した時、大師は余りにも小さなご本尊なので、後世に成って失われる恐れが有ると、自ら一刀三礼をして新たに1.9メートルある大きな延命地蔵像を彫造され、其の胎内に行基菩薩が彫ったご本尊を納められた。此の時に寺名を「立江寺」と号した。当時の寺は現在地より西へ400メートル程の山寄りの景勝地にあって七堂伽藍を備えた巨刹で在ったと言われて居る。


 此の立江寺も「天正の兵火」を逃れられず、壊滅的な打撃を受けた。だが本尊だけは奇しくも難を免れている。阿波藩初代藩主・蜂須賀家政公の篤い帰依を受け現在の地に移って再建された。また昭和49年の祝融の災いにもご本尊は救い出されている。昭和52年に再建された本堂の格天井画(286枚)は、東京芸術大学の教授に寄り花鳥風月などが描かれて居り、観音堂の絵天井とともに昭和の日本画を代表する文化財と高く評価されて居る。寺伝の「釈迦三尊図」は国の重要文化財指定品で邪悪な心を裁く関所寺の半面、「子安の地蔵」「立江の地蔵さん」と親しまれ今日に至って居る格式高い寺と成って居る。


 此の立江寺のある立江町は近在では珍しい門前町で毎年2月の後半(今年は23~25日)に開かれる初会式・大植木市は近在の行事としては最大の物で私の実家からは4Kmも離れて居たが小さい子供が此の距離を厭わず100円札を握り締め行きは「何を買おうか?」の楽しみで意気揚々なのだが目的を達した後の帰り道は疲れて長かった事など、懐かしい思い出が沢山残って居る。当時(昭和30年頃か?)は余り楽しみの無い時代であったが人家が無い山際の田んぼ道を通り立江寺に入る数百メートル手前から今は余り見ることの無い「芋飴」「板飴」の露店が沢山並び、他に玩具の露店や、覗き窓や、大きい球状の網の中でオートバイの曲芸が行われたりして大変賑わって居た。此の歳に成っても其の時以上の露店の賑わいを見る事は無く、子供にも大人にも此の「立江のお地蔵さん」は当時では一大イベントであった。



        


 其の後の火災で立江寺の境内の様子は私が子供の頃の立江寺の印象とは少し違うが幼児の頃に婆さんに手を引かれて写真の山門を潜った時に「賢い子にしていなかったら仁王さんに怒って貰うよ!」と言われ顔を覗き込んで其の怖さにビビッテ仕舞った事や少し改修されたのか?綺麗に成った多宝堂だけは昔と同じ場所に在り小さい頃に見た印象と一致して居た。然し当然と言えば当然だが此の頃の懐かしい思い出は立江寺に行く事では無く、非常に賑やかだった露店での楽しい買い物の思い出である。



        
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四国八十八箇所霊場 第18番札所「恩山寺」

2019年02月28日 | 四国88箇所霊場

          


   恩山寺の歴史・由来


 恩山寺は小松島市郊外の小高い山の樹林が心地良い、県指定の風致地区にある。縁起を辿ると、創建は聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り、行基菩薩が草創して、当時は「大日山福生院密厳寺」と号した。本尊は行基菩薩が薬師如来像を彫造して安置し、災厄悪疫を救う女人禁制の道場であった。当時、十九番霊場に向かって下る「花折り坂」と云う坂から上には、女性が入る事は許されて居なかった。延暦年間になって、弘法大師が此の寺で修行して居た頃、大師の生母・玉依御前が讃岐の善通寺から尋ねて来た。だが寺は女人禁制、大師は山門近くの瀧にうたれて17日間の秘法を修し、女人解禁の祈願を成就して母君を迎える事が出来た。やがて母君は剃髪をして、其の髪を奉納されたので、大師は山号寺名を「母養山恩山寺」と改め自像を彫造して安置され「我が願いは末世薄福の衆生の難厄を除かん」と誓われた。弘仁5年(814)頃の事と伝えられて居る。


 寺は「天正の兵火」で焼失して居るが、江戸時代に成って阿波藩主の庇護を受けて繁栄し、現在の本堂や大師堂は文化・文政年間(1804~30)頃に建立された由緒ある建造物で、境内には玉依御前を祀る小堂があり、母君に孝養をつくして、大師が植樹した「びらんじゅ」は県の天然記念物に成って居る。


 第13番札所の「大日寺」から第17番札所の「井戸寺」までは徳島市の街中に寺院が建っていたが此の恩山寺は小松島市内の静寂な山間に在って落ちついた雰囲気の中に私達は佇む事が出来た。
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