『郷愁の詩人 与謝蕪村』を読んで、私の中の、なにかが疼きました。
朔太郎は、俳人・蕪村の中にみずみずしいロマン性を見いだし、彼に惹かれていった詩人です。
この本は、いわば、蕪村の俳句解釈の本といっても過言ではありません。
しかし注目すべきは、附録として書かれている「芭蕉私見」です。
朔太郎の、蕪村を論じる文学性の高さには唸らずにはいられません。
そしてその分析・解釈をし終えて、朔太郎は、老年になった自らを振り返り、芭蕉に惹かれはじめていった自らの感性を説いていきます。
それを読みながら、蕪村と芭蕉の違いに目を見開かれる思いがしたのです。
蕪村は対象に対して「即物的客観描写の手法をとり、主題の想念やリリックさを、直接句の表面に詠嘆することをしなかった」と書かれています。
それに対し、芭蕉は「リリシズムを持った詠嘆の詩人で、彼の句は常に主観の想念する詠嘆の叙情が先に立っている」と書かれています。これが芭蕉の句が一般的に観念的と言われる理由だとも。
客観的視点の俳句である蕪村と、主観的視点である芭蕉の句。
この朔太郎の指摘は、私にとても大きな刺激を与えてくれました。
どちらかというと、私はもしかしたら「芭蕉派」かもしれません。
「いつか、主観で想念の叙情を詠んでみたい」などと、ひそかにそんな企みをいだいているのですから。
そんな私にとって、「芭蕉私見」はたくさんのヒントのつまった本でした。
こんなおこがましいことを書くと、「拙い句しか作れないのに,明らかに眼高手低」と、句友たちに笑われそうです。
逆に言うと、俳句を知らないからこそ、無知がそうした大言壮語をしゃらっと吐かせてしまえるのです。
無知とはおそろしいもの。
今夜は句会です。
今月の兼題は「踊り」
拙い句を携え、久しぶりに句会にお邪魔します。