20階の窓辺から

児童文学作家 加藤純子のblog
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お櫃&お弁当箱

2018年10月26日 | Weblog

          

 おひつなんて、すごく懐かしいです。

 秩父の母はご飯が炊けると、必ずそれをおひつに移し、布巾を上からかけ、その上から蓋をしていました。

 

 私は発芽玄米入りのご飯を、いつも2合炊きます。

 それをずっと保温にしておくので、3日目には、ご飯がバリバリ。

 ご飯だって、お夕食に、軽くお茶碗に半分しか食べません。

 だから一回炊くと、3日か4日かは持ちます。

 

 こうしておひつに入れて置いて、食べる分だけ、チンするとか。  

 そういう工夫をしないと、ご飯を美味しくは食べられないのかもしれません。

 

 それにしても、昔の人は、そうした知恵とともに、ご飯をたくさん食べたんだなと思います。

 母が何合のご飯を炊いていたかは知りませんが、おひつに残ったちょっと冷たくなったご飯は、甘みのついたお味噌をつけたおにぎりにして、おやつに食べさせられた記憶があります。

 

 そうそう、子どもの頃、我が家にはおやつに「味噌ポテト」というのが、ときどき出てきました。

 これが、秩父を代表するB級グルメだということを、私は大人になって、初めて知りました。

 茹でたポテトを四分の一に切って、それに衣をつけてさっとあげて串にさします。

 そこに、甘めのお味噌を少し垂らして、おやつに食べます。

 うちだけの、母考案のおやつかと思ったら、実は、秩父の人たちはみんな食べていたようです。

 世間知らずは、この頃からでした。

 

 母も結構、世間知らずの人だったので、どこで教わったのでしょう。

 母の母、私にとって母方の祖母は、母を生むとすぐに亡くなってしまったそうです。

 ですから母は、よくこう言っていました。

「私は、お母さんというのが、どういうことをしてあげるのか、わからない。手探りで生きている」と。

 母親が亡くなって、乳母日傘で育った母は、元は近江商人で、江戸の時代から世代が変わるたびに襲名していた、外池半兵衛の末娘でした。

 でも、母親がいなかった喪失感は、大人になってもずっと残っていたようです。

 子どもだった私は、母のその言葉を聞くたびに、胸のどこかが痛みました。

 

 ですから、母は、どこかで教わったおにぎりの甘味噌も、そうして常備食として、作っていたのかもしれません。

 お手伝いなど、なにもしなかったので、昔のことは、すべてうろ覚えです。

 ただ、母が言っていた

「お母さんというのが、どういうことをしてくれる人なのか、知らないから、手探りだった」

 と、いう言葉だけは、少しばかりの痛みを伴いながら、いまでも時々、脳裏を過ぎります。

 

 私は、ずっと、そんな大人たちの姿を見ながら、感受性だけで生きてきたような気がします。

コメント
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