東洋医学的診断の実習した。東洋医学としての病とは何かをしっかりと持つことの必要性痛感する。
昨日の鍼灸実技の授業で、東洋医学的診断を実際にやってみましょう。ということで、生徒が二人一組になって問診して証を決める。ということ行った。
板書で、診断・治療の流れ「望診・聞診→問診→切診・脈診→証の決定→治療穴の決定→鍼灸の施術→評価→望診・聞診→・・・・・・」が書かれ、その中の「問診」の部分を行う。
また、問診の方法として「十問歌」(一に寒熱を問い、二に汗を問う、三に頭身を問い、四に便を問う、五に飲食を問い、六に胸を問う、七に聾を問う、八に渇を問う、九に脈色を問う、十に気味を問う)を使って、とのことであった。
初めてのことであったので、メチャクチャであっても(ソクラテス的であっても)ともかく突っ込むのみ!との思いで取り組んだが、ともかく、組んだ相手に対し「脾腎両(陰)虚証」という証の決定が出来、その証に従っての治療穴の決定も、どうにか出来そうな気がした。
この作業を行う中で実感出来たのが、西洋医学とは違った東洋医学の、患者の見方である。端的には、東洋医学の診断においては、患者の身体の状態を診ていく中で、その結果として「証」が決まっていくのであるが、この「証」は、西洋医学でいうところの「病名」では無く、患者の身体の状態を一言で表現したものである。
これは、西洋医学の病名の当てはめの診断に比べての東洋医学の長所である。と思える。(西洋医学においても、本来の診断はそんなものでは無い筈であるが、鍼灸学校での西洋医学的診断としては、である。)
そして、そのそれぞれの医学の診断のありかたを決めているのは、それぞれの医学の病の捉えかたであると思える。具体的には、東洋医学での病とは、人間の心と身体の変調や異常、またそれが甚だしくなっていったものであって、人間の心と身体以外に病は無い。それに対して、西洋医学での病とは、病というものがあって、それが人間の心と身体を侵すのである。
それゆえ、東洋医学の診断では、身体の変調や異常のありかたに着目しての身体の状態の把握ということになっていくのであるし、それに対して、西洋医学の診断では、心と身体を侵すものを突き止めて、それをやっつける。となるのだと思う。
昨日の鍼灸実技の授業で、東洋医学的診断を実際にやってみましょう。ということで、生徒が二人一組になって問診して証を決める。ということ行った。
板書で、診断・治療の流れ「望診・聞診→問診→切診・脈診→証の決定→治療穴の決定→鍼灸の施術→評価→望診・聞診→・・・・・・」が書かれ、その中の「問診」の部分を行う。
また、問診の方法として「十問歌」(一に寒熱を問い、二に汗を問う、三に頭身を問い、四に便を問う、五に飲食を問い、六に胸を問う、七に聾を問う、八に渇を問う、九に脈色を問う、十に気味を問う)を使って、とのことであった。
初めてのことであったので、メチャクチャであっても(ソクラテス的であっても)ともかく突っ込むのみ!との思いで取り組んだが、ともかく、組んだ相手に対し「脾腎両(陰)虚証」という証の決定が出来、その証に従っての治療穴の決定も、どうにか出来そうな気がした。
この作業を行う中で実感出来たのが、西洋医学とは違った東洋医学の、患者の見方である。端的には、東洋医学の診断においては、患者の身体の状態を診ていく中で、その結果として「証」が決まっていくのであるが、この「証」は、西洋医学でいうところの「病名」では無く、患者の身体の状態を一言で表現したものである。
これは、西洋医学の病名の当てはめの診断に比べての東洋医学の長所である。と思える。(西洋医学においても、本来の診断はそんなものでは無い筈であるが、鍼灸学校での西洋医学的診断としては、である。)
そして、そのそれぞれの医学の診断のありかたを決めているのは、それぞれの医学の病の捉えかたであると思える。具体的には、東洋医学での病とは、人間の心と身体の変調や異常、またそれが甚だしくなっていったものであって、人間の心と身体以外に病は無い。それに対して、西洋医学での病とは、病というものがあって、それが人間の心と身体を侵すのである。
それゆえ、東洋医学の診断では、身体の変調や異常のありかたに着目しての身体の状態の把握ということになっていくのであるし、それに対して、西洋医学の診断では、心と身体を侵すものを突き止めて、それをやっつける。となるのだと思う。