肝臓の働きを学んだ。気、血、津液の相互転化のイメージが納得レベルで描けた。
「看護の生理学」による生理学の学び、「三、人間の肝臓のはたらき」の項で、肝臓のはたらきによる炭水化物、蛋白質、脂肪の、合成、分解から、利用、貯蔵、排泄のプロセスを学んだ。
炭水化物、蛋白質、脂肪はそれ自体として使われるだけではなく、炭水化物が脂肪に、脂肪、蛋白質が糖=炭水化物にという様に、人体の中で、肝臓のはたらきで相互転化していることが説かれている。詳細は「看護の生理学」(薄井坦子 瀬江千史著 現代社)を一読いただきたいが。
この炭水化物、蛋白質、脂肪の相互転化のプロセスを読んで、これまで釈然とし無かった、気、血、津液の相互転化のプロセスは、こういうイメージなのではと思えた。
気、血、津液は、別のものではあっても、独立にそれぞれの働きがあっても、ある時には他の代わりに働き、時には他のものへと転化して働くことで、生きるという身体の働きを一緒になって維持している。それぞれは相対的独立の関係にあるのだとイメージ出来た。
古代中国の人々は、どうやって体内の生理物質が、この様にダイナミックに相互転化していると考えられたのか。その先進性に驚かされる。
ただ、東洋医学にも歴史性があった筈であり、誕生の当初から現代の東洋医学であった筈は無いのではと思える。
学校では、東洋医学が歴史性あるものとは教えられず、それどころか現代の東洋医学の考え方の正当性の根拠?として、黄帝内経等の古典の引用が度々行われる。
もしかしたら、古代中国の古典を現代のレベルから読む。解釈するの愚を犯しているのかもしれないと思える。
これに関しては、中国語を日本語に翻訳する時にも問題があると思える。中国語には、助詞も無ければ動詞、形容詞等の活用も無く、言ってみれば漢字というブロック=単語を重ねていくだけの言語である。それゆえに、論理とか学問には向かないと思える。
それに対して日本語は、単語と単語を助詞でつないで行かねばならない上に、動詞、形容詞等には活用があって単語と単語のつながりが問題になる。言ってみれば、論理性が必要とされる。
それゆえに、中国語を日本語に翻訳する時に、本来無かった筈の論理性を、その時々の日本人が創作して付け加えて解釈してしまっているのかもしれないと思える。
それは、ある意味良い事なのではあるが、そうやって日本語化することで立派になった中国語の文章を、あたかも中国語の文章が本来持っていたかの如くに錯覚することにもつながって行きかねないし、もしかしたらつながって行っているのではと思える。
「看護の生理学」による生理学の学び、「三、人間の肝臓のはたらき」の項で、肝臓のはたらきによる炭水化物、蛋白質、脂肪の、合成、分解から、利用、貯蔵、排泄のプロセスを学んだ。
炭水化物、蛋白質、脂肪はそれ自体として使われるだけではなく、炭水化物が脂肪に、脂肪、蛋白質が糖=炭水化物にという様に、人体の中で、肝臓のはたらきで相互転化していることが説かれている。詳細は「看護の生理学」(薄井坦子 瀬江千史著 現代社)を一読いただきたいが。
この炭水化物、蛋白質、脂肪の相互転化のプロセスを読んで、これまで釈然とし無かった、気、血、津液の相互転化のプロセスは、こういうイメージなのではと思えた。
気、血、津液は、別のものではあっても、独立にそれぞれの働きがあっても、ある時には他の代わりに働き、時には他のものへと転化して働くことで、生きるという身体の働きを一緒になって維持している。それぞれは相対的独立の関係にあるのだとイメージ出来た。
古代中国の人々は、どうやって体内の生理物質が、この様にダイナミックに相互転化していると考えられたのか。その先進性に驚かされる。
ただ、東洋医学にも歴史性があった筈であり、誕生の当初から現代の東洋医学であった筈は無いのではと思える。
学校では、東洋医学が歴史性あるものとは教えられず、それどころか現代の東洋医学の考え方の正当性の根拠?として、黄帝内経等の古典の引用が度々行われる。
もしかしたら、古代中国の古典を現代のレベルから読む。解釈するの愚を犯しているのかもしれないと思える。
これに関しては、中国語を日本語に翻訳する時にも問題があると思える。中国語には、助詞も無ければ動詞、形容詞等の活用も無く、言ってみれば漢字というブロック=単語を重ねていくだけの言語である。それゆえに、論理とか学問には向かないと思える。
それに対して日本語は、単語と単語を助詞でつないで行かねばならない上に、動詞、形容詞等には活用があって単語と単語のつながりが問題になる。言ってみれば、論理性が必要とされる。
それゆえに、中国語を日本語に翻訳する時に、本来無かった筈の論理性を、その時々の日本人が創作して付け加えて解釈してしまっているのかもしれないと思える。
それは、ある意味良い事なのではあるが、そうやって日本語化することで立派になった中国語の文章を、あたかも中国語の文章が本来持っていたかの如くに錯覚することにもつながって行きかねないし、もしかしたらつながって行っているのではと思える。