若宮十五社巡拝を終えましたが、この日(6月27日)の「新発見」は、まだ終わりではありませんでした。
ご本殿の方へ帰ると、本殿北西側に桂昌殿があります。寄進者の徳川綱吉の母・桂昌院の名で呼ばれますが、天下国家の安泰を祈る祈祷殿です。
その前にあるこの建物は春日大社関係者の祖先の霊を祭る、いわば葬祭場です。同じような仏教系の建物が出雲大社にもあったことを思い出しました。
その左手に「天の原ふりさけ見れば春日なる…」の阿倍仲麻呂望郷の石碑が立っています。遣唐留学生として吉備真備とともに唐に渡る前に壮行の儀式が行われた場所でした。
北の若草山の方に広い道を行くと、私たちに欠かせない衣食住のうち「住い」を司る総宮神社。
平安時代の創建で明治維新までは興福寺境内にありました。
続いて、これも興福寺から移された一言主神社。ここへは何度かお参りしたことがあります。
今日も願いを一つ叶えて頂こうと、たくさんの絵馬が置かれていました。小さな鳥居は願いが叶った人がお礼に収めたものです。
燈籠の並ぶ道の両側に、たくさんの鹿たちが群れていました。今年生まれたばかりと思われる小鹿が母鹿にお乳をねだる微笑ましい光景を見ながら、
水谷(みずや)神社に来ました。水谷川に沿うこの摂社は平安から明治までの神仏習合時代は祇園精舎の守り神、医薬の神様でした。現在はスサノオノミコト他ニ神をお祭りしています。
このお社の床下に、先程ご本殿で拝観した磐座と同じ様な磐座が置かれています。ご本殿は撮影禁止でしたのでこちらでご想像ください。
赤い橋を渡り、広い交差点に出ました。真っ直ぐ行くと手向山八幡宮から二月堂への道ですが、右に折れて若草山と御蓋山の間になる道を歩きます。春日遊歩道の標識を見て、緩い登りながら汗ばんで来る頃、右手の沢に降りて「仏塔石」に出会いました。
増田さんのお話では仏塔石は室町中期のもので、六角柱のそれぞれに観音様と狛犬が刻まれています。手前にある平べったい石は「洞の地蔵」で、よく見ると地蔵さんが線刻されています。残念ながら谷間のことで薄暗く、いい写真が撮れませんでした。
さらに上へ歩くと御手洗川の源流に近くなります。緑に苔蒸した岩は「日月磐」で日輪と月が刻まれています。
対岸の少し上には苔むした石燈籠と、池の跡とも思われる窪地がありました。
今日のイベントのフィーナーレを飾る静かな春日奥山に夕暮れが迫ります。
急いで元の道を下り、山あいを抜けると下界はまだ明るく、そぞろ歩きの観光客が行き交っていました。
今日一日、春日神社やその周辺について、数多くの新しいことを教わりました。これからの春日神社参拝や周辺の散策が、より一層充実したものになることに違いありません。
準備の段階から、当日のご案内、解説まで心を砕いてお世話下さった熊木さん・増田さん・金田さんに深くお礼申し上げます。
ありがとうございました。