*「大和はくにのまほろば」…回りに海を持たないまさに「山都(やまと)」の山々。奈良の山「ならでは」の話題を綴っていきます。色んな資料を参考にしましたが、写真はすべて私の登った時のもので古いものも含んでいます。*
(56)額井岳(ぬかいたけ)<2>
「万葉歌人伝説の山」
南山麓を東海自然歩道が通っています。
「山辺三」は、『田子の浦ゆうちいでてみれば真白にぞ 富士の高根に…』の万葉歌で有名な山辺赤人の出身地と言われ、彼の墓と言われるものが残っています。
「額井」の名については、『大和志』宇陀郡の「村里」の項に記載されていますが、「山川」の項に「額井岳」には見当りません。一方、香酔峠を挟んだ西の香酔山(こうずいやま)(800m)については「香水山。赤瀬村の西北に在り、城上山辺の二郡に跨る。山巓に竜王祠有り。旱(ひでり)の年に雨を祷(いの)る」とあります。香酔峠の近くにはスズラン自生の南限地、吐山(はやま)があり、山と峠の名はこの花の芳香からきています。
額井山麓の十八(いそは)神社は神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれびこのみこと・神武天皇)を祭神とし、今は廃寺となった極楽寺の鎮護社を地元の産土神として祀った神社で、春日作りの神殿が建つ境内からは室生の山並みが一望できます。
(57)戒場山(かいばやま)
山麓に「お葉付きイチョウ」の戒長寺
額井岳の北東の峰続きにある山です。山名の由来は、読みから「家畜の飼料を取った所、飼い場」とか、字義から「仏教の戒律を守るところ」とか言われています。
南山麓には戒長寺があります。寺伝では用明天皇の勅願による聖徳太子の建立で、空海も修行した寺といいます。質素な佇まいですが、境内のお葉付きイチョウと十二神将を鋳出した重要文化財の梵鐘で有名です。
イチョウは目通り4m、高さ30mの大木で樹齢500年。ごくまれに葉に実が付くという珍しいもので、県指定文化財に指定されています。2008年に行った時、境内は、ぎっしりとイチョウの葉で埋め尽くされて黄金色の絨毯を敷いたようでした。
その中から妻が何個か見つけましたが、和尚さんは「寺でも焼酎に漬けておいて参拝者に見せている」ほどで、数が少ないとおっしゃいました。普通のギンナンは正月の参拝者に配るそうです。
この戒長寺境内を通り抜けた右手から山道になり、クマザサの中を登ると稜線の小さいコルに出て、左に行くと寺から40分程で山頂に着きます。樹木に囲まれた平坦地で展望はありません。別に、山部赤人墓から北へ登ると、奈良市都祁小川口に通じる戒場峠があります。ここから左(西)に行けば額井岳、右すれば戒場山で、峠から約30分で山頂です。私たちはいつも秋の紅葉の時期に、隣りの額井岳から稜線を辿っています。
(58)城山
櫻井市と宇陀市榛原区の境にあって長谷寺から正面に大きく見える山ですが、2万5千図には山名も山頂への道も記されていません。城山という名の山は、名阪国道近く(別名・椿尾塁)、大和高原の馬場、白石、吐山、室生の竜口などにもあります。
いずれも山城が築かれていたことから付いた山名です。この榛原の城山は戦国時代に宇陀三将の一人、秋山氏の出城があったところと考えられています。岳山という別名もあります。
新陽明門院笠間山陵右手の道を北へ登ると、15分ほどで鉄塔の下に出て、しっかりした踏み跡が左から延びてきていました。さらに20分登るとNHK宇陀中継所のTV塔のある平坦地。東西に延びる稜線上のT字路で、ここが宇陀松山の出城のあった場所と思われます。
西へ100m程、深いクマザサを漕いでいくと、草の茂みの中に山名板と三角点(525.5m)がありました(笠間山稜から45分)。
(59)伊奈佐山(いなさやま)
宇陀市榛原(はいばら)区一帯はもとの伊那佐郷でした。その南の郊外にある山で『大和志』には「一名山路山、山路村の上方にあり」と記されています。
記紀にも登場する古くから知られた山で、『日本書紀』神武天皇即位前紀に、吉野から宇陀に入ろうとした神武軍が連戦に疲れたとき、天皇が墨坂で「御謡(みうた)を為(つく)りて将卒(いくさびと)の心を慰(やす)めたまふ」として「楯並(な)めて伊那瑳(いなさ)の山の 木の間(このま)ゆも い行き瞻(まも)らひ 戦へば 我はや飢ぬ 嶋つ鳥 鵜飼が徒(とも) 今助(す)けに来(こ)ね」の歌を詠まれたと記しています。伊那佐文化センターの前にこの歌碑があります。
伊那佐文化センターから山頂までは十八丁を示す江戸期の石標に導かれて、スギやヒノキの植林の中を登ります。古来、日照りが続くと「だけのぼり」と称して、降雨祈願に登った道でした。
山頂には式内社の都賀那岐(つがなぎ)神社が建ち、三角点は社殿裏にあります。
伊那佐山から南西の稜線上、標高約525mピーク(城山)に沢城址があります。14世紀後半に宇陀地方の將、沢氏により築城され、後のキリシタン大名高山右近が幼時を過ごしたところです。
(60)日張山(ひばりやま)
「中将姫所縁の山」
奈良県宇陀郡菟田野町にある標高595.1mの低山ですが、この地方では中将姫伝説でよく知られています。
『大和名所図会』に「日張山また鶬山と書す。宇賀志村にあり。山中に青蓮尼寺あり。鶬雲庵は中将姫法如尼の閉籠の地なり」とあります。継母によりこの山に捨てられた中将姫は、嘉藤太に助けられてこの寺で念仏三昧の生活を送っていました。たまたま狩りに来た父・藤原豊成に対面し奈良に帰った後、再び出家して当麻寺に入り、蓮葉の糸で当麻曼陀羅を編み上げます。のちに19歳でまたこの地に帰り、青蓮尼寺に自分と恩人・嘉藤太の像を刻んで安置したといいます。
現存の青蓮寺の開創などは詳しくは分からず、「ひばり山」は「火祝り山」が語源とする説もあります。2008年5月、宇陀市菟田野宇賀志から宇賀志川に沿って上流に向かいました。
源流の無常橋を渡り、つづら折りの道を登ると、中将姫の歌碑を過ぎて青蓮寺に着きます。
宇賀志から約4km、1時間でした。
墓地の横から山道に入ると20分で頂上三角点ですが、樹木に囲まれて展望は得られませんでした。