ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

奈良の山あれこれ(96)~(100)

2015-11-25 17:41:23 | 四方山話
*このシリーズは山行報告ではなく、私のこれまで登った奈良の山をエリアごとに、民話や伝説も加えて随筆風にご紹介しています。季節を変えたものや、かなり古いもの写真も含んでいます。コース状況は刻々変化しますので、山行の際は最新の情報を入手されますようお願いします。*
 
*吉野周辺エリア* 

(96)高城山(たかしろやま) 「昔は展望がよく山城もあった?」
乗鞍岳から東へ、西吉野町と天川村を北と南に分ける稜線は、国道309号線の通る新川合トンネルの上に達します。この大峰支稜はさらに東の大天井岳へと続いています。乗鞍岳から新川合トンネルの間には西から天狗倉山、高城山、武士ヶ峰と三つの山が並んでいます。高城山は私たちにとって、奈良県選定の『奈良百遊山』の中で唯一登り残していて、気になっていた山です。
 2007年5月、山友二人が一緒してくれることになり、天川村川合から県道を天ノ川沿いに西南へ走ります。当初は一台を西之谷に配置して、五色谷から天狗倉山を経て周回するつもりでいましたが、今にも降り出しそうな空模様でもあり、西之谷林道を登れるところまで登ってピストンすることになりました。道は谷に沿って北へ向かい、ぐんぐん高度をあげてやや広くなった処で舗装が切れると、真新しい切り開きで稜線を横切る峠に着きました。
 


車を降りると北風が吹き過ぎ、初夏とは思えぬ肌寒さです。正面に金剛・葛城、五條市街、ずっと右手に音羽三山など、曇り空ながら展望はまずまず。峠の標高はすでに約915m。高城山までは標高差約200mですが、途中大小のコブを三つ、四つ越していきます。最後のピークは霧に包まれて神秘的な雰囲気でした。



滑り落ちそうな急坂を登って、二等三角点の埋まる高城山頂に着きました。



1973年発行の奈良山岳会編『大和青垣の山々』では「北部大峰の連山が手に取るように見える。大峰の前衛の山にふさわしい展望台である。」と記されていますが、残念ながら成長した樹木に覆われて全くの無展望でした。峠から僅か40分、あっけない「百遊山」最後の山でした。


(97)武士ヶ峰(ぶしがみね) 「近くに武士の往来した峠が…」
高城山と同じ支稜上で約2キロ西にある双耳峰です。南北朝の頃や天誅組が活躍した時代などに、近くの峠を武士の往来が多かったので名付けられたそうです。その峠と同じではないと思いますが、西之谷林道が稜線の鞍部を越えています。2007年には開通から間もなかったようで、両側が切り通し状に開かれた状態になっていました。稜線の登山路が林道で完全に分断されているので、高城山の帰り鞍部に降りたって4人で登り口を探し回りました。



稜線の右側から北西の矢筈峠の方に向けて、ブルーのネットが張り巡らしてあるので、いったんネットに沿って西側に回りこんだあと、頭上に見える稜線に向かって直登しました。



稜線の登山道に出ると、ひと登りで武士ヶ峰(北峰1014m)頂上。樹木に囲まれていますが北側が切り開かれていて、矢筈峠に向かう林道が見え、左に1007.5m峰から乗鞍岳へと稜線が続いています。



振り返ると高城山が見えました。ミズナラやブナの道を南へ進みましたが、南峰山頂は全くの無展望なので、写真だけをとって北峰に帰りました。



下り道はしっかりした道で、最後は林道鞍部の高い土止めの上に出ました。小さなプラスチック板に、「すぐ上、武士ヶ峰登山口」とマジックで書かれていました。


(98)乗鞍岳(のりくらたけ) 「ここのキツネは人を化かしません」



乗鞍岳は吉野郡西吉野村と天川村の境に位置し、標高994m、二等三角点があります。馬の背に似て小さい起伏があるのが山名の由来でしょうか。「日本山名辞典」では、義経が熊野に逃れるとき、ここに愛馬を捨てたことにより山名が生じたといいます。孫引きになりますが『宮本常一先生の吉野西奥民俗探訪緑に、むかし、源義経が白馬に乗って、キツネ40匹と天狗47人を連れてここに落ち延びてきたとある。そしてこの山頂に白馬を乗り捨てて天に上がったという。またこの山にいるキツネは、いまも人を化かしたりはしないという。』(奈良山岳会「大和青垣の山々」)

 


もう20年近く前になりますが、西吉野の天辻から植林帯を富貴辻に登りました。謂われを記す立派な標示板と、横に石柱があり、左面に「右 五條、下市、左ふき はし本」、正面に「二の声は 何国の華そ ほととぎす 武蔵坊南岳」の文字が記されていました。



正面にゆったりした乗鞍岳を見ながら稜線を進み、短い急登を二度、最後クマザサの中を登るとあっけなく頂上に着きました。周囲を樹木に囲まれ、木の枝越しにチラチラと遠くの山や町が見えるだけ。二等三角点横にブリキ板が倒れていて、起こすとこんな文字が記されていました

『ここがご案内の「乗鞍岳」頂上で「海抜九九三米」周囲杉、檜山となり眺望が悪るいですが、「記念写真」でも撮して「頂上」征服の気分を満きつしてください』(原文のまま「」内は赤字)
名前の割に展望の悪いのは、地元でも気にされているようでした。

(99)大日山(だいにちやま) 「目出度い名前は富貴辻」
標高897.1m。天辻峠を挟んで乗鞍岳の反対側にあります。頂上近くに大日如来を祀る祠があり、登山道は地元の人により参道としてよく踏まれています。前項「乗鞍岳」の帰り、富貴の辻へ下りました。

標示板には「富貴辻の道標」について詳しく記されています。少し長いですが書き写します。
『ここ天辻は、江戸幕末の頃より天川・富貴・五條方面からの物資の集散地として栄え、峠付近は旅館、問屋など一時は100戸をこしほどの賑わいをみせた所であった。天忠(まま)組がこの地に本陣を構えたのはそう言った交通の便や、地形上、要塞の地として有利な地にあったためと言われている。
 この「富貴辻」は、北方の五條・下市方面、西方の富貴・橋本方面、そして東南の天川方面の丁度三叉路にあたり、街道を往来する人々の道案内としてこのような道標が建てられた。道標には歌が詠まれており、この種のものは吉野路においては唯一とされている。尚、施主の南条治郎左衛門は建立年である1846年に五條代官陣屋にて勤務し、武蔵坊南岳とは彼の号である。
(正面)二の声は 何国の華ぞ ほととぎす  (右面)弘化三丙午年正月 日 
(左面)右 五條 下市  左 ふきはし本 (裏) 施主 五條陣屋  南条治郎左衛門』



大日山を目指して石標の「左ふきはし本」の道を進みます。ほんの10m林道を進んだ所に大日山を示す小さい標示があり、NTT鉄塔の建つ台地に出ると乗鞍岳や唐笠山らしい整った山容が見えました。さらに林の中を登ると祠のある台地で、頂上の三角点はその上にありましたが暗い林の中で無展望でした。



天辻に下ると天誅組の遺跡(本陣跡)は、小さい小学校の校庭隅にありました。

(100)吉野山(よしのやま) 
「これは これはとばかり 花の吉野山」貞室



古くから桜の名所として知られ、多くの詩歌や文芸作品を生み、また古くは壬申の乱では大海人皇子の隠棲、頼朝に追われた義経の逃避行、更には芭蕉の門弟、支考の「歌書よりも軍書でかなし吉野山」の句で知られる太平記の舞台ともなった吉野山。

『大和名所図会』には「そもそも吉野山は満山桜樹にして、花時には積雪の朝のごとし。騒人墨客ここに遊賞し、その名中華に聞こえて天下の名勝なり。」と記されています。ここは熊野へと続く大峰奥駆道の起点であり、古くから山岳修験者にとって重要な山でした。



全山にサクラの木が多いのも、修験道の開祖・役小角(役行者)<写真・桜本坊にて>が修行中に感得した蔵王権現を桜の樹で彫ったことに始まり、以後、神木として「一枝を伐るものは一指を切る」と言われたほど、大事に育てられてきたからです。



金峰山修験本宗金峰山寺の本堂・蔵王堂はその蔵王権現を本尊として祀っています。この名からも分かるように昔は吉野山とは呼ばず、「金峰山」または「御金(みかね)の嶽」と呼ばれました。この名称は吉野川南岸から大峰山脈に続く一連の山並みの総称で、特に一つの峰を指すものではありません。よく知られるように、桜の開花は麓から下千本、中千本と進み、上千本、奥千本に至ります。



この間に点在する歴史的な建造物や、それにまつわる物語はあまりにも多いので、ここでは割愛します。


「雲を呑んで 花を吐くなる 吉野山」蕪村

*お陰様で100回を終えました。これから大峰山脈に入ります。引き続きよろしくお願いします*