ペンギン夫婦の山と旅

住み慣れた大和「氷」山の日常から、時には海外まで飛び出すペンギン夫婦の山と旅の日記です

2016年の山行(2) 大 比 叡

2016-01-10 16:26:25 | 山日記

【登 山 日】2016年1月7日
【メンバー】丸屋博義、丸屋三輪子、芳村嘉一郎、芳村和子
【コースタイム】東塔本坂登り口 09:35…鉄塔 10:15…坂本分岐 10:55…亀堂 11:05~11:10…法然院 11:15~11:20…根本中堂 11:30…大比叡三角点12:20~12:45…ケーブル駅 13:30…無動寺谷分岐14:10…日吉東照宮 15:10



JR南草津駅で丸さんの車にピックアップして貰い、近江大橋を渡って坂本へ。先程までの小雨が上がったばかりの大宮川観光駐車場へ車を置く。日吉大社東受付前を通り、東塔本坂の長い石段を登る。始業式が行われている比叡山高校横の車道になり、車止めの横に「三丁」の標石があるところから比叡山参道が始まる。急な登り道は所々で中央が窪んだり、ガラガラの石屑がむき出しになったりして、12年前に登った時よりも、かなり荒れた感じである。

見覚えのある送電線鉄塔のある場所を過ぎると傾斜が緩んで、右手に琵琶湖の青い湖面が見えた。30分ほどで三体の石仏の並ぶところに来る。以前にあった坂本への道は通行できなくなっていた。右手に高い石垣が見えて亀堂への石段横を通る。亀堂の前まで右手から舗装の道が伸びてきていた。

すぐに法然院の前に出て、石段を降りて参拝した。

まもなく左手に延暦寺会館の大きな建物が見えて、延暦寺境内に入る。根本中堂にお参りして大講堂の前を通り、阿弥陀堂と法華総持院東塔を結ぶ回廊の下を潜る。回廊沿いに左に折れて坂道を登ると見覚えのある墓地に出て、小さな矢印が左の斜面を登るように指示している。はっきりした道で車道に出て、更に登り、右に折り返すと智辯大師御廟半町の石標の立つ尾根に出た。吹き上げてくる風が冷たく感じる。右に登ると読売や朝日などのTV中継塔がいくつか並んでいる前を通り、見覚えのあるコンクリート製給水設備の前に出た。



大比叡848一等三角点は、その先の小高い丘の上にある。記念写真を撮り合ううちに、激しく粉雪が舞うようになったが、幸いすぐ止んで日も差しだした。給水施設の後ろで、風を避けて慌ただしく昼食を済ませる。




下山は尾根を南へ直進して智辯大師御廟に手を合わせて、下に見えるドライブウエイに向かって急坂を降り、最後は墓地を抜けてドライブウエイにでる。琵琶湖が美しく眺められた。ケーブル駅に着くと発車寸前で、切符がないなら次にしてくれと駅員に言われ、30分も待つくらいならと歩いて下山することにした。前の記憶を頼りに、大乗院の方に下り出すと背負子姿のお坊さんが登ってきた。道を聞くとケーブル駅の方へ橋を渡った方にも道があるというので、今日はそちらを通ることにする。ケーブル線路に沿った道は少し急な下りで「もたて山」駅に出た。ここからは線路を離れて、緩やかに山腹を捲く道になり、無動寺谷分岐を過ぎると再び急な下りになり、蟻ヶ滝の架かる谷を左に(滝へは通行不能になっていた)見て、林を抜けるとまもなく急に開けた場所にでる。スコアボードがある比叡山高校グラウンドの真横だった。


朝登った道と校舎を挟んだ反対側の車道を下っていくと、右手に日吉東照宮が見えた。終日快適に歩けて楽しかった山行を終え、日吉大社に参拝して帰途についた


2016年の山行(1) 畝 傍 山

2016-01-10 11:50:37 | 山日記

【登 山 日】2016年1月5日    【メンバー】芳村嘉一郎、芳村和子
【コースタイム】登山口 11:10… 頂上11:35~11:50…東大谷日女命神社12:10

初詣の橿原神宮は三ヶ日が過ぎても、結構な人出だった。参拝を済ませ、北門を出て登山道に入る。時間が遅いので、下りてくる人に次々出会う。追い越していくのは高校生らしい若いランナーが多い。緩やかに山腹を捲いて登っていくと、左手の谷側の林の中に、真っ赤な一叢の紅葉が緑の中に鮮やかで目を引いた。道標のある畝傍山口神社への分岐で10人近いグループに出会い、まもなくY字状のヘヤピンカーブで右へ折り返す。直進する細い道はY字の下棒にあたる。



ここまでが少し長く感じたが、折り返してしばらくガラガラの急坂を登ると、間もなく「イトクの森」への下り道分岐にでた。ここはすでに山頂の一角で、左に御神木を囲む石の柵が見える。隅の大きな石標に住吉大社の名前が刻まれている。大阪の住吉大社で祈年祭(2月)と新嘗祭(11月)に使われる土器に畝傍山山頂の土が使われ、それを採取する「埴土神事」が行われる。(現在でも、この神事が行われているというコメントを、のちにFBで教えて頂いた。)

山頂には二人の子供連れの若い夫婦が休んでいた。三角点で記念撮影をして汗をぬぐう。山頂南側からは、靄で霞む大和平野に耳成山と天乃香久山が浮かんで見えた。北から東にかけては、ぼんやりと霞んで山の形も定かでなかった。

畝火山口神社跡近くに置かれた、新しい竹製のベンチに腰を下ろして休む。この神社は、もともとは大山祇命を祭神とした、延喜式神名帳に記載されているほどの古い神社である。江戸時代には「畝火明神」とも呼ばれ、天正年間から戦前まで山頂に鎮座していた。昭和15年(1940年)、紀元二千六百年にあたって橿原神宮が大拡張されることになり、東麓にある神宮や神武天皇陵を見下ろすのは宜しくないということで、政府によって現在の場所(畝傍山の西の麓)に移された。

今日は登ってきた同じ道を下る。登ってくる人に道を譲りながら、ゆっくり歩いて東大谷日女命神社に参拝する。この神社はかなり古くからこの地にあり、江戸時代までは熊野権現の名で知られ、イザナギノミコトを祀っていた。 明治20(1887)年頃、祭神は神功皇后へ、さらにその後、ヒメタタライスズヒメノミコトに変る。明治35(1902)年、現在の社名(大谷は近くの地名)になる。姫蹈鞴五十鈴媛命は神武天皇の御后である。

山頂の神社といい、ここと言い、皇国史観に振り回された時代の記憶を思い興させる山だった。