庭戸を出でずして(Nature seldom hurries)

日々の出来事や思いつきを書き連ねています。訳文は基本的に管理人の拙訳。好みの選択は記事カテゴリーからどうぞ。

みかんの薫り

2007-05-01 23:11:00 | 自然
みかんの薫りといっても、実ではなく花である。4~5日前から近在のみかん畑で開花が始まったらしく、今夜もその辺り中、私の部屋の中まで甘い匂いが満ちあふれている。

何年か前に生産量日本一の座を和歌山に奪われたが、それでも愛媛がみかんの大産地であることに変わりはなく、うちの近くでもちょっと小高い丘の大概はみかん畑になっている。20数年前に松山に移住して来て良かったことの一つは、この季節から梅雨入りの頃まで、毎年欠かさずこの香りの氾濫を一定期間楽しめることである。

昔、田舎の裏山の何反(たん)かで栽狽オていたこともあって、子供のころからみかんだけでなく八朔(はっさく)や橙(だいだい)などの柑橘類は実に良く食べた。今日のように簡単に入手できる果物の種類が多くなかったということもある。食べ過ぎて手を黄色くしている子供たちも結構いたが、これのビタミン類が効いたにちがいない、厄介な風邪で苦しむということも比較的少なかったのではないかと思う。

ただ食べるのでは面白くないから、バラバラに崩して積み上げた房の山に、ジャンケンで勝った者が糸を通した針を投げつけて釣り上げそのまま口に運ぶ、という今時の母親たちが見ると卒唐キるような食べ方で遊んでいたこともある。まだ青かったり腐ったりしたものは合戦の格好の飛礫(つぶて)にもなった。まだ温室栽狽ネどというものが一般的ではない時代だから、みな正月を挟んだ寒い季節のことである。

ところで、極めて甘党の私は砂糖の取りすぎを恐れて、数ヶ月前から甘味の素を全て蜂蜜に切り替えてみた。朝のパン食にも蜂蜜、コーヒーにもジュースにも蜂蜜、調理の一部にも蜂蜜・・・そうすると胃腸の具合だけでなく体調がなんだかすこぶる良いような気がする。蜂蜜にも花の種類によってさまざまな風味がある。今のところレンゲが圧涛Iに多いが、そのうちみかんの花の蜂蜜を試してみようと考えている。



憲法記念日

2007-05-01 11:36:45 | 政治
一昨日は父の米寿の祝いだった。あれほど元気で戦中・戦後の厳しい時代を逞(たくま)しく生き抜きながら私たちを育て上げてくれた親が、徐々に年老いて老木が枯れるがごとくになっていくのは如何(いかに)しても寂しいものだが、生死のならいは大宇宙の絶対的法則であり、老年には老年だけにしか知ることあたわざる豊かな真実があるにちがいない。

明後日は憲法記念日。満60歳、私たちの日本国憲法も還暦を迎える。昨今、政治家や権力好きの方々の間で改正論議が盛んになってきている中で、次は77歳の喜寿、88歳の米寿へと、どのような形で平和憲法の精神が受け継がれていくのか・・・幾分不安でもあり楽しみでもある。

ちなみに、”改正”という言葉の原義は“法律・規則・規約などの不適当な点や不備な点を改めること”であり、憲法改正と言うとき、そこにはすでに憲法を変えたい勢力の意図が含まれているということを知っておかなければならない。正しく改まるか誤って改まるかは評価の問題で、評価基準つまり価値観の違いによって一定ではないのだから、正しくは憲法“修正”とか“改変”と言わなければならない。この点、彼の国の憲法などが、正しく変更することを"rivise"、単に修正することを"amend"とちゃんと区別しているのは賢明な姿勢だろう。私は憲法改変あるいは憲法改定と呼ぶことを提案する。

ところで、松山市の或る市民団体が街頭で行った「憲法9条改正・是か否か」のアンケート調査の模様を愛媛新聞が記事にしていた。その結果が、賛成50、反対320、分からない60。「“戦争はだめに決まっている”と力強く反対にシールを張る中学生や、“安全保障の上で改憲は必要”と賛成する中年男性もいた」・・・などとある。

私も中年男性の一人ではあるが、多くのマスコミが行っている世論調査の結果と異なり、圧涛I多数の人が目に見える場所で現行憲法9条を変えることに反対の意思表示をしたという事実に多少とも安堵し、大人たちの世論操作には簡単に乗らない子供たちの直観力の逞(たくま)しさの一端を改めて感じることができたようにも思う。



その他、今朝の新聞では作家の高村薫さんが「安部政権7ヶ月」で、現政権がなぜ国民多数の実感と遠いところで“憲法改正への道”を急ぐのかを論じたり、井上ひさしさんが「憲法60年に思う」で“姑息(こそく)な人たちが此の国を動かしていると思うと、笑い出すくらい絶望です”と、憲法改正や国民投票法の問題点を実に分かりやすく論じていたりしていて面白かったので、まとめて切り抜いて画像にしておく。

公明党が主張している“改憲ではない加憲論”が、多くの支持者の目を眩(くら)ませようなどという“姑息”な主張ではないことを、とりあえず今のところは願っておくことにする。