夜の九時を回っても、机上のアナログ温度計の針は33℃を指し、壁鰍ッのデジタル温度計は32.8℃を示している。こんな夜に、まともなことは書けるわけがないので、少しだけ、まともでないことを書いてみようと思う。私にとっては、ものを「書く」という行為は、ものを「読む」ことと並んで、幾らか「人間らしく生きる」ために、ほとんど抜きがたい習いになっているのかもしれない。
それは、ずいぶん昔、人間の「言葉」というものを覚えた時に始まり、その言葉によって自分の外側に広がる広大な世界が、「そら」とか「うみ」とか「やま」とか「かわ」・・・などに分別され、自分の中の小さな世界に映し出されて理解可能なものに変わることの、驚きや喜びの時期を通過していることは言うまでもない。
次に文字を覚える段階がやってきて、この時点から「読み・書き」が始まるわけだが、実は、人類が・・・などというとまた大きな話になるから、日本に限って言うと、この国に朝鮮半島を経て中国から漢字という文字が入ってきたのは、この国が、まだ「国」という体裁を整えていなかった紀元の初め辺りではないかという説を採用してみる。それでも、まだ二千年ほどしか経っていない。
それ以前の弥生時代、更に以前の縄文時代と呼ばれる、ゆうに万年を超える長い年月、日本には現在知られているような文字は存在しなかった。しかし、もちろん音を伴う言葉は存在し続ける。私もいわゆる「口承」の世界の一分を知らないわけではなかった。しかし、その口承の「ことば」の世界がどれほど豊かなものであったか・・・ということに想像を巡らすようになったのは、わりあい最近のことだ。
例えば「かく」という、現在では、文字を「書く」、絵を「描く」、背中を「掻く」・・・などと細かく分けて表現されるものの全てが、土や岩や土器の表面を「引っかく」の「ひく」+「かく」の「かく」に源を持っていることなどの意味を少し深く考えると、これはちょっと大変なことかもしれない・・・などと思ったりする。
つまり、今は当たり前のように漢字を使って限定しながら使い分けている一つの「ことば」が、今よりもずっと多くの意味を内包していたということで、それだけ大昔の日本人の心の世界、心によって映し出している世界そのものが、より大らかで豊かなものだったのではないか・・・ということである。
さらに日本にやって来た漢字は、それまでの「ことば」(大和ことば)に漢字の音訓を宛てた万葉仮名から、遂には、カタカナやひらがなに姿を変えることで、極めて洗練された表音文字になった。これはまさに、文字の体裁を伴った原点復帰とも言えるものではないか。だから、カタカナやひらがなだけで書かれたものを読み取るには、相当に豊かな想像力を必要とする。平安朝の女流文学のように。
私の祖祖母は三日に一升の焼酎を欠かさない大酒飲みで、煙管《きせる》タバコを楽しみとしていた。どんな本も読んでいるのを見たことがなく、カタカナしか書かなかったけれども、八十七歳で亡くなるまで晩年の数十年間、老齢期にありがちな小言や愚痴とは無縁で、まったく飄々《ひょうひょう》と楽しげに生き通した。私の姉などは彼女を老年期の生き方の理想形と評価している。
ひょとしたら、漢字など読めも書けもしない方が、より気楽な人生を送れるのかもしれない。